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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

科学者としての「人」

2025-05-21 19:49:28 | 思想


 近代戦では国防と科学とは切り離し得ぬものと一般に信ぜられているようであるが、自分の考えは少し違う。国防に必要なのは科学ではなくて科学者なのである。科学と云っても範囲があまり広すぎるので、念のために物理学に限定して考えてみるに、例えばマルコーニの無線電信の発明でも、電波の存在はヘルツによってずっと前に発見され、受信機のコヒーラーにしても、彼以前に数名の物理学者によって既に研究室の中では用いられていたのである。
 それを実用に供したマルコーニの偉業は、彼の科学的知識に負うよりも、彼の科学者としての「人」によった方が多いように私には思われる。フレミングのような学者を顧問に迎えたり、無線電信の権利を早く取って置いたりしたようなこと、それよりも大切なことは如何にして研究を進めて行くかということをよく知っていた点が、無電の実用化を完成させたのである。
 その意味で、国防に関係ありそうな純学術的の研究の発表などをあまり気にする必要はなかろう。国防に必要なのはその研究業績ではなく、それをなした研究者自身なのである。その点はとかく間違われ易いのである。研究の発表はその学者の頭を豊かにする一つの方法で、その上ギブアンドテークの原則で、外国の学者の研究を吸収する上にも必要なのである。
 科学の精華は花である。花は古来腹の足しにならぬものと決まっている。間に合うものは科学者の方なのである。


――中谷宇吉郎「国防と科学」


われわれが国防に対し、人間ではなく、手段として何か学問とか科学とかに頼ろうとするのは、別に、主体性とやらがないからではない。明治以降ずっとそんな感じであった気がする。第二次大戦の時の、大和魂とか科学精神とかはセットになっているのは当たり前であって、その実、主体と関係がない手段だからである。ほんとは目的もないのだが。いまで言えば、受験勉強の類いと一緒である。それは根本的には、政権がいつからか政治家でも軍人でもなくヤクザの親分=地主みたいな者だからではなかろうか。政治家や軍人は思想によってできあがるしかない。しかしヤクザの親分は主体に思想的根拠がなく、腹が膨らむという自らへの優しさが目的そのものだ。学生運動の時代にそれが気づかれて、左翼たるものヤクザ的に行くしかないんだ、みたいな人たちがでたことがある。科学者はほんとうは業績を生み出す手段ではなく、思想的存在であるべきであった。

われわれはまだその意味で動物的である。米が買えない、食料が足りないみたいなことをまったく予期していなかった人はあまりいないと思う。資本主義の右往左往のなかではありうることで、資本主義は動物の嗅覚だけには沿って展開する。昨今のこの事態に対応するために、われわれは人口減少をやってきたのかもしれない。我々は、自分の子どもが生きていける環境であるかどうかを生物として匂いをかいでいる。金の問題と言うより、匂いがキツそうだったらやめとくと。あと、我々が子孫を残そうとするのは、内側から来るものでなく、蛙とか蛾などがそうしているのを真似て、というか、対抗してみたいな理由もありそうだ。

かつて水を買うということで我々はびっくりしたが、かつては野菜とか米は政治家でなくても、物々交換みたいなやり方でやりとりされている現実があった。いまでもあることはある。そういう時代がまたやって来ている。そして我々は永遠に動物である。

From the bells, bells, bells, bells,

2025-05-20 23:13:50 | 思想


先づ最初にあの主としてフィレンツェを中心にする市民達、古代の事物に携はることをその生活の主目的とし、或は自ら大學者となり、或は大好事家として學者を後援した人々が吾々の一顧に値する。彼等は殊に十五世紀初頭の過渡時代にとって極めて重要な役目を勤めた、何となれば彼等の間に於て始めて人文主義が實際に日常生活の必要要素として役立てられたのである。彼等の背後を追うて始めて君主や法王達が真面目に之に携はるやうになった。
 ニッコロ・ニッコリやジャンノッツォ・マネッティに就ては既に屢々之を述べた。ヴェスパシアノによれば、ニッコロは、身のまほりの物に至るまで何一つ古代情調を傷つけるやうなものを我慢し得なかった男として描かれてゐる。素晴らしい古代の遺物に充ちた邸の中で、親しげな話方をする長衣を着た美しい風は極めて特異な印象を人々に興へた、一切の事について並はづれた潔癖家で、殊に食事の際にそれが甚だしかった、即ち彼の前には此上なく純白なリンネルの上に、古代の瓶や玻璩の盃が並べられた。 彼の感覺は非常に精煉されてをつたので、驢馬の嘶く音や鋸の削り、捕鼠器の鼠がキューキューいふ等を聞くに堪へなかった。


――ブルックハルト「伊太利文藝復興期の文化」(村松恒一郎訳)


すでに三〇度を超えているわが高松であるが、扱いからと言って文化を諦める訳にはいかぬ。上のニッコロのように、驢馬や鼠が暑さでひっくり返っているのを横目に、我々は妄想に集中すべきだ。三〇度を暑いと感じるのであれは、意味を変えればよい。三〇度を、――真冬に可愛い彼女とおててつないだら凍傷になったので訴えたら殴られましたという意味、――に変更しよう。

すなわち、もうすでに暑さに参っている訳だが、頭がぼけているよりも体がぼけている。昨日、ついに、昔の新聞の写真がよくみえないので、親指と人差し指で拡大しようとしたけど、私はまだ生きている。スマホと酷暑の二刀流で人類は全滅する。

寒い国は、我々がつい妄想への疲労を花鳥風月でごまかしているのに対し、さすがである。例えば、ポオの「鐘」から合唱交響曲をかいてしまうラフマニノフである。今生きていたならば最果タヒから大交響曲を生成しかねない。


   HEAR the sledges with the bells --
   Silver bells!
  What a world of merriment their melody foretells!
   How they tinkle, tinkle, tinkle,
   In the icy air of night!
   While the stars that oversprinkle
   All the heavens, seem to twinkle
   With a crystalline delight;
   Keeping time, time, time,
   In a sort of Runic rhyme,
  To the tintinabulation that so musically wells
   From the bells, bells, bells, bells,
   Bells, bells, bells --
   From the jingling and the tinkling of the bells.

