続・笑う蜘蛛の糸

1969年生まれの私、
潮風太子が第2団塊世代特有の視点で書く
コッソリ系ブログです。

あと1点のために

2017-07-28 15:53:54 | インポート
また明日・・・なんて書いておきながら、
最後のオチが予定通りになるかと思いきや、
二転三転、想像だにしなかった展開となってしまい、
書き直し、書き直ししているウチに、
こんな状況となってしまいました。
毎回おいでいただいていた皆さまに、まずお詫びから。
m(__)m

かれこれ12回ほど書き直したものの、
どうも納得がいかなかったので全部ボツにし、
改めてココの住人の皆さんは、
先刻承知のハナシから始まりますが、
今一度、自身の整理も込めて、
最初から書き出すことで書くリズムを作り、
一気に書き上げようかと思いました。

今回は長文な上、
あくまでプライベートネタなのでスルーしていただいてもOKです。
では、お時間ありましたら、
ひとつお付き合いのほど・・・・
今週は愚息のサッカーネタにて候。

愚息がサッカーを始めたのが「年長さん」のとき、
それから6年生になった現在まで続いている。
キャリア丸6年を超えた。

幼少期からの延長モードで流れ的に、そのクラブチームに所属。
ところがココが地元では、それなりに名の通った名門クラブチーム。
親としては別にそんなところに入れたつもりはなかったものの、
すこぶる友達関係が良かったこともあって辞めると言わない。
ズルズルと「サッカー地獄」へ・・・

2年生ぐらいまでは1人抜けた存在の選手がいたものの、
あとは、それこそドングリの背比べ。

現在Aチームのエースコーチ(総監督)が、
当チーム始まって以来の弱小チームというほどの状況で、
まぁダラダラとしたカンジでサッカーごっこを続けていたものの、

鬼コーチの熱血指導の下、次第にチビッ子サッカークラブは、
闘う集団へと変貌をとげることとなる。

3年生になると徐々に「やる気スイッチ」の入る子と、
「遊び」の域のままの子とに別れてくるようになる。

4年生になると次第にメンバーも増えてきて、
チームも連戦連敗の状況から常勝軍団へと変わっていった・・・

やがてAチームとBチームに分けることとなり、
当然のことながらウチの愚息はBチームに割り振られた。
体が小さい割にすばしっこいものの、
キック力がナイ上、
接触プレーを嫌って逃げるクセがある愚息には、
DFは務まらない。

よってFWのポジションを自力で確保するしかない。
サッカーには野球のように平等な「打順」というのがナイ、
よってチャンスは自分で作る以外方法がナイのがサッカー。

コツコツと基礎練習をキッチリこなせば上手くなるのに、
どうも、そこまでやる気スイッチが入らない愚息。
いつしか万年Bチームの選手というレッテルを貼られるようになった。

時折、Bチームの試合ながら好調なときAチームに昇格という、
チャンスに恵まれるも、Aチームでの試合では結果が残せず、
再びBチームへ逆戻り・・・あと1ゴール決めていれば、
という試合が何試合あったことか・・・

特に忘れられないのが、
3年生のとき当時はライバルだったRくんと、
この試合で得点を多く決めた方がAチームのレギュラーという試合で、
ことごとく大チャンスに大フカシの我が愚息。

「お前もう、やるポジションないぞ!」と激を飛ばされるも、
結局、結果が出せなかった。

対照的にRくんはサイドからの鮮やかなシュートを決めて、
チームが劇的な逆転勝利・・・
コーチたちに決定的な印象を残すことが出来た。
Rくんの「やる気スイッチ」が完全に入り、
これで勝負アリ。
それ以来、実力差は開く一方となる・・・

それが3年前のちょうど今頃。

あと1点先に決めていれば・・・
さすがに親として悔しくて、その夜は眠れなかった。

その後はBチームのFWというポジションに落ち着く。
そんな中、とある地方の某ローカル大会で、
どういうわけか絶好調となりゴールを連発!
その結果、なんとAチームと決勝を戦うことに。
当然大敗を喫したものの、コーチと審査員から活躍を評価され、
初の優秀選手賞を獲得。

ところが、そこで頑張ればいいものを、
また怠け癖・・・・
練習しなければ当然上手くなるハズもなく、
次第にまた皆に差をつけられるようになってしまう。

それからはBチームの控えFWの選手という扱いでベンチを温める日々。
後半からの登場が常となる。
例の不祥事では一か月間の謹慎処分も経験した。

次の転機は4年生の夏休みの合宿遠征のとき。

当時のBチームのコーチがサイドバックにコンバートを試みたところ、
これがピタリとハマり、負け続けていたチームが快進撃を始め大躍進。
この遠征以来、サイドバックでの先発出場の機会が増えることに。
ようやく居場所を見つけたかに思えるも、
Aチームのエースコーチは、それに難色を示す。

