★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

形式神

2020-07-31 23:23:32 | 文学


 次に成れる神の名は、国之常立神、次に豊雲野神。此の二柱の神も亦独神と成り坐して、身を隠したまひき。次に成れる神の名は、宇比地邇神、次に妹須比智邇神。次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能地神、次に妹大斗乃弁神。次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。
 上の件の国之常立神より以下、伊邪那美神以前を、并せて神世七代と称ふ。


むかしから、この神々の役割が明確すぎることが気になっていた。土壌を整える(ウヒジニ・スヒジニ)、その土壌の生命に形を与える(ツノグイ・イクグイ)、形に性別を与える(オオトノジ・オオトノベ)、人間の姿を整えて増殖の準備を為す(オモダル・アヤカシコネ)、男女が求愛する(イザナキ・イザナミ)、――それぞれが男女の対になって人間の求愛に向かって形式的に整えて行く。これは物事を生成ではなく逆回転に見るやり方ではないかと思うのであるが、よくわからん。

しかし、我々の思考の癖みたいなものはすでにあると考えた方がよいかも知れない。思考の生成は、非常にぎくしゃくとした跛行であって、スリルとサスペンスにみちたものだが、危険である。我々はこれをいやがる。その代わり、危機に於いて死を恐れぬ行動を賞賛することで何か満足する。頭が働かないことを勇気と納得する。

宇野浩二が正宗白鳥らとの座談の中で、芥川龍之介は、晩年の私小説を書いているときにすでにどうせ死ぬんだみたいなヤケのヤンパチで書いていたところがある、と述べていたが、これは鋭い。芥川龍之介はだんだんと死に近づいていたのではなく、死ぬ前提で自らの文章を組織していった。いままで過去の「死んだ」文物を扱っていた根本的なストレスを自分を対象とすることで相殺するような理屈だったのかも知れない。上の神話が「生」の生成の説明に逆行しているように、芥川龍之介は「死」の生成に逆行する。

彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。

――芥川龍之介「或る阿呆の一生」


「涙や冷笑のこみ上げる」のはおかしい。これはアンヴィヴァレンツとしてもおかしいのである。

独神と独身

2020-07-30 23:55:51 | 文学


天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天の御中主の神。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神。この三柱の神は、みな独神に成りまして、身を隠したまひき。
 次に国稚く、浮かべる脂の如くして水母なす漂へる時に、葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅の神。次に天の常立の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。


みんなこの頃は「独神」で性がないんだか知らないが、身を隠している(身がないのであろうか?)。ステイホームしていたのかはしらんが、いまも見たことはない方々である。ほぼ無神論と言ってよかろう。朝顔の葉っぱが伸びるのはなぜか、日光とか水とかのせいであることは確かだが、日光とか水というものを成り立たせているものがあるはずである。今なら科学的な用語で因果があるように説明したりするが、この時には神とかいっていただけである。

本当の神とは、彼ではなく、ホリエモンとか、――ヒトラーとか徳川家康のことである。だからこやつらは、阿片的なものである。我々と同じような顔をしているからだ。宗教は、神と我々の同一性を想定するところから妙な煙を出す。

戸川は話し続けた。「どうも富田君は交っ返すから困る。兎に角それから下女が下女でなくなった。宮沢は直ぐに後悔した。職務が職務なのだから、発覚しては一大事だと思ったということは、僕にも察せられる。ところが、下女は今まで包ましくしていたのが、次第にお化粧をする、派手な着物を着る。なんとなく人の目に立つ。宮沢は気が気でない。とうとう下女の親許へ出掛けて行って、いずれ妻にするからと云って、一旦引き取らせて手当を遣っていた。そのうちにどうかしようと思ったが、親許が真面目なので、どうすることも出来ない。宮沢は随分窮してはいたのだが、ひと算段をしてでも金で手を切ろうとした。しかし親許では極まった手当の外のものはどうしても取らない。それが心から欲しくないのだから、手が附けられない。とうとうその下女を妻にして、今でもそのままになっている。今は東京で立派にしているのだが、なんにしろ教育の無い女の事だから、宮沢は何かに附けて困っているよ。」
 富田は意地きたなげに、酒をちびちび飲みながら冷かした。「もうおしまいか。竜頭蛇尾だね。そんな話なら、誉めなけりゃあ好かった。」


