★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

水哉水哉

2023-05-24 23:15:26 | 思想


徐子曰、仲尼亟稱於水曰、水哉水哉、何取於水也、孟子曰、源泉混混、不舎晝夜、盈科而後進、放乎四海、有本者如是、是之取爾、苟爲無本、七八月之閒雨集、溝澮皆盈、其涸也可立而待也、故聲聞過情、君子恥之。

孔子は「水なるかな、水なるかな」と言っていたという。これは沸き上がる水源のようなものを指しているのだと孟子は言う。七月八月の雨でいっぱいになったとしても、水源がなければ涸れてしまう。実際以上の名声というものの儚さを言っているらしいのだが、――わたしは以前、坂口安吾をつかって、沸き上がる水のようなものは儚いところもあるんじゃないかな、みたいな論文を書いたことがあり、孟子のようには楽観的ではないのである。

もっとも、わたしはその頃、エネルギーみたいなものに頼った主体のあり方の崩壊を見ようとしていたのだとおもう。一番最悪な部分では「漢字力」とか「コミュニケーション能力」みたいなものであるが、これらすべて「力」の存在が源泉であり、それこそが怪しかったからである。当然のごとく、その後、そんなものがないと分かったので、こんどは人に力をもらう体のケアの世界が始まった。

最近、映画の『スマグラー』を見直したのだが、この原作や映画が作られた頃がちょうどわたしにとっては、力への懐疑の頃で、――わたしは、そこに九〇年代にあった団塊ジュニアたちの最後の青春を見ていたのかもしれない。だから、それらは老いの開始によって、なんの根拠もなく力を失う。ちょうど、安倍長期政権がそこら辺りから始まって、急激に彼らのなかの批判的知性たちも他罰的になり、みずからの拠って立つものをやや閑却してしまった。『スマグラー』の頃は、まだてめえでなんとかするみたいな空気が残っていたのである。