★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

彷徨い待つ人々の群

2011-03-31 04:26:10 | 映画


……がんばれ花束。

スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演の「ターミナル」観る。グロコージア連邦でクーデターが起こったので、入国許可が下り消され、JFK空港で何ヶ月も待たされてしまった男の話。難民は国境で待たされるわけだ。空港内でいろいろあって働いているうちに、周りで働いている連中も、どうやらもともと難民的な人々であることが判明。黒人やインドを追われた老人とかとか……。トム・ハンクスとロマンスになりかけるスチュワーデスの女の人も、世界中飛びまわっているうちに定住?できず二十年も違う男と関係をもちながら本命を待っている。やっとのことでターミナルを出てタクシーを拾うと、案の定運転手も、もともとどこぞの国からかやって来た人である……。実はトム・ハンクスは自分の父のためにジャズのサックス奏者にサインを貰いに来たのだったが、幸運にも生き残っていたその黒人プレーヤーももともとは……。移動することと待たされることは本質的に同じことのようだ。トム・ハンクスは「家に帰る」と最後に言うが、祖国もクーデターの後でどうなるか分からない。また、彷徨ったり待たされるかも知れない。スピルバーグの映画によくある、追われた人々、追いかけられる人々、彷徨う人々、がテーマであろうな……。いうまでもなく、スピルバーグの出自からそれは説明できるだろうけれども、問題はユダヤ人問題に限らず偏在する。中上健次がどこかでは偏在すると言ったように。今回の震災でもそれはどこかで生じるであろう。

「ゴッドファーザー」も移民の話だったが、シシリーマフィアの「ファミリー」の話だったから、仲間を守る、というポジティブな話なのだ。(といっても、そんなファミリーの倫理が崩壊していく話なんだけど。)暴力的という点で陰惨なのはこっちだが、「ターミナル」の方が本質的には悲惨であって、人々はちりぢりに彷徨うしかないという感じがする。表面的には仲良くやってるんだけども。トム・ハンクスの父も母国で死んでおり、彼が国に帰って仲間がいるかどうかは分からない。彼とスチュワーデスとは、移動と待つことが運命の彼らの必然として、やっぱり結ばれず。ジャズもかつてとは違い下火だ。そんなことをハートフルコメディのように描いてしまうことがむしろこわいっ。

結論:やっぱりこわいっ

〈外〉の愚連隊

2011-03-30 03:21:43 | 映画


やけくそ映画鑑賞。「独立愚連隊 西へ」。
前作とは別物だが、面白いことは面白い。加山雄三が独立愚連隊を率いている。独立愚連隊はもう死んだことになっている。それゆえ彼らは前作と違い軍隊の〈外〉にいるのではなかろうか。その象徴が加山雄三であり、軍旗より人命、大義より人間をとるという思想を体現している。そこを補強するのが中国人役のフランキー堺であり、最後、四面楚歌の独立愚連隊をやっつけたことにして去って行く。前作に比べてこれは明らかにファンタジーである。思うに、前作が批判をあびた監督や周りの人々が、相当妥協してつくったのがこの映画ではなかろうかと思う。ただ、加山雄三やフランキー堺の演技が嘘くささを感じさせないので、結局は面白くなってしまった。特にフランキー堺が、画面にでてきただけでなんとなく面白い。

独立愚連隊は独立せず、支援もされず

2011-03-29 08:50:02 | 思想


やけくそ映画鑑賞である。「独立愚連隊」。この作品はこんなとこでちょいちょいと評論できるものではない。鑑賞するのは二度目ぐらいだ。はじめは寝っ転がってみていたのだが、次第に机にへばりついて鉛筆をにぎりしめて臨戦態勢になった。ちゃんとしたw文学作品と同様、〈読み〉を行わないと真の姿を現さないと思わせる作品の場合は、こっちも気楽ではない。いまも考えている最中であるが、この作品は、戦争映画をユーモアで解放しているわけでもなければ、西部劇ふうなエンターテイメントでもないと思う。そもそもこの映画は〈戦争〉を描いていないかもしれない。もっと抽象的なものが思考されていると思うのである……。

