★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起る(坂口安吾)

退屈

2018-12-13 23:37:50 | 漫画など


一つ原稿をあげたので、横槍メンゴの『クズの本懐1』を読んだが、「死に至る病 それは 退屈」とあった。絵がすごく柔らかくずごいなと思ったら、この作者は女性だった。

この歳になって言うのも何だが、ある種の女性が「死に至る病 それは 退屈」とか思っている節はある。あることにしておこう。そんな目から見える世の中は空気すらも恐ろしいのであろう。

黄昏流星群

2018-12-05 23:19:47 | 漫画など


コンビニで『黄昏流星群』が売られていたので、ついその商売にひっかかり買ってしまったが、――しかも読んでしまいました。

テレビでドラマをやっているので売っていたのであろう。

黄昏流星という題が、はやくも悪意丸出しであるが、作者は島耕作かなんかの作者なので、しょうがない。島耕作は読んだことがないのだが。と思ってみたのだが第一巻だけ読んだことがある。なんだか調子こいた若い社員がいろいろな人とベッドインしまくるまんがだった記憶する。光がない源氏物語みたいなものであろう。これが、社長とか会長にもなるらしいので、誠にリアリズムである。

先日、NHKで山一証券破綻の特集をやっていた。破綻のまえ、社員たちは出勤するとトイレで呻いたりしてたそうである。島耕作にもそういう場面があるのであろうか。知らんけど。

学生のレポートをみていると、学生たちが自分たちを「一般人」として自己規定しているのをよくみる。そういえば、「黄昏流星群」のなかでいけ好かない大蔵官僚がでてきて、主人公が彼を殴ったりする。確かにわかりやすい場面である。一般人や大衆がそれ自体で「善」であるならば。

学生のレポートの変遷を観察すると、「蟹工船」なんかを、昔の教条主義者もびっくりの調子で批評する類を目撃したのが、十年ぐらいまえで、そのあたりからプロレタリアートでない者までプロレタリアートのような面をしてモノを言うような風景が見られるようになってきた。まあ、自覚が先にあったのではなく、言ってからそんな気分になったというのが正確である気もする。プロレタリア文学の発明した?「労働者」はいまも亡霊として強力である。

我々はかかる錯乱を起こしたまま黄昏れることはできない。必ず馬鹿にされて終わるというのが歴史の必然のような気がする。むろん、島耕作の作者みたいな行き方もありなのである。その表面的な推移が妙にリアルである。そんな描き方が重要だということを忘れると……。

語り手というイデオロギー

2018-11-24 23:53:46 | 漫画など


昨日、「戦中・戦後のくらし 香川展」と、「平和祈念展in高松」が、瓦町FLAGでやっていたので観てきた。そのとき、平和記念展示資料館のつくった二冊の漫画をもらったので読んでみた。満州からの引き揚げを描いた『遙かなる赤い夕陽』とシベリア抑留を描いた『シベリアからの手紙』である。

内容についても言いたいことはあるが、わたくしが気になったのは、その語り――、子どもや孫世代たちが、戦争体験者の手記や手紙を読むという形式である。これは現在の大人や子ども達を語り手(ならびに読者)にすることで読者をあらかじめ作中に引き入れてしまうという小説でもよくある詐術、いや手法と言うだけではない。読者の反応をあらかじめ書き込んでおくという装置である。すなわち本質的には誘導装置というよりイデオロギー装置である。「三丁目の夕日」や「永遠の0」、「小さいおうち」などで使われたのが記憶に新しい。

八十年代以降の語り論の隆盛は、文学研究の発展という意味合いだけでは説明できない。近代の相対化という、近代を内部から越えるということの断念でもあり、ある種の過去からの逃避である面が確実にあったような気がする。当時を想起してわたくしはそう思うのである。本当は、近代小説の語りは、語りの内部の相対化ではなく、もう少し具体的な感情の発露であって、どうも太宰の「人間失格」なんかが戦後に書かれたころから、手記を紹介する語り手が所謂「立ち位置」的な何かに変化しているのかもしれない。無論かなり前からそういうものはあったが、――戦後になってからは過去を振り返ることに個人以外の罪障感がつきまとうようになる。戦争のせいである。太宰は、「人間失格」や「パンドラの匣」を「道化の華」のスタイルで書くべきであったような気がするが、そうなるとそれは反省のリアリズムではあろうが、反省をしていないようにみえるので都合が悪いのだ。