――鷗外「独身」


考えてみると、単独生成した独神たちも、下々の女や男をみて、――どうも寂しくなったんじゃないだろうか。鷗外みたいな女とみればエロティックな妄想を抱いているイケナイ男であればそうである。

しかし、残念ながら、独神は目に見えぬ。隠れているのか、もともと日光のように透明なのかしらないが、われわれ人間様にモーションをかけても人間たちは気付いてくれなかったに違いない。そこで、神は、自分をウイルスみたいなものに変えて、人間に入り込むことを覚えたのではなかろうか?

神が入り込む度に、人間界は死屍累々、ありえない浄土や神を作り出し怯えるに至った。

風猷と風

2020-07-29 23:34:19 | 文学


歩と驟と、おのもおのも異に、文と質と同じからずといへども、古を稽へて風猷を既に頽れたるに繩したまひ、今を照して典教を絶えなむとするに補ひたまはずといふこと無かりき。


世の中が乱れると、「古を稽へて風猷を既に頽れたるに繩したま」ふ人を待ち望んでしまうのは昔からそうだったようである。なんだろう、古がよいとは限らないのは当たり前で、古の何かを道徳神化しているというかんじである。そこに天皇が代入されている。いまだって、何かあれば、倫理的なことを口走る学者は多いし、ある現象学者なんか、「倫理にはまったく興味がない」と言っていたくせに、最近は現象学の底に倫理があったとか言っていた。

歴史を振り返ることがこんなことにならないようにしなければならないのであるが、なかなか難しいことだ。まずは、現在の自分の姿を複雑感情なくみつめる事が必要であるように思われる。

無常の風は日本の地貌ではどのあたりから吹いて来る風かと考へると、もうここからは独断にならざるを得なくなる。とにかく乾燥した風だ。乾燥した風は窒素の加減で霊魂が放散し易いものらしい。塩分を含んだ風の中では人はさう容易く死ぬものではないと見える。それに乾燥した風は太陽のコロナと多大の関係を持つてゐる。コロナがまた太陽の黒点と著しい関係を持つてゐる。私は社会主義の布衍される地域がまた此の風の密度によつて非常に相違して行くものといつも思ふ。此の主義は風のやうに地貌とまた密接な関係を持つてゐる。地貌の運動作用、特に準平原の輪廻作用を思ふと私は社会主義者にならざるを得なくなる。

――横光利一「無常の風」


昔は、この文章なんか馬鹿にしていたが、今考えてみると、かれもまた、日本の歴史において風猷よりも、そこに流れるホンモノの「風」みたいなものをみようとしていたにちがいない。

神話二種

2020-07-28 22:38:45 | 文学


寔に知る、鏡を懸け珠を吐きたまひて、百の王相續き、劒を喫み蛇を切りたまひて、萬の神蕃息せしことを。安の河に議りて天の下を平け、小濱に論ひて國土を清めたまひき。ここを以ちて番の仁岐の命、初めて高千の巓に降り、神倭の天皇、秋津島に經歴したまひき。化熊川より出でて、天の劒を高倉に獲、生尾徑を遮きりて、大き烏吉野に導きき。儛を列ねて賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏しき。

思うに、『古事記』序文を読むと、なんだか日本列島ができて多様な小神々が大きな神から噴射された霧の如く広がっていったら、いつのまにか尾の生えた怪人とか三本足の怪鳥とかもどこから沸いたのか存在していて、最後は賊までいるのだ。いつのまにか妙な存在まででてきたな、という感じである。

朝顔の種をプランターに蒔いたら、芽がでて葉が広がっていくと、いつの間にか雑草や虫が目につき始める。どうも、そんな感じと似ている気がする。やはり我々の祖先は何かを育てていたようである。