まあとりあえず、岡本喜八の一連の作品が、戦争が大義とは何の関係もない代物であることを知らしめる効果を持ったことは確かであろう。だからこの作品の場合も、なんだか平和主義に抵触する好戦的な映画だと受け取った人達もいた訳である。軍国主義だけでなく平和主義も大義の一種だから、左も右も抵抗感を覚えるのである。

しかし、それはまだ作品の把握としては不満である。軍隊のなかの独立愚連隊というあり得なさそうな事態をえがくことでなされた逆説的リアリズムといっているだけのような気がするからだ。

私は、この監督のような戦中派の作品に対しては、おそらく、彼らが戦争が終わっても戦争が終わった気がしていないのを忘れないことが重要ではないかと思う。戦争の中で生きること、同調圧力の中で生きること、官僚制的な世界で生きること、といった、なにかの〈中〉で生きることという課題を想起すべきである。抵抗や反戦、リアリズムといった用語は、その〈中〉ではない〈外〉に立ちすぎていると私は思う。映画のなかで、独立愚連隊は、独立していない。

似たようなことであるが、明治維新や敗戦は、その後の発展のフラッシュポイントであったかもしれないが、そこで急激な変化が起こったと考えるのは、〈外〉に立つことである。今回の震災の前と後で何が変わったというのだ。確かに空気は一変したように感じるけれども、以前からあった問題が顕わになったり、それをもみ消そうとしたりしているだけではないか。

ところで、大震災の被災者にする「支援」という言葉が盛んに使われているけれども、教育学部に勤める者として、この「支援」には、やや疑問がある。いま「教育」や「指導」の代わりに「支援」を用いるのはかなり一般化しているようである。教育実習なんかでも学生が「よい支援ができましたね~」とか指導教諭に褒められているのを目にする。赴任当時、私は何を言っているかさえ分からなかった。(今でも分からんが……。)たぶん、教育の最終目的は教えられる側の主体性やニーズに基づくべきなのだから、教育は、訓導ではなく教えられる側の後方支援であるべきという哲学に基づくと考えられる。柔らかく言えば、教育とは、成長の手助けだということであろう。哲学としては分かるし、これまでの教育に関する様々な問題の帰結としても必然的な流れだと思う。ただ、この言い換えで発想の転換によって、教育者が子どもの実情に即した教育支援を行えるようになる、と考えるのはよほどの楽天家であろう。「手助け」の専門家だと自覚した人間がどのような能力の過信に陥るか、子どもにそもそも主体性やニーズは「ある」のか、教えることと教えられることに残る絶対的な権力関係の非対称性をどうするのか、などの問題が芋づる式にでてくるのを無視できる神経が教育者にあるとはとうてい思えない。忙しさのなかでそんなことを気にする間もないから、どうでもいいという感じもするのであるが、私が一番気になっているのは、もっと単純なことである。すなわち、「支援」の場合は、いざとなったらしてもしなくてもよいという言い訳が教育者支援者に許されてしまうのではないかということである。「教育」や「指導」の場合は、ある真理のパッケージを子どもに押しつけ終わるまではゲームから降りられない感じがするが、「支援」は、主体性やニーズに基づくから相手が望んでいなければやらなくても良さそうだし、他人に奉仕する意味ではボランティアみたいなもんだから、支援者が苦しくなったら止めてもよい感じがするのだ。私は、どうも教育現場には、このマイナス面が最近顕わな気がする。昔からだと思うが、ボランティア精神につきまとうナルシシズムは非常にやっかいなのだ。しかしこのナルシズムを持っている人間でないと教育現場は過酷すぎて精神的に持たない。だから、どうもそういうタイプが殊更選ばれて現場に送り込まれている気さえする。ところで、「上から目線」とか言われているものは、そのナルシシズムのことだと思う。支援だから「態度」は上からではないのに、「目線」が上からなのだ。この陰険さに人々が反発するのは当然である。しかし、この「上から目線」をやめようというのは、内面の強制だから、やめよと言われた方はこれまた反発する。自分はそんなつもりじゃないのに目線がそうなってしまうのだから、本人も大変だ……。だいたい教育だからある程度上からになってしまうのは必然である。それを消そうというのは、人間の本性を無視した議論である。「支援」が、たちの悪いきれい事になる必然性は確かにあるのである。そうならないために教育者は、ナルシシズムといった邪心を持たないレベルに──すなわち、子どもに近い純粋状態(←この想定があまりにも嘘であることは誰でも知っているが)に帰る必要があると思われるので、教育学部の学生は教育者への自覚を持つに従い、努力して子どもじみていく。

