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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

革命をマンガで、社会を文学で

2025-04-30 23:41:30 | 文学


すべて此の世で眞に偉大なるものは、提携によつて獲得されたものではなく、常にたゞ一人の勝者が爲し遂げたものなのだ。提携はその遣り方が遣り方だから、始めから将来の分立、またはそれ以上に、到達したものをやがては喪失する萌芽を含んである。偉大な、本當に全世界を驚倒させるやうな精神的革命といふものは、そもそも單一、一體の組織の巨大なる闘争があつてのみ考へ得ることであるし、且つそれに依つてのみ實現化され得るのであつて、決して提携に依る企てとしてではない。

――「吾が闘争」(下巻、第八章)


そりゃその偉大な勝者がマジンガーZで、暗黒代将軍を倒したとか、あるいは、鄰の家のあんちゃんが隣の村の悪いあんちゃんを一瞬で殴り倒したとかだったら、むしろ称賛される勝者なのであろうが、ことはドイツ全体という大きさであった。しかしヒトラーはむしろその大きさが、一人の観念と化した勇者によって出現すると考えたし、そこは非常にいいとこついていた。良心的だが野心的な民主主義者や共産主義者たちが恥ずかしくて言えないポイントである。むかしの左翼運動からあったジレンマ、実践的にみえるやつほど観念的であるという自明の理を、なにゆえ現代の良心的な運動族が無視してるのかというと、そういうことなのである。教育界でも、実践的理論とか言うてるうちに、何もしない人々が増えているが、実践的であることは観念的であり、理論は観念的であるから、当然である。大事なのは、ただの理論、あるいはただの個人であり、それゆえ実行されやすいに過ぎない。

そういえば、昨日は昔の天皇誕生日だったが、昭和天皇はわしとおなじく蕎麦好きだったらしい。うどん好きは朝敵である。――こんなぐあいで、友敵理論だってそんな単純なところがあるにちがいない。

われわれの目指すところは、上のような悲惨しかもたらさない元気いっぱいの革命運動ではなく、社会である。どういうものかというと、香川県で蕎麦派が多いからといって、うどん好きを殲滅するのがヒトラーのやり方であるのにたいし、社会は、香川県に木曽駒ヶ岳と御嶽山を移植して、うどんと人口の半分を移動させる――そういう提携的な夢を多くのひとに見させるがごとき難問なのである。あるいは、ヒトラーを穏やかな小学校の先生にする、とか、植民地主義主義者カミュを、当時からポストコロニアリズムに転向させるような難問である。――言うまでもなく、こういう構想は特殊な文学的なものである。革命は漫画で、社会の構想は文学である。

Mein Kampf

2025-04-29 23:28:10 | 思想


 本書は全譯と銘うち、また事實上全部を譯了したのであるが、原書二五八頁より二六一頁までと、三〇三頁より三〇五頁に亙る箇所は、國情の相違から私自身としても到底紹介し得ないものであり、かつ本邦とは全然無關係、また参考にもなり得ないものであるので削除した。
 第二に原著三一七頁より三二八頁までに至る箇所の一部は、大東亜戦下にあってある敵性國家がヒトラーの真意を曲解し逆用して、日獨離間策の宣傳文書として公布したところを含んでゐる。敵の逆宣伝に用ひたところを此処に出して敵性國家をしてまたまた利用せしめることは、私としてやはり出来なかった。同所はヒトラーが獨逸國民を奮起さす目的で、いは「テクニク」として書いた論旨であるが、如上の理由から――また前後の關係上少しく大きく――削除した。
 此の點讀者の御を乞ふ次第である。
 本書が「吾が闘争」の註釈書であり、研究書であるならば、或ひは充分意をして説明し、誤解を避けつゞ註釈も出来るのであるが、単なる譯書としての性質に鑑み、また研究書は他にも存在する點を考慮して、譯書としての譯出は差控へた次第である。


――眞鍋良一「訳者序」


眞鍋氏は、戦後、眞鍋のドイツ語、みたいなかんじで活躍した人であった。戦前の履歴もすごく、大学のドイツ語教師、ドイツ大使館書記官や上海総領事館情報部附などをやったり、ハウプトマンやトーマス・マンと交友があったり、ヒトラーユーゲントの通訳などをしている。で、ついに「吾が闘争」の全訳である。戦後の真鍋氏の回想を読むと、――当時、アーリア人の優位性を説いた部分が、大和民族のあれとあれするからと一部の軍人がかちんときて、これでは発禁処分の恐れありということで、その箇所だけ削ったらしい。いつも我々の同盟国というのは我々を馬鹿にしているから、内部のマルクス主義者と同盟国のファシストの両方を禁じるという忙しさが当時の御役人に必要であった。そして、我が国では、禁止される側も、上のように、原著の頁まで示してそのことはちゃんと仄めかすことぐらいは許されている。わたくしがファシスト国家の管理部門を担当したならば、このような不穏分子を決して許さぬ。