当事者批評としての研究=者

2025-05-17 23:09:20 | 思想


そして手の榴弾が裂けるとき、
われらのこころは胸でほほ笑む

 またえらく流布したパンフレットの類では、かれらは生命を超越して、死を茶飯事のように語る英雄として描かれている。鉄かぶとはかれらの一部となって、目は死に会釈しながら笑う、といったわけだ。 「屈辱と哀願とから跪き、天にまします神さまに救いを乞う」、そんな者には、とても考えられない。戦士は盃を飲みほして、余すところがない。聖餐盃が口から離れることを祈る者はいない。それどころか、かれらは進んでこの盃を手にしようとする。「必然という名のものは、すべて善いのだ。かれらはこのことを知っているからだ」。「縛られ処刑される同胞たちが、辻々に並べられる。そうした異様な時代の怖ろしい十字架」に代わって、祖国のために斃れた兵士たちの像が建てられよう。 ローゼンベルクは、そういう時代の到来を告げている。


――カイヨワ「戦争――国民の命運」(『聖なるものの社会学』)


いま澤西祐典「貝殻人間」を演習で精読しているが、教育的には、現代文学だから読める筈みたいな幻想を粉砕することが目的である。この小説でも感じられることであるが、現代人においては、仮面や演技の概念が一元化しておかしくなっているのはある。それは、もしかしたら、死を茶飯事のように語ることよりも、ロボット的なのである。

例えば、仏教作家=村上春樹説はすでに展開されているけれども、破戒小説をかくもたくさんの衆生が読んであれですか、みんな地獄ゆきだと思わざる得ないわけだ。しかし、小説を論じている方も、仏教を論じている方もそうはおもわない。考えることすらも演技とかしている可能性があるのである。

昨日は日本比較文化学会の全国大会で、横道誠氏に直接お目にかかった。氏のご発表の「当事者研究と当事者批評」は、氏の思想家並びにアクティビストとしての学術的背景を端的に説明されていた。今更言うまでもなく、すごく感情的な反射神経と論理的な反射神経がバランス良く備わっている人であった。学生に聞きにくるように言えばよかったと思う。ところで、日本比較文化学会というのは不思議な学会で、文化ならなんでもいいというか、横道氏の前の発表は、旧茨城県庁の建築についての発表であった。研究の「当事者批評」性――我々にとって、文化的なものがいかに当事的であるのか、つまり、我々は本当は何をすべきなのか、という問いを棄てたら終わりなのだ。ジャンルを越境するとか言っている人は当事者ではなくただの旅行者か商人である。当事者はすべきことをしていろいろな事をするだけだ。

罪はいつも減速せず

2025-05-13 23:45:13 | 思想


すなわち、科学は、潜在的なものを現働化させることができる或る準拠を獲得するために、無限なものを、無限速度を放棄するのである。哲学は、無限なものを保持しながら、概念によって共立性を潜在的なものに与える。ところが、科学は、無限なものを放棄して、潜在的なものに、その潜在的なものを現働化させるような或る準拠を、ファンクションによって与える。哲学は、或る内在平面あるいは共立性平面をもってことに当たり、科学は、或る準拠平面によってことに当たるのである。科学の場合、それは〔映画の〕ストップモーションに似ているところがある。それは或る不思議な減速であり、減速によってこそ、物質は現働化し、またそればかりでなく、命題によって物質を洞察しうる科学的思考もまた現働化するのである。 ファンクションというものは、《減速された》ファンクションなのである。

――ドゥルーズ=ガタリ「ファンクティヴと概念」(『哲学とは何か』財津理訳)


毎年、わたくしの庭の檸檬の葉を食いに来ているキアゲハの幼虫たちを虐×したが、ドルゥーズとかガタリとか、科学がストップモーションみたいだとか言う前に、私にみたいに体のファンクション自体を作動させ昆虫を×した罪を背負って生きるべきだ。罪は減速したりしない。罪は既にそこにあるか永遠にある。確かに無限にはなさそうだが、人間には罪が似合う。

田邊おしゃべり元

2025-05-12 23:57:14 | 思想


併し絕對無が飽くまで否定媒介的であることは、必然にそれが自らの否定たる有を契機として含み、行爲的還相が直接存在の無媒介的有に固定せられる傾向を伴ふことを意味する。その限り絕對無は有無の對立緊張を含むのである。併し實存哲學の場合に於ける緊張の静力學的平衡が具體的現實なのではなくして、行爲の動力學的轉換が絕對現實なのである。こに歴史の意味があり、歴史的實踐に苦難郎感謝の自己存在があるのであつた。緊張はその抽象面に外ならぬ。歴史が單に平衡緊張の連續的推移でなく、同時に危機革新の非連續的飛躍たる所以である。實存哲學の諦觀に對する、絶對無の哲學の實踐的殉難即淨福がそこに成立つ。ヤスパースが用ゐた「愛なる戰」 liebender Kampfといふ意味深き語は、實存哲學に於てよりも寧ろ絕對無の哲學に於て能くその意味を發揮するといふべきではないであらうか。


――田邊元「実存哲学の現界」


授業授業会議と四時間以上喋っていたのだが、田邊元も根本的に饒舌である。

エリートたちの整斉と庶民のスキャット

2025-05-11 23:09:34 | 思想


 戦後には、1960年の安保反対闘争時に、東京大学文学部の学生であった樺美智子さんが国会議事堂前での警官隊とデモ隊との衝突時に命を落としました。1969年の安田講堂の学生排除は、それ以前に東大以外にも広がっていたベトナム反戦運動を前史としていましたが、直接の発端となったのは医学部であり、闘争の素地は理科系学部にも広がっていました。
 東京大学の反権力性や学生運動については、おびただしい数の研究や資料がすでに存在しますので、それらをここで掘り下げるにはとても紙幅が足りません。確実に言えることは、時代状況に応じて現れ方は異なっていても、学術的もしくは選良としての東京大学の教員や学生のプライドが、時にこうした反権力的な行動となって繰り返し表出されてきたことです。


――本田由紀「序章 「東大卒」は日本社会の何を映しているのか」


本田由紀編著の『「東大卒」の研究』をすこし覗いてみた。東京大学卒の人は注目されていることもあって、そこそこイメージもあるしそのイメージの崩壊も世間のなかにあるようなきがしないではない。が、例えば「北海道教育大学卒の研究」とか「都留文科大学卒の研究」とかはきいたことはない。東大卒も社会と同じく社会問題においてはそこそこなのだ。逆に地方大の個々のイメージのなさの方が最近は問題である。東大は頂点だから何か特色があるようにみえるだけで、それは他の大学が偏差値に置換されていることの裏面なのである。

ちなみに、学生運動は東大解体とかなんとか解体とやってるだけあって、派手なことやらかした大学が大学名を売ったという側面がある。たとえば、東大闘争よりも日大闘争の方がちゃんとしてた、みたいなイメージの創出である。それを上のように、「プライド」が「反権力的な行動」となるみたいな観念で把握することこそ東大卒を論じようとする者の特色である。

