★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

恋は闇、若道は昼になりぬ

2022-11-30 23:13:19 | 文学


鼠色の八重帯、肥前の忠吉二尺三寸、同作一尺八寸の指添へ、小刀ぬき捨て目釘をあらため、城下より一里離れし天神の松原に行きて、大木の楠を後に、蔦かづらに形をかくせし岩に腰を懸け、相待つくれに、はや人顔も見えぬ時、大息つきて権九郎かけ付け、「甚之介か」と言葉をかくる。 「腰抜けに近付きはもたぬ」といふ。 森脇泪を流し、「この節申し分けにはおよばず。後の世の渡り川にて心底を語らん」と申せば、「無用の助太刀頼まじ」 と論ずるうちに、半沢伊兵衛、家中荒物を十六人かたらひ来る。


「男色大鏡」のなかでも人気の「玉章は鱸に通はす」である。横恋慕をしかけられた弟分に「お手紙でも出したら」と言ったら、本気で兄貴に惚れている弟分は恨み、長大な恨みの恋文を執筆したあと、横恋慕しかけた下級武士(伊兵衛)を切り捨てて、そのあと兄貴も殺すつもりであった。そこにかけつけた兄貴に対し「腰抜けは近づくな」「無用の助太刀はいらん」と言い争っていると、あちらから荒くれ者を従えた伊兵衛が近づいてくる。これが上の場面で、そのあとはなんかよくわからんが激しいチャンバラである。考えてみりゃ巻き込まれた荒くれ者たちが気の毒であり、伊兵衛も、――このひとほんとに悪いのか、と思う暇もなく、愛する二人は生き残り、いざ彼らが切腹しようとすると、寺の坊主がお上に話してみなさいと言いい、当然のようにお上も許すのであった。で、こんな素晴らしい話はあるかと下々も言って、「恋は闇、若道は昼にな」ったというのである。

わたくしのへたくそな紹介だと、そりゃないぜと感じるが、西鶴の本文でよむとなんだか素晴らしい話のように思え、美少年の盛りあがることしかない兄貴への愛が忘れていたもののように読者の心をうつのかもしれない。「ロメオとジュリエット」は、最初から破滅の予感しかないが、この話は最初からなんだか陰惨さがまったく感じられない。

思うに、近代文学の世界になってから、殺伐とした三角関係が命を賭けたものであることを許されず、そのくせ、姦通は許さないなどと国家が出張ってくるようになってから、我々は人間関係全般が男色的な「昼」性を失い、闇討ちOKみたいな憤然とした意地汚いものになったような気さえする。実際、封建時代の身分の差よりも、巨大な国家と我々の存在の差のほうが遙かに大きいのであって、しかもそれを我々は庇護される関係として肯定し、自己の生の責任を半ば放棄している。我々は「無用の助太刀はいらん」と国家に対して言えるであろうか。

だから、評論家や文学同士の戦いに於いても、なんか武士の決闘みたいなものは、サルトルとカミュとか、花田=吉本以降、なにか他の目的が付随した、お互いに誰かに庇護されたがっている三角関係のようになりがちである。このあいだ、鮎川信夫と吉本隆明の『全否定の原理と倫理』読んでて、いまのひとたちは、論破とか**すとか言っているから駄目なんで、全否定のほうがいいんじゃねえかな、――と一見思ったわけだが、鮎川の吉本の関係に何か燃えあがるパッションがなくてお互いに評論家だとも思ったのである。全否定とか言っている割には、その否定にパッションが中途半端である。むろん彼らの周りには殲滅だかなんとか言ってた連中がいたわけで、全否定も**すみたいな意味合いはあるわけだが、かれらが大概口先だけだったのはもう既に今風だったのである。彼らと吉本たちもそれほど違っているわけではない。吉本って、戦う前からもう勝ってる体の口調のくせに、全体としてみると内向的な愚痴の漫才みたいになってるのがいいといえば良いような気がするが、それは我々が吉本と鮎川に生きるか死ぬかの関係をそもそも想定しないからである。上の男色だったら簡単に恋する相手だって殺しかねないのである。

言論人でもある東京の大学の教師が、襲撃されたので我々の業界はかなり動揺したが、暗殺の時代という20世紀の反復だけでなく、それ以前から考える必要もある。とわたくしは思った。

 夫は、革命のために泣いたのではありません。いいえ、でも、フランスに於ける革命は、家庭に於ける恋と、よく似ているのかも知れません。かなしくて美しいものの為に、フランスのロマンチックな王朝をも、また平和な家庭をも、破壊しなければならないつらさ、その夫のつらさは、よくわかるけれども、しかし、私だって夫に恋をしているのだ、あの、昔の紙治のおさんではないけれども、
 女房のふところには
 鬼が棲むか
 あああ
 蛇が棲むか


――太宰治「おさん」

人情のエネルギーの彷徨

2022-11-29 23:08:08 | 文学


「世は稲妻の暮またず、消ゆる身のかさねては待たれじ。すこし御咄し申す事、心にやるせもなし。まづそれへ」と書院に通り、二人より外には松ちかき端居して、「我らが胸の中あくる所はここなり。 この程の御心づかひ思ひ合はすに、近頃卒爾ながら、数ならねども我に、もしも御執心あらば、今日より身をまかせんために、忍びてこれに」と語る。 千左衛門赤面の泪、折節の紅葉に時雨あらそひ、後は下心のあらはれ、「とかく言葉では申しがたし。正八幡の内殿に所存を込め置く」の由申せば、すぐに参詣して、神主右京に子細をきけば、「御病のためとて日参、願状の箱納め置かれける」ち申す。