震災に関しても、「救援」とか「救済」と言っていた時代より、「支援」する人々がはやめにそこから降りるのではないか、と私は思ってしまう。あたかも日本全体が一つの教室になったかのようである。だとしたら、歴史の必然として(笑)学級崩壊はとめようがない。気分的に私はもう諦めかけているのであるが……。

恐怖のサヤエンドウ

2011-03-28 06:12:28 | 映画
 

右はがんばれ花束。

また地震後のやけくそ映画鑑賞であるが、油断してたら急に傑作に当たった(笑)昔これ見たはずなんだけど、いまみても面白かった。「ダーティ・ハリー」や「突破口」の監督のせいか、スピーディにためらいなく、人が宇宙人?にどんどんすり替わっていく。なにしろサヤエンドウの中にその人の複製ができて、本人が寝たらそれですり替わり完了なのである。こわいっ。サヤエンドウがぽんとはじけて、菌糸まみれの複製人間がでれんとでてくるところもこわいっ。この場面はほんの数分もないと想うが、こわいっ。今の映画だったら、ここら辺をだらだらと何回もCGをつかって描き、すり替わっていく人間の心理とか、宇宙人側の心理を細かく描いたあげく、観客が寝てしまい(←こわいっ)……ということになり、ある意味こわいっ。本人とサヤエンドウが物理的にどういう関係になっているのか……など説明が全くないところもこわいっ。主演の男優が、去年96歳で死んでいるところも、まだサヤエンドウから逃げてたんだ、あるいは、もう別人だったから長生きしたのかと無駄な憶測を呼ぶところもこわいっ。ヒロインが美しすぎてこわいっ。リメイクの「SF/ボディー・スナッチャー」の「SF」の文字がなぜかこわいっ。そこで主演をしているドナルド・サザーランドの顔がどの映画でもこわいっ。「ウルトラセブン」の「狙われた街」って、この映画のパロディかもしれないし、そこにでてくるメトロン星人をよくみたら、サヤエンドウの形しているのでこわいっ。

結論:こわいっ。

春の心はのどけからまし

2011-03-27 08:55:28 | 文学



春が来た予感


あっち向き




あっち向き


こっち向き


災害の時だからこそこんな歌はどうだろう。

世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世に何か 久しかるべき

どうも、話が噛みあっていないようであるな……。いずれにせよ、災害の時にかかる歌は役立たずである。

美男美女と美意識

2011-03-27 04:55:54 | 映画


やけくそ映画鑑賞である。「ロケッティア」である。三〇年代、背中にロケットをつけて飛びまわる技術をナチスとアメリカが競争していて、ちょっぴり成功していたアメリカの技術を、ハリウッド男優(←実はナチスのスパイ)が盗もうとする。そこに巻きこまれたしがない美男美女が闘う話。最後は、ギャングとFBIが団結して、なぜかアメリカに来ていたナチスの方々を虐殺。……で、そのハリウッド男優であるが、ティモシー・ダルトンがやっている。そういえば、ロチェスター様とかジェイムス・ボンドのお方ではないか……悪役なのに美男過ぎる。すなわちこの方、イギリスの俳優なんだが、この配役は無理にやってるのか?……。こんな役はアメリカ人ならやりたくないからなっ。ハリウッドでスパイ探し……と。言うまでもなく、ハリウッドではこの話題は生々しすぎて、これはなんとも。それはともかく美女は、ジェニファー・コネリー……。懐かしい。美男は……お前誰?

