帝使其子九男二女,百官牛羊倉廩備,以事舜於畎畝之中。天下之士多就之者,帝將胥天下而遷之焉。爲不順於父母,如窮人無所歸。天下之士悅之,人之所欲也,而不足以解憂。好色,人之所欲;妻帝之二女,而不足以解憂。富,人之所欲;富有天下,而不足以解憂。貴,人之所欲;貴爲天子,而不足以解憂。人悅之、好色、富貴無足以解憂者,惟順於父母,可以解憂。人少則慕父母,知好色則慕少艾,有妻子則慕妻子,仕則慕君,不得於君則熱中。大孝終身慕父母,五十而慕者,予於大舜見之矣。
若者達は愛する者と天下をみていて、次々に失敗してゆく。親など忘れて果てているので、「大孝」は父母を慕うこと、勢い父母に受けいれらることを掲げなければならなかった。それでいくらかの失敗を防ぐことが出来る気がしたのであろう。しかし果たしてそうであろうか。昨日は、東大の若者達が中心に創った『文化動態研究』が何冊かとどいた。なんだろう、若者の論はなんだかいつも正しい気がする。わたくしもそろそろ年齢詐称の季節ではなかろうか。
若者達は天下を夢みるけれども、それは権威への服従と大概は裏腹である。親が尊敬されないのはまさにそれが原因である。しかし、これもなにかもっと大きい我々の癖がないであろうか。たとえば、古墳がないという木曽からきたわたくしに比べれば、古墳がそこら中にある土地出身の輩など、先祖代々権力にヘコヘコしてきた遺伝子をもっている、のに対してわたくしの遺伝子はもしかしたら独立不羈の猿の遺伝子がまざっているかもしれないのだ。先日、中野市でいきなり人殺しをしていた若者がいたけれども、これはどういうことであろう。文学的・心理的には、孤独が攻撃性を生むんじゃなくて、絶望が生む、そして絶望はたいがい無知を伴う、みたいな説明がつきそうな気もするが、はたして――、彼にも何か埋め込まれた何かがあるのかもしれない。柳田國男が紹介する、突然機械のように人殺しをする人間というものはいるものだ。
意図を探り動機はあえて無視しなければならない場合と、動機を探り意図は無視しなければならない場合がある。テロの場合は前者で、今回のような「よくある」犯罪の場合は後者をとるのであろうが、いうまでもなく、それほど動機と意図は区別できない。むしろ、われわれは意図を析出する努力によってかろうじて多方面から構成される動機を疎外できる、気がしているだけだ。
こんなめんどうな私という意識はこりごりだというわけで、――藤井君と大谷君の遺伝子組み合わせてじゃんじゃんクローンつくろうぜ、みたいな人間でもでてくるであろう。チャットなんとかもその一環である。しかし、われわれはいつもそんな大物にはなりようがないのだ。高松には、弘法大師の名付け親的存在である観賢僧正が、死んでるが生きてる空海どのの髪の毛を切って、その剃刀を埋めたという寺がある。もしかしたら空海のDNAが残っているかも知れない。藤井君と大谷君と空海を組み合わせた人間がいたとして、将棋を全部勝った彼が夕方ホームランをうつと砂漠に水が出る的な事態に――。それはありえない。