
ことばや論理が閉じたシステムあるいは構造をなしているという考えもまた、書くことと印刷によってつちかわれる、とオングは言う。そういう意味では、テクストをあたかも閉じたシステムであるかのようにあらゆる歴史的な脈絡から孤立させ、そうしておいて、それにまつわるパラドクスをあれこれ論じたてるデリダ流のテクスト批判(ディコンストラクション)もまた、奇妙にも文字文化の産物としてのテクストにしばられていると言わなければならない。デリダの勘違いは、声としてのことばを文字文化による偏見をとおしてしかとらえられなかったところにある。
――桜井直文「デリダの勘違い」
「声の文化と文字の文化」を評した桜井直文氏がデリダを批判して、「デリダの勘違いは、声としてのことばを文字文化による偏見をとおしてしかとらえられなかった」と昔言っていた。この「AとしてのBをCによる偏見をとおしてしかとらえられなかった」という論法、かなり汎用性がある、というか「あった」。例えば、「資本主義国家としての日本を家父長制の偏見をとおしてしかとらえられなかった」とか言い換えられる。果たしてこう言うひとは家父長制に対して賛成なのであろうか、不賛成なのであろうか?
細が隠していたアイスを食べておきました。
かく言う私はどちらかと女性の地位向上には賛成で、もう日本の芸能界は、大喜利の天才・新居歩美さん(高松出身)とかに任せようと思っているくらいだ。
今日の授業は、「空っぽな女子」というクリシェはいかに成立したのか、という話題で、茨木のり子の「女の子のマーチ」とか永井豪のロボットものの女子戦闘員とかについて語った。テーマは反抗に理由がいるか、である。わたくしは、ここらあたりを理由だけがあって反抗しているとは限らない昨今のリベラルの日和現象に対して、効き目あるワクチンとして再評価すべきと思っている。
――と思っていた。つまり、暴れん坊新左翼の復権を考えていたのであるが、今日、ブント系であろう『情況』誌が、アンドロイドや某立花を表紙にするとかでネットで大炎上していた。我々は暗黒大将軍やショッカーと戦うべきで、それ以外を標的にするとだいたい山岳ベースで殺し合いになるのだ。山岳ベースから都市を包囲するというのがいまはネットから現実を包囲する、に変わっただけだ。そもそも新左翼はシン・サヨクみたいなものであって、情況によってころころ変わるのが真骨頂なのだ。
彼らの特徴は右や左、リベラルや金儲け、破壊や保守などをやたら跨ぐことだ。なんというか、彼らとしてはおそらく転向も非転向もいやなので、その実転向から転向して元に戻っているにもかかわらず、そして、それが意識されているから余計に上位からいろいろと眺める態度に出てしまう。悲しいかな、活動家とはなぜかそういう者の謂になってしまった。その実、活動家は自分お仕事を安易な地平に戻してしまう人とも協力をしなければいけなくなるので面倒になって引きこもるか、みずからの異物(隣の異物)を殲滅するしかなくなる。そういったときに複数のジャンルで活動するような人は有利である。自分全体というものに足を取られることがない。越境したり跨いだりする人は自分全体に囚われるのが危険なのである。
さっき書庫で横積みになってた資本論に躓いて転んだ。何か比喩的に重大な気がする出来事だ。この前、AIに「引き籠もり気味ですね」と言われたわたくしであるから、別に転向しても大したことはないのであろうが、活躍する人々は違うだろう。