……あれっ?結構面白かったぞ……。

右は、レベッカ・ソルニット『災害とユートピア』。ちょっと読む。大地震や台風といった災害に襲われたときに一時的に相互扶助的なユートピアが出現したという報告。私はこれは「ユートピア」ではないと思うけど……。私が興味を持つのは、それを「ユートピア」と感じる人間の美意識の問題である。小田嶋隆が日経ビジネスのコラムで、相撲の八百長問題に触れ、「法令の遵守は、罰則による威圧や、社会的な強制よりも、美意識によって達成されるべきだ」と言っていたが、私もそう思う。もっと言えば、法の遵守はもともと美意識が保たれていなければ達成されないのではなかろうか。どこぞの会社でも大学でも法の遵守を徹底しようとかトップが呼びかけるわけだが、効果があるのかは分からない。寧ろ反作用の方が心配である。法を守れと言っている人間は、だいたい無理に言ってるせいか、「悪い」顔をしているので、聞いている方は、美意識を傷つけられるのである(笑)。そのことによる鬱屈をなめてはいかん。こらえきれる度合いは人それぞれだ。

この映画の素晴らしさは蟻えない

2011-03-26 07:18:52 | 映画
やけくそ映画鑑賞である。今日は朝っぱらから「GiAnts」である。

といっても、ジェイムス・ディーンのあれではない。

邦題は、「アース・トゥルーパーズ 地球防衛軍vs巨大蟻軍団」である。もうこの時点で傑作でないことは確実である。監督は誰かと思ったら、デヴィッド・ヒューイである。映画ファンのなかで、この時点で絶望感以外のものを感じるとしたら、B級マニアか、「風と共に去りぬ」は史上最低の映画だと言い切る勇気のあるタイプであろう。知らない人のために言っておく。彼は(これも全く見る必要はないが)「ダイナソー・ファイター カンフーvs巨大恐竜」の脚本を書いた人である。

もう物語の概要を述べる気にすらならないので、次のページなどを観て下さい。

http://kakipyi.fc2web.com/4th/giants.html
http://finalf12.blog82.fc2.com/blog-entry-25.html

先日の「ごくせん」が腐ってもプロの仕事だと分かる作品である。しかし、申し訳ないが、作品の心意気は、こっちの方が上だと思う。「ごくせん」は途中で寝ても意味が分かるが、こっちは一瞬でも寝たら意味が分からない。その代わり最後まで観ても意味が分からない。あ、そうだ、昔、安達何とかという子役が着ぐるみの蜥蜴とおどっている映画があったよね、「ジュラシック・パーク」と同じぐらいの時期に。「七人の侍」と「楢山節考」で日本は映画大国だと勘違いしていた映画好きにとって、やはり日本はヘタレ以外の何物でもないと自覚させられた出来事であったが、その「REX 恐竜物語」(←言うな)よりも「アース・トゥルーパーズ 地球防衛軍vs巨大蟻軍団」(長いので上をコピペしました)の方が遙かに面白いことは確かなのである。ヒューマニズムに溢れてるし。「REX 恐竜物語」(コピペしました)で、心が優しくなったとか泣いたとか言う人間が確実に冷血漢であるのと対照的である。