なかなかにクライマックスが自然な恋愛小説である「垣の中は松楓は腰付」であるが、二話目にしてすでに男色が生死をかけたものであることを提示し、命を救った上司への義理をも示す。義理と人情の時代劇になんとなくわたしは昔からそれほどの苦悩を生み出している感じがしなかったのだが、義理と人情は同じようなものである場合に燃えあがり、一方の彼方に愛の不可能世界があって、そのエネルギーが義理の世界に注がれている気がする。「人情」の世界とはこういうあらゆるところに憑依して行くエネルギーのことだったかもしれない。

西鶴の文体というのは、なにかパンチを繰り出す感じと違う空気のような文体だと思う。不思議だ、何が失われてこうなるのか、何かが付加されてこうなるのか。。

近代の文体の形成は、こういうものも失わせたのかもしれず、上のエネルギーのあり方にも関係しているのかも知れない。西田幾多郎は人情を重視する哲学者である。

自分で考える=日本語で考えるという試みがもっていた抵抗と困難、つまり概念的思考という営為を経験したことのない日本語に、思考の力を体験させる、刻みつけ、征服し、湾曲させるために、文字という物理的なレベルで文脈を圧倒して侵す必要があったのだ。

――福田和也『西田の虚、九鬼の空』


最近の西田研究によって、さすがにあれを西洋との衝突が生んだ畸形とか悪文とかいう意見は殲滅されたかもしれない。福田氏の見解もわかるきもするのだが、西田の文体というのは新規に発明されて日本語を圧倒したというより、流れだけを重視しているような意味でセンスとしてどこかしら昔風だと思うのである。むしろ、福田氏の言う「文字という物理的なレベルで文脈を圧倒」するみたいなのは、「スキームレバリッチフルクラッチでエッジが効いたモチベーション」みたいなやつのことを言うのである。

この道にいろはにほへと

2022-11-28 23:22:55 | 文学


世を思ひ葉の二またの竹に、きのふの日付にて書きおかれしは、「旅衣なみだに染むるふた心思ひ切るよの竹の葉隠れ」。 この老僧は何をか恥ぢたまへり。すぎにしや真雅僧正の事も、「思ひ出るときはの山の岩つつじ言はねばこそあれ恋しき物」 と、その竹を横笛二管に細工のえものにおこさせ、寒夜の友吹きすれば、天人も雲より睨き、無官の太夫もあらはれ、今の世の庄兵衛など、息の出所を感ずる。

魏の哀王の男色のエピソードなんかも出てきて、「女乱」、つまり女との交わりによる世の乱れとかが紹介されたり、女を嫌って山に籠もり寺子屋をつくったらそこに美少年二人の交わりが生じて老僧が憧れたりする。老僧は去るが、上のような和歌が詠まれてあった。真雅僧正(空海の弟)も菅原道真に歌を送った件も登場する。――この「この道にいろはにほへと」は、男色の挿話がマトリョーシカのように奧へ奧へ繋がっているだけだが、男色はかくも物語的でも何でもなく自然につづくものなのである、ということであろうか。なにしろこれは文化の道に近いものなのである。

先日も、大河ドラマで、実朝が暗殺されていたが、ドラマでは、実朝は北条泰時に惚れていることになっていた。しかし妻とも仲良くしてたし、ちゃんと妻にも和歌を残していた。今回のドラマはしきりに人殺しを「天命」のもとに合理化し続けているのだが、実朝は自分の性の苦悩で天命を受けいれることになれていた。だから暗殺も受けいれたみたいに描かれていた。

私は、ぎよつと致しました。
「誰が、いや、どなたがそのやうなけしからぬ事を、――」
「みんな言つてゐる。相州も言つてゐた。気が違つてゐるのだから、将軍家が何をおつしやつても、さからはずに、はいはいと言つてゐなさい、つて相州が私に教へた。祖母上だつて言つてゐる。あの子は生れつき、白痴だつたのです、と言つてゐた。」
「尼御台さままで。」
「さうだ。北条家の人たちには、そんな馬鹿なところがあるんだ。気違ひだの白痴だの、そんな事はめつたに言ふべき言葉ぢやないんだ。殊に、私をつかまへて言ふとは馬鹿だ。油断してはいけない。私は前将軍の、いや、まあ、そんな事はどうでもいいが、とにかく北条家の人たちは根つからの田舎者で、本気に将軍家の発狂やら白痴やらを信じてゐるんだから始末が悪い。あの人たちは、まさか、陰謀なんて事は考へてゐないだらうが、気違ひだの白痴だのと、思ひ込むと誰はばからずそれを平気で言ひ出すもんだから、妙な結果になつてしまふ事もある。みんな馬鹿だ。馬鹿ばつかりだ。あなただつて馬鹿だ。叔父上があなたを私のところへ寄こしたのは、淋しいだらうからお話相手、なんて、そんな生ぬるい目的ぢやないんだ。私の様子をさぐらうと、――」
「いいえ、ちがひます。将軍家はそんないやしい事をお考へになるお方ではございませぬ。」


――「右大臣実朝」


どうしようもないことというものはあるもので、太宰治はそういう事ばかりに眼がいっている。しかし彼は極端に受け身だったのである。がさつな人間に好かれたりして振り払う体力も気力もなかったりするときには孤独の余り、人間あんがい簡単に死を選びかねない。惚れられやすい優しい男というのも居て。彼がそうだったとは言えないように思うが、「走れメロス」を書くような男が、厭な男やもっと厭な女について想起していなかったとはとても考えられない。しかし、戦前も戦後も、恋愛の表現は欲望の発散の方向に走っていて、発散された壁のほうは人間扱いされていない。太宰はたぶんそれをなんとかしたかった。