「儛を列ねて賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏しき」というのが、なかなかミュージカルの群舞みたいである。舞台の上部奥から合唱が降りてくる。歌い手たちも両袖からでてきて……。みたいな感じで、賊を討つのである。その賊は舞台にいない。勝利の歌だけが流れている。

……高天原の国を逐はれた素戔嗚は、爪を剥がれた足に岩を踏んで、嶮しい山路を登つてゐた。岩むらの羊歯、鴉の声、それから冷たい鋼色の空、――彼の眼に入る限りの風物は、悉く荒涼それ自身であつた。
「おれに何の罪があるか? おれは彼等よりも強かつた。が、強かつた事は罪ではない。罪は寧ろ彼等にある。嫉妬心の深い、陰険な、男らしくもない彼等にある。」
 彼はかう憤りながら、暫く苦しい歩みを続けて行つた。と、路を遮つた、亀の背のやうな大岩の上に、六つの鈴のついてゐる、白銅鏡が一面のせてあつた。彼はその岩の前に足をとめると、何気なく鏡へ眼を落した。鏡は冴え渡つた面の上に、ありありと年若な顔を映した。が、それは彼の顔ではなく、彼が何度も殺さうとした、葦原醜男の顔であつた。……さう思ふと、急に夢がさめた。


――芥川龍之介「老いたる素戔嗚尊」


わたくしはまだ芥川龍之介のえがくような神話世界がすきである。置いたスサノオは、葦原醜男と逃げて行く娘に弓を構えながら結局放てない。理由は無いに等しいのであるが、それが老いというものである。スサノオは、新しい神話を造ることを許していたのである。我々の世界はどうかというと、そういう気もなければ、過去へのまなざしもない。何のために生きているのかわからない奴がおおい。

名も無く為も無し

2020-07-27 22:50:42 | 文学


臣安万侶言さく、夫れ混元既に凝りて、気象未だ效れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分れて、参神造化の首と作り、陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為りき。所以に幽顕に出入りして、日月目を洗うに彰れ、海水に浮沈して、神祗身を漱ぐに呈る。

このあたりを何回も読んでいると、なんだかもやもやと何かが見てくるようである。日本の国は、繰り返してみてみるとなんだかもやもやと見えてくるような何者かである。

朝顔の葉っぱが出た

2020-07-26 23:42:21 | 文学


わたしは古人の隠逸を学ぶでも何でもなく、何とかしてこの暑苦を凌ごうがためのわざくれから、家の前の狭い路地に十四五本ばかりの竹を立て、三間ほどの垣を結んで、そこに朝顔を植えた。というは、隣家にめぐらしてある高いトタン塀から来る反射が、まともにわたしの家の入口の格子をも露地に接した窓をも射るからであった。わたしはまだ日の出ないうちに朝顔に水をそそぐことの発育を促すに好い方法であると知って、それを毎朝の日課のようにしているうちに、そこにも可憐な秋草の成長を見た。花のさまざま、葉のさまざま、蔓のさまざまを見ても、朝顔はかなり古い草かと思う。蒸暑く寝苦しい夜を送った後なぞ、わたしは町の空の白まないうちに起きて、夜明け前の静かさを楽しむこともある。二階の窓をあけて見ると、まだ垣も暗い。そのうちに、紅と藍色とのまじったものを基調の色素にして瑠璃にも行けば柿色にも薄むらさきにも行き、その極は白にも行くような花の顔がほのかに見えて来る。

――島崎藤村「秋草」


わたくしは――わたくしに限らず、日本人は初等教育のおかげで、朝顔を見るときには小学生の初夏に帰る。決して源氏物語に帰ったりしないところがある種の絶望である。

神におはします――性別は?

