★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

雑草たちの師弟関係

2023-05-28 23:49:50 | 思想


逢蒙學射於羿。盡羿之道、思天下惟羿為愈己。於是殺羿。孟子曰、是亦羿有罪焉。公明儀曰、宜若無罪焉。曰、薄乎云爾。惡得無罪。鄭人使子濯孺子侵衛。衛使庾公之斯追之。子濯孺子曰、今日我疾作、不可以執弓。吾死矣夫。問其僕曰、追我者誰也。其僕曰、庾公之斯也。曰、吾生矣。其僕曰、庾公之斯、衛之善射者也。夫子曰吾生、何謂也。曰、庾公之斯學射於尹公之他。尹公之他學射於我。夫尹公之他,端人也。其取友必端矣。庾公之斯至、曰、夫子何為不執弓。曰、今日我疾作、不可以執弓。曰、小人學射於尹公之他。尹公之他學射於夫子。我不忍以夫子之道反害夫子。雖然、今日之事、君事也。我不敢廢。抽矢叩輪、去其金、發乘矢而後反。

羿に弓術を学んだ逢蒙は、修得したときに、「天下で自分よりもすごいのは目の前の男だ」と思い、師匠を殺した。これを孟子は、「羿にも罪がある」とのべた。そして、自分を追いつめる善射者が、自分の孫弟子だということで「私は助かるだろう」と言い、ほんとにその孫弟子は君の名に背いて殺さなかった、という例をあげている。

孫弟子まで感情教育が及んでいるとはすごいなと思うが、案外、弟子の隔世遺伝というものもある。学問でも案外あるようだ。分かりやすいのは、弟子の師匠に対する反逆に対する反逆をおこなった孫弟子が師匠に似てしまうというやつである。もっとも、この場合、師匠が親分肌で人を多く集めて愉快な師匠生活を送っていたら、弟子が蜘蛛の子を散らすように愉快に散っていたのかもしれなかった。

孟子の言うこともわかるのである。師匠は、自分の考えていることが真剣であればあるほど、弟子を選ぶものである。

FMで「NHKジャーナル」を聞いてたら、のんさんがでてきて、「あまちゃん」の頃よりすごくちゃんとしゃべれるようになっててびっくりした。当時の常時放送事故みたいな語りも芸術だったが、すごい成長ぶりだ。能年氏は、のちに自分の周りの人間とどのような関係性があり自分が自分になったのか、引退後に自伝を書くべきだ。あるいは、弟子をとってもよいと思う。俳優だって、師弟関係みたいなものはあったはずだ。資本のロボットになりはてることはないのである。

師匠は、弟子に常に「われまことに汝等に告げます、汝等のあほさ加減は持続不可能じゃぼk」とでも言い続けることができる。資本の世界では、評価は持続可能な形でしかおこなわれない。われわれの世界は、もっと雑草生い茂る庭のような世界だ。雑草のなかには「わたくしは主人に植えられた由緒正しい者です」みたいな佇まいなものがあり、つい主人のわたくしはそのままにしておいてしまうのであるが、たいがい次の日当たりに細によって虐殺されている。私や細は資本と同じである。こんななかでも、何年か経つと、それなりの秩序が感じられる外観をもつようになるのが庭である。雑草たちのなかにも師弟関係がある気がするのである。