日本の近代文学で武のわかった人というのは森鷗外一人で、[…]ですから自衛隊でいまだに吉川英治ばかり読んでいるのです。ぼくは、あんな三流文学を文学だと思っていると、もしあなた方が言論統制をするような世の中になるとえらいことになるぞといってからかう

――三島由紀夫「尚武の心と憤怒の抒情」


東大卒という括り自体に意味はないが、三島や鷗外が東大を出たことには意味があった。吉川英治を三流とやじったり、自然主義を馬鹿にしたりするのに、彼らの圧倒的な自意識が必要だったのではなく、整斉への意識が違うのだ。

彼らの文学というのは、ショルティとシカゴ交響楽団のブラームスの交響曲第1番みたいなもので、つい静座して聴いてしまう。テンパニが管弦とちゃんと整斉して溶け合っている。

これに対して、きちんとものを整えられない一般大衆は、 やることがなかなか整わないのでイライラする。で、鼻歌でも歌いたくなるわけだ。いまは鼻歌を歌う前に、自宅に帰るというてがあるが、むかしはそうもいかなかったので歌ったのである。そういえば、むかしのロボットアニメの歌にでてくるスキャットというのは、植木等の歌う「ドント節」みたいなニュアンスがあるのかも知れない。それで辛うじて軍歌ならないのだ。それはともかく、いまやJPOPにおいて辛気臭い個人的ソングがあふれているから、若人が労働しなくなっておるぞ。我が国では「ごますり行進曲」みたいなものがプロテスタンティズムのかわりなのであろう。

授業のために、80年代の『海』に載ったロラン・バルトの音楽論を読んでみた。ちゃんとしていた。いま読むと当時はよく分からなくて読んでた人が多かったんじゃあないかと思うところがある。浅田彰にしても、なぜそんなにバルトを読んで嬉しかったのかよくわからない。たぶん、ウンベルト・エーコにしてもバルトにしても、当時の前衛音楽がスキすぎてなにかそれらを扱った箇所だけ何かに「勝った」感がでてしまっているからかもしれない。受験にしても論議にしても、勝つことは大した意味を持たないだけでなく、不幸を生むことが多い。

「無頭の怪物」の復興策

2025-05-08 23:23:56 | 思想


ネグリ=マキャヴェッリの「絶対的統治」は、力量ある人物による自由の再建という選択肢を 「ありえない」ものとして退けるとともに、「多くの危険と多くの流血」の道を偶然の出来事の出来にも長い未来の持続にも委ねることなく、あくまでも集団的主体の政治的実践として思考しようとした結果生まれた一つの回答であった。それが必ずしも武装闘争の呼びかけを意味しないことは言うまでもない。むしろ、腐敗しきった政治体においてなお、マルチチュードの力能を認めること。 そこから無頭の怪物が立ち上がりうることを認めること。というよりも、政治共同体はけっしてあらかじめ自明のものとしては存在せず、その「はじまり」はばらばらに分離された多数の人間たちに求められるほかないことを承認すること。 その多数の人間たちがみずから「構成」するものとして政治共同体を、すなわち、われわれにとって親しいと同時に不気味な、無頭の怪物を考えること。 ネグリ=マキアヴェッリはそんな不可能を試みることこそが「政治」であることを教えてくれる。だとすれば、「リベラルな世紀」の末期を見届けつつあるわれわれも、まだしばらくは、 マキアヴェッリとともにとどまり、政治について考えることができるかもしれない。

――王寺賢太「マキャヴェッリとポスト六八年の政治的〈構成〉の諸問題」



確かに、ひとりの人間のやることなどたかが知れているわけだが、そのマルチチュードや無頭の怪物などが、ある種の一人の人間に見得てしまうからやっかいだ。

そういえば、やんごとなき人間がなぜか入学してしまった筑波大は、いままでのなんちゃってテック都市にあるテック大学の有り様を反省し、やんごとなき国文科を作りましょうそうしましょう、――と思うのであるが、はやりそのとき、その改革は天皇の顔をせざるをえない。錦旗革命かどうかはともかく、この30年の國文学徒たちの抵抗運動などの顔をはしていまい。

左派が期待していたマルチチュードも、その実「統計」みたいな顔をして換骨奪胎されてしまったわけだ。統計と言うよりもアンケート結果みたいなものであるが。そういえば、本質的なことがらについては面白くもない統計結果しか出てこないのに対し、芸能人みたいなものに絡んだものが、マルチチュード的な生を感じさせる。例えば、彼女(彼氏)にしたい芸能人とか、結婚したい芸能人とかはわからないではないが、母親にしたい芸能人みたいなアンケートがあるのが面白い。しかも一位がもとモーニング娘。の辻ちゃんである。五人も生んでいるから、つまり子だくさんだから――自分も彼女からワンチャン生まれ得るとか思ってるのであろうか?あるいは自分の父親が辻ちゃんと不倫すると思っているのか?石破首相の人気よりも結果が革命的である。

要するに、政治的な意志としての英雄がでてくるからおかしくなるので、政治以外の英雄(=芸能人)のほうが、それを論評する人民の中に「無頭の怪物」みたいなものが顕れる可能性がある。なにより、それを生み出したシステムが復興する可能性があるのだが、そうでないと、システムにぶら下がるほかはない人間は暴れ出すことはない。

例えば、日本の大リーガーが身体的なハンデ(大谷以外)をものともせず活躍するようになったのは、スポーツ業界(とたぶん音楽業界)だけは幼少期からのエリート教育と大衆教育と学校の部活がうまいことかみ合い(かどうかはしらんが)、精神的にサブカルからの援護もあって、それだけだと成長を妨害しかねない学校のシステムを相対化できているからかもしれない。一方、思想や文学研究なんかは、大学からやれば人間的にも綜合的に学力がともなうときだからそれでよいみたいな考え方があるけれども、ほんとはそうでもなく、どうみても幼少期から多くのものを摂取していた連中しか大成していない。わたくしでさえ、幼少期の絵本の乱読とか朗読レコードを一日中聴いているところからはじまって、小学校で小説家(担任)に習い、10代は学校の授業は上の空のまま、ひたすら音楽で遊びながら文学思想関係を訳も分からず乱読していた。が、――幸運なことに、生存していたところが田舎過ぎて受験競争がほぼ存在せず、周囲との大した軋轢もなく通過できたわけで、わたくしの存在が、「田舎すぎて受験戦争のなかった場合」の有効性を示しているわけだ。猛烈な読書というのは、大学からではたぶん遅すぎで、記憶に定着しているものが少なくなり、大学以降は大学や学会との関係でどうしても、処世にからんだ読書を強いられ、それが得意な奴が勝ちかねない。これではだめにきまっている。

