★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

率直無垢な言葉と精神

2023-05-10 23:06:44 | 文学


松戸与三はセメントあけをやっていた。外の部分は大して目立たなかったけれど、頭の毛と、鼻の下は、セメントで灰色に蔽われていた。彼は鼻の穴に指を突っ込んで、鉄筋コンクリートのように、鼻毛をしゃちこばらせている、コンクリートを除りたかったのだが一分間に十才ずつ吐き出す、コンクリートミキサーに、間に合わせるためには、とても指を鼻の穴に持って行く間はなかった。
 彼は鼻の穴を気にしながら遂々十一時間、――その間に昼飯と三時休みと二度だけ休みがあったんだが、昼の時は腹の空いてる為めに、も一つはミキサーを掃除していて暇がなかったため、遂々鼻にまで手が届かなかった――の間、鼻を掃除しなかった。彼の鼻は石膏細工の鼻のように硬化したようだった。


――葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」


大正時代の文芸で心を打つものが多いのはいろいろ原因があるんだが、白樺にしても赤い鳥にも共通したきわめて率直無垢なトーンがあって、芥川にさえある。志賀直哉が一番すごくて、言葉が立っているように思えた。言葉が生き物のように精神を示していたのである。これはすごい世界だったし、ここに常に回帰するのが我々の文化の何かなのは認められる。プロレタリア文学だってその側面は大きいのである。――と思うけど、この率直無垢さへの回帰は強さでもあり弱さでもあるような気がする。芥川だって、雑に言えば、「白」とかの路線をひた走ることだって考えられたわけだ。が、この作品内部に作品世界の崩壊そのものが含まれているその全体も、芥川の心から出たもんだと思う。思ったほど作為的じゃないと思うのである。その後の作家たちの右往左往も時代への対応のための作為だったとは基本的におもわないのである。いろんな人がいるんでおおざっぱには言えないけれども、常に言葉通りに精神が生きるような事態は、その精神そのものによって崩壊してゆくのだ。精神は人間関係に属してもいるからである。この逆説を強引に「生きよう」とすると吉本隆明のように「関係の絶対性」の高唱から罵倒による孤立の維持に至る。思うに、吉本は猛烈な勉強家で実際はその勉強が生活だったから、これを生きることができたが、――そうはいかない人が多いと思う。