「吾が闘争」を読むと、主体は空虚であり、私なんかないから、とかいうて、――深く人間を考察している心優しい人たちの盲点が突かれているとわかる。つまり、ヒトラーの主体は空虚ではなく、「おれは腕白小僧だった」、「父親は働いて死んで先祖の元へ帰っていった」、このぐらいで人間は元気になれるということを示しているのみならず、「卑怯な平和」より「闘え」ばいいじゃないか、というある種の生活倫理としては正しいことも言っている。我々は確かに、争うことでしか成長せず、その後も争うレベルに堕落することをやめない。平和な修正主義はだいたい後半の過程を無視して、その過程そのものとなる。安吾の堕落は、堕落と争いの関係についてやや不明瞭だと思うが、それは反ヒトラー的であるという意味で意図的だと思う。同質的集団は堕落するのが必然なので、われわれは異物をつくりだす。ヒトラーは、異物をユダヤ人に押しつけ、安吾は自分(あるいは個人)を異物にしているだけなのだ。

そもそも我々は外国語を異物とみなしながら発展してきた忸怩たる歴史をもっているからなのか、最近は、異物を異物とせずしらないうちに自分が異物であるかのようなふりをするという、平安朝の漢文で日記をつける役人みたいな作法を、庶民がやるようになっている。コスパとかちゃんと日本語に訳すべきなのだ。わたくしなら、「狡(コス)いパッとせん人々のやり方」とでも訳す。コスパ野郎のイメージといえば、神社で降ってくる餅に群がるあの方々である。イメージは本質を描き出すためにこそ大事にすべきである。かつて爆笑問題が暴走族を「おならぷうぷう族」と訳したように。飜訳というのは、こういう本質へのプロセスである。

そういえば、マルクス主義なんかは仏教に飜訳されようともされた独逸観念論よりも異物だったのか、上のプロセスに長い時間を要した。その意味でキリスト教並みではあった。その過程で、堪えられず、出現したのは、転向文学の人たちと、――少し若い連中では日本浪曼派がそうであった。はじめから非転向でいられるところでやるというのもコスパ野郎の特徴であって、最後の人たちは饒舌でわかりにくいから一見そうは見えないが、それなのである。だから、彼らの活動の本番は戦後であって、かれらが回避した異物への抵抗は戦争が終わって、はじまった。転向以前に転向したからといっていつまでも安定した地点にはいられない。きのう授業で日本浪曼派について語ってたら改めて気付いたんだが、彼らが古典文学を重視した文学史的思考をするのはある意味当然で、そもそもが文学史的に悩まないですむポジションのつもりだったからである。むろん、彼らが自身を保守本流だとはおもってはいない。むしろ、疎外された系譜に位置づけた。

G-W(ゴールデンウィーク)

2025-04-28 20:11:50 | 思想


 循環W―G―Wはつぎのものに分解される、運動W―G、商品を貨幣と交換すること、つまり販売、これと反対の運動G―W、貨幣を商品と交換すること、つまり購買、およびこの二つの運動の統一 W―G―W、貨幣を商品と交換するために商品を貨幣と交換すること、つまり購買のための販売が、これである。けれども結果としては、この過程が消えさり、W―W、商品と商品との交換という現実的な素材転換が生ずるのである。
 W―G―Wは、もし第一の商品の極から出発するならば、その商品の金への転化と、その商品の金から商品への再転化とを表示する、あるいは商品が、まず特定の使用価値として実在し、つぎにこの実在を脱して、その自然発生的な定在にともなういっさいの連関から解放された交換価値または一般的等価物としての実在を獲得し、さらにこれを脱して、最後に、個々の欲望のための現実的な使用価値にもどる。ひとつの運動を表示する。この最後の形態で、商品は流通から脱落して消費にはいってゆくのである。そこで流通の全体W―G―Wは、なによりもまず、個個の商品がその所有者にとって直接の使用価値となるために通過する変態の全系列である。第一の変熊は流通の前半W―Gでおこなわれ、第二の変態は後半G―Wでおこなわれる、そして全流通が商品のcurriculum vitae 《履歴》をつくるのである。しかし流通W―G―Wが個々の商品の総変態であるのは、ただそれが同時に、ほかの商品の一定の一面的な変態の総和であるからにほかならない、なぜならば、第一の商品の変態は、いずれもその商品のほかの商品への転化であり、したがってほかの商品のその商品への転化であり、したがってまた流通の同じ段階でおこなわれる二面的な転化であるからである。


――「経済学批判」(武田隆夫他訳)


GWといえば、民の世界ではマルクスのGWGではなく、ゴールデンウィークのことである。そして、確かに変態が行われる。眠り熊とか家族へのサービス奴隷とかへの変態である。

で、ゴールデンウィークで浮かれている人民に告ぐ。わしたちはこういう休みに論文を書く――気分でいると、庭の草むしりを命ぜられたので体調が悪くなって寝る。

それにしても、調子が悪いのは、たぶん校務のせいなのであろうが――、柄谷行人の最盛期が阪神の優勝によって終わりを告げたというのが院生時代のわたくしの持論であって、中日が最近最下位でないのでわたくしの調子もおかしいのかもしれない。

それにしても、万博というものは、なんかちゃらちゃらした科学擬きがいやなのである。むしろ、ライプニッツお気に入りの茶碗や、ソクラテスの耳かき、ショスタコービチん家のサッカーボールとかを展示してくれれば観に行ってやってもいい。

