★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

旅的必然と政治ならびに文化

2024-07-31 23:13:35 | 文学


出家立志本非常 推倒從前恩愛堂 外物不生閑口舌 身中自有好陰陽
功完行滿朝金闕 見性明心返故鄉 勝似在家貧血貪 老來墜落臭皮嚢

婦人是を聞き大きに怒り、「這和尚かかる不禮を云うて我をあざむく事何ぞ甚しき。再び你徒と説話をせじ」とて裏面に入りて腰門をとざしたり。八戒此動静を見てこころに三蔵をうらみ、「師父をはじめ兄弟、皆是情なきにあらず。世の諺にも、和尚は是色中の餓鬼なりといへり。誰か今般の美事をきらふ者あらん。你徒好事を都て打破り、燈火もなく茶さへ興ふるものなきは、いかに苦しと思はずや。たとへ你等渇するとも、自からもとめたる事なればこらへもせん。此馬こそ便なきわざなれ。饑につかれなば、明日人を乗することあたふまじ。我馬を引いて草を喂ふべし」とつぶやきつつ、韁綱を引きて出去ける。行者見て沙悟浄に申しけるは、「此獃子何處へ行くや。跡について窺び見るべし」とて身を變じて蜻蛉と化し、八戒がなすありさまを見るに、八戒は馬に喂草んともせず、此家の後門へまはり窺ふに、向の婦人、三人の女兒と共に、菊の盛りなる花を着てたはむれるたりしが、三女八戒を見て恥かしけに門内へかくれたり。


長い旅においては、しばしば言葉も荒くなる。4人とも婿になってと頼む未亡人に対し、三蔵も「婿になんかなれば、生臭いものを食べて歳をとり、臭い皮袋に堕落するわ」とほとんど悪口を言い放つし、つられて猪八戒もそういえば坊主は是色餓鬼と言ったもんだ、と女達の家に引き返すのである。しかしこれを道徳的に非難しても仕方がない。ただの旅的必然である。

オリンピックに足りないものと言えば、猪八戒の「和尚は色餓鬼」みたいなものである。旅がないのである。――オリンピックにかぎらないが、昨今のスポーツが科学的成果といい子ちゃん的なスピーチのイベントとなることで、悪口の余地がない娯楽でなくなりつつあることと、オリンピックの競技以外が悪口の対象になってきていることは、ネットの影響だけでは説明できない。旅をしない、その場での友人作成みたいものが旅や人生に取って代わったのである。さっき、小型自転車に乗って富士山みたいなコンクリートの壁をひょいっと飛び越えるみたいな競技をやってたが、――解説が「その黄色い自転車かっこいいねYES」、「彼女なんかこわく見えるんですけどハートは熱いですイエー」みたいなノりであった。これなんか、わたくしなんかには、いまどきの讃辞と悪口の近接性を感じさせる。こういうノリは、歴史的な推移を抜きに語れない、ほんものの戦争とか社会問題をあつかえないのである。

そこまで旅や人生を回避するなら、オリンピックは、わりと美的で根性ありで刹那的なストロングマンコンテストと女子新体操だけでいいと言ったら、細に「それ絶対面白くない」と言われました。

セーヌ川が汚くてトライアスロンが出来ないとか、食事がまずいぞ肉がない、とか不平が出ているそうだ。フランスの事情については何も知らないが、この国は、ユーゴーが革命と地下道をあまり褒めるから?油断してんじゃねえかな。。。日本なんか芥川龍之介の川の描写がきたなくて、おまけに「死」の象徴だ。フランスだって日本以上にそうじゃないか。誰でも言うことであろうが、日本と仏蘭西が、宗教的文化を退けて文化を自然と創作物の関係に特化したという意味で似ていることを思い出さなくてはならない。日本人がわりと前衛を含んだ仏蘭西文学や音楽がスキで、フランスのオリエンタリズムに大きく日本が位置をしめているのは興味深いことだ。

だから、日本や仏蘭西は、わりと文化的行為を政治と相対的に切り離すことを自然にやってのける。なにしろ、ハマスの指導者が殺されてもオリンピック続行である。やめられない病なんか日本に限ったことではない。

われわれのスキャンダリズムというのは、例えば、――『安部公房写真集』ということは、朝ドラ女優の写真集とみてよろしいのであろうな。。。とか思ってしまうことに過ぎない。

