★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

田に禽あり。それを模倣する者あり。

2023-09-30 17:58:37 | 思想


六五。田有禽、利執言。无咎。長子師師。弟子輿尸。貞凶。
上六。大君有命。開国承家。小人勿用。


師とは軍隊である。軍隊にとって、動物の動きは独特な意味を持っている気がする。「西部戦線異状なし」の最後に蝶に手を伸ばそうとして狙撃される兵士のことを思い出す。田に侵入した獣を捕まえるとよい。たぶん田を荒らすことは食料に怯える軍隊にとって厭な感じがするからでもあろうが、そもそも自分たちが獣のように田を荒らさざるを得ない。兵士の肉体は獣である、――生死を自由にするしかない意味で自由でも、動物たちの動きと似て生死によって左右される意味で完全に不自由である。

スポーツもそれに似て、お互いを獣として模倣している。相手を乗り越えるために模倣してしまう。王、長嶋、落合、清原、イチロー、大谷とならべてみると、その業界内の物まね(芸人や一般人じゃなくて特に野球選手のOBたち)でネタになっているのは長嶋落合清原であろうか。他の人はなんか怒られそうな気がするのかなんなのか。そして、長嶋落合だけが声色までも真似される。たぶん、アスリート化した選手は、言語と肉体に分割された世界を生きるので、模倣とは違うのだ。元プロ野球選手の物まね能力というのは独特なうまさがある。研究者や物書きでも物まねがうまいひとがいるが、それほどでもない。ものを書く人は、リアリズムでも目指さないかぎり、アスリート化している。

映画や演劇は、特に後者は模倣を中心とした芸術だが、前者も同じスタイルのくり返しが過ぎてくると、自然に関聯ありそうな物事が引き寄せられてくる。今回の朝ドラの功績は、わが讃岐うどん県にとっては、保井コノの存在を浮上させたことであると思う。女性初の博士、おなじ植物学で、たしかかなり年下の妹に世話をしてもらいながら、独力研究に挑んだ。夫婦愛にそぐわない人なので朝ドラにならんのだろうが、重要だ。こういうタイプの人が注目されることで、まったく同じに見えない当時の女性にまで我々の視線は到達する。

十五夜

2023-09-29 23:56:12 | 文学


「このお家は私の家で 赤いきれや、おもちやや、いろんなおもしろいお話をかいた本をうつてゐるのです。そのなかには、あなたのことも、お月様のこともかいてありますよ。私は毎日、そんなご本をよんだり、お人形をつくつたりしてあそんでゐます。私は、小さい時に、お月様のところから、この家へもらはれて来たのですよ。これをお月様にさしあげて下さい。」と、女の子は、自分の頭から 赤いリボンをとつて、小人にわたしました。小人はそれをもらつて、またお月様のあとをおつかけました。お月様は女の子にもらつたリボンを、頭におかけになりました。お月様はまるでかわいゝかわいゝ女の子に見えました。
「まあ。お月様。あなたがそのリボンをおかけになるとあの女の子にそつくりですよ。」と、小人が大よろこびで言ひました。お月様もたいへんうれしさうに、その晩中、ニコニコと笑つていらつしやいました。
 その晩は丁度十五夜でした。


――村山壽子「十五夜のお月様」


「終朝三褫之」、でもやる気あり

2023-09-27 23:25:19 | 思想


訟、有孚窒。惕中吉。終凶。利見大人。不利渉大川。
上九。或錫之鞶帯。終朝三褫之。


お上からベルトを頂いても朝のうちに三度も取りあげられるとは、よほど調子に乗りすぎている。しかし、ともかくもやる気がある奴の仕業に違いない。なんもやる気のない輩はおもしろいこともしない代わりに大失敗もしない。