Scambi

2025-04-27 20:08:46 | 文学
Henri Pousseur - Scambi (1957)


近年の器楽曲の中には、解釈者に許された演奏上の特殊な自立性によって特徴づけられる作品がいくつか認められる。そこでは、解釈者は、伝統的音楽の場合のように、作曲者の指示を自己の感受性に応じて自由に解釈できるのみならず、しばしば楽音の持続や継起を創造的な即興行為において決定することによって、作品の形に介入することさえ要求される。よく知られているものの中からいくつか例を挙げてみよう。

[…]アンリ・プスールは自作の『交換(スカンピ)』について次のように述べている。「『交換』が構成するのは一つの楽曲というよりはむしろ可能性の場、選択への誘いなのである。それは一六の部分から成っており、これらの部分はそれぞれ二つの異なる部分と組合せることができるが、だからと言って音響生成の論理的連続性が危くされることはない。つまり二つの部分には、同様の始まり方をして別様の展開を見せるものもあれば、同じ終り方ができるものもある。どの部分から始めることも終えることもできるため、演奏の結果として非常に多くの継時的組合せをとることが可能になる。要するに、同時に始められる二つの部分は、時間的に重ね合せられ、より複雑な構造的対位法を生じさせることができるのである。このような形式上の提案がテープに録音され、そのまま販売される場合を思い描くこともできよう。かなり高価な音響装置を駆使するなら、聴き手たち自身が録音されたものに対し未聞の音楽的想像力を働かせ、音素材と時間についての新たな集団的感受性を行使することができるであろう」。[…]

この種の音楽的伝達と、古典的伝統において我々がなじんできた音楽的伝達との差異は一目瞭然である。簡単に言えば、この差異は次のように公式化されうる。つまり古典的な音楽作品は、バッハのフーガであれ、『アイーダ』であれ、『春の祭典』であれ、作曲者が一定の完結した仕方で組織して聴き手に提示するか、あるいは作曲者が構想した形が実質的に再現されるべく、演奏者を導くのに適した慣習的記号に移し変えるかした、音響的現実の総体において存する。一方、これらの新しい音楽作品は、完結した一定のメッセージにおいて存するのでも、一義的に組織された形において存するのでもなく、解釈者に委ねられた様々な組織化の可能性において存するのであり、それゆえ、一つの所与の構造的方向で再生され理解されることを求める完成した作品としてではなく、解釈者によって美的に享受されるその瞬間に完成される開かれた作品として提示されるのである。
[…]
〈開かれた〉 作品の詩学は、プスールが言うように解釈者の中に意識的自由行為を助長させ、彼を無尽蔵の関係からなる網目の能動的中心として措定しようとする。 解釈者は、この関係のただ中で自分自身の形を創設するのであって、享受する作品の確定した組織様態を彼に命ずる必然性により、決定されるのではない。しかしながら、その概略を示した〈開かれ〉という用語のより広い意味内容に依拠する場合に、異論として予想されるのは、少なくとも、どのような芸術作品であれ、解釈者がそれを、作者自身と適合した行為において再創造しないならば、真に理解することはできないのであるから、芸術作品は、たとえ実質的に未完成なまま託されることはないとしても、自由で創意ある応答を要求する、ということである。 それでもこの異議は、現代美学が、解釈関係なるものについての成熟した批判的自覚に達してからはじめて実現した認識を構成するのであり、数世紀前の芸術家は確かに、この現実を批判的に意識するどころではなかったのである。ところが、今日では逆に、そのような自覚が、まずもって芸術家に存在しており、彼は〈開かれ〉を事実上不可避の与件として忍受するかわりに、それを生産のプログラムとして選択し、それどころかできる限り大きな開かれを助長させるべく作品を提示するのである。


――エーコ「開かれた作品」(和田忠彦他訳、1990)


解釈関係というもの自覚した芸術家や模倣者がいかに自我を保つか、こういう問題はあまりエーコによって考えられていないような気がするのではある。エーコを大学時代に90年代に新しいものとして読んだわたくしのような人間が感じ取ったのは、そういうことであったような気がする。で、作品と解釈と切り離すのではなく、作品を人格化して攻撃する作法が広がっていったと思われる。これは不可避的なものである。そもそも人々は、プスールの作品を「開かれた作品」として取らず、何か、人の為業として受け取るわけだ。

にもかかわらず、学術的な公式見解としては、解釈と人を切り離す作法が言説や作品を扱うときの前提となった。で、それを機械的に小学校から教えこまれた人々が増えていった。で、人の為業にすると自分がその人にビビってしもうてる現実をみとめる場合、そのときだけ、言説が人の手によっては創られがたいことを主張するようになった。そこにAIのような空気とデータしか読めない現代人の似姿の登場である。

東★紀氏がAIのGrokをブロックしたとか言っていた。オヤジギャグではなくほんとにブロックしてそうであったが、東氏の長所は、AIでも誰かの馬鹿ツイートでも容赦なく人として扱っているところであって、われわれはこのことを忘れがちである。国家もシステムも本も学説も「人」である。ちゃんと喧嘩すべきなのであった。

