「あれは鉄砲だよ。近寄ると、ズドンといって、みんな殺されてしまうのだよ。」と、親すずめは子すずめにいいきかせました。
ところが、いつかの物忘れのからすがやってきて、かがしの上に止まりました。
「どうしたのだろうな。」と、おじいさんが、頸をかしげました。すると、そのからすは、
「知っていますよ、なにを持っても打てないことを。ばか、ばか。」といって、笑いました。
他の鳥たちは、からすの勇気に感心しました。いままで、ばかにされたからすが、いちばんりこうな鳥といわれるようになりました。そして、すずめたちは、かがしを侮って、稲を荒らしましたが、ある日、おじいさんの息子の打った、ほんとうの鉄砲で、みんな殺されてしまいました。
いつでも、ばかとりこうとは、ちょっと見分けのつかぬものです。
――小川未明「からすとかがし」
見分けがむずかしいのはすずめとからすに限らない。特に小学校の先生なんか、瞬発力も短時間での合意形成に長けてる人が多いのだが、それ、いじめがうまいやつの特性に似てるわけである。こういうのも見分けが難しい。――というより、自分の長所こそが悪そのものであることを自覚するものだけが見分けを行おうとする。
その見分けを行う気がないものが、事態を混乱させておきたいので、二つのものを一緒にしたりする。例えば、ミーティングや集団討論みたいなものに強い人と、手続きが正当であることを無視できない会議や議会で力を発揮する人ははっきり別の人間である、というのは大人の常識である。しかし、いまの学校でのグループワークは前者の能力に偏っており、その結果、――雑に言うと、コミュニケーション能力は合意形成までは向いてるけど、政治や議会には向かないことが隠蔽されるのである。