戦前の小説を読んでいると、地主制度が、積極的な権力というより、税のプレッシャーがあるにも関わらず気合いだけではどうにもうまくいかない生産のせいで、やる気のなさを発散する遺制になっていたことは明らかなようにみえる。地主だけでなく小作人も嘘をつく癖が直らなかったに違いない。そうすると、溜まるに溜まったマグマは暴力という形で噴出するだけである。今だったら、やる気のない集団の中で、ハラスメントやクレームが飛び出す。で、やる気のない奴は目標をしっかり掲げろとか他人に要求する。で権力を持った奴がますます過大な目標で集団を縛り上げつつ、その縛り上げられた集団はどうせ目標なんか達成できないから嘘をつく。しかし、それを罰することには限界があるので、目標を掲げた方が今度は達成したかのような嘘をつく。

地主制解体をうながしたとも言われる戦時下の皇国農村確立運動が、戦後の農地改革との関係でどれだけ重要だったのかはよくわからない。地主をいいことに政治家や教師になって農家をおろそかにし、ちゃんと農業をやらなかったため土地を農家に貸してたんだみたいなことを言う、元地主なんかもいたであろう。しかし、近代の国策との関係で彼らだって右往左往していたのである。農民としての誇りは元武士だったかもしれない証明できない夢想と結びつき、様々な系図がつくられたであろう。それが一部本物だったとしても、それをつくること自体に頼るべきプライドを形作る理由を隠蔽するという嘘が混じっている。本当でありたいその嘘は、ほんとに由緒がある天皇家に対する崇拝と強迫として結びつく。つまり、本気で崇拝している奴の方がまだましだということである。それをそのほかのものと関係づけているやつは偽物である。

穴と旅行

2023-09-26 23:58:53 | 文学


九三。需于泥。致寇至。六四。需于血。出自穴。九五。需于酒食。貞吉。上六。入于穴。有不速之客三人来。敬之終吉。

泥の中なのか、血の海のなかなのか、穴なのか、――人は需(待)つときには場所が発生するということであった。現代なんかは居場所論が大流行であるが、人々が待っているからである。安部公房の処女作も穴で待つ小説であり、彼はそれが出発だと言っていたようなきがするが、その出発は、死からの出発などという逆説じみたものよりも、占いのように、それが突然食卓や匣の中になったりするたぐいであったかもしれない。彼の体験した中国での戦争とは、そういう因果が見えない滅茶苦茶な世界だったのであろう。たぶん、そういう空間でしか、創発みたいな感覚は起こらないのである。

適切に自分や部下を休ませるのも難しいのかもしれないが、勇気と知恵があればなんとかやれるかもしれない。ところが勇気と知恵は機械的に休んでても身につかないような気がするのだ。それを成し遂げるためには、中国での戦争のような環境が心の中で必要である。

文学散歩みたいなものって昔からなんか嫌だったんのであるが、保田與重郎の「佐渡へ」ぐらいの感じだったら許せる。前者は因果律と連想の世界である。後者は、無調になった「武蔵野」の世界のようである。旅の文学は、近代の鉄道による目の変容で妙なものになったが、保田は佐渡にゆくときに船に乗っていて、これが、リアルになった土佐日記のようで、これが「武蔵野」から古代への逆行を可能にしている気がする。

批評と小説

2023-09-25 23:47:31 | 文学


包蒙、吉。納婦、吉。子克家。勿用取女。見金夫、不有躬。无攸利。

昭和28年の齋藤凊衛の『批評文学』なんか、おもいきり明治以降を無視しており、これはこれでさっぱりしてていいねと思う。齋藤氏にとって、近代の批評なんか、上の占いの女のようなものであったのかもしれない。金をもっている男の方についていくので関わらない方が良いと。我々は、小林秀雄以降、理念的にもスタイルとしても確立した精神を批評だと思っているが、もともとそんなものではない。