死と戦後

2025-04-26 23:19:03 | 文学


コウノトリをからかわなかった子に、赤ちゃんをつれていってやりましょう。その子たちはいい子だったからね。」
「じゃ、まっ先にうたいはじめた、あの悪い、いじわるの子は?」と、若いコウノトリたちは言いました。
「僕たち、あの子はどうしてやりましょう?」
「そのお池にはね、死んだ夢を見て死んでしまった赤ちゃんもいるから、それをあの子のところへ持っていってやりましょう。死んだ小さい弟を持って行くんだもの、あの子はきっと泣きだしてしまうでしょう。だけど、ほら、あのいい子のこと、おまえたちも忘れはしないでしょう?生きものをからかうのはよくないことだ、と言った、あのいい子には、小さい妹と弟とを持っていってやりましょう。そして、あのいい子はペーターという名前だから、おまえたちもみんな、ペーターと呼ぶことにしましょうね。」
 こうして、なにもかも、お母さんの言ったとおりになりました。 それで、コウノトリはみんなペーターという名前になり、今でも、そう呼ばれているのですよ。


――「コウノトリ」(大畑末吉訳)


さきほどNHKの「プロジェクトX」で、神戸の高齢パンダの介護番組をやってた。心臓病にかかった神戸の高齢のメスパンダ(おいしいササや林檎しか食べないという人間だったら嫁のもらい手がいないやつである)の健康診断や腹水を抜く治療の奮闘記である。あまりにグルメなパンダなので、粉ミルクと林檎ジュースをまぜた小学生が喜びそうな液体を舐めるのに夢中にさせておいて、腹部から水をぬくという世界初の治療が行われた。おかげでこのメスパンダ、人間でいえば100歳ぐらい生きたそうだ。

しかし、死んだパンダの献花台で号泣するひとたちをみてて、ジュースに依存して苦しみを忘れるパンダと我々が似ていることは勿論、――昔からわれわれは獣と一緒に暮らしてたわけだからもうそういう生活に戻らないと情緒不安定できついんじゃねえかな、まじめなはなし――と思った。

パンダの気持ちはわからないが、我々の死生観がどこまでも死への恐怖が生を萎縮させる馬鹿馬鹿しい状況になっており、多く行きのこるのが正義みたいな、戦時中の、多く死ねば正義、をひっくり返しただけの思想が猛威をふるっている。人が死ぬことを人だけで考えているからおかしなことになるのではなかろうか。ハイデガーでさえ、石とかミツバチと比べて議論をしていたというに。思春期までの体験として、人の死を体験するのが大事とかはよく言われるけど、つまり、――たくさんの動物を看取る経験の上に必要とすべきじゃないかと思う。人の死に対する思考は単独では何処に飛んでいくか分からないものでまったくもって観ていられないというのが、人の歴史ではなかろうか。大衆も、左右どちらも、例えば「犬死」に観念に、実際の犬の死が全く入り込んでいない。

しかしそれは、必ずしも即物的な体験のことではなく、「犬死」における文学的な処理問題である。

戦争責任を問われて
その人は言った
  そういう言葉のアヤについて
  文学方面はあまり研究していないので
  お答えできかねます
思わず笑いが込みあげて
どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては止り また噴きあげる

三歳の童子だって笑い出すだろう
文学研究果さねばあばばばばとも言えないとしたら
四つの島
笑ぎに笑ぎてどよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア

野ざらしのどくろさえ
カタと笑ったのに
笑殺どころか
頼朝級の野次ひとつ飛ばず
どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群衆と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘


茨木のり子の「四海波静」でも扱われている、昭和天皇の「戦争責任」を「言葉のアヤ」「文学方面」に帰する例の発言についてはいろいろ研究があるんだろうが、天皇みずから、戦争責任については、政治や科学でなく、むろん責任者自身でもなく、文学方面で決着していいとの発言であり、むしろ我々にとってよろこぶべき事態である。戦後の文学的戦争責任論争の泥仕合が存在を認められたわけである。

茨木のり子は天皇の発言にびっくりしたのではなく、そこには、野ざらしの髑髏がバックの合唱隊の唸りのようにきこえているのである。それは、戦前から何も変わらないもの除夜の鐘となる。こういう人ことでないと、人は簡単に、責任と罪を分離し、戦後を謳歌できた。かかる転向犯罪者は多く、例えば、敗戦を境に価値観がひっくり返って大人たちの反対のことを言い出したというおきまりの言い方への信仰もその者達を勇気づけた。しかし、彼らは別に普遍的な何かを見たのではなく、特に学校でそれを感じた世代があったんだろうと思う。事実、価値観が文字通り「ひっくり返った」ことはないからだ。ひっくり返ったような言い方をせざるを得ないのは教育的な現場だ。いまもそうである。大岡信が茨木のり子との対談(岩波文庫『茨木のり子詩集』)で言っていたけど、その「ひっくり返った」勢いがちょうど15歳ぐらいだった連中は青春として体験されたが、茨木のような上の世代はそうではないと。わたくしの小学校のときの担任は、敗戦の時に小学校高学年で大江健三郎の世代。すると、戦後の解放と言うより、元軍人の先生とかへの恐怖みたいなものの体験が印象に残ってると言ってた。大江の小説にもそういう要素がある。だからこそ、大江の戦後は、リアルなのである。