最近など、コミュニティとかコミュニケション能力とかいう呪文に欺されて頭がおかしくなっている人間達がたくさんいるけれども、盆踊りも社交ダンスもどうみても性的な求愛行動であって、歌って踊れるみたいなことをいう教職志望者とかが非常に危険であることはいうまでもない。文化は性慾から生まれるみたいなことさら、文化から切り離されて政治の領域にうつされている。

左派の緑川貢がなんで保田與重郞のそばにはじめいたのか分からなかったんだが、プロレタリア文學のことを知ったのが保田の文芸時評か何かだったと、緑川が書いた保田の追悼文(「わが生涯の人」)に書いてあった。特に初期の保田の文章から左派にいくのはわからないではないし、すると保田自身も同じように自分自身から右派?に行っただけというかんじがする。転向とかではない。もともと彼らの文學は政治的行動であって、転向以前に責任をとらなければいけないものなのであった。――戦前のほうがこういうところがましなのである。

付記)前のオリンピックのときもいうたけど、手すりの上を滑って遊んではいけませぬ。

酷暑=バッタ

2024-07-30 23:13:06 | 日記


汝もしわが民を去しむることを拒まば明日我蝗をなんぢの境に入らしめん
蝗地の面を蔽ひて人地を見るあたはざるべし蝗かの免かれてなんぢに遺れる者すなはち雹に打のこされたる者を食ひ野に汝らのために生ふる諸の樹を食はん


――出エジプト記


分かることの困難

2024-07-29 23:08:41 | 文学


文フリで買った『愛大詩歌第弐号』をいま読了。マラルメからはじまり柊木快雄氏の評論でおわる構成で、短歌俳句もなかなかの尖り具合であった。

しかし、いまの文藝志望者が大変なのは、誰が尖っているのかわからない状態が長く――このことが分からない事態にある。坂口安吾の「白痴」なんかはとてもプラトニックなのだが、田中英光の「初恋」なんかと比べてみるとよくわかる。そんなわかり方を本人達はそこそこ分かっていたとおもう。しかし、研究者達にかえってそのことがなかなかわからない。作品論以降の顛末が悪かったのであろうか?西村賢太と田中英光の違いというのを無視して議論をするというのは重要なことだとおもうのだが、それは、坂口安吾みたいなのを横に置いておかないとわからない――というより実際に記述にまで行き着かない。

坂口安吾のことであるが、一見過激に見えて案外教科書に載ってしまう類いの近代文学というものあり。だから、むかしから安吾は藤村なんかと同時に読むべきだとわたくしは主張しているのである。

この前、伊藤左千夫の「ホトトギス」に載ったような小品を読んでみたが、わたくしの力量では困惑するばかりであった。

文フリ香川1参加――38度

2024-07-28 23:14:08 | 文学


「文フリ香川1」――文学フリーマケットに初参加してきた。38度であった。わしはいま風呂に入っていると思ってのりきった。

売られている多くの同人誌をみていると、古文漢文を勉強したほうがよいと思われる書き手がたくさんいると感じるが、――思うに、短歌俳句のブームはそういう感じと何処か繋がっていると思われる。中島敦の短歌と、「悟浄嘆異」の悟空に対する把握――エネルギーと行動みたいな図式のそれ――が繋がっているというのは、八十年代にある研究者がとなえた説であるが、このように、われわれが型式と見做してしまうものはたくさんあって、本質的には型式ではなさそうな五七調までもが型式になり得るのである。ほんとはむしろエネルギーの生成の一部である。

柔道の選手が世界ランク1位に負けてわんわん泣いていた。世界のてっぺんで勝負する人間はこのぐらいでも良いような気がしないでもないが、わたくしは負けたからといってすぐ泣く奴は大嫌いであり、むしろ詩をよんだり短歌をつくるべきではなかろうか、と思う。しかし、思うに、エネルギーが強大すぎると、詩も短歌もありえないのもたしかなのである。負けても詩が残ればいいさとか言っていた批評家がむかしいたが、やはり原爆やマッカーサーが来てみれば詩どころではない。――いや、それでもやはり戦後文学はその浪曼派の予言通りに詩をうたった。左派の中には「歌声よ、おこれ」と言う人もいたわけである。