筆が滑ったが、わたくしはその意味でがんばらないと、「田舎すぎて受験戦争のなかった場合」が死滅する。

perfection and destruction

2025-05-06 23:26:08 | 思想


 […]毛沢東は中国のモダニズムの悲劇的表現である。毛沢東は、何百万もの中国人(と他国の人々)に、過去と現在を克服して近代のオールタナティヴを創造することは可能だ、という信念を吹き込んだが、その帰結は、彼らに攻撃の矛先を向け、彼らに最も深刻で最も悲劇的な近代の矛盾を背負わせただけであった。毛沢東をゲーテの虚構の人物よりもっとファウスト的にしているのは、その革命実験による人的犠牲について、また革命のヴィジョンの仮借なき追求のなかでは結局のところ実験材料でしかなかった生存者について、毛が全く意にも介していないように見えることである。
 この実験は別の意味でも悲劇的なものであった。毛沢東が一九五〇年代、一九六〇年代 (文化大革命)に引き起こした破壊があまりにも衝撃的であったために、革命のヴィジョン――毛沢東のヴィジョンはそのなかの最後の表現であった――に対する、またそれとともに近代を克服する可能性に対する、総体的な不信感を植えつけてしまったのである。文化大革命は、今日から見れば、社会を資本主義から抜け出させ、もう一つ別の近代を追い求めた歴史的苦闘の最後のものであったように思われる。過去二〇年間にわたる世界各地の諸社会の経験が物語っているように、「近代の生の諸矛盾から抜け出す道」などないのかもしれない。その破壊性をそれとともに生きることを学ぶこと以外には


――アリフ・ダーリク「毛沢東思想における近代と反近代」(砂山幸雄訳)


いまも教育に合理性を旗に口だしてくるのは、新興ブルジョアジーである。それはいつもいいところの一部はついているのだが、教育を人為的にコントロールできると考えてる時点で常に失敗する運命にある。教育はみかけより文学みたいなもので作者に完全に従ってるわけではない。「文化大革命」は革命の進捗上にあるという意識の産物であったろうが、軍事的な制圧とちがって教育上の制圧を完全に行うことは出来ない。やろうとすると、革命自体が破壊されてしまうのである。ソ連だって、経済的失策によって破壊されたのではなく、文化政策によって自殺したにすぎない。革命政府がその実新興ブルジョアジーと同じようなルサンチマンによって突き動かされていることに、みずからが革命政府であることによって気付かなかったに違いない。

iPadで劇的に初等教育は進化するとかいっている研究者か評論家がいたので、――あれは隣の女の子や男の子の頭をはたくのにちょうどいい大きさだと、忠告してさしあげたことがあるが、ちっとは現実を想像して欲しいというかんじがする。これも昔、関曠野が言っていた気がするが、いじめというのは学校制度の強いる抽象的な平等性に対して、我々が本能的に持っている社会性=役を演じる人間性を無理やり実現しようとして出現する、と。それはともかく、テクノロジーをつかったいじめがいつも起きるのは、機械的な平等性への無理やりな反抗かも知れない。問題なのは、そのいじめとやらが、テクノロジーの機械性=エラーのなさによって、いじめが人間業を超えて完成性に近づくことである。そこに気付かないのは、子供、大人に限らず、人として頭が悪いのか意地が悪い。

ブルックナーの改訂癖というのは、なかなか完成原稿が出来た気がしない人々を勇気づける。というのは冗談だが、ブルックナーの完成性への追究は、一人、あるいは弟子をふくめたコミュニティでやるべきだ。

このまえテレビで、若手のマーラー指揮者=カーチュン・ウォンが、マーラーの曲について、オーケストラの限界を要求する部分こそが肝なんだと言っていた。本質的に優れている書物もそうだとおもう。読者の限界、よく分からなくなるところが重要だ。ところで、ショスタコービチの交響曲のトランペットパートは、あまりにきつすぎて、奏者たちがその限界点でこけたり音が出なかったりするのを予想して書かれている気がする。終楽章で瀕死しかかっているトランペットに何回かお目にかかったことがあるが、まさにソ連の終焉という感じだった。文化大革命の失敗なんか、タコさまの交響曲でとっくに予告されているのである。

ところが、最近のオーケストラは巧いので、きつい高音の連続も苦もなくやってのけてしまう。この調子で行くと、我々の革命の破滅は、もっと人間業を超えたところに設定されてしまうに違いない。

ミスティフィケーションの主体化

2025-05-05 23:12:33 | 思想


資本主義にとっての学校の主要な効用は、家族のスクーリングと人間の〈主体化〉にある。してみれば学校の効用は、それが企業や国家に必要な少数の人材を(極めて偶然的なやり方で) 生産するというポジティヴな側面より、圧倒的にネガティヴな側面から考察されねばならないのだ。現代の学校を特徴付けるその形式主義、厳格主義、体系性やカリキュラムの一貫性といった要素にも、あくまで学校制度のニヒリスティックな無益さと恣意性を隠蔽するための意図を見た方が正しいだろう。そして学校の戦略目標としての人間の〈主体化〉自体、いかなるポジティブな内実ももっていないのである。自己への敵対としての人間の主体化は、学校を超えたマクロな次元における現代資本主義の歴史的戦略に関係している。国家および科学技術体制と一体化したこの資本主義は、絶えざるサボタージュとミスティフィケーションの戦略を必要としている。現代科学技術の裡に、生と労働と環境自体を教育的なものに変える解放のポテンシャルが存在している限りにおいて、この体制は市民たちの学ぶ能力を挫折させ、解放をサボタージュしなければならない。またこの体制は、己れが生産する社会構造には市民たちを自ずと教育する力が欠けている事実をミスティファイする必要がある。だが史上大半の社会において、人間は社会構造それ自体によって感化され教育されたのだ。人間を教育することに関しての資本主義の無能さこそ、特殊化された空間における専門家による制度としての教育という幻想を生み出し、教育の完全な欠如と不在をみせかけの教育熱で覆い隠す狡猾な戦略をこの社会に強いたといえる。要するに現代テクノロジーの裡にそれと知られずに内在する解放のポテンシャルという見地からすれば、 二十世紀の学校の使命は一種の「予防反革命」にあることになろう。

――関曠野「教育のニヒリズム」(『野蛮としてのイエ社会』)