ひアしマみゾ百ン合ラ子イダー

2025-04-25 23:15:37 | 漫画など


アンヌ隊員と仮面ライダーアマゾンの中の人たちが結婚するそうである。わたしの記憶だと、タックルとバルタン星人の浮気に怒ったストロンガーが泥酔して刑務所に入る動画か番組があった気がする。

このまえ留学生からおしえてもらった『ブルーロック』というサッカー漫画はまだ一巻しか読んでないし、この先は多分読まないが、おそらく蜥蜴と美女の結婚という結末はなさそうだ。サッカーで英雄になることを望んでしまったら、もう残されたものはない。日本の文化というのは、何かを得るために何か重大なものを棄てる美学につらぬかれている。必要なのは協力ではなくエゴだというのは、よくある概念に過ぎない。

アンヌ隊員の人も、アマゾンの人も、一時(一部に?)人気者であったが、業界の中では勝ち組とは言えない。そういう人たちが、案外、異種交配をもたらす。

しっかり者の運命

2025-04-24 23:17:07 | 文学


錫の兵隊さんは、炎にあかあかと照らされて、おそろしく熱くなったのを感じました。けれども、それが、ほんとの火のせいなのか、それとも自分の胸の中に燃えている愛のためなのか、はっきりとはわかりませんでした。美しい色も、もうすっかりはげてしまいました。それが旅の途中ではげたのか、それとも悲しみのために消えたのか、それはだれも言うことができません。 兵隊さんは、可愛らしい娘さんを見つめていました。娘さんも兵隊さんを見つめていました。その時兵隊さんは、自分のからだがとけて行くのを感じました。それでもまだ、鉄砲をかついだまま、しっかりと立っていました。その時、ふいにドアがあいて、風がさっとはいって来て、踊り子をさらいました。娘さんはまるで、空気の精みたいに、ひらひらとストーブの中の錫の兵隊さんのところへ飛んで来ました。 そして、めらめらと燃え上がって消えてしまいました。錫の兵隊さんもその時は、もうすっかりとけて、小さなかたまりになっていました。ある朝、女中がストープの灰をかき出しますと、灰の中に、ハート形をした小さな錫のかたまりがありました。踊り子の方は、金モールの飾りだけが、あとに残っていましたが、それはまっ黒にこげていました。

――「しっかり者の錫の兵隊さん」(大畑末吉訳)


このはなしをわたくしは小さい頃に読んだ記憶がない。平家物語なんかだと、死に行く人々が結局藻屑となったり、人しれず腐ったりしていることが明らかであるのに、しっかり者の兵隊が運命に弁慶のように立ち向かっていると、愛する人が灰になって飛んでくるのだからしゃれている。M・マールの本を読んでいると、トーマス・マンの「魔の山」なんか、アンデルセンのおとぎ話の王国に出来た変種に過ぎない気がしてくるわけである。

しかしながら、我々がいくら力んでしっかりしても、我が王国には、何故、恋人の灰が降ってこないのであろうか。

例えば、課題解決のための話し合いなんてのは、絶対に命令を実現しなければならない末端の実行部隊が生き残るためにやることであって、上の方は話し合いなんかしていないのだ。丸山眞男の抑圧の移譲というのは、現代では、話し合いの移譲に変身してしまった。国語の教科書に載っている話し合いの教材って、かかる奴隷化教育のための教材として導入されたものである。

ロマン派のための子守歌

2025-04-23 23:05:36 | 文学


トーマス・マン研究にも知られているヴァルター・A・ベーレントゾーンの著作は、『詩人の工房における日常の客としての死』という実に嬉しいタイトルであり、 素晴らしいリストがあげてある。《一五六編の『メルヘンと物語』のうち、死に対するいかなる指摘もないのは六分の一に過ぎない。少なくとも二四編の物語で、死は唯一のメインテーマとなっており、主として伝記的なほかの二五編の物語では、結末に死が著しく強調されて出てくる。二つの連続物(『幸福の長靴』と『眠りの精オーレ・ルゲイエ』)では、作品全体の頂点となる最後の物語に、死の描写が満ちている。(……)アンデルセンが『メルヘンと物語』で描くさまざまな死に方について、奇妙なもの、彼がとりわけ詳細に描いているものを、若干書き出そう。錫の兵隊と踊り手はともに暖炉の中で死ぬ (しっかり者の錫の兵隊)。四編の風の物語のうち、三編で死が話題になっている。北風は鯨取りを溺死させ、西風は頑張屋が川の流れを漂って滝に落ちるのを見、南風は隊商を全員砂の中に埋める(パラダイスの園)。 小さな子供は水車のある堤防で死を夢見る(コウノトリ)。若い娘は殺された恋人への憧れから死ぬ。 彼女は彼の首を植木鉢の中に埋めたのである(バラの花の精)。インドの女性が死んだ夫とともに焼き殺される(『雪の女王』の鬼百合が語る物語)。ここでベーレントゾーンは脱線を控え、彼にとっても考慮に値する『すげかえられた首』には言及しない 《カーレンはついにまたミサに参列を許された時、喜びのあまり死ぬ(赤い靴)。赤い櫛と金色の羽で体を飾ったスズメの母親は鳥たちにつつかれて死ぬが、その中には自分の子供たちもいる(おとなりさん)。貧しい少女が大晦日の夜、街の真ん中で死ぬ(マッチ売りの少女)。病気のクヌートは故郷への旅の途中、街道の柳の木の下で凍え死ぬ(柳の木の下で)。われわれは洗濯女の最後の一日を体験する (あの女はろくでなし)。