今日こうた本の中では、愛媛大学俳句研究会・短歌会合同詩集がよかった。

おそらく散文では、――へたすると散文詩においても、我々はもうクリシェから逃れることは出来ないのかもしれない。

今回のマーケットには2000人以上参加者がいたという。いつもは孤独な文学当事者達であるが、こういう機会に、お互いを思いやっているにちがいない。苛烈な批評があまりないこの御時世、そのかわりにお互いへのシンパシイは暑さに勝っていた――かもしれない。

文化戦争――オリンピア

2024-07-27 23:19:31 | 文学


フランスについては、損失額は上に述べたとおりである。しかるに、パリーはフランス全人口の二十五分の一を有し、パリー市の糞は最上とされているので、パリーの損失高は、フランスが年々失ってる五億のうちの二千五百万フランに当たるとしても、あえて過当の計算ではない。この二千五百万フランを、救済や娯楽の事業に用いたならば、パリーの光輝は倍加するはずである。しかるに市はそれを汚水に投じ去っている。それでかく言うこともできる、パリーの一大浪費、その驚くべき華美、ボージョン(訳者注 十八世紀の大富豪)式の乱行、遊興、両手で蒔き散らすような金使い、豪奢、贅沢、華麗、それは実に下水道であると。
 かくて誤った盲目な社会経済学のために、万人の幸福は水に溺れ、水に流れ、深淵のうちに失われている。社会の富をすくい取るためにサン・クルーの辺に網でも張るべきであろう。


――ユーゴー「レ・ミゼラブル」(豊島与志雄訳)


こんなに暑いのに学会はあり、――しかし、オンライン学会なのでとにかくエアコンを全力にして麦茶のみながら頑張って参加した。たしかにオンラインになってから、遠い会場にいかなくてもよく、――しかもキャンパスに入ったはいいが迷ったりトイレを探しに行ったら迷ったり、トイレから出たら迷ったりということは回避される。

普通の生活ではそんなことはないのだが、学会の時は脳内で議論が始まったりしているので普通にまよったりするのである。日本哲学会の帰りに、新幹線、逆方向に乗ったのはいい思い出である。哲学に向いてないと思った。

オリンピックが始まった。この二・三年、急激にスポーツに対する興味が亡くなりつつあり、もはや興味は開会式ぐらいしかない。おそらくわたくしだけの現象ではない。多くの人が、国別対抗戦の機能していた段階がなくなった事態にある種の愛想を尽かしており、唯一国別の対抗意識が顕著な開会式などの「文化戦争」に注目せざるをえないのである。今回は、マリーアントワネットが抱えられた首で登場、人民を虐殺せよみたいな歌を歌っていた。――フランス革命があれなのは、マーリーアントワネットの首が魯迅の眉間尺みたいにセーヌ川上を飛んだりしないことであるが、どうせフランスでも東洋世界と同様、そういう伝説があるんだろう。知らんけど。

フランスは、むかしからの文化機能に忠実なだけだ。革命を文化として消費した誇りである。開会式がベルリオーズの幻想交響曲風だとして閉会式では例のプーランクの首落ちオペラをやって頂きたいくらいだ。

これに対して、我が国は――、イチローが5打数6安打でしたなおマリナーズは6対0で敗れました、このクリシェになれすぎて、オリンピックでも、圧倒的勝利みたいな映像の後に、「なお惜しくも(ないが)負けました」みたいな報道が多い。「負けたら切腹だ」と同等に妙な亜空間を漂っている。しかしこれがわれわれの文化であって、平家物語や大東亜戦争となってあらわれる。文化が政治になって顕れるのである。

真夏の『日本近代文学館』による妄想

2024-07-26 23:03:07 | 文学


『日本近代文学館』の会報を眺めていると――いろいろ思うのである。

風呂嫌いで自殺したある種のアイドルの写真集を買おうと思う。――「芥川龍之介写真集」

夏の文学教室みたいなところに登壇してくる作家にはある傾向がある気がする夏。局地戦とは何だろう。

極東を思わせるものというものはいろいろあるが、スヴェトラーノフみたいな存在もそれであった。こういう指揮者がこの世から居なくなると押しくらまんじゅう的な動きによって、人間は極東を飛び出し、米国西海岸にたどり着き、トランプみたいな存在となってでてくるのではないだろうか。

