★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

POSTと性的不能

2018-05-31 23:05:34 | 文学


村上龍の「POST」を捲ってみた。大江健三郎とは違うが、これも一種の性的不能の物語だと思った。最初に語られる、ポップアートが頭に貼り付く、という事態は、アメリカの風景が内面化を許さなかったということである。村上龍の主人公達は、村上春樹のそれとはちょっと違うが――、すぐ閨房入りしたりする。が、まったく「そんなかんじ」がしないのである。

今日、ドリス・ディの「A GUY IS A GUY」をだしに、占領下のアメリカンポップスとその後の日本の歌謡曲について語ったので、そんな事を思った。

若さにかまけてドブに

2018-05-30 23:17:45 | 漫画など


もと吹奏族のわたくしであり、音楽系の部活の話にはごきぶりホイホイに突撃する如くなのである。この話のなかで、顧問の教員がいう台詞がよい。

「みなさんが普段 若さにかまけてドブに捨てている時間をかき集めれば この程度の練習量は余裕ですよ」

本当にその通りである。わたくしも若さにかまけて時間を無駄にした。


宙の幻花を

2018-05-28 22:48:24 | 文学


それだから言わないこっちゃ無い。東京へ来ても、だめだと、あれほど忠告したじゃないか。娘も、親爺も、青年も、全く生気を失って、ぼんやりベンチに腰をおろして、鈍く開いた濁った眼で、一たいどこを見ているのか。宙の幻花を追っている。走馬燈のように、色々の顔が、色々の失敗の歴史絵巻が、宙に展開しているのであろう。

――太宰治「座興に非ず」

【かわいい】鶴竜優勝【つよい】

2018-05-27 23:27:31 | ニュース


保田與重郎の「木曽冠者」を読み直したが、まあそれにしてもだらだら書きやがって最初に結論を言ってくれよと思わないではないが、これはブルックナーのようなもんだと思えばいいのかもしれない。このエッセイで、幸田露伴の「頼朝」が彼を「優美に泣く人」と書いてあるのをイイネしてしまうのが保田であるが、わたくしは、こういうところが露伴も保田もいやである。勝手に泣いてろよ、である。

保田によれば、木曽出現と滅亡は、「歴史のための必要な至上命令」で、義経とともに次代のための「橋」のようなものであったらしい。だからこそそれは「懐かしく戯画化され」たのだそうだ。ああそうですか、田舎ザルを殺しても懐かしく回想すればそれで良いのですか、そうですか。えせ弁証法論者の保田に限らず、すぐ歴史とか現在という作者とかなんとかいう人たちをわたくしはあまり好きじゃない。こういう人たちは、せいぜい異物を媒介物と見なすところで思考がとまってしまい、観察や勉強をやめてしまうからである。ただ、確かに保田は戯画化に涙するような面白い感性をもっていた。義仲が好きになるであろうとみなした――彼が期待していた同時代の「日本の少年達」は、必ずしもそうではなかった。保田は、なぜそんな単純なことが分からなかったのであろうか。山本有三みたいな人との対決を避けていたからかもしれない。

保田が見ようとしていたのは、日本みたいなものじゃなくて、道ばたの淫祠のようなものだった。この気分は、とてもよく分かるのである。しかし、これが案外、多くはコンビニみたいなものであったことが保田にとってもわれわれにとっても不幸なのであろう。木曽殿は、おそらく保田が思いたいほどには素朴なやつではない。都会の人とちょっとの違いがあるだけだったのである。

則光・超脱

2018-05-26 23:20:23 | 文学


「けやけき奴かな。さてはえ罷らじ」と言ひて走りかかりて疾く来たりければ、「この度は我はあやまたれなむとする。仏神助け給へ」と、太刀を鉾のやうに取りなして、走り早まりたる者ににはかに立ち向かひければ、腹を合はせて走り当たりぬ。彼も太刀を持ちて切らむとしけれども、余り近くて衣だに切られで、鉾のやうに持ちたる太刀なれば、受けられて中より通りにけるを、太刀の柄を返しければ仰け様に倒れにけるを、太刀を引き抜きて切りければ、彼が太刀を抜きたりける方のかひなを、肩より打ち落としてけり。


