★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

反省・謝罪・夜明け前

2023-05-16 23:06:56 | 思想


孟子曰、愛人不親、反其仁、治人不治、反其智、禮人不答、反其敬、行有不得者、皆反求諸己、其身正而天下歸之、詩云永言配命、自求多福、


じぶんが人を愛しているのに相手がそうしてくれない場合は自分の仁の不足を疑え、人を治めてうまくいかなければ自分の知を疑え、云々と、自分のせいにしなさいという有名な説教である。これは自分に対してだけ疑いの目を向けよという点が重要で、にもかかわらず、人に「自分を疑えよ」と説教して歩いているのが現代人である。一億総孟子化である。

むかし、パリの五月革命か何かの時に、エドガー・モランが「学生コミューン」で、学園紛争を古代の成人儀式になぞらえ、人口半分が大学にくることでついにブルジョア的人間の超克がくるで、と言ってたが、確かに来たね。年中成人式みたいな祭典、あるいは総孟子化というやつが。

現代人は、孟子の言葉を人に言ったらおわりだと言うことすら気がついていない馬鹿なので、ただ「反」(反省)せよと言っても無駄である。しかし、とにかく思い上がっている連中ばかりであるからといって、連合赤軍みたいに反省して死ね、はまずい。連合赤軍の方々は、モランが学生に媚びて嘘をついていることを知っていた。嘘つきは殺すしかないと思ってしまったのである。正直なところ、その点では、三島由紀夫も同類である。

その点、太宰の「生まれてすみません」のほうが気が利いている。太宰に限らず、びっくりするほど好きな人の前にばかりいすぎるのが有効である。目の前の光に怖じ気づき、つい自分の存在を謝ってしまう気持ちになり、反省の自己愛を突破できる。

しかし、学生運動の方々も問題にしたように、我々にとって謝罪は統治されることでもあった。今日なんか、テレビのなかで陛下が田植えをしてたが、わたくしはちょうどスパゲッティを食べていた。こんなわたしに生きている価値はなし。そんなわたくしが今日創った現代詩

大谷君は今日も大活躍なのに
おれは富岡多恵子を一篇読んだだけ
ごはんたべて元気だそう


こんな体たらくであるのだが、原因はどうも生まれにあるようだ。たぶん信州人には二種類あって、朝起きたらキレイな山脈がみえるから田舎っていいよねと思っている人間と、朝起きたらまだ太陽のぼってねえな山が迫りすぎてて夜明け前は比喩じゃねえなと思っている人間である。前者は山梨県民とか静岡県民とかと変わらない人種である。わたくしは、どうも後者のメンタリティを持っているようだ。反省や謝罪以前に周りの空気が暗いのである。

数日前、浜辺美波氏が朝のドラマで八犬伝おたくを演じて「馬琴先生天才過ぎる」と身もだえし、文学研究を迫害するする輩を地獄に落とそうと頑張っておられた。が、残念ながら、あともう少しで、馬琴はだめだ人情は108煩悩だみたいな近代文学が背後にせまっていることをわたくしは感じる。これが「夜明け前」のセンスである。どう考えても、孟子が批判する思いあがったやからよりもましであろう。