「君たちはどう生きるか」をみにいったときに、映画館のロビーにおじいさんおばあさんがたくさんおられて、宮崎氏も同世代に人気じゃないかとおもっていたところ、入場時間になって、かれらのほとんどが「こんにちは、母さん」の方に吸い込まれていていった。鑑賞後、こっちも「こんにちは、母さん」なのにと思って帰宅したわけだが、批評とは、こういう係争的情景とは切り離せない。作品の価値は情景のなかにあるであろう。その情景を忘れて、――まあ冗談ではなく、山田洋次的なものと宮崎駿的なものはさしあたり対で論じられるべきというか、もう誰かがやってるだろうけれども。。

対して、創作の方は、こころのなかのドアを何回も開けるような作業なのかもしれない。例えば、吉本隆明は『高村光太郎』で、2・26事件の時、「共感のほか何も感じなかった」と書いているけど、今風の「感謝しかない」「怒りしかない」みたいなものの原形だな。まあ端的に嘘ですわな。。――と、これが所謂批評である。係争のなかにあるから、誰かがそこになにかを付け加えれば良いし、もともと吉本も付け加えをしているに過ぎない。

ところが、中野孝次はこれを引きながら『暗殺者』をはじめていて、ちょっと違うとおもうところもないではないが、みたいな言い方をしながらどこがどうとはさしあたりいわない。この隠されながら引き延ばされた本心みたいなものがある種の小説の動機になっている。

この引き延ばしが、われわれが普段、思い出していらいらしたり怒ったり嬉しくなったりする時間に似ている。

乗馬班如。泣血漣如。

2023-09-24 23:50:15 | 思想


九五。屯其膏。小貞吉。大貞凶。上六。乗馬班如。泣血漣如。

よくわからんが、馬に乗ってもうまくすすめない/とおもったら、血の涙がはらはら流れている。まるで、エイゼンシュタインの映画のような悪夢が感じられる。

もっとも、エイゼンシュテインの生きた世界も中国の乱世も、モンタージュのような溌剌としたものがあったので、表現が飛び跳ねるということがあるように思われるのだが、ほんとの悪夢というのは、何十年もかけて知らないうちに自分で自分の首をしめているような状態を言うべきだ。

例えば、教育界の窮状は、人手不足でも労働時間に対する意識の改善でもモンスターペアレンツの増大でも教師の能力の低下だけで起こらず、最近の官庁からのいじめによるだけでも起こらない。近代化以来、求められる経済機械・軍事機械に人間を仕立てるのは大変なことであって、首謀者たちは自分でそれをやる気もやり方も分からなかった。それで、半端にかしこいまじめなタイプの人間たちを子どもの世話係にして結果だけを強奪する作戦に出たのである。そのいじめのつけがまわってきたのだ。で、半端さが度を超すとほんとにかしこいやつがどんどん逃げて行くと。

それは戦争が終わったら改善されるかと思いきや、全く逆であった。例えば、戦後の某小説に対する「母の心」と女教師を結びつけるあれね、作品の読みとしても変だし、考え方としても差別的だったのである。主婦と教師って同じ役割を押しつけられたといえるんじゃないだろうか。それに気づけなかったのは、師範出とか大学出の教師に対する対抗意識が大石先生的なものにあり、それが戦後の女教師たちに引きつがれたところがあったからかもしれない。いまの寄り添い系は別の起源があるのかも知れないが。。

ともかくも、その押しつけられた役割に自覚的になってなおもそれを負う人と、子どもや弱者、ほんもののマイノリティは命を賭けた戦争状態となる。

芥川賞を受けた市川沙央氏の『ハンチバック』をよんだ。戦後のフィクションは、いちぶ、プロレタリア文学風のものを受け継いで、人間になりたい話をたくさん生産した。この小説は、それに対する反逆である。この小説に描かれたことは、ある意味、村上龍や中上健次、宇佐見りんよりも倫理の底が抜けているが、これも、人間的なものの一部であって、本当は普遍的なものなのである。この小説はある意味危険である。生を生きることが崩壊の過程であるなら、すべてが崩壊したところで生きることにすぎないのだから許される。誰にでも起きうることではあるが、起きてからしか起きうるとは言えない類のものなので、当事者しか書けなかったわけだ。普通、起きうることは普遍化されるべきなのが社会である。この場合はそうはいかないのだ。おそらく、個人ではなく社会にとってもそういう事情がありうるのである。