これは、今昔物語集で橘則光が強盗を斬り殺した話の一節である。則光と言えば、清少納言の旦那(後に離婚したけど)である。上の場面だけみると、神仏に頼ってやけくそにしてたら勝ってしまったみたいな感じであるが、理にかなった剣術らしいのである。知らんけど。このあと、則光は、彼が殺した死体を前にしてある人物が、これは俺がやっつけたのだ、と自慢しているのをみて、「よかったー、殺生の罪はやつのものだ」とか思ってホッとしたらしい。まったく仏を自由に使う勝手なやつではある。

むかしから、なんで武士の時代があったのか、そもそも疑問であったが、この殺生の罪の内面化と何らかの関係があったのではないかと最近妄想してみたのである。本当はもっと唯物論的な理由があったのであろうが、つねにそれだけでは理由は分からないものだというのが、わたくしの実感だ。

われわれには、死への願望だけでなく、罪人になることへの願望みたいなものがある。なぜなら、罰を下す法や教えというのは――中学生の頃を思い出してみれば良いが、倒しがいのある(悪の)権化なのである。そういえば、吉本隆明が昔、岡田有希子が死んだときに、本来的な自分になるための超脱行為だったのかもしれないみたいなことを講演で言っていた。それが消極的ではあるが「かっこよさ」だと。ロマンティックな見方と言えばそれまでだが、確かに倫理に対して超脱するような――われわれにはそういうところがある。現代の若者論でよくでてくる「居場所を探す若者」みたいなものも、ただ彼らがアイデンティティの安定を求めているのだと思ってはならないのである。大学で若者と接していても思うことであるが、――人間が保守的になろうと急進的になろうと、その超脱のエネルギーの消尽の問題はついて回る。わたくしは、セクハラをしたがる大人と、それを摘発する大人は、そういう意味で似ているし、QBをつぶせと言ってしまう大人とも似ているような気がする。彼らも、本来の自分の居場所を間違えていると自覚があるのではなかろうか。

ガキかよ、と思わないではないが、――こういう問題は、昔の左翼の一部が考えたように、理知で押さえ込める問題ではなかった。

本当のわたくしの関心は、もっともっと地味で――思春期なんかなかったようにみえる、保守的な人たちのことであるけれども……。

「擬似問題」問題

2018-05-25 22:41:26 | 文学


今昔物語集に、「僧、子を棄て母を助ける話」というのがある。ある法師が洪水の時、自分の母親と自分の子どもが流されているのをみて、子どもをはじめ助けたが、岸の近くまで来ると母親が流れてきて死にそうである。二人を助けたら自分もおぼれてしまう、生きていれば子どもはまたつくれる、母親はそういかぬ、と考えて、母親の方を助けた。法師の妻は激怒したが、法師は子どもをまた作りましょう、嘆くなよ、と言った。ところが、仏がこの心がけをあはれと思ったのか、下流で子どもが助かっていた、という話である。また、この話とよく一緒に紹介される話で――、子連れの女が山中で二人組の暴漢に襲われ、子どもを人質に渡して「ちょっとおトイレ」と言って逃げ出し、あとで武士と一緒に現場に戻ってみると、子どもが八つ裂きになっていたという話もある。武士は「美事に貞操を守ったな、あっぱれ」と褒めたという。

サンデルが流行っていた頃、ブレーキが壊れた列車がきりかえ線で左に行けば五人を殺す、右に行けば一人を殺す、さあどうする、という所謂「トロッコ問題」がちょっと話題になっていた。この話を聞いたときに、わたくしは、上の話を思い出した。

田島正樹氏も以前言っていたが、サンデルの提出した問題は、状況がおおざっぱすぎて本当は「現実の」問題になっているかどうか怪しい。それこそ、こういう問題は文学が扱うべきであって、ドストエフスキーなんか、明々白々の殺しなどについて、あれほどの長い説明をしなければならなかったのである。

ドスト氏に比べると、今昔の話は、仏や武士の一言みたいなのに救われるのが早すぎる気がする。仏ではなく売春婦、武士の代わりに女の夫にそのような言葉が言えるかどうか、それぞれの人物の人生からすると……、と延々迷い道に入り込んでいくのは大変であるが、現実はそういうものに近い。