ただ遊興は男色ぞかし

2022-11-27 16:03:58 | 文学


惣じて、女の心ざしをたとへていはば、花は咲きながら藤づるのねぢれたるがごとし。 若衆は、針ありながら初梅にひとしく、えならぬ匂ひふかし。 ここをもつておもひわくれば、女を捨て男にかたむくべし。 この道のあさからぬ所を、あまねく弘法大師のひろめたまはぬは、人種を惜しみて、末世の衆道を見通したまへり。 これさかんの時は命を捨つべし。好色一代男とて、多くの金銀諸々の女につひやしぬ。ただ遊興は男色ぞかし。 さまの姿をうつし、この大鑑に書きもらさじと 難波浅江の藻塩草、片葉の蘆のかた耳に、これみな聞きながしの世や。


どんなに美人で気立てがよい女でも、鼻ぺちゃな男子にはかなわない、男色のほうがよいに決まっているといったあとでの結論に当たる部分である。『男色大鏡』の最初の章は、怒濤のように男女のあれこれをくらべて男色がいいだろう、と言い募って行く。竈払の巫女が男の家に行くのと、美少年が油を売って歩くのとどちらがいいと思ってる?とか、お歯黒をつける女と髭を抜く若衆とどちらがよいとおもってる?といった問の結論はもうでていて男をとらなければならない。男色は、そう決まっているのでそうなのだ。弘法大師が男色を伝えたのとうどんを発明したのはそう決まっているからそうである。

髙村薫原作の映画『黄金を抱いて翔べ』はとても面白いが、ほとんど若い俳優のエロスをどうやって発散させるかみたいな映画である。2012年頃の映画だが、最近大活躍している俳優たちが銀行の金塊を狙っているうちに、妻を亡くしたり祖国のヒットマンに殺されたり兄貴の仇をとったりして、それどころではなくなってゆくのであるが、結局、それどころではないから、それをやる必要があるのだ。それどころではない我々の生を突き詰めれば、我々は犯した罪や後悔を償うしかないのであるが、それは死を意味する。しかし生は、死を含まない目的だから死んでも死にならないはずである。

そうやって、自分の生を反省するあり方が一つ。もうひとつは、よくあることだが、人世への絶望である。例えば、大学もそうだが学校で、「そんなんじゃ社会に出て通用せんわぼけっ」という叱り方があったが、社会も学校もどうしようもなく腐敗し低レベルだとそういうのはまったく通用しない。「そんな」に意味があったから通用していたものはもはや通用しない。そうするとこの場合も、生そのものに意味があるのか、と我々は問うようになるのだ。

島田雅彦が信用に値するのは、[…]くわせものでしかあり得ない癖に、自らくわせものたることを決意しているからである。[…]真正で立派で大層なものであることを拒否する[…]決意してのインチキさによってこそ、折り返しとしてしか得られない真実の名残りを掴もうとする

――福田和也『抵抗の歌が終わり…』


島田氏の文学は、戦略が文学よりも上回ったかんじの文学で、上の学生運動の経験者たちはその戦略に認識をみたし、さしあたり意味はあった。しかし下の連中に向けては、未熟の合理化となった。島田雅彦の青二才の戦略なのか《生き方》みたいなのを、文学青年未満が真似しようとしてて、ほんと笑いが止まらなかったものである。しかもまずかったのは、彼らのコンプレックスを合理化するいろんな手を提供した連中がいた。テキスト論も文化研究もその一環として働いた側面があるのである。

インチキや未熟さは、転向よりも「真実の名残り」は少ない。こんなことで生き残ったインテリの言うことを誰が聞くというのだ。

不孝話と運命

2022-11-26 23:51:05 | 文学


奈良坂や、時雨に菅笠もなく、手貝といふ町より、夜をこめての旅出立、鶏も、われと鳴きくらべして、行くは誰が子ぞ。
刀屋徳内といふ者のせがれ、諸芸に器用なりしが、鋼鉄反へまはり、ぬけ鞘持つての喧嘩ずき、親にいく度か、袴を着せ、常にも不孝なれば、目せばき所よりいひ立て、旧里きらせて、その里を追ひ出しの鐘の鳴るとき、春日野を跡に、


――「古き都を立ち出て雨」

「鋼鉄反へまはり、ぬけ鞘持つての喧嘩ずき」――刀屋のせがれで、器用であったが、刀の鋼が峰に廻るような才気があって、すぐに喧嘩に出て行くようなやつであった。親は頻りに袴で謝罪をしていた。そして、せがれは郷里を追われた。江戸で大根を売っていたところ、武士の子どもを助けてハッピーエンド。だいたいこういう話だった気がする。

西鶴の親不孝話をたどってきて、これらの親不孝の話として機能するためには、刀屋のせがれと親と言っただけでなんらかの親子関係が想起されるようなかんじでないといけないとわたくしは思う。これが我々の多くのように脊髄反射的に「親子もいろいろあるよね」という一般論がまず口をついて出てくるようでは、不孝話が単に不運や偶然の話になりかねない。

祖母は三浦綾子を読んでいた。同志のように読んでいたのかもしれない。三浦綾子は教師あがりの作家だったが、祖母は教師あがりの主婦だったのである。いまも何人か教師あがりの作家はいるが、そんな感じで偶像となっている作家はいるのか。たとえば、重松清や湊かなえはどうであろうか。教師あがりに限らず、そういう共感が失われているようなきがする。他人が同じような不幸を体験してきたと思わなくなっているわけである。我々の職業倫理観に大きな変更があった気がする。

そういえば、三浦綾子の少し年下の田辺聖子は、専門学校(今の私大)の國文科出身の大坂人である。そして、おそらく、我々がいだく重松清や湊かなえのイメージはこちらに近い。