親としては、どうでもいいから全試合出場できるような選手にしてもらいたい。
というのがホンネ。
ただ、これ以降しばらくの間「シュートシーン」を撮ることはなかった(笑)

再び転機がやってきたのは5年生のとき。

インフルエンザやらケガやらでFWの選手が皆、
欠場となった大会でのこと、
仕方なし元FWの愚息が急遽、FWを久々に務めることに。
すると、DF生活が功を奏してか、これまたドハマりで、
それみろ、やっぱりアイツはFWだろ・・・ということとなり、
再びFWへ。

とはいえFWは点を決めてこそFW。
学年が上がればレベルも上がる。
それは、どこのチームも同じ・・・・
キーパーの子も成長して「大きな壁」となってくるにつれ、
トゥーキックのコロコロシュートでは入らなくなってしまう。

さらに追い打ちをかけるように下の学年に、
凄いストライカーが現れると、
学年で最も重要な大会である県大会予選において、
1学年下の子を格上げ昇格させ、
Bチームの「助っ人」エースストライカーに任命。
よって愚息は再びベンチウォーマーへ・・・・

この試合負けたら予選敗退という重要な試合でも、
やはりベンチウォーマー。
3-0と勝負が決した後半残り5分で、
ようやく登場したときには、
さすがに愚息に対して「激怒」してしまった。
オマエは、ここまで評価が低いのか・・・と。

もう辞めろ!と言ってしまったのは書くまでもナイ。

それでも絶対に辞めないと言い張るバカ息子。

かといって、やる気スイッチが入るワケでもなく、
サッカースクールに行っても淡々とメニューをこなして帰ってくるだけ。
試合があるときは友達に会いに行くような「遊び」感覚から、
なかなか抜け出せない・・・・
ハッキリ言って金と時間のムダ。

そんな愚息に対して、さぞや仲間たちのイジメがあるだろうと思いきや、
ムードメーカーの愚息のことを悪く言う子が本当にいないのには、
毎回驚かされる。

愚息がPKを外して負けたときも、
外した直後スグに駆けつけて慰めてくれたTくんには泣かされた。

「ゲーム機」を没収したとき「2点決めたら返してやる」と言ったら、
やたらめったら愚息にパスを回しコーチに怒られてもなお、
しつこくパスを回してくれたDFのEくんは今や大親友だ。
エンジェルパスのおかげでキッチリ2点決めて、
愚息がゲームを回収できたことを
チームの皆が喜んでいた光景には、
なんとも嬉しいやら恥ずかしいやらだった。

そして5年生の終わりごろBチームのキーパーだった、
Dくんが思うところあって「退団」すると、
今度は繋ぎや冗談半分でやっていたキーパーというポジションを、
「ほかにやれる奴がいないから」という理由で、
我が愚息がやる(やらされる)ことになってしまった。

ま、要するに「球拾い」。

なんて思っていたら、
どういうわけか昼休みのドッチボールの成果なのか?
思いのほか、それなりにこなしてしまうことに。

さすがにAチームのレベルでは通用しないものの、
ソコソコの試合なら無難にこなすことができるようになってきた。
キーパーグローブも一応買ってやった。

でも親としては複雑な心境で、
途中交代こそナイものの、
ハッキリ言ってマイナス要因しかないポジション。
ビデオ撮影もピンチの場面しか撮り高がナイ。

かといって他にできる人がいないとなれば、
誰かがやらねばならない「仕事」。
こういう経験も将来のためには絶対に必要だ。
と頭では理解しているのだが・・・

そんな感じでここまで来たものの、
ちょうど一か月前に「辞めろ!」「辞めない」で大騒動。
まったくやる気がみられない愚息に対し、
最後通告として6月末をもって退団することと、
愚息に言い渡した。
よって8月の遠征合宿には参加しない!ということが決定。

本当に申込書を出さず愚息の退団宣言を待っていたら、
各方面から「どうして合宿にこないのか?」とメールは来るわ、
妙な憶測を呼びヘンなウワサは立つわ、
それと仲間たちから「どうして来ないんだ?」と、
かなり言われたらしい我が愚息。

ようやく、「これじゃ、さすがにマズい」と思ったのか、
1週間ほど学校から帰ると近くのグランドへサッカーの練習に・・・
炎天下の中、連日練習に励みだした。
その上、普段はゲーマー仲間でもある、
学校の同級生のサッカー部の子たちが、
練習に付き合ってくれたおかげで、
2VS1のハンデマッチなど、
かなりハードなメニューをこなすことができた。