関氏がこの箇所より前のところでも言っていたと思うが、――学校が資本にやくだつイデオロギー注入装置だという左翼的見解が、わざわざ文科省などに、「学校が役に立つ」という観念をおしえてやったようなところがある。むろん、学校なんかが役に立つわけがない。資本主義は消費のシステムで根本的に「教育」によって人材を生産するのは苦手である。しかし同様に、それと結託した近代社会がつくった学校も「教育」が苦手である。学校が説く「主体化」はそういう自明の理を隠蔽する為にこそ機能している。依存先としての唯一の存在でありながら、その不備を指摘され続けることこそ、学校の存在理由なのである。いまもICT教育の必要などと資本と国が旗をフルものだから、学校は慣習すべてを旧来の?やりかたとして勝手に解放(掘り崩し)ながら、それによって自然と作動する葛藤、すなわち、どうにか維持されなければならない善や人間への葛藤、――の場としてますます学校は再起動し続ける。むろんその葛藤は、歴史や科学とともにある実践を常に勉強に差し戻す。関氏も言うように、教育されることは我々が歴史的社会的存在であることと違うことではないのだが、――なにか合理的に切り取られた認識がインストールできる気がしてしまうわけである。

学生時代以来、いろんな疑問があって古典文学や漢文に遡行してみているのだが、おもったよりも明瞭に分かることは少ない。転向とかするひとが信用できないのはそこであって、「転向」とはいわば、歴史の不明瞭さ、我々が教育されうる実態ではなく、合理的に、AからBに移行するような認識を信じるということである。

朝ドラって総集編でみるとメロドラマが2倍速みたいなテンポになってけっこうおもしろい。しかし、この面白さは何か我々の「勉強」化されたものを快と感ずるセンスのせいではなかろうかと疑われる。

橋本環奈氏が演じたこのまえの朝ドラは結局1回も観なかったが、今日みたかぎりでは、ギャルというのは魂レベルの分類であって、おそろしく主体化された人間のことらしい。わたくしは、愚かにも、ギャルにはいろんな種類があるらしいのでここまで違うともはやギャルという括りがなくてもよいのでは、と思っていたくらいだ。――それはともかく、わたくしが子供の頃から不良みたいなのが嫌いなのは、たぶん根本的には、祭の天狗が怖かったみたいなレベルのことであろうが、彼らの「主体化」された態度が学校でおそわったことをそのまま実践に移したみたいであって、まったく反学校には見えなかったからである。大概の中学校の教師というのはそうは思っていないだろうが、――申し訳ないが、このくらいは、中学生でも気付くことだ。

同じようなことは何か芸術の趣味においても存して、オルフの淫猥な「カルミナ・ブラーナ」という曲、編曲版で吹いたこともあるけど、いまだに好きになれない。はじめから主体のふりをしているのは主体化とはおもわれないからだ。

我々は、常に他なるものとの関係をアイデンティファイし、主体としてミスティフィケーションしながら生きているので、キリスト教やベートーベンとみずからを重ね合わせてはじかれる何かを回収しようとしているマーラーのほうが音楽として主体的にみえる。SFでよくある、「人間そっくり」出現は、それを作品の中では科学や宇宙人のせいにしているが、本当は我々の社会や学校のせいである。授業で必要なので最近観返した「クローン」という映画にはそういう事情が明瞭である。実は宇宙人にクローンにされてしまっている国家公務員(研究者)の夫婦は、お互いの愛の関係と公務員の活動とうまく重ね合わせられない。どちらかが「クローン」ではないかと疑っているにちがいない。話としては、そんな話ではないのだが、「クローン」というのはそういう自己同一性の危機の比喩なのである。――それはともかく、上映された頃はあまり面白いと思わなかったこの映画であるが、共働きでそこそこがんばってきた公務員がそろって宇宙人に惨殺されるはなしということでいまは感情移入できるに違いないと思って観た。

が、今度は当方、老眼鏡をかけていたために暗い画面がよくみえない。我々の生は、かならずアインデンティファイを妨害するようにも出来ているのである。

二分法への対処

2025-05-04 23:22:43 | 思想


哲学者の中村雄二郎は同じように、オウムの発達にとってSFが重要であったことに注目しているが、しかし、そのさらに一般的な役割をも強調する。彼によれば、「オウムはある意味で、野卑で漫画的だったが、それは、人びとの広い無意識をとらえ、ほとんど知識階級を征服した」。その「広い無意識」とは何だったのか。私は、それが消すことのできない広島の刻印、つまり後には全世界に広げられた、日本の全滅という集合的なイメージを担っていたと主張したい。ここで問題なのは、大衆文化の中核を担っている未来モノ的で精巧でハイテクなイメージと世界破壊との観念が、多くの現代日本人にとって、抗しがたいような力を持っていることである。

――ロバート・J・リフトン『終末と救済の幻想――オウム真理教とは何か』(渡辺学訳)


ロバート・J・リフトンてまだ生きてるらしいのだ。デューク・エリントンがデビューしたあたりからずっと世界をみるとどうなるのか。いろんな物が一緒に見えてくるのであろう、彼にとっては、ナチスもオウムも連合赤軍も同じなのだ。こういう見方が一見客観的に見えるのが世論であり、いまの二分法に淫するネット世論のインテリ版みたいなところがないではない。

そもそも、オウムや連合赤軍でさえ、いや、学校の先生でさえ自分たちがナチスに似ているくらいは自覚しているものである。そして、その自覚が、批判的対象への模倣を早める。

そういえば、天皇を崇拝する人の中には、かならずその側近などを逆臣扱いにしているひとがいるけれども、天皇は我々の象徴なんだから、あまり我々を含んだ逆臣たちを次々に認定して行くと、象徴まで逆臣化してしまうのではなかろうか。これは冗談ではなく、象徴というのは「模倣」の一種なのである。天皇に自分たちの似姿を観るのは当然だ。天皇が庶民をある程度模倣しているからである。

躁鬱の原因として、親子関係の亀裂の影響が云々されることがある。我々の行動や性格?は両親譲りでもあることがおおいけれども、――近代文学によくみられるような「養子に出された人間」の激情的な側面の影響は、三代ぐらいは平気で続く可能性があると思われる。戦争や治安維持法のトラウマなんかも、孫の代まで続く。それは、リフトンの言うような「文化」の集合性と持続性と問題もあるかも知れないが、もっとひとりの人間と人間の関係性に於いて模倣される気がする。むろん、本人たちが、親と子の関係でものを考えすぎるからであるが、そんなことを強いる悲劇的状況が近代には実に多かったのである。