――ミハエル・マール『精霊と芸術』(津山拓也訳)


この本は、わたくしのような、アンデルセンとマーラーが大好きだみたいなロマン派のための子守歌みたいな本であった。

職域奉公的技巧馬鹿

2025-04-22 23:44:19 | 文学


ある点までは、子どもの漫画に対する主たる関心は、その内容に条件づけられるのではなく、漫画自体の表現形式や表現の実体に直接むすびついている、といえると思う。子どもは漫画の手段を自分のものにしたいのだ。つまり、〈漫画の読み方をおぼえるために漫画を読む〉のであり、その規則や約束ごとを理解するために読むのだ。登場人物の冒険よりも、自分の想像力の作業を楽しむのだ。 ストーリーとあそぶのではなく、自分の頭とあそぶのだ。

――ジャン・ロダーリ『ファンタジーの文法』(窪田富男訳)


この読み方をおぼえるために読む、というあり方は子供に限ったことではなく、成人においても同様で、内容よりも技巧そのものを批評する傾向がある人は少なくない。ネット上の批評の最底辺では、そういった一面的な素人談義が多くの争いを続けている。これは、読者論的なもののなれの果てであるとともに、作品における技術に対する戦後の議論が流産させられたためだ。もっとも、技術の機械化はそういう帰結をいつももたらし、本質的な新しさから目を反らす原因となってきた。

学者のほうでも、「小説や漫画すら読まない」学生を専門書に向かわせるにはどうするかみたいな非常に非本質的な議論があとを絶たない。よくある「文系」教員の勘違いであって、専門書はどちらかというとむしろ頭がよくなくても最初からちゃんと読めばよいところがあるが、小説や漫画はそうでもないむずかしさがある事情を無視している。むしろ、おまえさま小説でも読んだ方がよいのではみたいな学者は結構いる。「専門家」も大学生も、自分テレビみないんで、みたいなノリで、いろんなものを読まなくなっているのが問題であって、結局、――コスパとかタイパがその実、職域奉公の症状であることを覆い隠しているのと同じようなからくりだろうと思われる。

そういえば、うちの業界でも同じような現象があった。いわゆる「文藝ストレイドックス」などを使った学問商売のことである。この作品をもちあげて客を集めようとするやりかたがどれだけ効果があるのか知らないが、――ほんとに文学に賭けてるような若者をしらけさせている可能性はあり、いつものことだが真剣な奴らを離反させるテクニックがすごいと感心させられる。

小説や漫画を、旦那衆の床屋談義から救い出すことが必要である。

逆輸入と専門外型大学教員の日々

2025-04-21 22:43:39 | 大学


中国からの留学生から、日本のいまはやりのマンガを教えて貰った。

で、次の講義では、浅田彰とひろゆきの意見の類似性について暴論を授業で展開するつもりであったが、調子に乗って、ベートーベンのやってることはほぼボカロPと同じという暴論を展開しただけで終わった。人間の偉大さを示すために、ユジャワンの弾くプロコフィエフとショスタコビチ自演のピアノ協奏曲の映像でいろいろな論理を誤魔化した。

墜落の低廻趣味

2025-04-20 23:34:59 | 文学


あくる朝になって、ようやく男の子たちがやってきました。見るとヒバリが死んでいるものですから、おいおい泣きだしました。 そして、たくさんの涙を流しながら、小さいお墓を掘りました。それから、花びらでまわりを飾りました。 ヒバリのなきがらは、赤いきれいな箱の中におさめられて、王様のように、りっぱに葬られました。 あわれな小鳥よ! 生きて歌っているあいだは忘れられて、 鳥かごの中で、苦しい思いをさせておいて、いまになって、花を飾ったり、涙を流したりするとは!
 さて、鳥かごの中の芝土は、ヒナギクといっしょに、道ばたのごみの中に捨てられました。 ヒナギクこそは、小さなヒバリのことを、だれよりも深く思いやって、どうかして慰めてあげたいと思っていたのですが、だれ一人、ヒナギクのことを思い出すものは、ありませんでした。


――「ヒナギク」(大畑末吉訳)


わたくしは、アンデルセンの「ヒナギク」とかワイルドの「幸福の王子」とかが、幼児の頃から文学の最高傑作だと思っている。わたしが病弱だったであろうか。自己犠牲は、ヒナギクや幸福の王子に尽くす燕のように死ぬことであるような気がする訳である。しかし、この価値判断が元気のよい幼児にすり込まれると、いわば体当たりの特攻精神に行くのであろうか。特攻は、自分が人柱となるよりも、なにか人に対する当てつけらしいところがある。人を柱となった高見から人を道具化する。