ゲバルト時代の帰趨

2011-03-26 02:55:50 | 思想


アーノンクールのモーツアルトを聴きながら、中野正夫氏の『ゲバルト時代』を一気に読む。日大闘争の時に、デモ行進していたら地面が波打った、という描写など、とても躍動的である。あとは、民×他、セクトのリーダーの馬鹿さ加減であるとか、性的な好き嫌いで決まる派閥だとか、──要するに、観念的新左翼の「実態」を暴露する本である。中野氏の世代は、ちょうど60年代の終わりに青春真っ盛りで、浅間山荘事件になだれ込んでいく運動を経験している。私はこの時期に生まれているので、当時の雰囲気は知らないが、左翼文学の研究者(笑)として、とても興味深い時期だと思っている。私は中野氏の著作をとても面白いと思うし、どんどん暴露してくれ、と思う。まだまだ、いま偉そうなことを言っている元ヘタレ運動家の過去を暴いて頂きたい。

とはいえ、中野氏の著作自体の意味を考えると、そう事は簡単ではないと思う。私が思うに、当時の学生が不満を持った様々な封建的制度はそこここにあったし、運動も起こる必然性もあったのだが、七十年代の運動は以前の運動の「超克」を目指す「心的」運動である側面が強いと思う。そうすると運動自体の根拠が理屈以外に必要なのだ。しかも、この時期のマルクス主義の議論は、良くも悪くも学生がすぐさま理解できるほど簡単ではなくなっていた。吉本隆明の共同幻想論や岩田弘の世界資本主義論とか……、猛烈に勉強しなくては、あるいは勉強しても理解は難しいのだ。「共産党宣言」や「ドイツイデオロギー」とともに一気に彼らはそれらの著作を押しつけられた訳で、高校生や大学生はもはや頭がパンクしてしまう。そうするとどうなるか。彼らの運動は、実際のところ、「理論的にはよくわからんけど、なんか権威には腹が立つ」とか、「権力の犬を殲滅せよ」とか、そういう感情的には当然の、しかも幼稚なところに根拠が過剰に置かれることになり、それでも理論に対するコンプレックスはあるから、口が達者でオーラだけがあるタイプ(今でもいるよな、こういうやつ。学会で何やらしゃべりまくってるようなやつ。)に吸引されていく。――で、セクトの発生であるが、それはほとんど動物的な何かである。中野氏の描写しているのは、結局そういうことではなかろうか。私は、どうしてこの時期の運動が、自らが「運動」体──つまりは動物的なそれである──であること自体に意義を見出していったのか疑問であった。無論、今に続く大学行政のひどさや戦争や労働運動への複雑感情や「一度は民主主義を自分たちで」という意識など、様々な必然性というものはあったであろうが――、中野氏の展開する観念論批判、すなわち所詮人間は動物にすぎなかった、といった書きぶりは、この時期の運動の内実を暴露するだけでなく、そもそも運動の原動力でもあったのではないかと思うのだ。比喩的にいえば、モラルの底も、観念の底も抜けているのが、この時期の運動の密かなエンジンではないか。中野氏が反省するまでもなく、はじめからそうなのではないか。その意味で、中野氏はまだ運動の内部にいる。

私の師匠の世代には、こうした底が抜けた感覚を有している学者が多くいるように思う。だから非常に、底まで戻って考えようとする誠実な学者がいる一方で、学者なのに、上記の知的コンプレックスから、「学問」に「学生」や「大衆」を対立させたがるタイプもいる。たぶん「改革」オタクや「わかりやすさ」オタクがそれである。彼らが手段を選ばずその「改革」とやらを行った結果、ある種の大学や学会は知的な雰囲気がどんどん失われてしまった気がする。素人や市民(のクレーム)を無条件に恐れるので、たまたま権力にありつくと、安全運転するために検閲が大好きになってしまう。こういうタイプは大して追い込まれていなくても手段を選ばずというやり方に慣れており、まったく何をするか分からないので、若者は過剰に防衛的に社交辞令的になってしまった。もはや、真理の追究より権力を優先してるんだからしょうがない。――いや、まったくしょうがなくない。ここまで書いてきて思ったが、やはりその運動至上主義には、権力志向のやつがはじめからかなり混じっていたと考えなければならない。人間、変節は簡単だが容易には転向できないものである。