文学や国語の教員は、この文章を直して下さいと頼まれることもあるが、本気で直せば、内容も修正されるので、いやがられることがある。文章が悪いときは内容が悪いときにきまっている。こういうことが「文化」や「思い」のレベルで考えている人間には通じない。なお、だからこそ、どっちでもよい場合は言い方は自由であることも多いことも分かるわけである。しかしそれがかなり思っているよりもかなりすくないと言うだけだ。言葉が違えば言っていることが違うというのが原則だ。で、その違いに対しての判断を少しでもまちがうと、いろんな物がドミノ倒しのように二分法に組織し直されてしまうのである。

空想的な「見える」もの

2025-05-02 23:47:21 | 思想


 この批評的空想的社會主義および共産主義は、歴史的發展と逆行する意義を有してゐる。階級鬪爭が發達し成形するに從つて、階級鬪爭に對するこの空想的な超越と、この空想的な攻撃とは、一切の實際的價値、一切の學理的妥當を失ふ。そこでこの學派の創設者らは、多くの點において革命的であつたけれども、その門弟らはみな反動的分派をつくつてゐる。彼らはプロレタリヤの歴史的發展に反對して、その師の舊説を固守してゐる。從つて彼らはひつきやう、階級鬪爭を鈍らし、階級對立を調停しようとする。彼らは今でもやはり、自分らの社會的ユートピアの試驗的實現を夢み、個々のファランステール(1)を起すこと、『内國植民地(2)』を設けること、『小イカリヤ村(3)』をつくること、などいふ、新エルサレムの小型發行を試み、そしてそれらの空中樓閣を築くためには、ブルジョアジーの慈善心と財嚢とに哀訴せざるを得ない。かくて彼らは次第々々に、上記の反動的、もしくは保守的社會主義の範疇に陷り、ただそれと異なるところは、やや組織的の學理を衒ふことと、その社會科學の奇蹟的效果に對する熱狂的迷信をもつこととである。

――「共産党宣言」(堺・幸徳訳)


共産党宣言の「空想的」なものへの批判は、いまだって有効である。例えば、弱者を救えという「思い」が「法律」となったからいろんなことが解決するみたいなものが「空想」なのである。例えば、もはや週刊と言うより最悪な意味で「文化」といってもいいが、――「面談文化」というのが、学校だけでなく官庁や企業やらに広まっているけれども、多くの狡賢い連中に利用されている。やつらに最適化するのが目的ではなかったはずではないか。例えば、育休で資格の勉強したいですとか言ってくる人間は、授業を休んで就活とか言うてる大学生とかわらない。仕事でしんどそうなものからにげまわる人間がプライベートで協働で子育てとかするはずがないと断言できる、というのが残酷なコモンセンスであって、こういう自明の理を相対的にスルーしている――すなわち、強者のずるを見逃しているのに、管理者たちが、本当に弱者の味方になるはずがない。我々がもともと弱者集団であったために根本的に狡賢い国民に生成しているのは、ちょっと我々を内省してみれば自明の理だ。我々がそういう事態を忘れたふりをしているのは、「空想」のせいではなく、それが「見える」ものではないからではなかろうか。

ときどき、官庁が弱者に杓子定規の冷たい対応したユルセヌみたいな言説がある。たしかにひどい事象もあるようだが、公務員というのは日々どうみてもおかしいクレームを雨あられのように受けているわけで、クレーム対応として市民を怒鳴りつけてしまったとか無視してしまったとかにならないように最適解を見出そうとすると、――そういう冷たいかんじになりがちだというのは、人間の現象としては自明の理の如く理解できるではないか。大学事務も、自分で考えろみたいなレベルの質問を受けつづけてがんばって堪えている。――こういう事象は、公僕とか事務とかいった観念が見えているものさえ見えなくさせる例である。

そのずるい国民は憲法も利用する。みずからの平和=幸福をもたらしたのがいまの憲法である一面があるのは明らかなのであろうが、だからといって、もっと幸福になりたい気持ちを憲法にぶつけてもらってもこまる。いや、ほんとは、そういう高級な問題でもないかもしれない。憲法は不断にチェックされ続けるべきだとは思うが、あの文体を變だとかいう人の中には、単に文章を読み取れない人が大量に混じっているとしか思えない。西田幾多郎の文体を普通だと思えとか贅沢なことはいわんから、文章には色々なものがありそれなりの読み方があることを理解する人間だけが、わかりやすい文章かどうかを評価する資格があるのである。

小林秀雄が近代化の病がなんちゃらと腐した西田幾多郎の文章に慣れてくる(――ほんとうに慣れたかどうかはわからんが)と、近代エリートじみた田邊元の文章はほんとに読みにくい。そういえば、昔塾講師で一緒に働いていた院生が、一番読みやすいのは大澤真幸、順に追えば読めるから、と言っていたが、――もちろん順には読むんのだが、わたしはあまりそういう読み方に快を覚えないというか、――分かった気がしない。小説や詩は順に読んでも直ちに分からないことが多いので、かかる読み方に慣れたからかもしれない。ある種の視覚的なセンスが混じった読み方を私はしている気がする。そういえば、現代の「見える化」とか言っているひとが大概は阿呆だとしても、何か「見える」というかたちの認識をやたら求めることの意味は考えとかにゃならない。ゼミ生と野間宏を読んでいてそう思った。野間の小説に顕れるいろんな事象の「見える化」と、戦争のトラウマは明らかに関係があるからだ。田邊の「種の論理と世界図式」は、論理とは解釈じゃないんだ推論だぜみたいなところから始まるけど、これ國語教育でも結構重要なポイントである。解釈はどうしても「思いの見える化」つまり「空想」みたいな領域と接している。

そういえば、ゼミ生に「いまの若人は、いまどきのロボットアニメのサーカスみたいな戦闘シーンをほんとに目で追えてるのか」ときいたら、追えていると思うといっていた。すごいぞ若者の視覚。。