作家や教師は、職業ではなかったのだ。宿命のようなものであったはずだ。彼らの人生はどこか不孝話に似ている。宿命は偶然と不運に見舞われている。自分で摑んでいる人生は孝行にもなるし成功譚でもある。「本朝二十不孝」が孝行話ではなく不孝話なのは、近代臣民的個人主義の教科書に載っている孝行話と鋭い対照をなしている。

複数の消失点

2022-11-25 23:51:05 | 文学


中村君は不幸にも清閑を可能ならしめる心境以外に、清閑を不可能ならしめる他の原因を認めてゐる。「しかしもつと根本的なことは、社会的環境だと思ふ。電車や自動車や、飛行機の響きを聞き、新聞雑誌の中に埋もれながら、たとへ金があつたところで、昔の人人が浸つた「清閑」の境地なんか、とても得られるわけがない。」これは中村君のみならず、屡識者の口から出た、山嶽よりも古い誤謬である。古往今来社会的環境などは一度も清閑を容易にしたことはない。二十世紀の中村君は自動車の音を気にしてゐる。しかし十九世紀のシヨウペンハウエルは馭者の鞭の音を気にしてゐる。更に又大昔のホメエロスなどは轣轆たる戦車の音か何かを気にしてゐたのに違ひない。つまり古人も彼等のゐた時代を一番騒がしいと信じてゐたのである。いや、事実はそれ所ではない。自動車だの電車だの飛行機だのの音は、――或は現代の社会的環境は寧ろ清閑を得る為の必要条件の一つである。かう云ふ社会的環境の中に人となつた君や僕はかう云ふ社会的環境の外に安住の天地のある訣はない。寂寞も清閑を破壊することは全然喧騒と同じことである。もし嘘だと思ふならば、アフリカの森林に抛り出された君や僕を想像して見給へ。勇敢なる君はホツテントツトの尊長の王座に登るかも知れない。が、ひと月とたたないうちに不幸なる尊長中村武羅夫の発狂することも亦明らかである。

――芥川龍之介「解嘲」


だから芥川龍之介は、電車や飛行機などを素直に認められずに、二重身なんかがみえてきちゃうのだと、批判するのは容易である。ショーペンハウエルは鞭の音を気にしていた。これを騒音の一つとみてしまうことで、芥川龍之介は観念に縛られることになる。でも関連づけられたもの自体はそう見えないから認識が常にゆらゆら揺れるのである。芥川龍之介はその認識を空間的なものとして誠実に記述し死んでいった。

絵画の技法で、複数の消失点の設定というのがある。視点の移動による揺籃が空間を把握させるのである。

何かを評価しなきゃいけないときには、複数の消失点による把握みたいなものが必要で、これができずに、一点が一点だけに見える精神がものすごく増えてきている。これだといくら評価項目そのものを増やしてもだめだ。チェックシートとか応募要項の項目の増加とかそのたぐい。昔のインテリだったら形式論理、そうでなくてもバカと呼んでたやつである。人の言っていることがわからない、というのがよく発達障害の特徴して語られるが、病気の問題としてどうかはよく分からないとしても、原因には普遍性がある。

マレビト回帰

2022-11-23 23:45:46 | 文学


勿体なくも、親達に足をさすらせ大小便とられ、冥加につきし身のはて、親のばちあたりと、名のりける

「無用の力自慢」、高松の相撲取りのはなしで、心配した親が嫁をあたえてもずっと相撲に熱中し続けていて、四国一の力士となったが、あるときそれ以上の大力にあっさり投げられ砂にめり込み複雑骨折してしまった。で、半身不随となった彼は親に下の世話をされつづけて、「親の罰当たり」と名乗ることになったのであった。

わたしにも相撲を目指す同級生たちがいた。ちょっと相撲が盛んな土地柄であって、何の因果か、御嶽海まで出現してしまった。とはいっても、御嶽海は、海の向こうからきたマルガリータさんがいたから、であって、予想を超えたものはマレビトとしてやってくるものだ。高松の相撲好きの遺伝子にもそれがあったのかもしれないが、どうも上のように大したことはなかったようだ。他のマレビトにあっさりやられてしまったのである。

昨日も、西田幾多郎の「知と愛」について偉そうに語ってしまったが、ちゃんと学生は、この文章において不十分で重要な用語が「直覚」であることを読めてた気がする。直覚も愛が知であり知は愛である状態を招来するなにものかである様な気がする。透谷の内部生命の眼の獲得なんかもなにかの招来した結果である。――のだが、高松の相撲取りもつい相撲に知としての愛だか愛としての知だかを至高のものとして興奮した結果、ほんとのマレビトが外からやってきたときに案外もろいものである。

西田幾多郎と夏目漱石を比較して、ナショナリズムと個人主義の相即性みたいな話を授業でするのもちょっと飽きてきた。しかし、わたくしは外部とかを容易に出してくるのはいやなので、マレビトがマレビト2として回帰してくることを想定したい。我々は、内部にマレビトを取り込んでも、同じようなマレビトを引き寄せて滅んで行く。

道具・暴力・重力

2022-11-22 23:57:10 | 文学


おじいさんは、黙って下を向いていました。正吉の父親は、その前に立って、はさみを見ながら、いろいろのことを思い出していました。
「おじいさん、このはさみをくださいまし。」と、父親はいいました。
 すると、黙って下を向いていたおじいさんは顔を上げました。
「こう寒くなっては、どこの家でも冬着の仕度をせにゃならん。このはさみを使った人は、みんなにしあわせがくるから、楽しみにしていなさい。」と、おじいさんはいいました。
 正吉の父親は、自分は男で、着物を縫えないが、だれか人にたのんで、子供にだけなりと暖かい着物を着せてやりたいと思いました。


