★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

顔毛時代

2017-05-31 23:57:06 | ニュース


たかが誰かが大関になったぐらいで国会より大騒ぎしているニュース制作者は頭おかしいのではないかと思うが、高安と言えば、土浦出身であって、わたくしは稀勢の里の牛久にも土浦にも大学院時代、子ども達を教えに働きに出ていたから、愛着がある

というと嘘で、とりあえず私からいえることは

茨城のくせに調子こいてんじゃないぞ がんばろう東北北関東」。

私は、稀勢の里の顔がどことなく北の湖に似ているので、彼の顔を応援していたのであるが、高安と言えば、そのすばらしい毛むくじゃらであろう。私も結構毛むくじゃらで、背中にもたてがみのようなものがあるので「坂本龍馬かっ」と両親は期待したのであるが、私は暗殺されるのは嫌なので、このまま寧ろ只の「馬の骨」で生きてゆきたい。……というか、その高安の見事な毛むくじゃらは応援のしがいがある。

これからは稀勢の里と高安の時代だ、とか言って、密かにハーフは日本人と見なす(必然的に大鵬もOK、御嶽海も横綱になってよし)とかいう差別を行っている御仁が多いと見受けられるが、結局、わたくしにとっては、只の顔と毛むくじゃらなのであって、むしろこれからは「顔毛時代」と言ってよかろう。

というより、白鵬の四十回優勝が早くみたい。白鵬嫌いが共謀して白鵬に心理的圧をかけるのをわたくしは許さない。

追記:東京オリンピック、まだやるつもりなのかよ。

出たとたんに読んだ珍しい本

2017-05-30 21:34:37 | 文学


昨年度、連合赤軍事件の小説のいくつかについて講義したので、桐野夏生の『夜の谷を行く』が出た時にはすぐさま買って読んだ。初出でも読んでいたんだが、最後まで読み切れなかったんでね…

いままで桐野夏生をあまり読んでなくて申し訳ありませんでした。なかなかものを考えさせるじゃないか、ありがとうございます。

連合赤軍の小説は、小説家が頑張って説明しようとしてかどうかは分からんが、時間や空間が滞留したような感じになってしまうのだが、これは逆効果だったのである。この小説みたいに、日常生活のテンポが徹底的に描かれたあとで、回想されなければならないのだ。あの事件は、いろんな意味でどんづまりの事件だったのではない。明らかに我々の日常のど真ん中で起きた事件だからである。それをこの小説はみごとにやってのけているように感じられた。

17歳の風景

2017-05-29 22:50:01 | 映画


岡山の高校生金属バット殺人事件をもとにした映画。この「風景」はあまり印象に残らなかった。部活の後輩を殺したと思い込み、母親をバットで殴打して殺害した17歳が、東北地方に向けて自転車で1300㎞を走った。彼が見た風景を少年を演じる俳優とともに我々はみてゆくのだが、少年は少年自身をこの映画のようには見ていない訳である。実際は、この映画よりも、自分がいない、のしかかる風景のなかを彼は自転車で走っていた。しかし、そこがあまり実感できそうで出来なかった映画だった。「遠くから見ているだけ」でいいのか、というテーマを持つ映画であって、確かに遠くから見ている気もしないのだが、寄り添えば何か分かると思うのは幻想であるのも明らかだ。無論、制作者はその自覚があって、我々に何か行動を起こさせようとしているのであろう。

途中で出てきたお爺さんは、どこかで見たなと思ったら、針生一郎だった。なんか評論家じみたしゃべり方だなと思ったらホントの評論家だったのである。彼がしゃべった、シベリア抑留やら青春についてのお話をどうとるかも観客に任されているのであろうが、どうもあまり考える気にはなれなかった。

風景論で良く言われることだが、風景を風景と認識するには饒舌な言葉が必要である。言葉が抑制されているのか、言葉が出て来ないのか、何も考えられないのか。――わたくしは、この映画が訴えているのは、言葉、つまり風景の不在であると思った。

コンタクトなど

2017-05-28 22:48:28 | 文学


・「コンタクト」はいい映画だと思いつつ、原作のいいところをかなり削いでいるというのがわたくしの印象であったが、今日原作を一部読み返してみたら、原作の結末の付け方にもいまはわたくしは不満であった。

・また中日ドベゴンズに逆戻りしてた

・白鵬優勝万歳!