2020-07-25 23:30:25 | 文学


ものはかなき心にも、つねに、「天照御神を念じ申せ」といふ人あり。いづこにおはします神、仏にかはなど、さはいへど、やうやう思ひわかれて、人に問へば、「神におはします。伊勢におはします。紀伊の国に、紀伊の国造と申すはこの御神なり。さては内侍所にすくう神となむおはします」といふ。伊勢の国までは思ひかくべきにもあらざなり。内侍所にも、いかでかは参り拝みたてまつらむ。空の光を念じ申すべきにこそはなど、浮きておぼゆ。

「ものはかなき心にも、つねに、「天照御神を念じ申せ」といふ人あり。いづこにおはします神、仏にかはなど」……。大事なので、訳しておこう。

「このようなうわっついた私にも、常に「天照大神をお祈り申し上げなさいませ」と言う人があった。どこぞにおられる神様なのかしらー、それとも仏の一種ですかね……」


いきなり神仏習合的核心に切り込んでしまう娘であった。結局、アマテラス信仰の大衆化の程度がどのようなものであったかが分かろうというものである。それにしても、「さはいへど、やうやう思ひわかれて」となんだか理解が出てきたようなことを言っておきながら、次の「人」の説明はまったく本質的でもなんでもなく、制度の説明ではないか……。この「人」も大概であるが、いったい娘は何を理解しておったのか不明である。

空の光を念じ申すべきにこそはなど、浮きておぼゆ


伊勢にも内侍所にもいけまへんなあ、まあ空の光(おいっ)を拝むことでよいかなー、と浮ついておった――のであった。

私は、昭和十三年に、足かけ八年の労作になる女性史第一巻を「母系制の研究」として世に出した。この題目など、とくに、現行家族制の父系思想からみて、好ましくない印象をもたれたことも、うなずけないことではない。私は江戸時代の儒者たちが、天照大神の男性説を唱えねばならなかった心持がいまだに残って学問研究を妨げているのを残念に思う。

――高群逸枝「女性史研究の立場から」


かんがえてみると、孝標の娘の憧れは「光」源氏であったから、天照大神は男性です、とだれかが嘘を言えばよかったのである。さすれば、もうすぐに伊勢に飛んでいったに違いない。

「行くさきのあはれならむも知らず」のメンタリティ

2020-07-23 23:26:31 | 文学
彼岸のほどにて、いみじう騒がしうおそろしきまでおぼえて、うちまどろみ入りたるに、御帳のかたの犬防ぎのうちに、青き織物の衣を着て、錦を頭にもかづき、足にもはいたる僧の、別当とおぼしきが寄り来て、「行くさきのあはれならむも知らず、さもよしなし事をのみ」と、うちむつかりて、御帳のうちに入りぬと見ても、うちおどろきても、かくなむ見えつるとも語らず、心にも思ひとどめてまかでぬ。


清水寺にいってお籠もりする娘さん。まったくやる気がない。お彼岸のころなので、騒がしいのであるが、――わたくしもそうであるけれども、騒がしいところでも一度物語や作文の作業に入り込んでしまうとまったく気にならなくなることがある。おそらく、この娘さんも、そのモードに入ったにもかかわらず、肝心の物語がいま目の前にないので寝てしまったのだ。

「行くさきのあはれならむも知らず」とは、予知夢と言うより、すでに娘さん自身が予感していることである。こういうタイプはそこまで馬鹿ではない。



こんなかんじの不安はあるのだ。清水寺でもどこでも不安は不安である。

「御安心なさい。病もたいていわかっています。お子さんの命は預りました。とにかく出来るだけのことはして見ましょう。もしまた人力に及ばなければ、……」
 女は穏かに言葉を挟んだ。
「いえ、あなた様さえ一度お見舞い下されば、あとはもうどうなりましても、さらさら心残りはございません。その上はただ清水寺の観世音菩薩の御冥護にお縋り申すばかりでございます。」
 観世音菩薩! この言葉はたちまち神父の顔に腹立たしい色を漲らせた。神父は何も知らぬ女の顔へ鋭い眼を見据えると、首を振り振りたしなめ出した。
「お気をつけなさい。観音、釈迦八幡、天神、――あなたがたの崇めるのは皆木や石の偶像です。まことの神、まことの天主はただ一人しか居られません。お子さんを殺すのも助けるのもデウスの御思召し一つです。偶像の知ることではありません。もしお子さんが大事ならば、偶像に祈るのはおやめなさい。