私は、オタクの方々の発散する「動物的な感じ」も、かかる事情と関係があると思う。彼らは運動が禁止されているから、デカダンスしてるだけなのだ。そして、改革を夢みながら、観念と自分の肉体が限りなく遊離している感覚を有するから、何もできない。彼らが、言行一致のきっかけを掴んで一気に街頭に流れることはありうることである。

ところで、アーノンクールは真の改革者だったか?

「ごくせん」大研究

2011-03-25 04:37:47 | 映画


昨日は卒業式でした。
これで四年間のいやな思い出を忘れることができる。なかったことにできる。良く悪くも過去の賞味期限は短いと考えるべきだ。そう思えるのが若さの特権だ。

……というわけで、教員になるかも知れない諸君に、この前観た糞映画教育映画「ごくせん THE MOVIE」の感想を述べて縁切りのはなむけの言葉としたい。

「ごくせん」は、ある極道の娘(ヤンクミ)が、ある底辺高校の教員となって、生徒たちを言葉と暴力によって「自分の教え子」として訓導して行く話である。仲間由紀恵と生瀬勝久でもっている映画で、のみならず、生徒たちに関しても、俳優の育ちの良さがでてしまっており、どう考えても本当のアホやワルに見えないところがいかん。ダルビッシュとか星野監督を生徒役にした方がよかった。以下は、私が一生懸命考えた、この映画からの教訓である。

一、ヤンクミはなぜ、最終的に悪ガキたちを統治できるのか。それは生徒たちがいうように「こんなにまっすぐにぶつかってきてくれる先公はいねえ」からではない。生徒たちより喧嘩が圧倒的に強く、ヤクザの娘のボス猿として成功したからだということを無視してはならぬ。これが分からないのは悪ガキたちの頭が悪いからである。最終的に問題なのは、教員が生徒の実力をどれだけ上回っているか、だ。我々の世界が、金八先生の人情話とは根本的に違う世界になっていることを忘れてはならぬ。

一、ヤンクミはなぜ、最終的に悪ガキたちを統治できるのか。ひとりひとりを「支援」(笑)しているからでは必ずしもない。映画の中で「おまえら」という呼びかけを何回ヤンクミがしているか知っているか?俺も知らんが、かなり多い。ひとりひとりが違うということにこだわらない方がよいときもある。「おまえら」という呼びかけの方が心に響くときだってあるのだ。

一、ヤンクミはなぜ、最終的に悪ガキたちを統治できるのか。この物語はフィクションである。

一、ヤンクミは高校の教員採用試験に受かっているどうみてもエリートである。この物語はフィクションである。

……卒業生のみなさんに多くの幸がありますように。その前に私に幸がありますように。

悪夢

2011-03-23 23:15:52 | 大学


センター試験を受けている夢を見た。

いざ問題用紙を開いてみると、解けない問題ばかりである。まず問題文に何が書いてるのか分からない。「であるから」「そして」ぐらいは書いてあるから、日本語だとは思うが、まったく理解できない。そして問題文の最後が「である。」で終わっている。これは問なのか、何なのか。

最後のページから最初のページにかえってみると、白紙になっていた。めくっても白紙しかない。私はつい手を挙げてしまった。試験官が眉間にしわを寄せながらやってきたので、机の中をさぐると、なにか沢山入っているのだ。それが一気に足下にあふれ出してしまう。私は、それを必死にかき集めようとして、頭を机にぶつける。机の上を見ると、問題用紙も鉛筆も全てなくなっていた。