昨日は雨がふった気がする

2024-07-25 23:52:55 | 日記


毛むくじゃらは不潔に見えるとか言うて脱毛する男子も居るようであるが、女子達はたびたびものすごく毛むくじゃらで髭が顔から飛び出している裸の男をだっこしながら「ねこちゃんはほんとかわいい」とか言うているから大丈夫である。

そういえば「源氏物語」のある種の破壊者と言えば、古い話だが松田聖子であろう。さすれば大河ドラマでも和泉式部役でワイヤーアクションを頑張って頂きたい。あの映画のときのように空中で歌うのもあり。「源氏物語」に勝手に愛着を持ちつつあるにわか古典ファンに鉄槌をくだしませう。

巌と苔

2024-07-24 23:31:44 | 文学


間もなく軍隊に入る。戦争に行く、そして山とは永久にお別れになる――。こうした残り少ない山生活が、なおどれだけの情熱に値するか?
 大東亜戦争の始まる頃から、この懐疑は不断にまつわりついて、山へ出かける時にも、山を歩く時にも私を離れなかった。自分の幸福、他の者の幸福――他の者の幸福に基づく自分の幸福……。[…]
稲の青い穂が波打って、秋が近づいていた。田園の果に、筑波、加波の山波が夕陽を浴びて黄ばんでいた。その上に、山の高さの数倍の高さに、巨大な積乱雲が盛り上っていた。紅みがかった円い頭は、なおも高く湧き返っているようだった。その姿は突然、私にかつての日の夏の穂高を思い起こさせた。それは烈しい、自分自身でどうにも抑えられぬほどの山への思慕であった。静かな夏の夕暮、人気の絶えた奥穂高の頂きに腰を下している時、ジャンダルムの上に高く高く聳えていた雲は、この雲ではなかったか。そし今もまた、この雲があの穂高の上でひっそりと黙って湧き上っているのではないだろうか。


――松濤明「再び山へ」


のび太の声優がお亡くなりになったと聞いて、のび太が好きだったことに気付いた。というかむしろドロンジョが好きである。わたくしの世代にとって大人達はみんな戦前の生まれで、とくに貫禄ある大人達は日中戦争前に生まれていた。ドロンジョ様もそうであった。

六十代以降が主流のいわゆる老人大学みたいなもので話をしたことの経験からいうと、――端的に申し上げて、ほんと戦後生まれってだめだよな、向上心がない、という印象である。いまの大学生がそうなのは当たり前だ、もうやる気なしの3代目だぜ。思うに、戦前生まれはいろんな事情で学校に行けなくて、ゆえにまだ学校が勉強するところだと思っていたのだが、戦後生まれは学校が友達と遊ぶ楽しい場であるみたいな感じになっていたのだ(からだめなんだよ)。「二十四の瞳」の子どもを労働の桎梏から救おうみたいなものが実現されたらこんどは、学校が遊びという桎梏の場になった。自由も苦もない桎梏だ。

仕事とは、岩の全体性や岩を何処におくかを考えることだ。しかし労働とは、岩を砕いたり切ったりすることだ。おもしろいことに、遊びが労働にちかい「感覚」をもつことは自明の理だ。それが善とか進歩とみなされている世の中が今の世の中で、岩の代わりに人間がそこにあったりするのは当然である。労働は遊びの感覚をもって人を殺すのである。ワークライフバランスなど、そのことを隠蔽してすべてを労働=遊びにすることにほかならなぬ。「君が代」の巌の、その苔の方をありがたがっている我々は加速的に没落する。しかし、一方で苔になってしまえばいいとおもう。

苔人形は
つくられた、
吹雪の音を
ききながら。


――新美南吉「苔人形」

灼熱の朝飯

2024-07-23 23:10:35 | 文学


「実は――まだ朝飯も食べませんような次第で。」
 と、その男は附加して言った。
 この「朝飯も食べません」が自分の心を動かした。顔をあげて拝むような目付をしたその男の有様は、と見ると、体躯の割に頭の大きな、下顎の円く長い、何となく人の好さそうな人物。日に焼けて、茶色になって、汗のすこし流れた其痛々敷い額の上には、たしかに落魄という烙印が押しあててあった。