わたくしは、戦争を記憶の伝承とかの、コミュニケーションの問題にしてしまうのには以前から反対である。

わたくし自身は、高松市の神社巡りをやって、文化的な愛着というよりなんとなく空間的な愛着が湧いてきてから、高松空襲の写真が身に染みるようになったから、問題は、コミュニケーションではなくリアリズムを整えることだと思わざるを得なかった。

ガッツさんと武蔵鐙

2018-10-31 23:29:23 | 漫画など


コンビニで見かけたのだが、――三浦建太郎の「ベルセルク」がまだ終わってないことに気がついた。いま40巻である。ちょっとのぞいてみたら、主人公のいかつい男(名前忘却)がどこにも見当たらない。よくみると、犬がいて「ガッツさん」と呼ばれている。ああ、主人公はガッツだった。というか、いつの間に犬に……。どうやら、トラウマでおかしくなってしまった女の子(名前忘却)の意識の中に、なんか魔法使いみたいな二人組が入り込んでて、その意識の中では、ガッツさんは犬らしいのだ。

大願成就と聞いて、犬は嬉しくてたまらんので、三度うなってくるくるとまわって死んでしもうた、やがて何処よりともなく八十八羽の鴉が集まって来て犬の腹ともいわず顔ともいわず喰いに喰う事は実にすさましい有様であったので、通りかかりの旅僧がそれを気の毒に思うて犬の屍を埋めてやった、それを見て地蔵様がいわれるには、八十八羽の鴉は八十八人の姨の怨霊である、それが復讐に来たのであるから勝手に喰わせて置けば過去の罪が消えて未来の障りがなくなるのであった、それを埋めてやったのは慈悲なようであってかえって慈悲でないのであるけれども、これも定業の尽きぬ故なら仕方がない、これじゃ次の世に人間に生れても、病気と貧乏とで一生困められるばかりで、到底ろくたまな人間になる事は出来まい、とおっしゃった、…………………というような、こんな犬があって、それが生れ変って僕になったのではあるまいか、その証拠には、足が全く立たんので、僅に犬のように這い廻って居るのである。

――正岡子規「犬」


私は、10年前ぐらいから犬に関わる小説を集めていて、まだ論文に書いてないが、少しずつ読んでいる。わたくしが正岡子規をわりと好きなのは、上の文章を読んだからだが、ガッツさんは無事に老後を迎えられるであろうか。そういえば、ガッツさんはあんまり馬に乗っていなかった気がするが、馬に乗りすぎた御仁といえば、

聞こゆれば恥づかし、聞こえねば苦し

とただ言えばいいものを「むさしあぶみ」と書いてしまったので京の女に怒られた昔男がいた。よくわからんが、そもそも上の発言が、Aならば~、Aじゃなければ~云々という――理屈っぽすぎるものであった。それにしてはいってみたくなる類いのもので、

武蔵鐙さすがにかけて頼むにはとはぬもつらしとふもうるさし

と女。男はすかさず

とへばいふとはねば恨む武蔵鐙かかるをりにや人は死ぬらむ

と言い返す。最後に「死ぬ」と言ってしまったのは論理のなせるわざだ。もはや心情ではない。対して、「ベルセルク」は心情に拘りすぎている気がする。とはいえ、あまりに細密画ばっかり描いていたら、知らぬ間に近代じゃない世界を覗いていることはありうるのかもしれない。作家達は、われわれの大多数より先んじて、次の暗黒時代を生きる覚悟を決めているようである。