最近「刺さる」とかいうておぞましやと思っていたが、さっき奥野健男の『情況と予兆』を読んでいたら、「心を激しく撃つ」とか「ぼくの心に突き刺さった」みたいな表現がでてきて、なんとなく浪曼派読んで育ったりするとこうなるかと勝手に思った。もしかしたら、奥野氏の世代は、市川氏のような体験を社会的に経験したのかも知れない。すべての生は崩壊する過程に過ぎなかったわけだから。

牝馬に利あり

2023-09-23 23:00:54 | 思想


坤元亨。利牝馬之貞。君子有攸往。先迷後得主。利西南得朋東北喪朋。安貞吉。

雌馬は大地のシンボルみたいなものかもしれず、その馬の気分でゆけばうまくいくこともおおいのかもしれないが、以前、木曽馬の雌が機嫌が悪いのを見て、馬は大変な動物であると思った。

我々の先祖は馬と暮らしていた。農家には馬の部屋があった。わたしも生まれたての頃、母の実家で馬に会った。愛玩動物にするには大きすぎ、蹴られたらこちらが大けがだ。顔も大きく歯もでかい。我々のサイズよりもなにか別の倫理的感覚が働かないとこやつとはうまくやっていけない。しかも力が強いからあくまで御さなければならないのだ。哲学で、馬や驢馬が比喩的に使われるのはそのせいではなかろうか。そもそも、哲学や倫理は、我々のサイズとは違ったものを考えることで成り立ってきたのではなかろうか。

コンピュターなんかが出てくる前に、我々の先祖だって、気まぐれな力の強い大きな動物を手なづける知恵を働かしていた。これにくらべて、我々はなんであろう。おれたちはこんなに馬鹿なのに、グーグルとかちゃっと何とかつかって頭悪くないふりして、実に不気味でいいとこなんてひとつもない。芥川龍之介「河童」の河童は、我々とサイズが似ていて、文化も似ていてみたいなものである。これはコンピュタに近い。いかにこういうものを相手にすると我々がいらいらして発狂するかを示している。

曰く、心持ちがすぐれません

2023-09-22 23:27:10 | 文学


うちの庭は、百日草と蛙に占拠されているのだが、この調子では、来年辺り、蛙と百日草の掛け合わせが出現して、香川大学への道は、百日草が不規則に飛び跳ねる事態で、美事大学も休講。。。

になるわけがない。いっそのこと、少子化対策として、うちの百日草と人間のかけあわせを提唱したい。二年で庭を占拠するところからして、十年ぐらいで世界を日本人だらけにできる。

ところで、日本人とかいつも我々は言っているわけだが、むかしはもっとそれですら均質的ではなかった。ナショナリズムの時代の方が均質ではないのである。――子どもの頃、少年講談全集の『曽呂利新左衛門』をくり返し読んだ。さっき久しぶりによんでみたが、ほとんどせりふをおぼえてた。これ文章を書いている人誰なのかわからんが、私はマンガのかわりに少年講談全集とかを読んでいたので、どうもこういう少年講談全集(昭和30年辺り)を読んでた世代と話が合う気がするわけである。で、ここが重要なのだが、本の帯とかには、石坂洋次郎とか力道山が推薦文を書いている。石坂が講談は「日本人の民族感情を把握する助け」になるんだみたいなこと書いてるあとに、力道山が「人生を強く明るく生きてゆくことが私のモットーです」と書いてるのが、いったいなんだろという。この葛藤に見えない葛藤が、日本のナショナリズム時代を爆発的なものにしている。装幀を人形画の西沢笛畝がやっているようだし、けっこう今考えると気合い入っているのだが、たぶん制作者たちは、単に気合いが入っていただけで、ナショナリズムにはけっこう無頓着だった。おそらくは、戦争に負けたので悔しくてよけいに無頓着になったのである。

