淳于髠曰、男女授受不親、禮與、孟子曰、禮也、曰、嫂溺則援之以手乎、曰嫂溺不援、是豺狼也、男女授受不親、禮也、嫂溺援之以手者、權也、曰、今天下溺矣、夫子之不援、何也、曰、天下溺援之以道、嫂溺援之以手、子欲于援天下乎。
民衆が苦しんでいるのにあなたは、兄嫁が溺れているのを手で助けるように、なぜ手をさしのべようとしないのか。男女が物をやりとりするときに手を使わないのが礼なのは分かるとしても、民衆に起こっているのは非常事態ではないか?――こう質問する者がいる。孟子はいう「民衆を助けるのは(非常事態だとしても)道によるものだ。溺れる者に手をさしのべるのとはわけが違うのだ」。
これだけでも、いまの国民に寄り添ってゆきたいと思うなどと言う政治家や、子どもに寄り添って行きますとばかり言う教師より孟子が優れているのは明らかだ。政治家も教師も道を用いるべきなのである。政治家も教師も個人を相手にしているのではない。ただの癒やしではなく道を説かなければならないのである。
最近は、やたら個人の幸福が集団と関係づけられずに、個人と個人との関係に比されてしまう。例えば、いまの文化的事象に対して壊滅的だみたいな評判がある。必ずしもそうは思えないが、その原因が芸術家たちの個人的がんばりにあまりにも帰されている気もする。判定や推しばかりでともに戦ってくれるみたいな人間が減っているんだと思う。芸術はそうはみえなくても集団的な倫理で成立するものであり、個人と個人の物のやりとりではない。
道は個人よりも敬意みたいなものが主体である。わたくしは、アメリカの数学者でテロリストであった、カジンスキーを思い出す。彼の犯行は個人的なものであるが、20年間も続いた。彼に敬意みたいなものはあったのか、たぶん数学や社会科学みたいなものにはあったのではないだろうか。これに対して、「20世紀少年」とか「エヴァンゲリオン」とか「わたしを離さないで」とか「残響のテロル」みたいな話では、敬意の消滅が、――つまり親子関係の消滅が、テロや行動の原因となり、しかもそれはあまり長くは続かない。主人公たちには真理への追及みたいなモメントが欠けている。