面前の狂い

2025-05-01 23:25:57 | 思想


何故、人間は笑うのかという問題、これは、なかなかむつかしい問題であります。古来たくさんの哲学者がいろいろな分析や解説を試みていますけれども、どうもあまりはつきりしません。その中でさすがにフランス近代の大哲学者ベルグソンがなかなか面白い説明をしています。これからの私の話もその説をところどころ借りようと思います。ベルグソンはその笑いの研究で、まずこう前置きをしております。「そもそも笑いの正体というものは理窟では容易に掴まえることができない。掴まえたと思うとぬらりくらりと逃げてしまう。実に始末に負えぬ代物だ。」と言つております。ベルグソンにさえそういう悲鳴をあげさせるのですから、私などの手には到底負えないにきまつております。が併し、それだけに相手にすればするほど、面白いわけであります。
 まず、私は、私流に笑いの種類について、ここでどう区別しているかを吟味して見ましよう。分類の基準は雑然としておりますが、思いつくままに挙げて見ます。「微笑」即ち「微笑み」、「苦笑」「苦笑い」、「薄笑い」「冷笑」「憫笑」というのがあります。それから「嘲笑い」「嘲笑」、「大笑い」「哄笑」「爆笑」などという新語もあります。「微苦笑」という造語も言えば一般に通用すると思います。「馬鹿笑い」「含み笑い」「しのび笑い」「追従笑い」などがあります。
 笑い声にもいろいろあります。「はつはつは」「えつへつへ」「うつふつふ」。又、「からから」「げらげら」「きやツきやツ」など、これはいずれも、「擬音」であります。ざつと、こんなところかと思います。


――岸田国士「笑について」


コロナ以前からすでにマスクだいすきだった日本人であるが、――戦後のカルチャーをみてみるに、マスクをした以上、やることは正義でなければ不正義と決まっているのである。むかし「微苦笑芸術」というのがあって、笑うでもなく能面でもない不気味な地帯を主張した文士たちは、正義でも不思議でもない地帯にいなおろうとしていたに違いない。

この傾向はいまでもかわらない。最近は悩んだすえに断固決然、みたいなアニメばっかりつくられているが、わたくしの生まれた頃は逆に、常に断固決然的馬鹿だったから体も心も壊れまして候、みたいなアニメばかりつくられていた。果たしてどちらがどのように有害なのかしらないが、結果どことなく主人公たちが微苦笑に近づいているきがする。

我々は、自分や他人の顔に心理的に接近しすぎているのではないのか。だから、はじめは赤ちゃんのように泣き叫んだりするが、次第に下品にないたり笑ったり怒ったりするのを恥じるのだ。行動のためにはそんなプロセスを一切省く必要がある。あんなクズには負けるわけにはイカンという環境はだいじだ。勝つチャンスがあるからだ、それでよいのである。

教育というのは、社会以上に、それを体験した我々が若かったために、その姿が面前に迫って――教師の姿で――あるときは恐ろしい姿で、あるときは児戯に見えているものだと思う。面前にいた教師は、教育の一部であっても一人の人間に過ぎない。それをエビデンスにして何か別の**とか××に結びつけて価値づける。舞姫だけで近代文学全部を語るようなものだ。おおくの教育論がルサンチマンしか感じないのはそのためだし、端的に内省が足りない。社会でもほんとはおなじで、面前にひどいものが出現するようになると、全体が悪く見えるし、何か原因を勝手に探される。一人一人がきちんとしなきゃというのは、総和がひどくなるからではないのだ、総和や全体が見えないからなのである。

そういえば、そういった遠近法の狂いは、階級意識の狂いと同じようなもので、ほんとうは同じものかも知れない。例えば、――土地や家を持っているがたくさん税金を持ってかれる経験をしているひとは多く、金持ちもそうだ。結果的に痛くもかゆくもないわけでも、額面だけ見ると結構持ってかれたなと思う場合は、搾取されたとおもうわけである。

Mein Kampf

2025-04-29 23:28:10 | 思想


 本書は全譯と銘うち、また事實上全部を譯了したのであるが、原書二五八頁より二六一頁までと、三〇三頁より三〇五頁に亙る箇所は、國情の相違から私自身としても到底紹介し得ないものであり、かつ本邦とは全然無關係、また参考にもなり得ないものであるので削除した。
 第二に原著三一七頁より三二八頁までに至る箇所の一部は、大東亜戦下にあってある敵性國家がヒトラーの真意を曲解し逆用して、日獨離間策の宣傳文書として公布したところを含んでゐる。敵の逆宣伝に用ひたところを此処に出して敵性國家をしてまたまた利用せしめることは、私としてやはり出来なかった。同所はヒトラーが獨逸國民を奮起さす目的で、いは「テクニク」として書いた論旨であるが、如上の理由から――また前後の關係上少しく大きく――削除した。
 此の點讀者の御を乞ふ次第である。
 本書が「吾が闘争」の註釈書であり、研究書であるならば、或ひは充分意をして説明し、誤解を避けつゞ註釈も出来るのであるが、単なる譯書としての性質に鑑み、また研究書は他にも存在する點を考慮して、譯書としての譯出は差控へた次第である。


――眞鍋良一「訳者序」


眞鍋氏は、戦後、眞鍋のドイツ語、みたいなかんじで活躍した人であった。戦前の履歴もすごく、大学のドイツ語教師、ドイツ大使館書記官や上海総領事館情報部附などをやったり、ハウプトマンやトーマス・マンと交友があったり、ヒトラーユーゲントの通訳などをしている。で、ついに「吾が闘争」の全訳である。戦後の真鍋氏の回想を読むと、――当時、アーリア人の優位性を説いた部分が、大和民族のあれとあれするからと一部の軍人がかちんときて、これでは発禁処分の恐れありということで、その箇所だけ削ったらしい。いつも我々の同盟国というのは我々を馬鹿にしているから、内部のマルクス主義者と同盟国のファシストの両方を禁じるという忙しさが当時の御役人に必要であった。そして、我が国では、禁止される側も、上のように、原著の頁まで示してそのことはちゃんと仄めかすことぐらいは許されている。わたくしがファシスト国家の管理部門を担当したならば、このような不穏分子を決して許さぬ。

「吾が闘争」を読むと、主体は空虚であり、私なんかないから、とかいうて、――深く人間を考察している心優しい人たちの盲点が突かれているとわかる。つまり、ヒトラーの主体は空虚ではなく、「おれは腕白小僧だった」、「父親は働いて死んで先祖の元へ帰っていった」、このぐらいで人間は元気になれるということを示しているのみならず、「卑怯な平和」より「闘え」ばいいじゃないか、というある種の生活倫理としては正しいことも言っている。我々は確かに、争うことでしか成長せず、その後も争うレベルに堕落することをやめない。平和な修正主義はだいたい後半の過程を無視して、その過程そのものとなる。安吾の堕落は、堕落と争いの関係についてやや不明瞭だと思うが、それは反ヒトラー的であるという意味で意図的だと思う。同質的集団は堕落するのが必然なので、われわれは異物をつくりだす。ヒトラーは、異物をユダヤ人に押しつけ、安吾は自分(あるいは個人)を異物にしているだけなのだ。