――芥川龍之介「おしの」


このあと、神父はイエスの一生を語り、磔になって「エリ、エリ、ラマサバクタニ、――これを解けばわが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?」というイエスの言葉を言うと、女は血相を変えて、自分の夫は磔になってもいいわけなぞしなかった、そんな神には従うわけにはいかぬとして、病気の子を助けに来てもらおうと思ってきているのに、神父の前からさってしまう。

我々のなかには、いざとなったら言い訳をした、ということでその人を見限ったりする人が案外多かったりするのであるが、――とにかく結局今何が必要なのか判断するためには、長い目で物事をまとまりをもって見る必要があるということが分からなくなりがちなのだ。それができないから、夢に出てきた坊主にしても「自分の将来がみじめであることも知らないで」とか言ってしまうのである。そしていよいよ惨めになってしまうのと、すぐ出家である。

上のベルクの曲は、すごくきちんと終わる小宇宙であり、出家(第2楽章)を必要としなかった。

森として悲しむ

2020-07-22 23:17:12 | 文学


あづまより人来たり。「神拝といふわざして国のうちありきしに、水をかしく流れたる野の、はるばるとあるに、木むらのある、をかしき所かな、見せでとまづ思ひ出でて、『ここはいづことかいふ』と問へば、『子しのびの森となむ申す』と答へたりしが、身によそへられていみじく悲しかなりしかば、馬よりおりて、そこに二時なむながめられし、
  とどめおきて わがごとものや 思ひけむ 見るにかなしき 子しのびの森
となむおぼえられし」とあるを見る心地、いへばさらなり。返事に、
  子しのびを 聞くにつけても とどめ置きし ちちぶの山の つらきあづま路


お父さんから手紙が来た。神社詣でしながら常陸国をまわっていたら「水をかしく流れたる野の、はるばるとあるに、木むらのある、をかしき所」があった。確かに茨城県にはそういうところがいまでもたくさんある。茨城の野の広がりようは独特なものがあって、わたくしもいろいろと院生時代は歩き回った。――なんというところかと聞くと、「子忍びの森」というのであった、身につまされて悲しくなり長い間その風景を眺めていた。歌は、子忍びの森を擬人化していてなんかちょっと無理がある気がするのだが、――この父親はもはや人間として悲しんでいるのではないのである。森として悲しんでいるといってよいであろう。これにくらべて、娘の歌は、「つらい」と自分の感情だけが問題であるようにみえる。

平安朝の頃からは佛教の方で神社を占領するやうになりましたが、それから後鎌倉頃になりますと、武家が寺、神社の領地を占領するやうになりました。武家といふものはいたつて信仰の範圍の狹いもので、自分の尊崇して居る神樣を持つて歩きました。平家は嚴島の辨財天を其處らぢう持つて歩く、源氏は八幡樣を擔ぎ廻る。或は在來の神社を八幡樣に變へた。平家は時代は大して長くありませぬから辨財天に化する事は餘り致しませぬけれども、源氏は其處らぢうに蔓りましたから皆他の神社を八幡樣に化して了つた。

――内藤湖南「近畿地方に於ける神社」


父親は常陸国の神社を見て回っていた。律儀だったのである。内藤湖南がいう武家のように、自分の神様を持って歩くなんてことをすればもう少し茫洋とした気分はおさまったのかも知れないが、森として悲しむなんてこともなくなっていたかも知れない。