・F・シュミットの交響曲を演奏したいなあ……天才中学生に転生して。

・言われて国語辞書を引きました→正解したらまあ褒められる……かな(小学生低学年)
 自主的に国語辞書を引きました→別に……(中高生)
 辞書にこう書いてありましたと主張→怒られる(大学生)
 辞書の項目執筆をやらされる(大学院生)

……我々の業界だとこれが常識なので、××首相は××

・国語辞書を引かせました→むしろ意味をグループで話し合いましょうと教育主事から怒られる(小学生)
 生徒が自主的に国語辞書を引きました→辞書を持ってきたことから褒めましょう(中学生)
 分からない言葉が教科書に載ってました→教科書が難しすぎると文句がでる(高校生)
 ネットにこう書いてありましたと主張→先生によっては褒めてくれる(大学生)
 辞書の項目執筆のバイトすら来ない(大学院生)

……最近はこんな感じだな、辞書を引いただけ××首相はえらい……わけはない。

・出会い系バーってなんだろ。芳子の蒲団より淫靡なものが置いてある感じなのだろうか……違うか

・「システィーナの聖母」の背後の天使たちが時々思い出されて、起きているのにうなされることがある。

鉄男やっぱりすごかった

2017-05-26 23:12:38 | 映画


授業の予習で塚本晋也監督の「鉄男」を観たが、世評通りなんだかすごかった。安部公房が『カンガルーノート』を書く時にもっと若く、しかもかわいい恋人がいない状態で、ダリが自分の国に原爆を落とされてから「アンダルシアの犬」を…。と想像はできるし、確かに『アキラ』や「生物都市」にも似ているとは思うが、この丁寧な工作感は独特である。少年の心(笑)を保つのは簡単だが、男子中学生の心を保つのは難しいと思う作品……。

大丸で、御意に従はふ

2017-05-25 23:11:37 | 文学


一時間目には、太宰治の「燈籠」を一年生と一緒に読む。四時間目は、カフカの「流刑地にて」や「セメント樽のなかの手紙」や劇画のエロティズムの話。授業を終えたらなんだか疲れたのだが、ちょっと気になったので、昭和5年だかの『エロ戦線異状あり』を読む。そのなかに、「燈籠」のさき子が恋人のためにパンツを盗みに入った大丸がでてきた。

「じゃ、御意に従はふ」がいいね!

シュトラウスと西田幾多郎

2017-05-23 23:46:54 | 音楽


今日は「影のない女」を流しながら片づけした後、西田幾多郎の一部をメモを取りながら読んだ。昔は気がつかなかったが、西田の文章というのは、決めぜりふへと盛り上がってゆく感じがすごいね…。シュトラウスにおけるラッパ隊みたいなものかな…

ツタヤといろいろ

2017-05-21 23:56:51 | 思想


・今日は、近くに出来たツ×ヤに出かけてそのあとはタ×ーズコーヒーで黒い水を飲む予定でいそいそと出かけたところ、駐車場は満員で、道路に車の列が……まったく庶民が同じことを考えおって、共謀罪で取り締まるぞと思った(←お前が言うな

・有識者会議で保守系のおやじが「天皇は祈ってるだけにしなさい」とか言ってたのに天皇が傷ついた、とか新聞に出てた。そりゃまあそうなんだろうけれども、これに乗っかって保守をたたこうとすると、我々は「不敬罪」を復活させることになりかねない。天皇を人間扱いしないのはある種の人たちの伝統であり、いまさら驚くことではない。(天皇も人間扱いしないけども、大概、他の人間も人間扱いしないのが問題なのだが――)だいたい、『毎日新聞』の図はなんだありゃ、天皇がお祈り巡幸を頑張っているからといって、国民と天皇の関係が「相互的」になった訳ないじゃん。こういうトリックが、天皇を記号扱いして人をたたくカラクリを隠蔽するのである。それにしても、天皇を尊重するためにも軽蔑するためにもそれを記号として扱わなければいけないのはやっぱりそれ、人間への態度としてどうなのであろう。

・とはいえ、松本×志とか三浦瑠×とかが出ていた性悪バラエティーを見ていたら、つくづく「二重否定が単なる肯定としての効果を大いに持ちそれに気づいていないふりをしているプチインテリ」の典型をみるようで嫌になった。最近の若手(といっても40代ぐらいまでを含む)はこういうのが多いなあ……。評論家面しおってからに、その実、処世術ではないか。わたしも気をつけなくてはならない。

・『朝日新聞』の教育欄で、高校の国語の教科書の紹介があって、「物語 視点を変えて発表」とか書いてあった。いまだに視点を変えるとかいうのが頭が良いと思ってるのが笑えるわ。高校生の国語の力を阻害しているのが、その陳腐な視点の相対主義であることにはやく気づいてくれねえかな。