それと毎朝、夕に10回のリフティングを必ずやることを課す。
10回というのは、あくまで習慣づけをさせるためで、
いきなり100回とか言っても3日坊主になってしまうため、
面倒でも毎日確実に継続できる数字設定として、
10回としただけ。
もっとも実際には、いざやり始めれば100回以上はやるのだ。
とにかく毎日ボールに触れさせることに重きを置いた。

するとBチームの大会試合前日、
「クラブチーム」での練習時に、
Aチームのエースコーチが動きの良さが目についたのか?
「オイ、ちゃんと練習してきたな!明日FWの先発で使うから頑張れ」
と愚息をわざわざ呼び出して言ってくれたという。

さすがに、長年名コーチとして君臨している人だけあって、
これが見事に的中!

初戦を落としてしまいローカル戦に回るも、
その後4連勝してローカル戦の決勝へとコマを進め、
さすがに決勝戦は「格上チーム」相手ということもあり、
4-1で敗退し「ローカル準優勝」という結果になるも、
ほとんどの得点に絡み自身も5試合で7得点(うちPK戦の決勝ゴールあり)、
という夏の珍事を引き起こしやがった・・・

大会終了後メンバーを集め、
今回のMVPにウチの愚息を推挙してくれた。
もちろん公式のMVPでないチーム内でのハナシ。

すると全員一致同意の異議ナシということで、
本来ならクラブ預かりとなる準優勝の盾を「MVP」の代わりに、
我が愚息に進呈してくださった。

改めて「遠征来いよ~」と仲間たちから言われたらしく、
帰宅後「どうしても行きたいので行かせてください」と泣きを入れてきた。

仕方ナイ、行かせてやるかということで、
締切りをとうに1週間も過ぎているのでダメだろうが、
一応、コーチに自分の口で「行かせてください」と言って来い!
と練習に送り出した。

練習から帰った愚息に「どうだったよ」と聞くと、
「わかった、じゃ来い!」と言っていただいたという。

おそらくBチームキーパーが主な「仕事」となろうが、
何試合かはFWでも出場させてもらえるかもしれない。
まぁ結果はどうあれ要は「準備力」が大事なのだ。
とにかく今は「一所懸命」に頑張るコト。
これが将来何かに必ずや生きてくる。
そう信じたいモンです。親としては・・・・

そして、そういうチームを熱心に毎試合応援し続ける我々父兄。
本当にマリーンズファンじゃないが、
どんな場所であっても必ず行って応援を続けてきた。
まず「選手の息子」中心の生活。
この6年間、どこの家庭もそう。

あるお父さんは、子供の為に会社を辞めてまで、
家族全員で「選手の息子」を全面バックアップ。

また仕事が終わって帰宅してもなお、
子供の練習に付き合うお父さんたちは皆だ。

かくいう私メもキーパーのパントキックと、
コーナーキックに関しては、
自分で言うのもおこがましいですケド、
かなり上手くなったと思います。
例えると野球のノッカーみたいなもので・・・

まぁこういっちゃなんだけれども、
自分の人生を乗っけなければ、
とてもじゃないがガキのサッカーとはいえ、
サッカーチームの応援なんて続けることはできないんですマジで。
これは子供もサッカーもJリーグのサッカーも同じ。
まったく同じ・・・

そしてサッカーで1点取るのがどれだけ大変か?
1点を守り切ることがどれだけ大変か?

どれだけ家族全員の協力体制が必要か?
そして勝つためには、
どれだけ多くの応援者含め「運」をかき集めなけれなならいのか?

強豪チームから1点もぎ取る為にどれだけの努力をしなければならないか?
真の強豪チームほど例え練習試合だろうが親善試合だろうが、
試合で「手抜き」は一切しないことなど、
サッカーの世界ではジュニアもプロも皆同じことは常識中の常識。

何度も繰り返し書くけれども、
野球は良くも悪くも、どこまでいっても絶対的エンターテイメントのスポーツ。
しかし、サッカーは子供もプロも例外なく「戦争」そのものなのだ。
だからサッカーに関しては「冗談」が一切通じない。
よっていい加減なことは絶対に書いてはいけない。

野球では自虐的なギャグはOK!だ。むしろ彩となる。
が、サッカー場のスタンドで、
自軍の自虐的なギャクを声高に言おうものなら、
確実に袋叩きに遭う。
試合中食事をしながらノンビリ観ている者など、まぁいない。
それが証拠にビール売りの姉さんが試合中に現れナイのがサッカー。

すべては、その1点のために・・・たかが1点のために・・・
あと1点のために・・・・

そういうコトを知ってて言っているのか?どうなのか?