われわれの世界は、ますますそういう煩雑な現実から逃走しトロッコ問題を前にして「決断せよ」みたいな世界になってきている。間違えたと思うのは、ドスト氏の小説を前にして、「答えはないよね、それぞれが解釈(決断)すればいいよ」みたいな映画上のやくざの鉄砲玉みたいな怠惰さが勝利を収めたことである。そうすると自分のルサンチマンを政治的な判断の根拠にしてしまうような人間が登場する。もしかしたら、ドスト氏にとっての聖書とか、今昔の仏などいったものは、そんな怠惰さを禁ずるための存在なのかもしれない。

日大のアメフト問題にしても、モリカケ問題にしても、善悪は明白なように見えるが、人間のやることである、まあいろいろあるはずである。それは、日大の監督や安倍を相対的に救うべしということではなく、事はいつもわれわれ自身と同様複雑かもしれないうことに過ぎない。権力者は必然的に発狂する、権力者の言葉はなんでも命令に変質してしまう、日本のあはれ中間管理職の切腹問題、といった定番の法則だけではなく――、人文科学的には様々なケーススタディになり得る事件だということは分かる。わたくしも、「まあ、安倍だし」とか「まあ日大の理事とかのあれだからな……」と思ったことは確かである。それに、自分の身近に起こっていることとそっくりなことばかりが政治やスポーツの世界でも起こっていることが、ニュースがものすごい勢いで炎上する理由でもあろう。しかし別のものでそのものを説明できるわけではないのも当然なのである。政治家や事件の当事者はいろいろ知っているであろうから何かをいわなければならないことがあるだろうが、外野のわれわれは慎重に判断する必要がある。それは、今度は逆に、自分の身近にも安倍や日大の監督を見出して読み間違う可能性を生み出す危険をはらんでいる。どこにでも、「馬鹿だから出世する」みたいな逆説が単純にある訳じゃなく、嘘の天才とか詐術の天才とかもいるからね……

以上の如き思考は、所謂「中立面したクズ」を生み出すことがあるので注意も必要である。なんでもかんでもトリアージを避けりゃいいうものではなく、実際、二者択一を民主制下で過激なまでに我々は行っている。が、それ以前に二者択一に対する「確信面」が多すぎる。政治は確かに建前の世界だ。しかし、その建前は、ドストエフスキーのあとにウェーバーを読むとかして得られる(ホントかいな……)のであって、井戸端会議で建前を吠える勢いで政治を語られても困る。

結論:「責任者」はごちゃごちゃ言わんとすべてをひっかぶれ。

成仏

2018-05-23 23:02:41 | 文学


起きたら、遠丸立が昔、吉本隆明について、戦中戦後のあれやこれやの怨念をかかえた彼が「まだ成仏してねえ」みたいなことを、昭和四〇年代の最初ぐらいに言っていたことを思い出した。遠丸氏は、『言語にとって美とは何か』ぐらいまでの吉本について、解体し拡散する「情況」に対して「集中」といったようなイメージの原理を立てるのが吉本の執念であり、すなわちそれが彼の「自立」ということの意味だと――言っていたと思う。それは勢い、文字通りの「自立」というより、穴を掘ってゴミを入れ続けるような(違うか)掘鑿マシーン、あるいは独楽の運動のような営為となる。だから、多くの論争や『丸山眞男論』が必要だったというのだ。「大衆化」のなかで境界が次々になくなってゆくような雰囲気に抗して、本当は必要がないのにやっているようにみえなくはないそんな感じ――遠丸氏はそういう様子について、まだ成仏してないと言っていた。

で、『丸山眞男論』をすごく久しぶりに読んでみたのだが、成仏するどころか、結構現代的な感じがして面白かった。

確かに、最初の章なんか、アカデミックな訓練を受ければ、削除すべきか、二行程度で片付けるべきだと思うところであるが――、何しろ成仏のための掘鑿なのだ。これは、どうも最近の世相に当てはまる。政治家やマスコミも含めて、掘鑿作業をしているのではなかろうか。成仏するために。