――小川未明「幸福のはさみ」


はさみは子どもにとっては何か怖ろしいものであるから、小川未明はそのことを利用しているのである。しかし次第にわれわれは、道具から我々へのメッセージを受容出来なくなり、「道具」が物体と言うより手段であることを内面化し、哲学に於いてもむかしから技術への問みたいなことを問い続けている。昔の人はいいこと言ってて、バカとはさみは使いよう、という。はさみにもバカにも微妙な能力が宿ることありうるのだ。それは神秘である。

そういえば、むかし音楽の先生が、練習をしつづけると手にもう一つの脳が出来てるんだと力説していた。手に脳みそができるのかと思って気持ち悪いなとおもったが、いま考えると、手に出来なくても、脳のなかにそういう脳がもうひとつ出来てるのかもしれない。手に脳みそが出来る方が面白く聞こえるけど、脳があるわけではない。しかし脳的な機能が手に宿るのだ。

太宰治は、「人間失格」を読む限り、なにか体が動かないような不全感を覚えていた気がする。払拭するように「グッド・バイ」で、女の子が優男を殴ったりしているが、殴っている方は女の方だ。いま、大河ドラマが佳境を迎えていて、そろそろ実朝が神社で暗殺される。実朝は、歌の人で、実力行使は時空を越えた領域に期待している。もう現世では体が動かなかったのかも知れない。「右大臣実朝」の物語を書いた太宰治もあれだな、人気に嫉妬した若き三島由紀夫とか坂口安吾辺りに神社で殴られるとかして死んだならよかったのではなかろうか。女と心中なんて、彼の虚構でもあり現実でもあり、もはや彼は昔から死んでいたんじゃないかと思われるくらいである。しかし、それは我々が脳みそだけになっただけのような感じがすることでもある。

その点、編集者を殴って階段落ちさせた人は、小林秀雄だったか。。彼は批評を明らかに暴力沙汰として書いていた。

今回の大河ドラマは、当然「ゴッドファーザー」をふまえてるだろう。そのパート3の最後はオペラ座の入り口の階段であって、今回も神社は殺人の行われる舞台的なあれでちょうどいいんだろう。しかし、そういえば昔、その劇的すぎるゴッドファーザーの最後には、新撰組の階段落ちみたいなダイナミックさがないとかいった悪友の頭をノートではたいたのはいい思い出である。あまりにくだらない批評には、――小林秀雄に対してであっても暴力的な連中がたくさんいたことを忘れてはならない。

しかし、いうまでもなく、我々の生きている空間というのはなんとなく上下にゆがんでいる。階段落ちがダイナミックであることは、暴力が引力を常に利用していることを思わせる。ウルトラマンの世界なんか完全にそれであった。大河ドラマも、神社の階段での殺人だ。これを我々のような四民平等の世界に移すならば、極力重力を排除して物事は昇華させていくべきなのだ。そうだ、最終回だけ脚本を三谷氏から宮藤官九郎に交代し、小栗旬とのんさんがこれまでに殺された人たちの首でサッカーをしたりバスケットボールをしたりするかんじで、視聴者の感情を逆撫でして昇華させるのだ。

これは冗談ではなく、スポーツの本質にかかわっている。実際、サッカーの起源が髑髏蹴り遊びである。権力や重力をつかった暴力が、平面上の暴力にきりかわる。平面に置かれると魂が堕落するやつが発生する。スポーツの上でこそいじめが発生するのである。いじめは嗜虐である。いじめというのはやられた側にいじめであるかどうかの判断が委ねられている傾向があり、なぜなら、いじめている側が、批判とか対決ではなく嗜虐性を持つことに、やられている側が気付くからである。だから、気付かないといじめとは感じないんだと私は思っていた。しかし最近は何かが変であり、そうでもない場合もあって、最近はハランスメントの観点の導入で、権力関係と力の行使の程度にばかり目がいってるような気がする。もう少し、力を行使するやつの魂の堕落を忘れないようにしないと、単に力の行使を弱めればいいみたいなことになるんじゃないかという気がする。

夜は火の柱と現はれて

2022-11-21 19:15:38 | 文学


首領株三十名今夕突然捕縛せられたり、憲兵巡査の乱暴甚しく、負傷者少からず其の多くは婦人小児なり……是れ買収政略の到底効果なきより来れるものと知らる……維持費尽く、
「首領の捕縛」「公権の乱暴」「婦女小児の負傷」而して噫、「維持費尽く」
 新聞右手に握り締めたるまゝ、篠田は切歯して天の一方を睨みぬ、
 白雪一塊、突如高き槻の梢より落下して、篠田の肩を健か打てり、
 午前七時半、警官来れり、
 今や篠田の身は只だ一片の拘引状と交換せられんとすなり、大和は其の胸に取り付きて、鏡の如き涙の眼に、我師の面を仰ぎぬ、
 篠田は徐ろに其背を撫しつ、「君、忘れたのか――一粒の麦種地に落ちて死なずば、如何で多くの麦生ひ出でん――沙漠の旅路にも、昼は雲の柱となり、夜は火の柱と現はれて、絶えず導き玉ふ大能の聖手がある、勇み進め、何を泣くのだ」
 轍の迹のみ雪に残して、檻車は遂に彼を封して去れり、


――木下尚江「火の柱」


自然主義がきまじめに社会運動化したのはキリスト教のおかげだとは教科書にもかいているようなことだ。ここでも「火の柱」は聖書の引用というより、仰ぎつつ彼らを進ませる何ものかである。島崎藤村にすらあるこの何ものかを獲得するのは骨が折れる。人々は簡単に運動と理念を同一視するなどと言う。そこにも個人の人生がかけられていたのだ。

正直者の帰趨

2022-11-20 19:25:26 | 文学


寒くなってきて、セーターなどだしてきて着たのはいいのだが、お腹になんかひっかかっていると思ったら、服の下にムシューダ入ってたわたくしですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