わたしは、小学校五年生ぐらいの頃、「曽呂利新左衛門」を図書館の推薦図書にあげた。そこで、この本は面白さで押しているけれども、最後に「心持ちがすぐれません」と秀吉に極楽で城を造って待っていると死んでいったので、けっこうかなしい話ですみたいなことを書いていた。こんなところにも、葛藤があったのである。

私は、松田政男以来の均質化風景論に疑問を持っているのである。

易よりまずい評価

2023-09-20 20:00:30 | 思想


九四。或躍在淵。无咎。九五。飛龍在天。利見大人。上九。亢龍有悔。用九。見羣龍无首。吉。


龍は昇り、昇りすぎ、群がって首がなくなる。これらは因果的に繋がっているわけではない。しかし、道徳とつなげてみることはできる。

易図をみたライプニッツはこれは二進法じゃないかといったとか。われわれは、どこかしら、のぞき窓から全てが見えました、というのが好きな気もするが、窓があることと見えることが選ばれてあるときに、それが二進法に導かれるようにたまたまだからこそ、道徳的に意味づけることの輝きが増すのである。世界を一端ばらばらにせざるを得ないほど絶望的な地点からの発想である。占うとは、非科学的なものを信じるのではなく、なぜか既に行われているところの世界のことがらの組み合わせと風向きを知り、それにしたがって自分の心をを整えることだ。

柄谷行人は、むかし、占星術にはまっていたことがあったはずだ。このことは、かれが社会運動で、NAMは南無だとか、選挙の代わりにくじ引きだみたいなことを言っていたことと関係があると思う。

そういえば、「相手の気分で評価が下がったり上がったりするんだから気にするな」みたいな言説はネットに溢れかえっている。そう思いたいのは分かるが、他人というのは大概そんなバカではない。むしろ自分の気分と他人が下す評価の関係を考えないといけない。だからといって、その延長で人間関係が絶対と考えてしまうと、主体の問題が消えてしまって、死ぬしかなくなる。なんでもポイントでつられてるんじゃねえぞ脳みそ魚かよ、とか家の食卓でもりあがっていたのはいいが、職場に行くとポイント制とか議題に上がってました(シノウ)、といったことはよくあるわけである。こうなると、占いでもやって、龍が昇る局面はたしかに世の中にあるというのが救いになるわけだ。

例えば、世には「飲み会」?というものがあり、まあそれにもいろんなものがあるわけだが、基本うっぷんばらしの場である。しかしだからといって、飲み会は無礼講です、みたいな言い方を本気でとっているやつもばかだし、本気でコミュニケーション能力発揮の場だと思っているやつはよほどのバカだと思わざるをえない。がっ、最近、ほんとに処世のための行動をしたりそれに美事に騙されているアホ上司がえらく増えた印象である。これは、おそらくコミュニケーション能力みたいなものが評価項目となったからである。正直なところ、易経の、龍は昇ります、首がないときもあります、みたいなものより頭が悪い考え方であり、人間には筋肉がある、みたいなことを言っているだけというのに近い。最近、公務員や企業で採用されている評価の書類とかをときどき見ることがあるが、あれではがんばっている風に振る舞うことと、人の尻ぬぐいもふくめてがんばってることの区別がつかない。「あいつはいいやつだな、仕事はでけんけど」とか「あいつは性格はクズだけどごく希に役に立つときあるから冷遇するわけにはいかんか」とか「すべてつつがなくやるけど根本的に意地悪くてオワってる」、「あいつはアンパンマンの一番まずいところよりもまずいアホだ」とか、「あいつとあいつは仲が良いがだめだ、モノを運ぶときだけよい」みたいな、矛盾的自己同一的感想のほうがやつにたつ。