蜘蛛

2020-07-20 23:24:12 | 文学


 おそろしい蜘蛛の日記はここで終っていた。読み終った私はおそろしさにガタガタとふるえだした。ふと気がつくと、私の周囲にズラリとならんだ函のなかから、幾百幾千と数限りない蜘蛛が右から、左から、前から、後からゾロゾロと私めがけてよってくるのだ。私は無我夢中にドアにとびついて押しあけた。ふしぎなことにはそこにちゃんと階段があった。私はあとをもみずに飛ぶように走りおりた。
 数日のあいだ私は熱をだして病床によこたわっていた。そのあいだに奇妙な研究室は火を出して、内部はすっかり焼けてしまい、数百の蜘蛛もことごとく焼け死んだ。当局の見込みは乞食か浮浪人の類がはいりこんで火を出したのだろうというのだった。もし火を出さなかったら、あの異様な塔は永久に静かに回転をつづけて、容易に人に気づかれなかったかもしれないと、私はいまでもそう思っている。

――甲賀三郎「蜘蛛」

月のもりきて

2020-07-17 23:56:49 | 文学


その五月のついたちに、姉なる人、子うみてなくなりぬ。よそのことだに、をさなくよりいみじくあはれと思ひわたるに、ましていはむかたなく、あはれ、かなしと思ひ嘆かる。母などは、みななくなりたる方にあるに、形見にとまりたるをさなき人々を、左右にふせたるに、あれたる板屋のひまより月のもりきて、ちごの顔にあたりたるが、いとゆゆしくおぼゆれば、袖をうちおほひて、いまひとりをもかきよせて、思ふぞいみじきや。

家事で猫が死んでしまったと思ったら、こんどは姉が子を産んでなくなった。残された子どもに月の光が当たって不吉だというので、その子を袖でかくしもう一人もかき寄せている気分はやりきれない。最近は、殊更「命の大切さ」を教育して、逆に命を楯によからぬ事を考える素地をつくったり、大切な人以外の命を軽んじるようになったりと、あまりうまくはいっていないようである。そもそも人類は、いままで命を大切に扱ってきたとはいえない。どちらかというと、精神の「健康」や集団の「健康」のために、広い意味で人殺しをしてきたのであるから、本当に「命の大切さ」を至上とする社会をつくろうと思ったら、いろいろなものを作りかえる必要がある。そしてその際、多くの人間性がそれに抵抗するであろう。子どもの死にあまり出会わなくなったことも、「健康」を至上とすることを自明と考えさせる。我々が生きていること自体は、医学のおかげもあるけど、根本的には「偶然」である。健康であることがそれ自体を生であることと錯覚させる。だから危険なのである。

子どもがたくさん死んでいた時代は、人々の想像する死者の世界は多くの子どもで溢れていたはずである。そのため、地蔵をつくって、その子どもが祟ってこちらに来たり、逆に我々が彼らを忘れて成仏を願わなくなったりすることを防いでいたのではなかろうか?それは、おおくの死者と共存することであった。日本では墓地が農家ごとにあったりと、ものすごく分散して存在していたことも手伝っていたに違いない。

コロナ対策のあれこれをみていると、われわれの持つ所謂「正常化バイアス」には、再び、死者とともに暮らす過去に戻りたくないみたいな感情があるのではないかと思うこともある。PCR検査を大規模でおこなって、患者と非患者が斑に社会に存在するような状況が恐ろしいというのはあるであろう。我々の精神は、ある意味で、その程度には脆弱なのである。

ひるまは、そこに、ちょうや、みつばちが集まっていて、にぎやかでありましたけれど、いまは、葉かげでたのしいゆめをみながらやすんでいるとみえて、まったくしずかでした。ただ水のように月の青白い光が流れていました。あちらのかきねには、白い野ばらの花が、こんもりとかたまって、雪のように咲いています。
「娘はどこへ行った?」と、おばあさんは、ふいに、立ちどまってふりむきました。あとからついてきた少女は、いつのまにか、どこへすがたを消したものか、足音もなく見えなくなってしまいました。
「みんなおやすみ、どれ私もねよう。」と、おばあさんはいって、家の中へはいって行きました。
 ほんとうに、いい月夜でした。


――小川未明「月夜とめがね」