私は試験監督に腕を掴まれ廊下を歩いて行く。教室の窓から、学帽をかぶった大学生がこちらをみていた。教壇には袴姿の教官がドイツ語をしゃべっている。

階段を降りながらはやく躓かないかと思った。


鉄と鋼

2011-03-22 23:39:23 | 音楽


ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮、ドイツ放送フィルハーモニー・ザールブリュッケン・カイザースラウテルンで、プロコフィエフ交響曲第2番の演奏を聴きました。この曲は、中学校の時、FMのモノラル、雑音混じりの演奏ではじめて聴いた。もうそれは最初から砂嵐の中で爆音が鳴っている感じであった。第二楽章になると、砂嵐しか聞こえなくなった。しかし、今回の演奏はゆっくり目のテンポでとても美しかった。所謂「鉄と鋼でできた交響曲」と呼ばれる曲だが、もう鉄と鋼のイメージはプロレタリア文学の時代とは違うのかもしれない。ロジェストヴェンスキーのなかでも、鋼鉄は、油と火花が散るタービンではなく、集積回路のようなものになってしまったのかも知れない。

今回の大震災の映像をみると、鉄と鋼のありようは、関東大震災の時と大して変わらないように思えるのであるが……。



悪夢よはやく覚めておくれ

2011-03-20 17:27:09 | 映画


やけくそレンタル映画第二弾は「アウター・ゾーン」である。はいそうですか、頭文字でOZですね。「オズの魔法使い」です。原題は、「Tin Man」(ブリキ男)……。また邦題をつくった人はつまらないことを……。

したがって、だいたい「オズの魔法使い」みたいな話であった。田舎町でウェイトレスをいやいややっている職業差別主義者の少女(DG)は、ときどき妙な夢を見る。というか、「私はこんなところにいる人間じゃないの」と思っている勘違い夢見る少女である。ある夜、竜巻にさらわれ夢とそっくりなアウター・ゾーン(OZの国)へ。この国が彼女の本当のふるさとであった。(妄想を現実と取り違えました。もうこいつはおしまいです。)そこでは世界征服をたくらむ勘違い女王がいて、実はこいつ、DGの姉。昔、妹が冒険と称して洞窟に入っていったのに無理矢理付き合わされたら、そこに魔女がいて、妹は要領よく逃げたのに、一緒にいたやや鈍くさそうな長女の彼女は魔女にとりつかれてしまったのである。つまり全ての発端はこの勘違い妹DG。DGはブリキ(の中に閉じこめられていた)男や、脳を抜かれても生きている男や、ライオンみたいな超能力者を勝手に従え、なんかの鉱物を探しにでかける。この鉱物は姉も狙っており、これを日食の夜持っているとなんかいいことがあるらしいのだ。たぶん世界制服(永遠の闇とかなんとか説明があったみたいだが、わたくし、たぶん5分間ぐらい寝ていたのでよく分からなかった)。で、いろいろあってついには、妹が姉に妙な歌を歌いながら「ごめんごめん。私もう逃げない」と、あやまってんのか、ナルッてるのかよくわからないが、とにかく魔女に勝つ。で、最後は一家揃って万歳!終劇直前のDGのせりふ「わたしこの風景観たことあるわ。帰ってきたのね!」。お前は今頃気づいたのかっ。というか、はやく夢から覚めて下さい。蝉蛻してください。お願いします。

で、「オズの魔法使い」ってどういう話だったっけ

よくみていたら、「未知との遭遇」の最後に宇宙船に乗ってどこかに行っちゃったドレイファスという俳優が、シャブ中の魔法使いとしてアウター・ゾーンに行き着いていたことが判明。今回の主人公も「自分のいる場所はここではない」という勘違いタイプだから当然だろうね。アメリカでは現実逃避するとOZの国に行くらしい。

というわけで、また一生懸命よいところを探しているのである。

あっ、いいところを見つけたぞ。

……DGのお母さん役が美人だった。

(追記)なんの映画をみても、大震災や原発事故を譬えたもののように見えてきてしまうのはいやであった。