・弁証法のふりをした形式論理というものがあるわけだ。

・イエスまるまるクリニックの人は一体何がしたいの?西原理恵子はマンガで「てめえのCMを陳腐と言われて訴えてんじゃねえよ、お前の処理してるのはチ××だろうがよ」とやって欲しい。

・「今さら共謀罪云々で騒いでいる人たち」を批判するのは確かに一理あると思うが、一理しかないんじゃないかな。だからどうしたらよかったのか、わたくしには正直分からない。問題が多すぎて、どこからつっこんで批判したらいいのか分からないからだ。そりゃ戦略とか優先順位とか、言うだけなら簡単だよ。でも、直観的に本質的に全部が狂ってると思わざるをえないからね……。

・だいたい、戦略とか言っているやつって、誰かに仕事を押しつけようとしているだけじゃん、だいたい。

・種子法ってどうなったっけ?うちの国の国体とやらもおわりだな。アーメン

権利のための美

2017-05-20 23:41:48 | 思想


わたくしは文学の教員なので国語国文学研究室に属しており、他の研究室のことはよく知らない。例えば、社会科ならマックスウェーバーやイェーリング、教育学ならルソーとかペスタロッチを当然学生にガリガリ読ませているのであろう。わたくしが、『破戒』や『人間失格』を強制しているように……。

しかし当然、国語の学生でもマックス・ウェーバーの何かぐらいは読んでおくべきで、もし読んでいない人間が小学校で教壇に立っているとしたら非常にまずいと思う。しかし、こういう危惧に対して「勉強だけ出来てもコミュ力がないと教師をつとまらない」とか、まだその「勉強」とやらをやってそれを言うならましなのだが、忖度服従と口先だけで出世してきたような輩がどの業界でも若者たちを脅迫している。問題は、口先の輩がだいたいにおいて「自ら虫けらになるもの」(カント)であるにもかかわらず、その自覚がないので、他人を虫けら並にあつかうことである。

久しぶりにイェーリングをめくってみたら、イェーリングがそのカントの言葉を引いていたので、思わずここにかいてしまったが……。確かに、奴隷にも虫けらにも自由があるではないかとか、イェーリングは自分の闘争趣味を他人に押しつけているとか、いろいろ意見はあるのであろうが、――彼の「権利のための闘争は、品格の雅歌である」と言うせりふを自覚する精神は、ただ役職について喜んじゃうような精神よりも、確かに虫ではない。後者には雅歌がない、つまり心がないのである。イェーリングは、権利を主張しない人間の「心の消滅」を指摘したいのであろう。

例の「二分の一成人式」が、ようやく議論になってきたようだ。親との関係が良好でなかったり、親がとんでもない性悪だったり、逆に子どもが性悪だったり(案外言われてないか…)といろいろあるから一律に感謝を強制するのは最低、という意見はもっともだ。しかし少数派を無視しても多数の「感動」で子どもとの関係を調整したい学校の教員は、勉学を強いていることと同様に多少のことには目をつぶり、親への感謝という大目標をとるべき、と本気で考えるであろう。それを、「思春期」の前に一旦子育てに満足したい親のエゴがあと押しする。マイノリティからの意見は、この現実に太刀打ちできるのであろうか。

問題はそもそも「二分の一成人式」――これをセンスがいいと思ってしまったセンスが、絶望的に腐っていることにあると思うのである。成人式に価値があることを前提にしているところも、イデオロギー的に偏向しすぎてて話にならない。どうせJPOPより劣悪な歌詞を歌わせ、空疎な作文を読ませて、子どもの心を殺しているだけだ。よくこんなことができるものである。親への感謝とやらを「母の日」や「父の日」のプレゼントなどで代替するようになったら、親子関係が危機に瀕しているかもしれないというのは、それこそ大人(成人)の常識のような気がするんだが……。子どもの頃から、行動ではなく口先(物)で感謝を表すことを覚えさせてどうするのであろう。しかもそれを集団でやる訳であるから、てめえの意志とは関係がない訳で……、将軍様マンセーとどこが違うのだ。

昔はわたしも、イェーリングが権利のための闘争をしない者は美を解しない、と述べているのを読んで、そんなもんかなあ、闘争的なやつらには下品な奴も多いけど……、と思ったものである。いまはイェーリングの言いたいことが分かる気もがする。権利ための闘争には、美のための闘争が絡んでいることが確かな気がするからである。子どもだって、密かに権利のための闘争を日々行っている。しかしそれは食欲とか暴力衝動を満たしたいだけでなく、心のための、美のための闘争である側面が必ずあるはずである。私は、それを信じたい気がするが、というのも、「二分の一成人式」が合唱などを伴うように、美の抹殺のためには、違う「美」を以て上書きする必要があると、学校においても自覚されているからである。我々が、こういう話題に必要以上に不快感、あるいは快感を覚えたりするのは、美が絡んでいるからだ。