人相

2018-08-27 23:38:02 | 漫画など


さくらももこ氏が亡くなったそうであるが、「ちびまる子ちゃん」はアニメーションで何回か見たことがある。以前、ちびまる子ちゃんの実写版ドラマをやってて、家族で見てたところ、わたくしを含めた子どもが面白そうにしていたところ、母が「あまり面白くない」と言ったのが印象に残っている。わたくしは、「そういえば、本当にこれを自分は面白いと思ったのだろうか」と、そのとき思った。確かに、ちびまる子ちゃんの世界よりはわたしは「面白くない世界」にすんでいた気がする。どうも、生活世界にメディアが入り込んでいる度合いが、ちびまる子の世界の方が進んでいて、まる子やその姉は、マンガやアイドルの世界で遊んでいた。

さくらももこの世代は、わたくしより少し上だが、――わたくしの生活実感は、「サザエさん」の方に近い。と、思ってもみたが、そうでもない。むしろ「サザエさん」は非常に都会の世界でおしゃれな人間関係を形作っていて、これとも違うようだ。しかし、かといって、「アパッチ野球軍」とかの世界とも違うし、「おしん」とも違った(一部はちょっと似てた)し、無論、「はやり唄」とか「田舎教師」の世界とも違う。

私たちは、自分の生活の原風景など、実際は殆ど記憶していない。「サザエさん」とか「ちびまる子ちゃん」が必要なのは、そのせいである。実際は異なっているのであるが、記憶を少し思い出すための媒体なのである。同世代の西原理恵子のマンガは、これらに比べると、ほんとうのことをデフォルメしてしまっているので、我々は作品世界に縛られてしまい、自分の記憶など思い出さない。

「宇治拾遺物語」の「伴大納言の話」(第四話)は、応天門事件で流罪にあった伴大納言の若いときの話である。西寺と東寺を股にかけて仁王立ちする夢を見た彼が妻にそれを言うと、「あなたの股が裂かれるのね」と言われたのでびっくりしたが、出勤してみると、上司の郡司がいつもと違って彼を歓待してくれて、

なんぢ、やむごとなき高相の夢見てけり。それに、よしなき人に語りてけり。かならず大位には至るとも、こと出で来て、罪をかぶらんぞ

と言うのであった。で、本当にそうなってしまったよ、と語り手は話を終えている。今も昔も、人相でなにかを判断したがる人は多いし、わたくしも屡々やっているかもしれない。案外、「あの顔はあかん」とか言い合うことで社会が成り立っている面は看過しがたい。しかし、本人にとっての自分の顔というのはよく分からないので、――「その夢はいいね」と言われたことの効果の方が大きい。最後は罪人になろうとも、あまり気にはならないのではあるまいか。

確か、酒井浩介氏の以前の論文で、小林秀雄的批評の起源としての座談会についての論文があった。座談会がトラブル処理の権力闘争のドラマみたいなものになっているという論旨だったと思う。こういう説話でも、様々な声の権力闘争によってなり立っているところはあり、「伴大納言の話」の場合、伴氏は結局人相が悪かったんじゃねえか、という判断をしている話者が勝っている気がするわけである。『日本三代実録』でもなにやら容姿について批判されている彼のことであって、まったくかわいそうなことである。

ちびまる子ちゃんはその点、人相が良い……のだろう……

破廉恥とか第六夜とか

2018-08-18 23:04:18 | 漫画など


「ハレンチ学園」というのも今回初めて読んでみた。途中で有名な「スカートめくり」についての回があって、これが例の騒動のあれか――と思った次第だ。確か永井豪は、このとき自身が受けた社会的制裁について、エロの問題より、教師の権威を失墜させたことの方が問題だったのではないか、とどこかで述べていたように思う。確かに、作品の雰囲気は、当時の学園紛争の影響もあって、学校を解放区として描くことを目的としているように思うが、当時の解放区で起こったあれこれについては、フェミニズムからも強烈に告発されている通りであり、そう問題は簡単ではない。考えてみると、「マジンガー」とか「デビルマン」でさえ、おんなじようなラディカルさを持ち、同じような問題もはらんでいるのだが、「ハレンチ学園」には別種のラディカルさがあったように思われる。