しかし、人を道具として扱ってしまうひとは保守でも革新でもだめである、とだけ主張しても、かえって、あらゆる自己主張を抑圧しかねない。労働者やマイノリティの側につく運動にはある程度をひとを「使う」面がある。運動者にいわば低廻趣味みたいなものが必要なんだろうと思う。因果を強調する実証だけじゃだめである。

低廻趣味が正常に廻るのだってほんとは難しい。漱石も、人に足を引っ張られたかたちで、低廻していたと思う。自然に後ずさりし、背後に吸い込まれていくのがその実、低廻趣味の精神的実体なのである。そういえば、記憶の底にあった、幼児の時、あのシーンはとても怖ろしかった作品をみつけた。記憶の表面にあったんは「妖怪人間ベム」のほうであるが、底にあったのは「勇者ライディーン」というアニメーションで、主人公がロボットの表面に吸い込まれて運転席までサイケな空間を墜ちて行く場面が恐ろしかった。「マジンガーZ」をみてたころはもっと頭が動物だったが、このアニメのコロは少し頭が人間になってたのであろう。わたくしは、低廻趣味とは、そういう何者かへの同化を経験していないといけないと思うのである。

細かい研究をする大衆の誕生

2025-04-19 23:25:30 | 思想


 所で何の研究でもさうでありますが、初めに總論のやうなものが出來ますと、それからあとの研究は段々、自然細かい所へ入り過ぎて仕舞ふ。其の細かい研究と云ふものは、研究者本人に取つては隨分相當に面白いことがあると思ひましても、一般の人が聽きますと、何か研究者自身が一人だけ分つたことを言つて居るやうになりまして、餘り興味が多くないと云ふやうなことになる傾きがあります。それで弘法大師の文學上の事に就きましても、既に大體の總論に於きましては、谷本博士の講演があり、又幸田博士の文學上に對する意見も發表せられて居りますから、其のあとで私が何か申さうとすると、自然どうしても一部分の細かい事に入り過ぎるやうな傾きになるのは免がれませぬ。勿論初めから其の覺悟で何か細かい一部分の事を申上げて、それで御免を蒙らうと云ふ覺悟でありますので、今日御話を致しますのも、弘法大師の文藝とは申しましても、極く其の中の一部分、詰り大師の著はされた書籍に就いて、それの批評と申しますやうな事を申上げるに過ぎませぬ。

――内藤湖南「弘法大師の文藝」


さっきテレビで司馬遼太郎「空海の風景」についてのシンポジウムやっていた。こういうのって、何処まで観客の頭脳に勝手に忖度しているのかしらないが、空海でも坂本龍馬でも聖徳太子でもおなじような結論に達するどうでもいい、かかる公開おしゃべりをやめないと日本の文学思想の世界はどうにもならない。なぜかと言うに、観客がバカになるからではなく、観客がいらぬ細かい研究に入ってしまうからなのである。よく知られているように、大衆とは自分が専門家だと思っている輩のことである。シンポジウムとかは「総論」なのである。しっかりしなきゃいけない。

つづいて「日曜美術館」がはじまった。これまた、何の専門家のつもりなのか、小説家がナビゲーターを務めている。よい総論とは毎回言えない。しかし、今回は、わたくし、新宿西口などをデザイインした坂倉準三て西村伊作の次女と結婚しているということを調べ、いっぱしの自己満足に陥ったことを良しとしよう。

反「タンポポの花一輪の信頼」

2025-04-18 23:42:55 | 文学




私は、巡礼志願の、それから後に恋したのではないのだ。わが胸のおもい、消したくて、消したくて、巡礼思いついたにすぎないのです。私の欲していたもの、全世界ではなかった。百年の名声でもなかった。タンポポの花一輪の信頼が欲しくて、チサの葉いちまいのなぐさめが欲しくて、一生を棒に振った。


――太宰治「二十世紀旗手――(生まれてすみません。)」


太宰のタンポポは、うちの職場をとり囲んでいる上のような兇悪な茎のそれではないとおもうのだ。タンポポの花一輪を信頼に、チサの葉一枚をなぐさめに重ねる太宰は可憐というより対象に対して優しいがエゴイスティックである。

そういえば、大学の教室で鍋やっていいのかみたいな話題が自由と関係づけられてたびたび行われるけれども、その鍋を行わせた?音楽学者はどちらかというと右翼ではないかとおもう。彼の鍋をヤル自由はどこか鍋と言うよりも、他人と距離を取ってこの場合は匂いで圧をかける優しい気合いみたいなものだ。太宰もその点、女の自由に対して優しい右翼である。しかし、わたくしはどちからというと、計画設計された真実の押しつけを自由と感じる左翼であって、わたくしは学生と鍋をつついてもその味を妨害する10月革命のことを喋り続けてたりするわけである。わたくしはおれの自由を追窮する。そして学生のレポートをその自由な赤ペンで弾圧する。