評価というのは、組織全体で出てくるべき数を人間に割り振るみたいな、小学校低学年みたいな発想で作られている場合が多いが、生産する現場はもっと違う矛盾的自己同一的関係性がないとつぶれてしまうし、組織のトップが吉慨だった場合に共倒れしてしまうにきまっている。個人プレーで人の業績を奪う勢いみたいなおかしなロボットが生産現場でやっていけるかといえばそんなことはないけれども、結果から逆算すると、そういう吉慨ロボットがたくさんいたほうがよいことになるわけだ。なにかを生み出す現場は、数字の外部にある偶然性みたいなものではない。いっそ、S=ウンコ、A=カレー、B=漬け物、C=ごはん、1=インコ、2=すずめ、3=とかげ、4=魚の骨、みたいにきめて、すべてをことばにするところから遊びはじめるべきだ。

「家書抵萬金」はいずこにありや

2023-09-19 23:03:43 | 文学


国破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪


井本農一は、かつて『帝国文学』の編集をしていたこともあった青木健作の息子である。井本は「懐郷・ロマンティズム・本意考」で、日本は狭いんで「家書抵萬金」みたいな、痛烈な懐郷はない、と推測している。で、連歌作者たちがほんとは懐郷の念なんか感じたこともないのにロマンティシズムのためにそれをやってると。日本人においては、どこか嘘をつくことと叙情が結びついている、みたいな主張であろうが、まだ、懐郷なんかはそこそこある場合があるんだからましな方だ。問題は、政治のことばとかの方であろう。

権利とか義務みたいなことばも、何が何だか使い方がめちゃくちゃになってしまう。

例えば、他人が自分のお願いを聞いてくれるようになるには手間がかかる。何年もかけて信用をえないとちょっとのことでも人は聞かないです。こんなことは単なる人間の集団の否認できない現象である。こういう人間関係上自然に起こらざるをえないことと、義務と権利がセットであるべき、みたいな狂った議論がごっちゃになっている。

脱お茶坊主論

2023-09-18 23:37:56 | 文学


又心高きこそ春宮の宣旨など、今の世にとりては古きものはべれ。まことにことばづかひなどは古めかしく、歌などわろくはべれど、いと名高きものにぞはべる。その人となきものの身のあまるばかりのさいはひを書きあらはさむとしたるものこそ

三島由紀夫を教えた国文学者のひとり松尾聡が「平安朝散逸物語攷」であげている「心高き東宮宣旨物語」についての「無名草子」の記述である。今の世ではもはや古いとされているけれども、こういう言い方がほとんど信用できないのは、昔も今も同じである。

テレビでときどき懐メロ番組やってて、視聴者が若者にいやがられている五十代以上が中心のせいか、――当時の歌謡曲がいまどきの子にも人気みたいな主旨のつくりでやっているときがある。しかし、五十年前と今みたいなつい最近同士でなかよくしても、いずれ国風歌謡の全盛期で当時の大衆に人気があった、みたいなくくりで教科書に載るだけなのだ。まだ、「無名草子」は優しく価値判断をした上で昔のものだとしながら、ある意味昔に対し品位があるんじゃないだろうか。

三島由紀夫は、松尾について、授業は文学的というより古典をを自力で読めるようにするための無味乾燥なもので、本人も偏屈で厳しかったが、対して「お茶坊主教師」は人気がなく、松尾先生はかえってひねくれ坊主たちに人気があった、みたいなことを書いていた。とにかく、懐メロ番組なんかはお茶坊主的なのだ。とにかく最近はすべてがお茶坊主的なのである。