王を讃えよ

2018-05-22 23:54:22 | 映画


スーパースター・ラジニカーントの「踊るマハラジャ」を観て、すごく楽しかった思い出を持つ人は多いと思うが、最近も「バーフバリ」という二部作がヒットしている。グローバル化によって、本来の人口的実力(?)に目覚めた中国とインドは、これから200年ぐらい世界を席巻するのであろうが、彼らの神話と物語がどうなるかは興味深い。ついに「聖書」とギリシャ神話、「レ・ミゼラブル」や「カサブランカ」、「サウンド・オブ・ミュージック」が神話であった時代は終わりを告げ、「三国志」とか「ラーマヤーナ」、「マハーバーラタ」の時代がやって来そうな気がする。そして、われわれ日本人がこういう物語に異様に惹かれる理由を考えておくことが必要であろう……。

「バーフバリ」なんて、「マハーバーラタ」みたいだが、――最初の滝を登る修行の場面なんか、日本人も好きなスポ根ノリである。考えてみりゃ、スポ根は全然民主主義的な話ではないわけであった。われわれはとにかく「がんばった話」が好きである。それも貴種流離譚的な。で、次々にやってくる蛮族を倒してゆく。王を讃えよ!だ。

この前、学生が書いた「少女病」のレポートのなかに、中年親父が最後死ぬのは、たぶん作者の羞恥心のせいであるという内容があった。なるほどという感じがする。「巨人の星」や「あしたのジョー」の最後の主人公の挫折も、なにかそこに羞恥心みたいなものを感じる。羞恥心はおそらく善意につながっている。極言すれば、それは厭戦意識や大日本帝国に対する拒絶反応とも関係があると思うのである。敗戦しなければ善意と繋がれないが、大日本帝国の敗戦も完全に認めたくなかったわれわれにとって、個人の勝手な異様ながんばりというニッチな分野が、昔の、――国民国家以前の神話の世界をいつのまにか呼び寄せていたのであろう。

しかしまあ、われわれは周辺国として海の向こうからやってくる王の物語を蛮族として面白おかしく楽しめばいいところが古代の昔からあったのであるが、当事者たちはどうなのであろう。「踊るマハラジャ」や「バーフバリ」をみても、まったくインドという国は身分制や農奴制?を壊す気がなさそうだ。日本でも最近はそうなっているが、王様が馬鹿だったらどうするの?というか、大概馬鹿だったんでしょ?善政を行っていた王国を西洋の国民国家がぶちこわしんたんじゃねえぜ、たぶん。

昆虫大戦争のキノコ雲

2018-05-21 23:57:42 | 映画


キノコ雲の研究というのはあるのかしらないが、わたくしがみた原爆関係の映画のなかでも、なかなか生々しい独特な爆発をするのが、「昆虫大戦争」の末尾の爆発。

大江健三郎の「ヒロシマのオルフェ」のTVバージョンもなかなかのキノコ雲であったが、これににている。このようなぬめっとしたキノコ雲は最近はあまりない気がする。

「国民国家とユートピア」の外部

2018-05-19 23:38:10 | 思想


今日は、中野晃一氏の話を中心に聞いてきたのだが、リベラルみたいなものを目指す人々の共通の関心が、広い意味での「教育」に移りつつあるのは喜ばしいことというより、不可避的なもののようだ。リベラルな教育が骨抜きにされ手抜きになってきているのには同意するが、根本的には、学生に学校に対する「厭戦気分」に似たものがあることを重視すべきだとわたくしは思う。生徒の主体性を重んじるという文科省の主張は、積極的な従順さを持った人間をつくろうとしているだけで、何しろ、落ちこぼれをなくしてしまおうとしている訳だから、本格的な軍隊にますます似るのは当たり前だ。児童や生徒はただ勉強が苦手なので落ちこぼれてゆくのではなく、ある意味で主体的に落ちこぼれるわけである。(実際、かなりそうなのである)生徒の主体性を重んじるなら、彼らを放置すべきだし、そもそもなんで学校なんかに縛り付けているのだ?