物言えば唇寒し秋の風、というが俺の田舎じゃ11月に人の悪口言ってりゃ本当に物理的に?寒い。何を相手にするにせよ誹謗すると最悪な意味で冬が来るのは、ソ連のある時期でもそうだった。物言えば凍結するよシベリヤで、である。いまもツイッターでしばしば凍結されているひとがいる。我々の遺伝子には、仲の悪くなった集団がアルプスの氷河にでもつっかかり全員死んだ記憶でもあるのであろうか。正直者が馬鹿を見たり、正直者が寒さに震えたりするのはなにか科学では解き明かせない領域の原因のためのような気がする。――これはただの感想である。

科学的なものには主観性のイメージを回避するためのさまざま工夫があって、論じる観点の偏りを見た目の観点のバランスによって隠蔽するやり方がある。それでバランスがとれ、つつがなく進行する、みたいな論文や報告書を書くのになれてしまうと、コミュニケーションの相手もそれに影響されてそこそこの「普通さ」しか反応してこなくなり、結局「問題」は出現しなくなる。ひいては価値判断もなくなってゆく。まさにみんなちがってみんなダメ状態となる。
こんなことは常識的な事態だが、あんがい現実では難しいこともある。人間、自分に対して価値判断が下されるときには理性を簡単に失う。

例えば、「問題」の出現をトラブルみたいに感じる人間は、コンプレックスや弱点の隠蔽が目的なんだから、ある程度無視するべきなのだが、いまはコンプレックスを合理化する理屈なんか星の数ほどある。批判を不規則発言ととらえる人間の叢生にはほんと驚かされる。これは、唇寒しどころではなく、ショスタコービチの「冬」なみの恐怖の出現である。例えば、面接や集団討論などが入試などに取り入れられるようになると、面接官などの偏った主観的判断が横行する危険性が言われることがあり、たしかにそれだけでも公平性は失われたと感じられるのだが、――現実的な問題は、むしろそういう「主観」を最初から回避することで、ものの見方が平板になり、「全員そこそこだよね」みたいな無価値状態が出現することである。

遠慮した判断が横行するような社会においては、やる気を出したら不規則に思われるし、そういう空気すら読めない無神経なバカが威張るし、みたいなことになるに決まってる。こうして、いまの世界の出現である。

論文でも批評でもいいが、ある部分を不明瞭に放置したり嘘をまぜたまま論を進行させると矛盾が出てきて詰まってしまう。だめな書き手はそこで嘘をつきつづける。正直なひとはそこで世界に対して嘘をつき続けることは出来ないと自覚する。文化政策にからまったアカデミズムがなぜ学問の進行を遅らせるかというと、世界への厳密さではなく達成度が問題となり、嘘が嘘と自覚出来ない魔空間にとらわれるからであるが、たいがい正直者が混じっているから自壊して、次の政策課題に移って行く。時間の無駄である。

政治的なものも文化的政策も基本的には同じであるが、人が多く死んでやっと気付く場合が多い。

吾々も過去を顧みて見ると中学時代とか大学時代とか皆特別の名のつく時代でその時代時代の意識が纏っております。日本人総体の集合意識は過去四五年前には日露戦争の意識だけになりきっておりました。その後日英同盟の意識で占領された時代もあります。かく推論の結果心理学者の解剖を拡張して集合の意識やまた長時間の意識の上に応用して考えてみますと、人間活力の発展の経路たる開化というものの動くラインもまた波動を描いて弧線を幾個も幾個も繋ぎ合せて進んで行くと云わなければなりません。無論描かれる波の数は無限無数で、その一波一波の長短も高低も千差万別でありましょうが、やはり甲の波が乙の波を呼出し、乙の波がまた丙の波を誘い出して順次に推移しなければならない。一言にして云えば開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘だと申上げたいのであります。

――「現代日本の開化」

夏目漱石はやはりそこはよく分かっていて、嘘をつかないために内発的な三角関係ばかりえがいていた。しかし太宰治みたいに、愛国心が内発的でなくなり、魔空間にとらわれた時代を過ごした人間になると、「嘘は方便」なものが混じってくる。

「戦争が終ったら、こんどはまた急に何々主義だの、何々主義だの、あさましく騒ぎまわって、演説なんかしているけれども、私は何一つ信用できない気持です。主義も、思想も、へったくれも要らない。男は嘘をつく事をやめて、女は慾を捨てたら、それでもう日本の新しい建設が出来ると思う。」
 私は焼け出されて津軽の生家の居候になり、鬱々として楽しまず、ひょっこり訪ねて来た小学時代の同級生でいまはこの町の名誉職の人に向って、そのような八つ当りの愚論を吐いた。名誉職は笑って、
「いや、ごもっとも。しかし、それは、逆じゃありませんか。男が慾を捨て、女が嘘をつく事をやめる、とこう来なくてはいけません。」といやにはっきり反対する。


――「嘘」


前半の「私」の発言は漱石擬きである。対して名誉職は国策を欲の所産だとまだ思い込んでいる。こういう人間に対してはなかなかに正直に対しているだけではらちが明かない。それで、太宰は恋のせいなのかもっと違うもののせいなのか、読者に問うような小説ばかりを書いている。結局、恋愛は人世の秘鑰なりという断言が国の所業に対抗できなかった透谷以来の歴史を清算するつもりだったのかもしれない。