La Liberté guidant le peuple の女神が胸を出しているのは、母性を現しているとはわたくしはあまり思わないのである。やはり、彼女(自由)はエロチックに美しくなければならなかったのではなかろうか。プラトンを引くまでもなく、正義はエロティックなものである。

とはいえ、親になるとそんな事情を忘れてしまうのは、我々が生まれてからかなり長い間、汚い液体を吐きだしたり垂れ流したりする恐ろしい物体にすぎないことを目の当たりにするからかもしれない。無論、戦争も同じような効果を持つに違いないし、学校の教員が、児童や生徒、親たちから受けている暴力もそのような効果を持つ。明らかに、教員は心を殺されたのである。――そんなことを時々思い出すために、「勉強」が――、当事者ではない人間、例えばカントやイェーリングからの啓蒙が必要である。

戦闘の指示向線

2017-05-19 23:03:15 | 思想


70年代初頭、三上治にそんな題名の本があった。指示向線とは何か?それはともかく、この頃の戦闘的な人たちの用語法というのはなんだか面白い。この言葉なんか、もう少しで円谷特撮に出てきそうなニュアンスを持っている。もちろん言葉の面でもどうやったら戦闘的になれるか、という課題があったのである。今回の共謀罪の議論のなかで、ある党が「戦闘本部」を「立ち上げた」(←この言葉大嫌い)ところ――、そもそも「戦闘」とか違和感があるなーとか、リベラルだか左翼だかのカテゴリーの人たちの一部が言っていたそうである。事態はここまできたかと思うのであるが、批判を「つっこみ」とか学者が言っている御時世である。日和の技術も高度になってきたものだ。

それはともかく、新左翼なんかも、おれたちは既成のインターナショナルも民族性も受け入れないぜ新たな絆と綱領でがんばるぜ、みたいな感じだったわけだが、今は、戦闘も既得権益も受け入れないぜ新たな絆とミッションの再定義だぜ、とか若手笑が言っている訳である。まさにですね、ファシスト予備軍として全く進歩がない。というのは冗談であるが、そういえば、あるところで、ある官庁の若手笑グループがつくったポンチ絵が話題になっていた。いずれ本性が「見える化」(←あっ、一般人と共謀しちゃった)するであろう。事務職の誇りを忘れ、お絵かきと恫喝と……

結局、事態を変えるのは、小林多喜二のがんばりとか、永田洋子の暴走とか、赤報隊とか、安倍晋三(妻も同伴)の行動とか、なのである。法案を読んでないので正確にはしらないが、「共謀罪」は最悪の代物かもしれない。自分たちは共謀しない一般人だから大丈夫だとか思っている(ふりをしている)一般人は、そもそもだいぶ前から潜伏モードに入っただけであり、地獄の前で永遠にうろうろしている人たちだからどうでもいいとして、どうもわたくしは、学者やリベラル陣営にすら見られる協働したがる、いや「群れたがる」傾向が気になる。JPOPもどきの言葉で社交やってても、現実の生産関係を押さえているネットワークには負けてしまう。こう言うと語弊があるだろうが、トランプやうちの首相が、ある種の単独自爆テロの犯人に似たイメージを纏っていることを看過してはならない。つまり、現代は「テロリスト」が喝采を浴びる時代なのである。権力が「共謀」を取り締まることを、アイロニカルな、教育的意味として受け取る必要もあるのかもしれないのだ。というのは冗談であるが、一人でもやろうと思わないやつが何か別の目的を持ってズルをしようとしているのはもうバレているとみるべし。

いまやファシストの「主体性」を尊重しているような大学であるが、文学はそんな環境でこそ面白いことがやれる。

ぼくの地球を守ってといろいろ

2017-05-18 23:02:34 | 漫画など


今日の午後の授業では、「グレの歌」と「同棲時代」の話をしていたら1時間半たってしまったが、それはともかく、『ぼくの地球を守って』というマンガは面白そうだ。

ところで、マーラーの第8番の15台のピアノ版というのを聴いたことがあるような気がするが、とても奇妙な音楽だったのを覚えている。私はドイツ語はあんまり、というかかなり忘れてしまったが、歌詞を抜くと音楽が全然違って聞こえる。対位法が面白いのは分かるけど、なんか和声も元の曲とちがって面白く聞こえますね……

マンガの場合はどうだろうね……せりふを抜いたら……

一時間目の一年生の授業では、『萌える日本文学』の話とか、眞子山幸彦海幸彦の話。と「少女病」とか「舞姫」とか……。