いま、フレドリック・ジェイムソン編の『アメリカのユートピア』を少しずつ読んでいる。ジェイムソンは、社会主義的理想としての国民皆兵制をとなえているようである。(いつもの彼のあれで、言っていることはよくわからんのであるが……)確かに、戦後のある種のユートピア的な平和への志向は、戦前にあった国民皆兵的な徴兵制の影響というものがある。「みんな」戦争で酷い目に遭ったから、みんなで平和を維持しなきゃという感じになった側面を否定できない。考えてみると、日本人が勉強しなくなったのは、受験戦争体制という国民皆兵制と関係があるかもしれない。だからからなのか、日本には、学校をユートピア空間として描く作品が多い。ある種の軍隊生活を上手いこと変換するとユートピアがあるというわけであろうか。確かに、他者との響存は、そんな桎梏の空間ででてくることがある。

しかし、やっぱり、帝国主義戦争から革命へみたいな考え方はあまり好きじゃない。時間が長くかかりすぎるし、悲惨なことが多すぎたから。

昨日、『カルメン純情す』を見ていたら、最後に、再軍備を主張する女性候補と共産主義者の男が怒鳴り合う場面があった。カルメン(高峰秀子様)はその女性候補の息子の変な前衛画家に惚れていたので、いろいろな偶然で壇上に上がった彼女は、「**さん(惚れた男の名前)の幸せを願っています。ウウウっ(泣き声)」と叫んだあとで、「戦争には反対です!」と金切り声を上げる。このカルメンは「あたまのいかれた」という設定であるが、再軍備を主張する女性や共産主義者のように理屈を言わない代わりに、突然主張を言えるものなのである。理屈は必ず矛盾に対して嘘をつくしかない。最近の国民総嘘ごまかしの噴出劇は、ある意味で学校教育の成果なのである。カルメンは男の幸せを祈ったから戦争反対をしたんじゃないのだ。とにもかくにもそういうことな訳である。たぶんカルメンも落ちこぼれではあったに違いない。

とはいえ、実際にはわたくし自身は学校の居心地はよかった方かもしれない。自己否定による夢は危険でもある。 

西城秀樹の思い出

2018-05-18 19:48:05 | ニュース


西城秀樹の思い出は……



ない。というか、つい最近まで野口五郎と混同していた。ちなみに、最近、田原俊彦と近藤真彦が別人であることも知ったし、もちろん、SMAP、トキオも患者にエイトなど、誰一人個体判別ができない。

これはわたくしだけの問題であろうか。まったくそうは思わない。政治家に対してなんか、ほとんど同じような顔に見えている人がほとんどであって、ネット上での罵りあいなんか、一人一人をきちんと判別する感覚が働き過ぎる人は参加していない。だいたいにおいて、俺一人で世界を救うみたいなモチベーションの輩ばかりであって、その実、陳腐なほどその意見が紋切り型なのである。なぜかと言えば、ほんとは俺一人ではなく、誰かの意見の劣化コピーをしゃべっているだけだからで、俺一人が少なくともほんとは二人であることをあんまり自覚できないほどの感覚だからやってられるのである。まあしかし、一般に、そういう人でなくとも、自分が一人であるか二人であるかはあんまり判然としない。まともな人はそう思っている。

西城秀樹に「ヒデキー!」とラブコールを送っていた人たちに、群れている感覚はあったのであろうか。わたしの推測するところ、あまりそういうわけでもないのだ。孤立した主体はヒデキなのに、案外、自分もヒデキであり、ヒデキは自分でありみたいな感覚が働いているのではなかろうか。こういうときにこそ、人はそろって同じようなことをやっているものではなかろうか。

実生活で孤立しているかどうかは関係ない。デモやコンサートでの個の融解と、人間関係への闘争や逃避は、めんどうな他人からの逃走/排除という意味においてそっくりなのであり、――しかしそれによって上のような錯覚による個(俺一人)の出現があり得るのである。

まあ、そんなことはどうでもいい。京大の立て看が排除されたとか抵抗しているとかニュースになっている。京大から立て看をなくしたらまた京大の取り柄がなくなってしまうというのは、――他の国立大がかわいそうだから言いたくない。むしろ、その根拠となっている景観条例とやらが恐ろしくくだらないのである。実際に条例をみてみたが、小学生の絵日記並みの感性だ。