しかし、――ビューナスAのロケットはよくて、ハレンチ学園の表現がダメだということを説明するのは、ある種の「常識」にとっては容易だが、思想的には難しい問題だと思う。判断が難しいのではなく、歴史的経緯や表現としての説明が難しいのである。学校ではなぜ物事が生々しく生起するのか、といった問題に持って行きたい人もいるであろうが、わたくしはちょっと別の角度で考えようと思っている。

そういえば、先日、学生と漱石の「第六夜」について話をしたことが気になっていたのだが、今日、偶然、永井聖剛氏の論文に同じようなことが書かれていたのを発見した。永井氏の論文は整然としたものであった。

1979年地球は最大の危機を迎えていた(最初のせりふ)

2018-08-05 17:52:33 | 漫画など


「キン肉マン」というのは、わたくしの小学校の頃はやっていたらしいのであるが、一回も読んだことがなかった。この頃はたぶんプロレスブームだったので、たぶんそういう感じのモンと思っていた。この前、宮台★司が、格闘技は時間の無駄がないけど、野球とかサッカーとかはだらだらしてて嫌いと言っていたが、考える時間もなく殴り合うとか蹴り合うというのは、ただの弱い者いじめであるから、わたくしは格闘技は昔から嫌いである。痛そうだし。

紅白歌合戦を見なくなったのは、あの北朝鮮みたいな雰囲気がいやなのもあるが、いやだと思って裏番組を見ると、格闘技しかやってないというのもある。歌か格闘技しか選択肢がないという、どこの部族やねんというわけで、自然とテレビから遠ざかってしまった。

今回、「キン肉マン」というのをはじめて読んでみた。第一巻だけ。この時点では、「ウルトラマン」のパロディであるようだ。ここから、遠くない時期に、おそらくは読者の要請で、格闘技マンガになってしまったのであろう。ドラゴンボールと同じ流れだ。以前のわたくしなら、そこに読者の頽廃をみるところであるが、案外、七十年後半から八〇年代の下品なパロディの隆盛と格闘技の流行は、同じような現象なのかもしれないという気がする。

どちらも戦後文化や戦争のパロディなのである。プロレスなんかは、格闘技のパロディでもある訳である。「キン肉」は人体の一部だが、「ウルトラマン」の「ウルトラ」のような形容なのであって、実際の筋肉ではない。それが、宮谷一彦の筋肉との違いだ。ただ、その筋肉もパロディに成りかかっているのであるが――こういう風潮は面白いけれども、長い間は続かないと思う。

第一巻自体は面白かった。これは小学生にウケるわけである。とてもやさしい絵で暖かみがあるし……。

西岸良平「三丁目の夕日」

2018-07-30 22:41:47 | 漫画など


今日、昼休みに「三丁目の夕日」の一部を読んでいたら、ようやくわたくしも西岸の描く女の子がかわいいと思ってしまったので、しっかりせよ、とわたくしはわたくしに呼びかけた。

ケンカの聖書

2018-07-19 23:59:07 | 漫画など


予習で「ケンカの聖書」を読んだ。梶原一騎の妙な言語センスってどこから来てるんだろうね……。七〇年頃の作品には、梶原じゃなくてもそんな雰囲気はあるけれども。

イグアナ的な肉体の帰趨

2018-07-07 23:28:17 | 漫画など


萩尾望都に「イグアナの娘」という作品がある。テレビドラマにもなったらしいがみていない。

主人公の娘は、生まれたときからイグアナなのであるが、そうみえるのは本人と母親だけである。母親の葬式で、娘が、自分がイグアナから転生したものであることを思い出すことで、――一応彼女がイグアナであることは整合性がついているのであるが、母親だけがそれを知っていることの謎は残っている。人間に恋して人間への転生を願ったイグアナの、人間としての幸福を阻害してしたのは、彼女を産んだ母親であって、いわば自分の肉体の生成元であった。つまり、この作品は、おそらく、肉体と精神の同一性への希求による激しい対立が大きなテーマなのである。(少女漫画だから、それは「容姿」の問題と思われてしまうかもしれないが違うのではなかろうか)だから、彼女は母親の死と、そして、本当の(転生前の)母親はイグアナに過ぎなかったことを受け入れることで、精神としての人間の生活に完全に移行できたのであった。