――島崎藤村「朝飯」


朝から33度ぐらいだったが、朝顔の真ん中にしゃぶりついている奴が居た。

学生の感想家

2024-07-22 23:05:08 | 文学


 感想家は、文学者、作家じゃない。思想家でもない。つまり読者の代表だ。大読者とでも言ってよかろう。
 文学作品を読むのが好きで堪らない、文学の読書が何よりも好きだ、そういう人が謙虚に自らの読書感想を語るのである。
 感想がなければ語らぬがよい。ありもしない感想をあるが如くに語ろうとするから、四十代三十代、分類、系列、苦心サンタン、妖怪を描きだしてしまうので、無理な背延びをしてはいけない。


――坂口安吾「感想家の生まれ出るために」


それってあなたの感想ですよね、という言い方への反発なのかも知れないが、ときどき学生が過度に感想に傾斜している現象が最近起こっている。それが意図されたものであるように感じられるのは、実際それが感想ではなく願望のようなかたちをとっているからでもある。内容を度外視して言うと、だが。

36度になると過去が走馬燈

2024-07-21 19:56:37 | 文学


【発見】むかし塾や予備校で教えてた頃、すごく高校入試も大学入試も解けるようになっていたが、――つまり、高校卒業したら予備校に就職し、問題が解けるようになったら受験すればいいのではっ。

大学入試は七割解けりゃいいねみたいなこと言われるし実際そんな側面はあるが、はじめから解かない問題をつくってしまうことで重要なものを認識できないこともある。後半の問題はとくに気合いを入れて適当に作られていないことがあるから。そもそも七割狙うと四割ぐらいしかできないぐらいのことはいえる。

――36度にもなると、採点くらいしか出来ないが、しかしすぐ疲れるので、この際エアコンつけずに子犬のワルツを轢くことにし、カルピス飲んでリフレッシュする。

だいたい勉強よりも、木彫りとか絵とかピアノとかのほうがすきであるわたくしであって、試験とか受験にはほとんど良い思い出がないわたくしがこの後に及んで採点なんかしているのか、考えてみると、わたくしが下手に木曽高校ではなく遠くの進学校なんかに進んでいたら、大江健三郎の「セヴンティーン」みたいな主人公になっていた可能性すらあるのだ。たしかに、やつには趣味というものがないからだめだと思うが、社会に馴致する良心とコンプレックスを強制する受験体制は怖ろしいものだ。

いまの若者は立派で、「セブンティーン」の主人公みたいなことにならないし、言わないのかもしれない。しかし、かわりに中高年が言っている。ありんこの群れでさぼる奴が一定数いるように、機能が移っただけなのであろう。してみれば、若者にやたらこびる中高年はあれなんだろうな、親に媚びる思春期みたいなかんじだろう。実際、隠蔽されているが思春期ってそういう現象もある。

谷口一平氏編の『新紀要』2に載っていた、川田まりね氏の「誰かぶっ殺してくれねえかな」を読んだ。いまどきの若者は、天皇陛下万歳の代わりに、山奥で陰毛を燃やしたりするようである。

だいたい、こういう病的文系インテリがおかしなことになってゆくのは、――ノーベル賞のせいでもあるのだ。だいたい爆発物作ったやつの賞なんか日用実用の輩にくれつづけていればよいので、文学賞は、紫式部賞とかダンテ賞にすりゃいい。NHKなんか、理系の学者には「博士」をつけてるのに、ときどき文系学者には「さん」になっている。ふざけてる。

だいたい理系の人というのは、地球は平面か球体かとかいう争いをしているような人たちで、――木曽で育った私をして言わしめれば、普通にすっごくでこぼこであり、平らなのは校庭だけだし、球体なのは蛙の卵ぐらいだ。「まったく、陰毛というものは不思議とどこにでも落ちているものである」(川田氏)こんな普通の事が分からないから、地球は球体だとか言いだし、山奥で陰毛を燃やす人がでるのである。