わたくしは、太宰やうえの鍋自由主義者よりも言葉による感覚認識に自由を賭ける者である。小学校1年生の国語の教科書には絵がたくさん載っており、そこからいろんな意味をとりだすみたいなことをやってみると、学生の言語的な力がよく分かることが多い。言い古されてはいるが言葉で感覚されないとものは見えないこともおおいのだ。確かに、見えないものがみえるその領野は善悪の彼岸であって、だからこそそこに善悪の賭を行うのが我々のような輩である。

而して、意図的に見えないものを見せようとするフィクションというのは、現実のことがらとまったく関係ないものという意味ではないと見做すし、具体的に言ってみて、とかをあまりに頻繁に言う人というのがお馬鹿だとみなすのである。現実への抽象能力と小説の読解能力は似ているけれども同じではない。小説には倫理が賭けられているからだ。

壊死した自己

2025-04-17 23:30:15 | 思想


僕の家のすぐそばに巨きな廃工場があって、そこは戦時中日本の軍需物資を作っていたゴム工場で、僕たちは張りめぐらされたバラ線をくぐり抜けては、まさに宝庫というしかない工場に立ち入った。 防毒マスクの部品をはじめ、得体のしれない数々の小さな金具が山となって棄てられていた。たくさんのなかからいいヤツを選んで、僕たちのポケットはいつも欲しいだけの宝物で重くふくらんでいた。 家から近かったし、日ごろから友達とついはぐれることの多かった僕は、晴れた日にはいつも一人で本を持ってしのび込んだ。裏庭の、鉄やゴムや草の匂いと、焦げるような日向の匂いのなかで、読んでいる本の世界をふとはなれて、思いのまま、さまざまな夢想の世界に遊んでいたことを僕は昨日のように憶えている。

――森山大道「壊死した時間」


森山氏の文章は氏のすごい写真以上にノスタルジーに溢れかえっているが、上の部分の前には、朔太郎の「猫町」の描写があったり、そもそも題名が「壊死した時間」である。彼にとっての過去は、彼が文章を書いて塗ればぬるほど対象が遠ざかり、時間が止まったみたいに、すなわち絵のようになっていくのであった。芳賀壇は「ゲーテと人間」で次のように言っている。

ゲーテの「ゲーテは「あきらめ」と云うことを云っていますが、「あきらめ」は[…]己れ自身の上に立つこと、自分を超え、どの様にも捉われぬことであり、人間を高く、自由にするものであります。[…]『マイステル』の「遍歴時代」には「あきらめの人々」という題名がつけられている

「あきらめ」のために、かくも長い記述(というより「修行」)が必要なことは重要である。我々は諦めが悪く、みずからを流動するジャーゴンや何者かにいちいち沿わせて右往左往する。諦めは人生や社会に対するものではなく、そういう流れてゆく何かにたいするものである必要がある。特に、闘う人々はよくそのことを知っておく必要がある。

例えば、発達障害者を差別するな、と主張する闘いかたは、「我々は労働者」を合い言葉とした社会主義運動(というより「プロレタリア」文学運動)と同じく、みずからがラベリングを引き受けるやり方で団結し、差別を逆用するものである。だから逆にそのラベリングのおかげでより貼り付けられた差別の表徴が強力になってしまう事態を避けるための闘いも一方で必要なのである。いってみりゃ、転向文学は、その意味で、いったん「労働者」を人間に還元するための「進歩」だったのだ。それがなければ、戦後文学はありえない。そういえば、私の知る新左翼や新右翼のかたは、闘いのテーゼからはずれ人間的な泥沼に陥ったことを悔いている方も多いのだが、その泥沼でよかった面もかなりあるにきまっているのである。あまりに悔いすぎると、次世代に対して純粋さを期待してしまうのはある。で、結局そうはならないわけで、下手すると自分のほうがまだましだったみたいな絶対化に陥る。

職場でのトラブルを発達障害のせいにしたい人々と、発達障害のラベルを武器にするやりかたは、同じ武器を持っているパワーゲームになってしまいがちである。だから、つねに何がどのようにトラブルになっているのかという問題に戻していかないと逆に事態は悪化しかねない。そもそも仕事そのものがどのような考えのもとに必要なのか、やり方は適切なのか、みたいな問題を、まずは民主的な手続きや公平さ以前に検討しないと、少数派だから正しいとか多数派だから正しいとかいう思考にいつも差し戻されてしまい、様々な人間に怨恨だけが残る。例えば、*さんはそういうタチ(能力)だからという配慮をすることは安易に判断されるが、それが精確かどうかみたいな問題もあるが、一方で、その人がそういう風に演技している可能性を瞬時に考慮するみたいな感覚――判断力が、多くの人から奪われてきている。発達障害でもそうでなくても自意識によるネジクレはつねにあるわけだ。差別する側も差別される側も人間観が純粋な人形みたいになってしまっては元も子もない。

重語命題

2025-04-16 23:49:34 | 文学


「人生を真面目に考へる」といふ言葉は、畢竟するに「暗い闇夜」の重語命題ではないか。願くはただ「真面目」だけに止めよ。でなければ「考へる」だけに。我々の生活をして、まありに暗黒に、暗黒に、闇を深くする勿れ。

――萩原朔太郎「新らしき欲情」


そうはいっても、春に芽生えるみたいなものは許されると思う。人生を真面目に考へる、というのは状態ではなく、プロセスなのである。