ジャニーズのことが話題になっていて、彼らからはお稚児さんみたいな感じを受けていた、と辛辣に言う人も出てきている。

羽生くんが誰と結婚してもいいけど、スケート靴の職人とかリンクの整備係とかプーさんを縫ってる人とかと結婚とかそういう古風ないい話で差別的な言説はないのかっ。そういうものの方が、まだ、羽生くんを大人として扱っている気がする。

――かくいうわたしも、ジャニーズ的なものの旺盛のなかで、拗くれている。例えば、二回以上見に行った映画はひとつしかなく、それは「キルビル」である。大きい女性が刀を振り回す映画であるが、――よってわたくしは自分を非常に残酷なやばいやつだと思っている。どうせ現実では猫みたいだとしても。わたしは、猫に関する文章を随分読んできたが、猫にも隔世遺伝があるぞとか言っている寺田寅彦のものがいちばん好きだ。漱石も百閒もあまり好きではない。なにか、彼らの猫は、アイドルが好きですと言っている地点で滞留している気がする。

ジェンダーフリーのせいにするにはあまりに複雑な混乱のなかに我々はあり、とりあえず、人間一人を正直に描くことから再出発するしかないようだ。ひとりも取り残さないとか嘘でもいうんだったら、さっさと石川啄木とか中原中也とかを大河でやればよいのだ。朝ドラでもいいわ。ムラサキシキブとか例の植物学者は何処まで行っても大まかにいえば宮仕え(つまりお茶坊主である)のひとだ。いつまで経っても、かれらを描くことは国家を描くことと不可分で、どうしても人間にへんな理念的な空想が混じってしまうのである。

復古の近代

2023-09-17 18:37:00 | 文学
  海人の刈る藻にすむ虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ
と泣きをれば、このをとこ、人の国より夜ごとに来つつ、笛をいとおもしろく吹きて、声はをかしうてぞ、あはれに歌ひける。かかれば、この女は蔵にこもりながら、それにぞあなるとは聞けど、あひ見るべきにもあらでなむありける。


伊勢物語の六十五段を蓮田善明は「伊勢物語の「まどひ」」で自分流に訳している。このとき、会話文と和歌は原文のままのこしているし、地の文の言い回しも古風なので現代語訳のかんじがしないが、よくわかる。蓮田の「みやび」とか「まどひ」の観念も、どこかしら近代のにおいがする。三島由紀夫は別にほんとに復古だったわけではなく、蓮田流に復古だったのである。別に言えば、彼らは近代文学の中にあって、近代文学を復古しようとしていたところがある。蓮田善明というのはいまこういうタイプの国文学者がいたらぎょっとするのはもちろん、当時においてもぎょっとする感じなのである。

これが、中野孝次あたりになると、その実論理は似たり寄ったりなことを言っていながらだいぶ違う。彼ら戦中派の小説なんかをよんでると、怨念があるのは分かるけど、具体的にどういう風に生じた怨念なのかわからない場合も多い。ちゃんと自分の周囲と自分をスケッチしてない。これだと、特攻隊映画や「はだしのゲン」に勝てないんじゃないかなと。。。わたくしなんかは思うのである。

芥川龍之介が死んだ歳に、寺田寅彦は「夏」なんかを書いている。曰く、一番夏がすきで、軽く貧血になってぼうっとして鈍感になるのがドビュッシーの「牧神の午後」みたいだぜ、(いや、これは喫茶店の描写だったかもしれない――)と。蚊も平気で、蚊の居ない夏は「山葵のつかない鯛の刺身」だそうだ。日本の夏というのはこういうもんだったはずである、というのは簡単だが、同じ情況になってもかれのようなスケッチがちゃんと出来るかあやしい。



