
近代戦では国防と科学とは切り離し得ぬものと一般に信ぜられているようであるが、自分の考えは少し違う。国防に必要なのは科学ではなくて科学者なのである。科学と云っても範囲があまり広すぎるので、念のために物理学に限定して考えてみるに、例えばマルコーニの無線電信の発明でも、電波の存在はヘルツによってずっと前に発見され、受信機のコヒーラーにしても、彼以前に数名の物理学者によって既に研究室の中では用いられていたのである。
それを実用に供したマルコーニの偉業は、彼の科学的知識に負うよりも、彼の科学者としての「人」によった方が多いように私には思われる。フレミングのような学者を顧問に迎えたり、無線電信の権利を早く取って置いたりしたようなこと、それよりも大切なことは如何にして研究を進めて行くかということをよく知っていた点が、無電の実用化を完成させたのである。
その意味で、国防に関係ありそうな純学術的の研究の発表などをあまり気にする必要はなかろう。国防に必要なのはその研究業績ではなく、それをなした研究者自身なのである。その点はとかく間違われ易いのである。研究の発表はその学者の頭を豊かにする一つの方法で、その上ギブアンドテークの原則で、外国の学者の研究を吸収する上にも必要なのである。
科学の精華は花である。花は古来腹の足しにならぬものと決まっている。間に合うものは科学者の方なのである。
――中谷宇吉郎「国防と科学」
われわれが国防に対し、人間ではなく、手段として何か学問とか科学とかに頼ろうとするのは、別に、主体性とやらがないからではない。明治以降ずっとそんな感じであった気がする。第二次大戦の時の、大和魂とか科学精神とかはセットになっているのは当たり前であって、その実、主体と関係がない手段だからである。ほんとは目的もないのだが。いまで言えば、受験勉強の類いと一緒である。それは根本的には、政権がいつからか政治家でも軍人でもなくヤクザの親分=地主みたいな者だからではなかろうか。政治家や軍人は思想によってできあがるしかない。しかしヤクザの親分は主体に思想的根拠がなく、腹が膨らむという自らへの優しさが目的そのものだ。学生運動の時代にそれが気づかれて、左翼たるものヤクザ的に行くしかないんだ、みたいな人たちがでたことがある。科学者はほんとうは業績を生み出す手段ではなく、思想的存在であるべきであった。
われわれはまだその意味で動物的である。米が買えない、食料が足りないみたいなことをまったく予期していなかった人はあまりいないと思う。資本主義の右往左往のなかではありうることで、資本主義は動物の嗅覚だけには沿って展開する。昨今のこの事態に対応するために、われわれは人口減少をやってきたのかもしれない。我々は、自分の子どもが生きていける環境であるかどうかを生物として匂いをかいでいる。金の問題と言うより、匂いがキツそうだったらやめとくと。あと、我々が子孫を残そうとするのは、内側から来るものでなく、蛙とか蛾などがそうしているのを真似て、というか、対抗してみたいな理由もありそうだ。
かつて水を買うということで我々はびっくりしたが、かつては野菜とか米は政治家でなくても、物々交換みたいなやり方でやりとりされている現実があった。いまでもあることはある。そういう時代がまたやって来ている。そして我々は永遠に動物である。