そもそも我々は外国語を異物とみなしながら発展してきた忸怩たる歴史をもっているからなのか、最近は、異物を異物とせずしらないうちに自分が異物であるかのようなふりをするという、平安朝の漢文で日記をつける役人みたいな作法を、庶民がやるようになっている。コスパとかちゃんと日本語に訳すべきなのだ。わたくしなら、「狡(コス)いパッとせん人々のやり方」とでも訳す。コスパ野郎のイメージといえば、神社で降ってくる餅に群がるあの方々である。イメージは本質を描き出すためにこそ大事にすべきである。かつて爆笑問題が暴走族を「おならぷうぷう族」と訳したように。飜訳というのは、こういう本質へのプロセスである。

そういえば、マルクス主義なんかは仏教に飜訳されようともされた独逸観念論よりも異物だったのか、上のプロセスに長い時間を要した。その意味でキリスト教並みではあった。その過程で、堪えられず、出現したのは、転向文学の人たちと、――少し若い連中では日本浪曼派がそうであった。はじめから非転向でいられるところでやるというのもコスパ野郎の特徴であって、最後の人たちは饒舌でわかりにくいから一見そうは見えないが、それなのである。だから、彼らの活動の本番は戦後であって、かれらが回避した異物への抵抗は戦争が終わって、はじまった。転向以前に転向したからといっていつまでも安定した地点にはいられない。きのう授業で日本浪曼派について語ってたら改めて気付いたんだが、彼らが古典文学を重視した文学史的思考をするのはある意味当然で、そもそもが文学史的に悩まないですむポジションのつもりだったからである。むろん、彼らが自身を保守本流だとはおもってはいない。むしろ、疎外された系譜に位置づけた。

G-W(ゴールデンウィーク)

2025-04-28 20:11:50 | 思想


 循環W―G―Wはつぎのものに分解される、運動W―G、商品を貨幣と交換すること、つまり販売、これと反対の運動G―W、貨幣を商品と交換すること、つまり購買、およびこの二つの運動の統一 W―G―W、貨幣を商品と交換するために商品を貨幣と交換すること、つまり購買のための販売が、これである。けれども結果としては、この過程が消えさり、W―W、商品と商品との交換という現実的な素材転換が生ずるのである。
 W―G―Wは、もし第一の商品の極から出発するならば、その商品の金への転化と、その商品の金から商品への再転化とを表示する、あるいは商品が、まず特定の使用価値として実在し、つぎにこの実在を脱して、その自然発生的な定在にともなういっさいの連関から解放された交換価値または一般的等価物としての実在を獲得し、さらにこれを脱して、最後に、個々の欲望のための現実的な使用価値にもどる。ひとつの運動を表示する。この最後の形態で、商品は流通から脱落して消費にはいってゆくのである。そこで流通の全体W―G―Wは、なによりもまず、個個の商品がその所有者にとって直接の使用価値となるために通過する変態の全系列である。第一の変熊は流通の前半W―Gでおこなわれ、第二の変態は後半G―Wでおこなわれる、そして全流通が商品のcurriculum vitae 《履歴》をつくるのである。しかし流通W―G―Wが個々の商品の総変態であるのは、ただそれが同時に、ほかの商品の一定の一面的な変態の総和であるからにほかならない、なぜならば、第一の商品の変態は、いずれもその商品のほかの商品への転化であり、したがってほかの商品のその商品への転化であり、したがってまた流通の同じ段階でおこなわれる二面的な転化であるからである。


――「経済学批判」(武田隆夫他訳)


GWといえば、民の世界ではマルクスのGWGではなく、ゴールデンウィークのことである。そして、確かに変態が行われる。眠り熊とか家族へのサービス奴隷とかへの変態である。

で、ゴールデンウィークで浮かれている人民に告ぐ。わしたちはこういう休みに論文を書く――気分でいると、庭の草むしりを命ぜられたので体調が悪くなって寝る。

それにしても、調子が悪いのは、たぶん校務のせいなのであろうが――、柄谷行人の最盛期が阪神の優勝によって終わりを告げたというのが院生時代のわたくしの持論であって、中日が最近最下位でないのでわたくしの調子もおかしいのかもしれない。

それにしても、万博というものは、なんかちゃらちゃらした科学擬きがいやなのである。むしろ、ライプニッツお気に入りの茶碗や、ソクラテスの耳かき、ショスタコービチん家のサッカーボールとかを展示してくれれば観に行ってやってもいい。

細かい研究をする大衆の誕生

2025-04-19 23:25:30 | 思想


 所で何の研究でもさうでありますが、初めに總論のやうなものが出來ますと、それからあとの研究は段々、自然細かい所へ入り過ぎて仕舞ふ。其の細かい研究と云ふものは、研究者本人に取つては隨分相當に面白いことがあると思ひましても、一般の人が聽きますと、何か研究者自身が一人だけ分つたことを言つて居るやうになりまして、餘り興味が多くないと云ふやうなことになる傾きがあります。それで弘法大師の文學上の事に就きましても、既に大體の總論に於きましては、谷本博士の講演があり、又幸田博士の文學上に對する意見も發表せられて居りますから、其のあとで私が何か申さうとすると、自然どうしても一部分の細かい事に入り過ぎるやうな傾きになるのは免がれませぬ。勿論初めから其の覺悟で何か細かい一部分の事を申上げて、それで御免を蒙らうと云ふ覺悟でありますので、今日御話を致しますのも、弘法大師の文藝とは申しましても、極く其の中の一部分、詰り大師の著はされた書籍に就いて、それの批評と申しますやうな事を申上げるに過ぎませぬ。

――内藤湖南「弘法大師の文藝」


さっきテレビで司馬遼太郎「空海の風景」についてのシンポジウムやっていた。こういうのって、何処まで観客の頭脳に勝手に忖度しているのかしらないが、空海でも坂本龍馬でも聖徳太子でもおなじような結論に達するどうでもいい、かかる公開おしゃべりをやめないと日本の文学思想の世界はどうにもならない。なぜかと言うに、観客がバカになるからではなく、観客がいらぬ細かい研究に入ってしまうからなのである。よく知られているように、大衆とは自分が専門家だと思っている輩のことである。シンポジウムとかは「総論」なのである。しっかりしなきゃいけない。

つづいて「日曜美術館」がはじまった。これまた、何の専門家のつもりなのか、小説家がナビゲーターを務めている。よい総論とは毎回言えない。しかし、今回は、わたくし、新宿西口などをデザイインした坂倉準三て西村伊作の次女と結婚しているということを調べ、いっぱしの自己満足に陥ったことを良しとしよう。