主人公の圭吾は軍隊には行かずに嫁がいる家に帰ってきてしまったのだが、嫁は夫を馬小屋に隠して嘘をついた。

圭吾は、すぐに署長の証明書を持って、青森に出かけ、何事も無く勤務して終戦になってすぐ帰宅し、いまはまた夫婦仲良さそうに暮していますが、私は、あの嫁には呆れてしまいましたから、めったに圭吾の家へはまいりません。よくまあ、しかし、あんなに洒唖々々と落ちついて嘘をつけたものです。女が、あんなに平気で嘘をつく間は、日本はだめだと思いますが、どうでしょうか。」
「それは、女は、日本ばかりでなく、世界中どこでも同じ事でしょう。しかし、」と私は、頗る軽薄な感想を口走った。
「そのお嫁さんはあなたに惚れてやしませんか?」
 名誉職は笑わずに首をかしげた。それから、まじめにこう答えた。
「そんな事はありません。」とはっきり否定し、そうして、いよいよまじめに(私は過去の十五年間の東京生活で、こんな正直な響きを持った言葉を聞いた事がなかった)小さい溜息さえもらして、「しかし、うちの女房とあの嫁とは、仲が悪かったです。」
 私は微笑した。

タカ派、ハト派、やんちゃ

2022-11-19 23:58:02 | 思想


タカ派、ハト派、やんちゃ、――それぞれ暴力的解決派、平和的解決派、自意識過剰な犯罪者、とはっきり呼ぶべきである。最後のやつはともかく、政治的な存在はしかし、イメージが反転することもある。うちの知り合いは、大野伴睦を褒めていた。翼賛選挙に落ちたかららしいのだ。選挙に落ちることによって、鷹が鳩になることもあるのであった。

猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ

彼のおもしろくない名言は、「ただの人」に含蓄がないことによる。ほんとは、「ただの臣民」とか「ファシストにならずにすむ」とか言わなくてはならなかった。

酒という主体

2022-11-18 23:53:34 | 文学


「そなたの煎茶をのみとまる事はなるべきや。世のたのしみ、これより外はなし。酒に捨つる命、何惜しからぬ。今にも、我往生せば、沐浴も諸白をあびせ、棺桶も伊丹の四斗樽に入れ、花山か、紅葉の洞に埋まれたし。春秋の遊山人の、吸筒の滴りかかれる願ひもあり。後世さへかく思へば、まして現世にこのたのしみをやめまじき」と、なほ呑みあかし、酔ひくれて、五日七日もつづけさまにねて、世の事を外になしぬ。これをおもひとなりて、母果てらるるにも、枕をあげず、この死目にあはず、はるかの後に夢さめて、 なげくにかひぞなかりき。


「八人の猩々講」は、小学館の全集の注には、「まとまりのない」と評されている。とはいっても、この話、上の親不孝者が主張するように、とにかく酒が好きな人の話である。酒が好きすぎて、オレが死んだら棺桶は酒樽にして、酒飲みがこぼす液体を呑みたいので、そういう場所に埋めろなどと言っている。そうして大酒を食らって眠り果てていたところ、説教していた母親が死んでしまった。

けっこう纏まりのある話過ぎるところがある。酒が話題になる度に、浮世の話は単純になりがちだ。酒を飲んでいる奴に説教をするのは難しくなるからだ。三国志の桃園の誓いかなんかも酒が入っている。おまえら、ただの田舎のヤンキーのくせにいきがってんじゃねえぞ、とこの三人言う人がいなかったのか。たぶんいなかったのだろう。

とはいえ、酒で酩酊すると批判が注視されるのと同時に、酒に主体を奪われ、――人によっては攻撃性が薄れることもある。上の御仁だって、母親を殴ったりはしなかったわけで、勝手に寝てただけである。そもそも、人間はそれほど多くのことを同時に出来ない。礼儀や敬意みたいな器械的なもので、まずはよい関係を築いて同時に仕事を開始しみたいな難しい作業を軽減している。そこにはむろん無理がかかったり抑圧が生じて桎梏となることもあるが、それをやめると今度はコミュニケーションの軽減策としてハラスメント的なものの応酬になりがちになり、すべてのありうる理由付けが言い訳とみえるような厭な世界となる。こうなったらずるいやつしか生き延びられないディストピアである。もうそうなってるが。立場が弱い者と自己認識する人間が実際それほど弱い立場にはみえず、むしろハラスメントをしているように思えてくる理由がそれである。――で、こういう暴力的関係は、いまよりひどくなくても昔からあったわけで、酒がそれを少し軽減していたのはいうまでもなし。それが分からなかったのは、酒宴で殺人をやらかしたヤマトタケルみたいな変態だけだ。

そういえば、スポーツ新聞の研究ってやってみたいと高校の時思ったことがあった。うちは、中日新聞と中日スポーツと日曜版赤旗が来てた。まあ一番分かりやすかったのは、赤旗に載っている漫画だったけれども。スポーツ新聞の世界というのはとても面白い世界で、ただでも見世物化しているスポーツを更に見世物的に劇化しているのである。勢い余って、エロティックな小説まで載っけられている。きわめて平和な世界であり、中沢啓治のカープ物語によく現れているように、これは「戦後」における、戦争=暴力の昇華のやり方だったのである。

もうかなり読んでないんでうろ覚えだけど、戦前の中井正一のスポーツ論とかってなんかしっくりこなかった。浅田彰が言っていたように、ほぼファシズムという感じがする。SDGsの起源にナチスの政策なんかがちらつく事情については、藤原辰史氏が論じていることであるが、スポーツがアスリートの肉体の運動としてのスポーツになるとこりゃまたナチという感じだ。そういえば、スポーツが得意だったといわれる坂口安吾とか柄谷行人とかの文体もなんかスポーツ得意みたいな気がしない。彼らの論理の洗練をみると、スポーツに純粋的ななにかを見すぎているのではないかと思う。