私たちの京都は、変化に富んだ海岸線、四季折々に様々な表情を見せる山並み、清らかな水をたたえる河川など、豊かな自然に恵まれており、この美しい自然とのかかわりの中で、丹後から山城までの各地域において、人々の営みや歴史と伝統に培われた文化を映しながら、多くの個性豊かな景観が形成されてきました。しかしながら、都市化の進展や人々の価値観の多様化が、府民の生活や生業に大きな影響を与え、多くの良好な景観がその姿を変え、失われつつあります。私たちは、一人ひとりが、身近にある良好な景観の価値を認識し、府民、事業者、市町村及び京都府の適切な役割分担と協働の下、良好な景観を保全し、育成し、かつ、創造することにより、府民共通の資産として将来の世代に引き継いでいかなければなりません。



知るかっ、という感じであるが、人の生活や価値観の多様化より景観をとるその根性と品性があかん。景観と言うが、本当は景観の問題ではなく、たぶん庭や部屋が汚れているから綺麗にしようみたいな意識である。おそらく土地所有の感覚に近いとみた。どうも京都にいくと、「ここはなんだか死んだ町だな」と思うのは、そのせいだったのである。むろん、これはわたくしが坂口安吾に影響されているというのはあるわね……。すなわち俺一人の意見ではない。もっとも安吾は法隆寺を壊して停車場を作れとかいっていたが、安吾が東京の雑踏が好きだったためだ。安吾が反発しているのは、法隆寺や平等院が醸している私的所有の雰囲気だ。だから「停車場」なのかもしれない。わたくしは、停車場は好きではないが、法隆寺も京大の立て看も好きなので残してあげたい口である。破壊や排除はいやだねえ、と思うからであるが……。

イスラエルとパレスチナでもそうだが、あれはもはや宗教の対立ではない。オレの道路に入るなみたいな、立て看排除と同じく、権力を持った盗人が自分の庭を守ろうとして殺人をやっているだけだろう。田島正樹氏が以前、イスラエルはもう消滅するのは必然。それが正義だろう、みたいなことを言っていた気がするが、――と思ったら今日のブログで再掲されていた。ただ、盗人が勝つこともあるかも知れない。世界的に、グローバリスト(帝国主義者)は、孤独を好むようになってきている。正義の実現は常に移動を迫られる。つまり、パレスチナで無理なら、京大で無理なら、他の土地や大学で……。無理か……。

つまり、広い意味で、「難民」を出したら一巻の終わりというのはあるのである。錯覚による個の出現やそれによる喧嘩は簡単に止まらないし、人が意見を持つ時の不可避的なプロセスでもあろうが、――極端な結果が生じてしまうと、人は人を許せなくなるからである。

対機説法の可能性

2018-05-17 23:22:39 | 文学


対機説法と言えば、『今昔物語集』の「比叡の山の僧、虚空蔵の助けに依りて智を得たる語」(巻十七、第三十三)が有名であろう。才能はあるのに、女ばっかり追いかけていた青年を、虚空蔵菩薩が絶世の美女に化けて「私と寝たいなら、法華経全部暗唱してこい」、「この仏典のここの解釈を答えよ」とか無理な要求をして、ついに彼を偉大な学僧になるまで教育してしまった話である。

だいたい、その女好きの青年も、途中でおかしいなと気付よ、と思うが、それはそれ、あまりに女性が美しすぎて、アクセル全開で勉強してしまったのである。

で、最後の最後で青年が気がつくと寂しい野っ原に転がされている。そして小僧さんがあらわれて「お前を化かしたのは狐や狸にあらず。あまりにお前さんが女好きなのでそうしたのだよ。これからもしっかり勉強してね」と言うので、ああ虚空蔵菩薩さまだったんだ、ありがたやー、というよい話になっている。

すごく美人の先生の授業を一生懸命受けていたらハーバードに入ってしまって、先生と一緒にアメリカに旅立とうと意を決して先生に告白しようとしたら、先生がいきなり仮面を外して「こんにちは、担任の渡邊史郎です。受験勉強お疲れ様でした」と言った、みたいな結末である。わけではない。渡邊史郎であったら、この女好き優等生、わたくしをぶん殴って終わりである。やはり虚空蔵菩薩が圧倒的にすごいという前提がなければこの話は機能しないのだ。

対機説法――現在でいえばいわゆる「個人に寄り添う系」であろうが、凡夫がやれるはずがないということであった。

水月観音みたいな美人像があまり日本にはないのが残念ですね……。悟りの境地というのはどこかしらエロティックが感じがするというのにね。