★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鉄格子のあちら側

2013-05-31 18:00:23 | 文学


涅槃大学校という誰でも無試験で入学できる学校の印度哲学科というところへ、栗栖按吉という極度に漠然たる構えの生徒が、恰も忍び込む煙のような朦朧さで這入ってきた。強度の近眼鏡をかけて、落着き払った顔付をしているから、何かしら考えている顔付に見えたが、総体に、このような「常に考えている」顔付ほど、この節はやらないものはない。当節の悧巧な人は、こういう顔付をしないのである。尾籠な話で恐縮だが、人間が例の最も小さな部屋――豊臣秀吉でもあの部屋だけはそう大きくは拡げなかったということだ――で、何かしら魔法的な力によってどうしても冥想に沈まなければならないような驚くべき心理状態に襲われてしまうあの空々漠々たる時間のあいだ、流石に悧巧な人間も万策つきてこんな顔付になることがあるという話であるが、あの部屋に限って二人の人が同時に存在することが決してないという仕組みになっているものだから、まったくの話が、あんな勿体ぶった顔付を臆面もなく人前へ暴すのは不名誉至極な話である。だから当今「常に考えている」顔付をあくまで見たいという人は、精神病院へ行くよりほかに仕方がない。あすこの鉄格子のあちら側には即ち必要以上に考え深い人達が、その考え深いという性質や容貌を認められて、幸福な保護を受けているわけなのである。

──坂口安吾「勉強記」


静養の風景

2013-05-29 23:18:40 | 文学


 一九〇二年の秋、巴里にはじめて出かけて行つて、ロダンに親しく接しつつ、遂にロダン論を書き上げ、伯林の一書肆より上梓せしめた後、やや健康を害したリルケは、伊太利ピサの近くのヴィアレジオに赴いて(三月)、靜養してゐた。ヴィアレジオは海に面した、松林の中に居睡りしてゐるやうな、靜かな小さな村であつた。その松林の向うにはピサの町が見えるのであつた。

――堀辰雄「リルケ書翰(ロダン宛)」

××研究室××

2013-05-26 22:50:00 | 大学

二日酔いで頭が痛い


ひなたぼっこをして頭痛をなおす


コンクリートとわたくしの膝頭


朝ですなあ…


細部に神は…いませんでした


ショウブ祭の会場に行く


咲いてない




睫が柳の小波に、岸を縫って、靡くでしゅが

2013-05-23 23:04:08 | 文学


 磯浜へ上って来て、巌の根松の日蔭に集り、ビイル、煎餅の飲食するのは、羨しくも何ともないでしゅ。娘の白い頤の少しばかり動くのを、甘味そうに、屏風巌に附着いて見ているうちに、運転手の奴が、その巌の端へ来て立って、沖を眺めて、腰に手をつけ、気取って反るでしゅ。見つけられまい、と背後をすり抜ける出合がしら、錠の浜というほど狭い砂浜、娘等四人が揃って立つでしゅから、ひょいと岨路へ飛ぼうとする処を、
 ――まて、まて、まて――
 と娘の声でしゅ。見惚て顱が顕われたか、罷了と、慌てて足許の穴へ隠れたでしゅわ。
 間の悪さは、馬蛤貝のちょうど隠家。――塩を入れると飛上るんですってねと、娘の目が、穴の上へ、ふたになって、熟と覗く。河童だい、あかんべい、とやった処が、でしゅ……覗いた瞳の美しさ、その麗さは、月宮殿の池ほどござり、睫が柳の小波に、岸を縫って、靡くでしゅが。――ただ一雫の露となって、逆に落ちて吸わりょうと、蕩然とすると、痛い、疼い、痛い、疼いッ。肩のつけもとを棒切で、砂越しに突挫いた。」
「その怪我じゃ。」

……泉鏡花「貝の穴に河童の居る事」

マタンゴの愛

2013-05-22 22:28:05 | 映画


時々観たくなる…
芥川の「河童」が文明批評的にがんばった結果、人間の恐ろしさが逆に伝わりにくくなっている?のに対し、この物語は直截的である。キノコ人間たる「マタンゴ」はネオン輝く東京に生息するエロスと食欲しかない人間そのものなんであって、だからこそ「マタンゴ」島から帰ってきた大学助教授はなぜか島でキノコを食ってないのに発病している訳だ。しかも彼はキノコを食べてマタンゴになってしまった恋人との愛を貫くことができたかもしれないだけ「マタンゴ」島にいた方がましかも、と最後に言っている。キノコ的な愛…ポストモダンを感じさせる…結末である(笑)

南洋孤島の酋長東都を訪うて鉄道馬車の馬を見、驚いてあれは人食う動物かと問う、聞いて笑わざる人なし。

2013-05-20 23:36:41 | 文学


 人間とは一つの微分である。しかし人知のきわめうる微分は人間にとっては無限大なるものである。一塊の遊星は宇宙の微分子であると同様に人間はその遊星の一個の上の微分子である。これは大きさだけの事であるが知識の dimensions はこれにとどまらぬ。空間に対して無限であると同時に時間に対しても無限である。時と空間で織り出した Minkowski の Welt にはここまで以上には手の届かぬという限界はないのである。
 疑いは知の基である。よく疑う者はよく知る人である。南洋孤島の酋長東都を訪うて鉄道馬車の馬を見、驚いてあれは人食う動物かと問う、聞いて笑わざる人なし。笑う人は馬の名を知り馬の用を知り馬の性情形態を知れどもついに馬を知る事はできぬのである。馬を知らんと思う者は第一に馬を見て大いに驚き、次に大いに怪しみ、次いで大いに疑わねばならぬ。
 寺院の懸灯の動揺するを見て驚き怪しんだ子供がイタリアピサに一人あったので振り子の方則が世に出た。りんごの落ちるを怪しむ人があったので万有引力の方則は宇宙の万物を一つの糸につないだというのは人のよく言う話である。

…寺田寅彦「知と疑い」