夏のような夕立があった。

町人学者をゴジラに

2023-09-16 23:04:25 | 思想


それは「加上」――加上の原則といふものを發見したのであります。加上の原則といふものは、元何か一つ初めがある、さうしてそれから次に出た人がその上の事を考へる。又その次に出た者がその上の事を考へる。段々前の説が詰らないとして、後の説、自分の考へたことを良いとするために、段々上に、上の方へ上の方へと考へて行く。それで詰らなかつた最初の説が元にあつて、それから段々そのえらい話は後から發展して行つたのであると、斯ういふことを考へた。それは「出定後語」の「教起前後」の章に書いてある。佛教の中の小乘教も大乘教も、――その大乘教の中にいろいろな宗派がある、その宗派の起る前後といふものは、この加上の原則によつて起つて來たといふことを考へました。

――内藤湖南「大坂の町人学者富永仲基」


富永仲基を、『文藝文化』の栗山理一は、ランケだヘーゲルだ、いやキリストだと持ち上げている。おそらく戦時中のアカデミズムへの批判が町人学者への再評価なんかも促したところがあるのかもしれない。わたくしは、戦時中によくあった芭蕉の讃美なんかはロマンティックでいやだが、まだ、日本浪曼派と国文学界の周囲には、なんとか生き延びて学問だけをやろうみたいな覚悟がそこかしこにあったに違いない。

かんがえてみると、今年の朝ドラもそうかもしれない。アカデミズムへの批判なんか自明の理にすぎない。もう少しで物語もおわるのにほとんど見てないのでなんともいえないが、どうみても主人公の細君(浜辺美波氏)が美人過ぎて、この細君はほんとにこれからすぐ死ぬのか、と思われる。つい、細君よ植物おたくの夫よりも生きよみたいな気分にさせてしまうのである。

いまからでもおそくはない、浜辺さんと神木くんを階段から落とせ、入れ替わらせて浜辺さんを長生きさせよう。


浜辺氏は、膵臓喰いたいみたいな妙な作品の出身であるから、どこかしら扱いがマニア向けであり、やたら仮面ライダーとかゴジラに出演する。ゴジラには今度出るようだ。とはいへ、浜辺美波氏がゴジラの膵臓を給食に出すみたいな学園ものなら見てやってもいい。ちょっとわたくしもさすがに人生50年、ゴジラに飽きてきたのである。

罪が目の前にありそうなのが青春であるとすると、罪が背中に貼り付いているのが中年以降である。ゴジラ映画なんかは、他人(米国)がやらかした罪が目の前にあったので、よろこんでしまったという感じで、やはり青春映画だ。背中にゴジラが貼り付いているような中年以降は、ゴジラが簡単にやっつけられないことを分かっている。

ゴジラの出現はいつも群衆が一緒だ。群衆心理にたいするあれとして、周りに影響されてついやってしまうみたいなイメージがあるけれども、個人で頑張るとき以上に個人的な力が溢れかえるものだ。大声援を受けたピッチャーみたいなもんだと思った方がいいかもしれない。ゴジラも一緒なのである。ゴジラも、群衆によって逃げながら応援されているとみたほうがよいであろう。我々の自意識=ゴジラは、しばしば勝手に群衆を代表することさえある。そういえば、学者でも、他人の論文に、私でも分からなかったと詰ってくる人というのは結構いるけれども、大概学者になろうとする若者はそういうのを無視しても大丈夫なのだ。たいがい「分かりやすくしろ」派は自分が代表者面してあらわれるにきまっているのである。なぜかといえば、本当はゴジラは罪でありながら罪を消去するものでもあり、しかも大きく明瞭だ。自己欺瞞も消去した物体にたいして我々は自信を持ちかねないのである。

日本浪曼派や文藝文化グループもどこかしら、夢を対象に投影する。つまり、ゴジラをつくりたがっている。プロ野球選手とか映画俳優が夢というのは、成功すれば喝采をあびるのでそれを夢と言っても良い気がするのだが、教師とか政治家とか研究者が夢とかいうのはなにかおかしい。それは義務とも違うが、やるしかないみたいな意識でめざすものであって、――夢とか言ってるやつはたぶん向いてないのではないか。ほんとはプロ野球も俳優も一緒かなと思う。