
「それに、人間の一生は、かえって、わたしたちの一生よりも短いんだよ。わたしたちは、三百年も生きていられるね。けれども、死んでしまえば、わたしたちはあわになって、海の面に浮いて出てしまうから、海の底のなつかしい人たちのところで、お墓を作ってもらうことができないんだよ。わたしたちは、いつまでたっても、死ぬことのない魂というものもなければ、もう一度生れかわるということもない。わたしたちは、あのみどりの色をした、アシに似ているんだよ。ほら、アシは、一度切りとられれば、もう二度とみどりの葉を出すことができないだろう。
ところが、人間には、いつまでも死なない魂というものがあってね。からだが死んで土になったあとまでも、それは生きのこっているんだよ。そして、その魂は、すんだ空気の中を、キラキラ光っている、きれいなお星さまのところまで、のぼっていくんだよ。わたしたちが、海の上に浮びあがって、人間の国を見るように、人間の魂は、わたしたちがけっして見ることのできない、美しいところへのぼっていくんだよ。そこは天国といって、人間にとっても、前から知ることのできない世界なんだがね」
――「人魚の姫」(矢崎源九郎訳)
人間には短命なのに魂があり、人魚には長命なのにそれがない。このあと人間から愛されれば魂を授かるみたいなはなしがでてきて、人魚の悲劇がはじまった。なぜなら、たぶん人間にも魂はないからだ。問題は魂を得るということの重大さなのである。その人魚の一生は目的にむかってのものではなかった。水草のように上へ生長して行っただけだ。
わたしの人生と言えば、病との闘いが原点だから、健康や幸福が人生の「目的」という考えはそもそも理解できない。病への抵抗が問題であって「目的」ではないからだ。闘いが出来なくなるのが終了というだけだ。だから、昔の左翼とか右翼が党派に命をささげるみたいなのもその意味で分からなくはないわけだ。原点に貧困や差別への闘いがあった場合は。歴史上問題になってきた、官僚制的な党派主義というのは別の問題だ。
そういう「目的」は、仕事の世界では「プライベートの幸福」とかいわれる。しかし、そういう「幸福」などほとんどどうでもいいんだが家族はつくるべし、ぐらいがかつての家族の「幸福」な実態だったにちがいない。家族は半分桎梏に決まっているわけで、幸福であろうとすると誰かに無理を強いたりするしかないのである。それがいやなら一人で生きるしかなくなるわけだ。かくして上のプライベートが特別の幸福を示しているように錯覚されて行く。
仕事の上では、そのプライベートを心理的に侵害するものとしてハラスメントという言葉が発明されたが、その実「権威主義」の裏返しである。自分を卑小な物体にしておかないといけないからだ。というわけで、権威が特定の属性にくっつくような形式論理も理解できない。中年男が党派みたいにみえるというのはわかるが、そんなところを「目的」(標的)にしても、どうせ弱そうな個人を虐めるだけで終わる。おじさんの不機嫌はあまりよろしくないみたいな風潮があるが、その理由と関係なくニコニコを強いるのは端的に暴力なのである。確かに快活さは人に影響を与えるので職業上大事なこともあるが、そういう風潮を、自分の怒りや批判を押さえる方向で把握する、良心的な人々への抑圧にしかなっていない。馬鹿というのは、男女年齢問わずいるわけで、権力を持っている親父たちの問題とごっちゃにするのはさすがに権威主義が過ぎる。
そういう人間が大勢をしめると、例えば、いまの地震対策は地震対策じゃなくて「自分の安心安全」を保持したい「目的」の群れの精神運動になってしまうわけである。健康志向もそれである。問題は人生観のほうで、科学的に対策が練られるほど本質から遠ざかり、最後は生き残るための差別に行き着くね、行き着くね、というかそれが原点であろう。
目的意識と自然生長、というプロレタリア文学の有名なテーゼがあるが、目的意識と自然抵抗とすべきであった。