しかし、なぜイグアナみたいなものが肉体の問題としてでてくるのか。

わたくしは、肉体嫌悪(翻っての過大評価)みたいな問題を、あまり軽視すべきではないと思うのである。わたくしも、生まれてこの方、肉体の不調に悩まされてきたのであるが、――こういう人に多いと思うけれども、小さい頃から、自分の体が自分ではないような感じが常にあって、これはわたくしの人格形成に大きな影響を与えていると思う。こういうタイプは必ずしも精神的な人間になるとは限らず、むしろ逆である可能性が高い。わたくしはそういう危険性に常におびえていた気がする。わたくしの思春期にもう少し挫折が多くあったら、あるいはもっと成功があったなら、まったくどうなっていたのか分からない。

先日、オウム真理教の親分と幹部が死刑になったが、彼らが、結局肉体をコントロールして精神を高めるみたいなやり方をしていたのがわたくしには印象に残っている。彼らは、まったく精神を信用していないのである。彼らのサリン事件は基本的には、おそらく対米政策だったのであるが、アメリカが攻めてこようと、アルマゲドンが来ようと、あるいは、選挙で落ちようと、精神的な人間にとっては痛くも痒くもないはずである。坂口安吾で言うと、堕落する力があるということであるが、彼らは全くそれがないのだ。だいたい、バブル崩壊やオウム事件によって、日本社会が変わったというのは一部は当たっているけれども、やや浅薄な見方で、結局のところ反映論以外の何者でない。やたら忖度しかできない最近の連中の発想もおんなじである。ただ、こういうのが上のようなある種の体の不調みたいなものからくることをわたくしなんかは推測するから、宮台真司みたく、彼らを「クズ」と呼べないだけだ。確かにクズなんだけれども。

萩尾望都のマンガは、力が入っているところで、言葉にすごく重心がかかるのだが、この作品でも末尾で

わたしは涙と一緒に わたしの苦しみを流した
どこかに 母の涙が凝っている


という表現がある。非常に居心地の悪い表現で、さすがだと思った。

内田樹氏はよく「惻隠の情」の重要性を言うが、これは氏の体がなんだか丈夫であることと関係があると思う。他人の体を心配し思い描けるということは、必ずしも自分の体の弱さを知っていることと同じではなく、相手の精神に対する信頼から来るものだと思う。残念ながら、この信頼は、体が丈夫なやつは早くから身につくのではなかろうか。体の弱さは、自分の体と他人の体をコントロールする欲望につながってしまうのが屡々であるような気がする。

無表情・閨房・自傷

2018-06-29 17:51:06 | 漫画など


ブックオフなどに行って、頭を昆虫レベルまで落として何か掴んでレジでお金を払い、その掴んだものを読むという行為に出ると、なぜか生きる力がわいてくるわたくしであるが、今回掴まされたのが「総理の椅子」(国友やすゆき)の第一巻。

いまのところあまり面白くはなかったが、この前掴まされたところの、総理の椅子のダニの死骸よりも出来がひどいある少女マンガよりもかなり面白かった。

とりあえず、政治漫画としての出来はよくわからんが(というか、まったくせりふが頭に入ってこない)、無表情の青年とおじさんがでてきて何かしゃべってて、あと突然ベッドシーンがあって、最後におじさんが自分の手を切ってた。

