
「かわいいじゃん、かわいいじゃん。コガネムシには見えないけれど、かわいいじゃん。」と、コガネムシは言いました。
しばらくすると、木にいるコガネムシがみんなやってきました。しかし、いっせいに触角をぴくっと立てて、口々にこう言いました。
「この子、足が二本しかないじゃん! すげぇ変じゃん。」
「触角がないじゃん。」
「身体が細すぎるじゃん。へぇん! 人間みたいじゃん。」
コガネムシの奥さんは「ふん! この子ブスねぇん。」と、口をそろえて言います。でも、だれがなんと言おうと、おやゆび姫はとてもかわいいのです。おやゆび姫をさらってきたコガネムシだって、今の今までそう思っていました。なのに、あまりにもみんながみにくいみにくいとはやし立てたので、このコガネムシまでおやゆび姫がみにくいと思ってしまいました。
――「おやゆび姫」(大久保ゆう訳)
親指姫は大麦からチューリップもどきの花が咲きそこにいたひとであり、いろんな動物の嫁になりかかるが間一髪のところでいつものがれて、最終的には花の精みたいな連中に迎えられ、すべての花の女王様となる。結婚しかかった蛙やモグラは醜いから論外、かんがえてみると、彼女を花の王国に連れて行ったツバメも相手ではなかったわけで、――お花至上主義=マックスルッキズムのような話である。しかも、この姫が産まれた大麦はたぶん独り身の女性が銀貨一二枚で買ったものである。この女性は姫の生涯に二度と登場しないし、そういえば、蟾蜍のところから脱出したときに助けてもらった蝶は途中で死んだか生きているか不明のままであった。美しいものをめぐって、差別や献身に関する残酷さがあちこちで生起しているのは子どもなら誰でも知っていそうだから許されるのか、じつにすごい話である。
しかし、貴種流離譚ならぬ、美種流離譚であるところの良さは、困難を乗りきることである。わたくしなら、蟾蜍に拉致された時点で、偽装転向とか偽装結婚だかを決意し、そしてそのまま死ぬ。かんがえてみると、この姫は、はじめから美しい旦那と結婚しようと決めていたのではなかろうか。そのためには、選別が必要である。形は人間だが、サイズが人間で無いから、サイズが合う奴の中で選別しなければならぬ。で、次から次へと拉致されては逃げ出すのである。自分から積極的に求愛する方がよいように思えるが、それでは、下手すると相手がyesと言いかねない。だからあくまでも求愛してくるのを待つのである。
主体性というのは、こういう手間のかかるものである。思うに、一般的に、強制された無駄な勉強や労働というものが、なにゆえ、自己決定による「要領よいやり方」より量が多いことになっているのか、まったくおかしい。実際は、自分に最適化したやり方を見出してそれを実現するほうが遙かに量的に多い行為が伴うのである。それに気付いた奴だけが成功して、歳をとってから「量が大事」とか言うてしまうというのがあるのだ。――だいたい「要領よりやり方」を誰かから教えてもらってズルしようとしているやつがほとんどあって、従って何も実現できず、その理由を再度強制された何かになすりつけてるだけなのであるから話にならない。いわゆる「コスパ病」なんてのは、依存症の一つの型なのである。
また、「コスパ病」の特徴として、方法論に対する過剰反応があるわりには目的の強制に対しては鈍感だということだ。権威主義者が多い所以である。上の話だと、はじめは親指姫をかわいいと思っていたのに、みんながかわいくないと言っているのでかわいくないと思ってしまったみたいなのが、かかる権威主義である。無論、目的へ最短距離の手段をとることは前提であってもよいが、そのために、手段を常に省略できると考えるのがおかしい。むしろ、手数が最適に省略できなくなるのが普通の感覚ではないだろうか。ほんとはそれを知ってるから、手段を他人に外注して目的達成だけ遂げようとする者が増えてくる。しかし、うまく外注できるタイプが要領よいやつということになり、モラルが崩壊すると、下手に外注と関係ない人に接触することも恐怖になってくるはずである。学生をはじめとして、明らかにそういう恐怖が蔓延している。