今昔物語集に、「僧、子を棄て母を助ける話」というのがある。ある法師が洪水の時、自分の母親と自分の子どもが流されているのをみて、子どもをはじめ助けたが、岸の近くまで来ると母親が流れてきて死にそうである。二人を助けたら自分もおぼれてしまう、生きていれば子どもはまたつくれる、母親はそういかぬ、と考えて、母親の方を助けた。法師の妻は激怒したが、法師は子どもをまた作りましょう、嘆くなよ、と言った。ところが、仏がこの心がけをあはれと思ったのか、下流で子どもが助かっていた、という話である。また、この話とよく一緒に紹介される話で――、子連れの女が山中で二人組の暴漢に襲われ、子どもを人質に渡して「ちょっとおトイレ」と言って逃げ出し、あとで武士と一緒に現場に戻ってみると、子どもが八つ裂きになっていたという話もある。武士は「美事に貞操を守ったな、あっぱれ」と褒めたという。
サンデルが流行っていた頃、ブレーキが壊れた列車がきりかえ線で左に行けば五人を殺す、右に行けば一人を殺す、さあどうする、という所謂「トロッコ問題」がちょっと話題になっていた。この話を聞いたときに、わたくしは、上の話を思い出した。
田島正樹氏も以前言っていたが、サンデルの提出した問題は、状況がおおざっぱすぎて本当は「現実の」問題になっているかどうか怪しい。それこそ、こういう問題は文学が扱うべきであって、ドストエフスキーなんか、明々白々の殺しなどについて、あれほどの長い説明をしなければならなかったのである。
ドスト氏に比べると、今昔の話は、仏や武士の一言みたいなのに救われるのが早すぎる気がする。仏ではなく売春婦、武士の代わりに女の夫にそのような言葉が言えるかどうか、それぞれの人物の人生からすると……、と延々迷い道に入り込んでいくのは大変であるが、現実はそういうものに近い。
われわれの世界は、ますますそういう煩雑な現実から逃走しトロッコ問題を前にして「決断せよ」みたいな世界になってきている。間違えたと思うのは、ドスト氏の小説を前にして、「答えはないよね、それぞれが解釈(決断)すればいいよ」みたいな映画上のやくざの鉄砲玉みたいな怠惰さが勝利を収めたことである。そうすると自分のルサンチマンを政治的な判断の根拠にしてしまうような人間が登場する。もしかしたら、ドスト氏にとっての聖書とか、今昔の仏などいったものは、そんな怠惰さを禁ずるための存在なのかもしれない。
日大のアメフト問題にしても、モリカケ問題にしても、善悪は明白なように見えるが、人間のやることである、まあいろいろあるはずである。それは、日大の監督や安倍を相対的に救うべしということではなく、事はいつもわれわれ自身と同様複雑かもしれないうことに過ぎない。権力者は必然的に発狂する、権力者の言葉はなんでも命令に変質してしまう、日本のあはれ中間管理職の切腹問題、といった定番の法則だけではなく――、人文科学的には様々なケーススタディになり得る事件だということは分かる。わたくしも、「まあ、安倍だし」とか「まあ日大の理事とかのあれだからな……」と思ったことは確かである。それに、自分の身近に起こっていることとそっくりなことばかりが政治やスポーツの世界でも起こっていることが、ニュースがものすごい勢いで炎上する理由でもあろう。しかし別のものでそのものを説明できるわけではないのも当然なのである。政治家や事件の当事者はいろいろ知っているであろうから何かをいわなければならないことがあるだろうが、外野のわれわれは慎重に判断する必要がある。それは、今度は逆に、自分の身近にも安倍や日大の監督を見出して読み間違う可能性を生み出す危険をはらんでいる。どこにでも、「馬鹿だから出世する」みたいな逆説が単純にある訳じゃなく、嘘の天才とか詐術の天才とかもいるからね……
以上の如き思考は、所謂「中立面したクズ」を生み出すことがあるので注意も必要である。なんでもかんでもトリアージを避けりゃいいうものではなく、実際、二者択一を民主制下で過激なまでに我々は行っている。が、それ以前に二者択一に対する「確信面」が多すぎる。政治は確かに建前の世界だ。しかし、その建前は、ドストエフスキーのあとにウェーバーを読むとかして得られる(ホントかいな……)のであって、井戸端会議で建前を吠える勢いで政治を語られても困る。
結論:「責任者」はごちゃごちゃ言わんとすべてをひっかぶれ。