名前と透明化

2024-07-20 23:46:56 | 文学


妖精是を聞きて曰く、「其唐僧はいづくにありや」本叉曰く、「東の上に座せる僧則是なり」妖精大きにおどろき黄錦の直綴をかぶり、岸に上り、三蔵の前に禮を行ひ、「弟子師父の尊容を知らず、多くの不穏をなしたり。願くは其罪をゆるし給へ」三蔵の曰く、你眞實に我が教を守らんとするか」妖精の曰く、「弟子向に菩薩の教化を受け、法名を沙悟浄と賜り、師父の来り給ふを待佗びてこそ候得。何ぞ偽り申すの理あらんや」三蔵是を聞て大きによろこび、別に名付けて沙和尚と呼び給ふ。其時木叉沙悟浄をまねき、首にかけたる九つの骷髏を索にて繋ぎ、菩薩より賜りし紅の葫廬を其正中に居ゑ、水に浮めて、三蔵を請うてこれを乗せまらせ、八戒悟浄左右に在り、孫行者龍馬を索いて、後にしたがひ、木叉は雲にのりてこれを守護し、飄然として流砂の大河を西の岸に著き給ふ。木叉いそぎ葫廬をとり収めぬれば、九個骷髏も陰風と化して失たり。三蔵木叉に向て再三礼拝し、三人の弟子と側にまた西の方へいそぎける。

三蔵のお伴の三匹は一行に加わったときに新たな名をもらっている。われわれはだらだらと生きすぎなので、大学をでたら新たな名前を指導教官からもらうというのはどうだろう。全部変えるのが嫌だというなら、田中・サド・一郎、など取り組んだ作家の名前を刻むとかがいいかもしれない。内面から改心とか我々はだいだいバカなのでそんな大それたことはできない。

われわれは名前に慣れることにその名指されたものが透明となり、感覚が狂ってゆく。例えば、日本人の一部はゴジラがすきすぎて、そこらにいるは虫類や両生類にそれが似ていることさえ忘れている。しかし、それに慣れない米国の「ゴジラ」映画のさいしょのやつはちゃんと巨大ミミズをみておおすげえと言う科学者を描いていてエライと思う。我が国のはじめの「ゴジラ」だって、その古代巨大は虫類の謎に挑む教授は、ゴジラの足跡の中にさっき死んだ三葉虫をみつけて、ゴジラみたときよりも喜んでいた。

我々はかように三葉虫や蚯蚓に対して驚くものなのであるが、人間は認識主体であることになれて透明になると、他の人間も透明になってゆくのである。先週、大河ドラマで、道長と密通した紫式部(歴史的事実によって当然懐妊)のダンナが「その子がおれの子じゃなくてもおれの子だ」みたいな事を言ったそうだが、それに対して心が広いとかいう意見がけっこうあったようだ。しかし、リアルにそんなこといきなり言える奴は、別に心が広いのではなく、いろんなことがどうでもよく透明なのである。

「シン・ウルトラマン」のラスボス=ゼットンがなんだかいまいちのように感じたのは、――五十年以上前のもともとのゼットンが上陸してきた米兵みたいに理不尽に強い侵略者であるのにたいし、「シン・ウルトラマン」のそれは、いわば落とされかかっている原爆みたいなもので、やっぱり人間みたいな恐ろしさがなく透明なのである。この映画をとった監督が、「シン・ゴジラ」で透明ではないアメリカを描いているところをみると、明らかにゼットンは透明化されたのである。この映画に一番最初に出てくる怪獣ネロンガが透明怪獣であるのは意図的だったと思う。

黒歴史

2024-07-19 23:32:15 | 文学


シグナルつきの電信柱が、いつかでたらめの歌をやめて、頭の上のはりがねの槍をぴんと立てながら眼をパチパチさせていました。
「えい。お前なんか何を言うんだ。僕はそれどこじゃないんだ」


――宮沢賢治「シグナルとシグナレス」


今日は、ゼミの前に篠原進氏の「世之介の黒歴史」(『日本文学』)を読むところから始めた。我々の人生はだいたい黒歴史である。――自分で自分の過去を抹消したい人ばかりで、――長すぎるからだ。カフカよりも中上健次よりも長生きしてしまったので大江健三郎よりも長生きしよう、とか思うわたくしの人生は果たして意味があるのか。

そういえば、ゼミで学生と一緒に比較的長く続いている作品論史をながめていると、――ある論文によって論点があまりにひろく出ていて、その広さ自体が主張と堅く結びついているために、後の人が精密さの代わりに全体としてのテーマを見失い堕落するという現象があることに気付く。これも黒歴史の一種である。

植民地主義は終わっていないし、これからも続くのであろうが、例えば、宗主国が植民地から影響を受ける、そんなこともあるからである。ポストコロニアリズムとは笑わせる。そもそもまだポストではないではないか。宗主国も植民地も一蓮托生で、全体として黒歴史である。