国友さんというのはどういうひとかとWikipediaをみてみると、ひどいことが書いてある。

登場人物が真正面を向いている絵が少なく、西原理恵子からは柳沢きみおや三田紀房と共に「首寝違え三人衆」というあだ名をつけられた。
ストーリー上の特徴として、「打ち切り決定による物語の急展開」が挙げられる。サブキャラクターが突如として主人公に大きな影響を与える行動に出たり、突然、特異な才能を発揮し出して物語が急展開し、物語が無事収束するといったものである(『明日を信じて』『カネが泣いている』等)。


これはあまりの書き方ではないか。そこまでひどくはなかったぞ、今さっき読んだのは。そもそも物語が終わってなかったし。

「サブキャラクターが突如として主人公に大きな影響を与える行動に出たり、突然、特異な才能を発揮し出して物語が急展開し、物語が無事収束するといったものである」というところなんか、物語にはほとんど当てはまる。たとえば「竹取物語」とか「心」、「まあじゃんほうろうき」とか。

若さにかまけてドブに

2018-05-30 23:17:45 | 漫画など


もと吹奏族のわたくしであり、音楽系の部活の話にはごきぶりホイホイに突撃する如くなのである。この話のなかで、顧問の教員がいう台詞がよい。

「みなさんが普段 若さにかまけてドブに捨てている時間をかき集めれば この程度の練習量は余裕ですよ」

本当にその通りである。わたくしも若さにかまけて時間を無駄にした。


ユキちゃん

2018-05-10 23:47:23 | 漫画など


わたくしの世代には、「アルプスの少女ハイジ」の影響で、人間よりもヤギの方にかわいさを覚える人間が少なからずいるとみた。

恥の横乗り

2018-05-03 23:20:09 | 漫画など


学生には、活字ばっかりの本がきつかったらさしあたり漫画版で読みまくればよい、という教育をしてしまっているわたくしである。全くの無知よりとりあえずましという感じがするからである。元来、そんな教育には懐疑的であったが、プルーストの例のあれを一冊にまとめてしまったところの、某マンガで読破シリーズにびっくりして以来、どんどん漫画版を紹介してゆくことにした。

最近読んだのは、上の伊藤潤二版の「人間失格」。例えば、芥川龍之介の晩年の作品が伊藤潤二の作風に合っていないのに対し、確かに太宰の作品というのは、伊藤潤二的側面がある。細部は、元の小説とはだいぶ違い、本質的にも違う作品になっていると思うが、――もしかしたら太宰は思いついた素材を十分展開させずにこじんまりとした作品にしたのではないかという疑念(戦後の作品にはどうもそういう感じがあるのだ)が、伊藤のマンガを読んで湧いてきた。ただ、二巻の終わりの方で、瀧口修造を思わせる変な画家が出てきたところで、「やっぱちがうかも」と思った。

しかし、太宰はホントに伊藤が描くような精神状態にとどまっていたのであろうか。初期作品を分析する限り、もっと太宰は純真な老獪さを持っているような気がするのである。

そういえば、この前、山本敦久氏のスノーボードなどの「横乗り文化」についての論文を読んだ。わたくしは、横乗りも縦乗り(←知らんけど)も、なんか「ただ乗り」感がしていやだ。論文では、スノーボーダーのある集団が、農民となって野菜を作っている事例を紹介していたが、思うに、彼らはその横乗りに不安を覚え、土に縦に鍬や苗を突っ込む作業をしているのではないかと思った。横乗り文化が、競争や規則みたいなものを重要視するスポーツに対するカウンターだと自覚できた時代はもう過ぎているだけに、より困難な抵抗運動の形をとらざるを得ないのであった。わたくしは、オルタナティブな価値を目指す彼らが、小学校の道徳教育みたいなせりふを繰り返すのが気になる。マルクス主義運動もフェミニズムもそんなところがあったが、はやめに「子供っぽさ」と手を切るべきなような気がしてならない。必要なのは老人のような知恵である。


荒ぶる

2018-04-19 23:51:46 | 漫画など


「荒ぶる季節の乙女どもよ。1」を読んだ。