落合博満氏が中日と巨人にいたときには、親会社が新聞社だから過剰に言うことに気をつけなきゃいけなかったみたいなこと言ってて気の毒だったが、競技自体もそうだけど、こういう対立物殴り合いみたいな側面がなくなると面白くはなくなるのである、見世物としては。よく言われることだけど、戦争の時の鬼畜米英みたいなものと、戦後のスポーツの見世物化=プロレス化は文化的に無関係じゃないどころかほとんど同じものなのである。巨人中日の10.8決戦なんかその最後のあれである。それを虚構として興奮出来るものが強い。それを野球漫画が支えていた。

野球のホームランというのは、観客席にボールが着弾してそれを歓喜で飲み込む観衆をテレビで眺めるというなんか主客合一的なものがある。サッカーはその合一がないので、騒ぎをもっと大きくしないと盛りあがってるきがしないんじゃないか。というか、喘息のわたくしとしては、野球の方が呼吸がしやすい感じがするだけだ。サッカーはみててずっと走ってるからこっちまで苦しくなる。そういえば、大相撲で金星とかがあると、座布団投げたりするけど、あれも別にお相撲さんを狙って投げてるわけじゃないけど、なんか主客合一という気がする。

こういう主客合一は、現実と虚構を混ぜる合一でもあって、――それこそが対立物を見失わない主体形成なのである。これに対して、純粋に主体の確立なんかをやると逆に、酒や指示の主体に主体を奪われる。

蝙蝠

2022-11-17 23:10:51 | 文学


それはまだ、東京の町々に井戸のある時分のことであつた。
 これらの井戸は多摩川から上水を木樋でひいたもので、その理由から釣瓶で鮎を汲むなどと都会の俳人の詩的な表現も生れたのであるが、鮎はゐなかつたが小鯉や鮒や金魚なら、井戸替へのとき、底水を浚ひ上げる桶の中によく発見された。これらは井の底にわく虫を食べさすために、わざと入れて置くさかなであつた。「ばけつ持つてお出で」井戸替への職人の親方はさう云つて、ずらりと顔を並べてゐる子供達の中で、特にお涌をめざして、それ等のさかなの中の小さい幾つかを呉れた。お涌は誰の目にもつきやすく親しまれるたちの女の子であつた。
 夏の日暮れ前である。子供達は井戸替へ連中の帰るのを見すまし、まだ泥土でねばねばしてゐる流し場を草履で踏み乍ら、井戸替への済んだばかりの井戸側のまはりに集つてなかを覗く。もう暗くてよく判らないが、吹き出る水が、ぴちよん、によん、によんといふやうに聞え、またその響きの勢ひによつて、全体の水が大きく廻りながら、少しづつ水嵩を増すその井戸の底に、何か一つの生々してゐてしかも落ちついた世界があるやうに、お涌には思はれた。
蝙蝠来い
簑着て来い
行燈の油に火を持つて来い
……………………
 仲間の子供たちが声を揃へて喚き出したので、お涌も井戸端から離れた。


――岡本かの子「蝙蝠」

不孝話の偶然=必然

2022-11-16 23:23:35 | 文学


「いかに若きとて、さりとては、心なし。人の手前、世の思はく、身の程も恥ぢぬべし。 我が年は十八、嫁十六なれど、世間の思ひやりありて、あのごとく、身を捨てて、内証を隠し、親里へも、これをしらせず、かかる前後を、凌がるるは、女の鑑にも、木々までしらすべき、最愛き人なり。いまだこの春縁組して、半年も立つやたたぬに、衣類・敷銀・手道具までをなくして、嫁なればとて、面目なし。我とあの人がやうに、心ざしも、かはる物か」と、いひもはてぬに、娘は、履きたる雪踏を親になげ付け、不断の寝間に行くを、母も、今は堪忍ならず、手元にありし爪切持って立たれしを、嫁、懐きとめて、潮々に、これを詫済まして、片陰に立ち忍び


様々な不孝話があり、まったく偶然の話とは思えない。つまりそれらはいつも繰り返す話として書かれているのであろうが、現実には偶然によって生じたとしか思えないのである。だから、おなじことを繰り返すのも偶然だと言っているだけでは人間にとっての説明になっていない。不孝話もどことなく因果応報の話である。――我々は何の因果かと思うけれども、何の宿命かと思う恐ろしさから逃避していると考えれば、むかしからそれを我々を繰り返してきたんだなと思われる。因果を科学とか統計とか言い換えてもかまわない。

先日「小説神髄」を読みなおしてたら、それが「欧土の小説を凌駕」するぞみたいな宣言を持っていたことを忘れてたな。。。凌駕するというのは、同じ事は繰り返さないと言っているに等しいが、果たしてこういう認識はどんな状況で生じてくるのであろうか。

今年の歳末にその天野君と落合太郎君と私とで寒い晩に四条通の喫茶店へ茶を飲みに行ったことがある。給仕の少女に九鬼は紅茶とビスケットをくれないかといった。ビスケットってクッキーのことですかと少女が尋ねた。九鬼は「クッキーなら貰わないでもこっちから上げるよ」といって笑ったが、何かしら胸にグキット感じた。ビスケットという古い言葉がクッキーという新しい言葉に代ってしまっているのを初めて知って、自分の住んでいる古い世界と少女の住んでいる新しい世界との間隔に軽い目まいを感じたのである。これはクキがクッキーでグキットした話である。
 この二つの場合で、クキがクッキーでグキットしたとはいいやすいが、アマノがアマゴとアナゴを間違えたといおうとするとうまく口が廻らないで多少の努力を要する。前者は同一性に基くものとして単に量的関係に還元され得るのに反して、後者は類似性の基礎に質的関係を予想しているためであろう。


――九鬼周造「偶然の生んだ駄洒落」


どうでもいいけれども、九鬼は天野や落合と喫茶店に行ったことの方を考察すべきである。