
所で何の研究でもさうでありますが、初めに總論のやうなものが出來ますと、それからあとの研究は段々、自然細かい所へ入り過ぎて仕舞ふ。其の細かい研究と云ふものは、研究者本人に取つては隨分相當に面白いことがあると思ひましても、一般の人が聽きますと、何か研究者自身が一人だけ分つたことを言つて居るやうになりまして、餘り興味が多くないと云ふやうなことになる傾きがあります。それで弘法大師の文學上の事に就きましても、既に大體の總論に於きましては、谷本博士の講演があり、又幸田博士の文學上に對する意見も發表せられて居りますから、其のあとで私が何か申さうとすると、自然どうしても一部分の細かい事に入り過ぎるやうな傾きになるのは免がれませぬ。勿論初めから其の覺悟で何か細かい一部分の事を申上げて、それで御免を蒙らうと云ふ覺悟でありますので、今日御話を致しますのも、弘法大師の文藝とは申しましても、極く其の中の一部分、詰り大師の著はされた書籍に就いて、それの批評と申しますやうな事を申上げるに過ぎませぬ。
――内藤湖南「弘法大師の文藝」
さっきテレビで司馬遼太郎「空海の風景」についてのシンポジウムやっていた。こういうのって、何処まで観客の頭脳に勝手に忖度しているのかしらないが、空海でも坂本龍馬でも聖徳太子でもおなじような結論に達するどうでもいい、かかる公開おしゃべりをやめないと日本の文学思想の世界はどうにもならない。なぜかと言うに、観客がバカになるからではなく、観客がいらぬ細かい研究に入ってしまうからなのである。よく知られているように、大衆とは自分が専門家だと思っている輩のことである。シンポジウムとかは「総論」なのである。しっかりしなきゃいけない。
つづいて「日曜美術館」がはじまった。これまた、何の専門家のつもりなのか、小説家がナビゲーターを務めている。よい総論とは毎回言えない。しかし、今回は、わたくし、新宿西口などをデザイインした坂倉準三て西村伊作の次女と結婚しているということを調べ、いっぱしの自己満足に陥ったことを良しとしよう。