★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ニワトリ泥棒と君主と

2023-05-14 19:39:45 | 思想


戴盈之曰、什一、去關市之征、今茲未能、請輕之、以待來年、然後已、如何、孟子曰、今、有人日攘其鄰之雞者、或告之曰、是非君子之道、曰、請損之、月攘一雞、以待來年、然後已、如知其非義、斯速已矣、何待來年。

ニワトリ泥棒にそもそも「君のやってることは君子のすることじゃない」と言うかどうかはわからない。ニワトリ泥棒もそんなことを言われては「今年は月に一羽にさしていただいて、来年になってやめます」みたいな嘘を言うに違いない。だから、井田法はすぐ実施しなきゃだめだ、すべきことはすぐしなきゃ駄目だと言われても困る。だいたい、ニワトリ泥棒の場合は、ただやめればよいことだが、井田法は違うだろう。

世の中、見事な弁舌だといわれているもののほとんどは、同じような立場の人間が、詭弁を押し通した例をみて、同じような立場ならこれもありかなと思う例がほとんどのような気がする。わたしが目撃しているのはほとんどそうだ。そこには、弁舌がなくてもあっても意見が通る条件がほぼ揃っている場合が多いわけである。

SDGsは、問題を問題ごとに解決するのではなく、その相互の連関としてとらえて解決するようにしてください、さすれば、権力や資本の都合を最小限に抑えられますみたいな主張に見えるので、――学級経営みたいなものに似ている。こういうときに、所謂「道徳」的なものが有効であるのは教員たちは知っている。子どもが卒業して、その環境が消えたときに、本人たちは、なぜあんな馬鹿なイデオロギーを強要されていたのかと恨むが、必ずしも問題はそんなことではない。道徳は、立場の違いみたいなものを無化し、ニワトリ泥棒の問題と君主の問題を同時に解決する機能がある。わたくしが、儒教みたいなものが今後復活するのではないかと考えている所以である。

これに対して、長い命脈をたもち、かえって100年後に活き活きするようなものは、役に立たないようにみえるのだ。そういえば、気がついたら、マーラーの第九番(1909)からもう100年以上もたってしまって、わたしは、彼と同じ世紀に生きていたことがうれしかったことに気付いた。こんな感情は、学級経営には使えないし、政治にもなかなか使えない。でもそれがよいのである。