もっと地べたの目線で物事を見るってコトが、
ど~して出来ないのだろうか?
この「先生」は。

駄文、長文にして大変失礼いたしました。
m(__)m
ではまた。


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1枚の写真の記憶から

2017-07-14 00:43:24 | インポート
今日は野球ネタなどを・・・

パ・リーグの前半戦日程が終了。
いわゆるオールスター休みとなる。

我が敬愛する千葉ロッテマリーンズの順位は言わずもがな最下位。

一時、井口引退なんやらで、
イイ感じになりつつあったものの結局はいつもの通り、実力通り。

そんなヘタレな球団とて毎試合ファンは球場へと駆けつける・・・

そりゃいい時もありゃ悪いときもある。
どんな時もオレたちが付いてるぜ♪ だ。

先日、阪急、オリックス、日ハムで監督を務めた、
名将、上田利治氏死去のニュースがあった。

そして、この1枚の写真にピンと来たので、
今回あえて、この話題に触れたい。

そのために話をまず1999年に遡らせる・・・

1999年は我々マリーンズファン(古参組のハナシになってしまうが)には、
現在の応援スタイルが完成域に達した年だったと記憶している。

前年の1998年、近藤昭仁監督時代のマリーンズで、
かの18連敗(日本新記録)を達成した翌年であり、
2軍監督だった山本功児が誰もやりたがらなかった、
マリーンズの監督を2つ返事で受けてくれたという経緯からまず。

それこそポンコツチームにカツを入れるべく、
ファンたちによる「山本マリーンズ」キャンペーンが始まった。

そして勝利した日には、
試合後「○○(監督名)マリーンズ!」コールをするようになったのが、
この山本マリーンズ時代からである。

一勝百喜!とにかく、まず1勝を心から喜ぼう!
ということで始まったシーズン。
その雰囲気もあってか、ちょうどこの時期7月の七夕の頃。。。

マリーンズは快進撃の真っ只中にいた。

そして、ついに七夕の夜「東京ドーム」で首位に立つ!
という快挙をやってのけた。
この当時としては、まさしく奇跡が起きた瞬間だった。

このレフトスタンドに若き日の潮風太子がいたことは、
以前書いたが改めて補足。

翌日のスポーツ紙、各紙のトップを飾り、
千葉ロッテ首位の順位表を初めてみることとなった。
この首位奪取の引き立て役となってしまったのが、
上田利治監督率いる「上田ファイターズ」だった・・・・

名将、上田利治にとっては屈辱の夜になったであろうことは、
想像するに難くない。
日ハムファンたちも同様だったろう。

しかしながら、結局シーズンが終わってみると、
マリーンズは4位という結果に終わり、
優勝どころか、念願のAクラス入りもならなかった。

が、マリーンズファンには満足のシーズンであった。

とにかく毎試合が「お祭り」のような感じだったし、
前年までが前年までだっただけに、
やれば出来るかも?感が出てきたことが嬉しかった。
ファンたちの連帯感、結束感は試合ごとに強くなっていった。
「タオル振り」はその象徴だ。

この年、潮風太子は26試合に参戦した記録が残っている。

そして今回のネタとなる1999年10月2日を迎える。

この日はロッテVS日ハム戦の公式戦最終戦であり、
上田利治最後の采配という試合。
すでに成績不振の責任を取る形で監督退任が決まっていた。

潮風太子は翌日の地元最終戦にて、
園川一美の引退試合が行われることから、
「翌日」の場所取りと「引退試合」のときの段取り確認のため、
この前日である日ハム最終戦に参上していた。

「明日の花吹雪の新聞紙は手のひら大の大きさにカットするように・・・」
(終了後の清掃がスムーズなため)
等々応援団から試合中、翌日の段取り説明を受けながらの応援。

完全な消化試合という雰囲気で試合は進み、
天野の今シーズン第1号という万シューまで飛び出し、
ウォーレンが28S目をビシッと決めて4-2で試合終了。
マリーンズファンたちにとっては久しぶりのホームでの勝ち試合となった。

しかし上田利治監督としては最後の試合が、
負けというのは寂しい感じだったが、
そこはそれ勝負の世界、これもまた野球ナリである。

マリーンズのヒーローインタビューの最中、
上田監督と日ハムの選手、スタッフたちはレフトスタンドへ向かい、
ファイターズファンたちへ最後の挨拶を行っていた。
日ハムにとってはシーズン最終戦であり、
上田監督、最期のラストシーン。

一勝百喜で歓喜のライトスタンドとは対照的に、
シンミリとしたエンディングのレフトスタンド。
それでいて相手チームへの配慮を心得た品格ある、
ファイターズファンの姿に敵ながらアッパレと内心唸っていた。

マリーンズ4位、ファイターズ5位。
大して変わらない順位なのだが、
とても対照的な光景だった・・・・

上田監督はじめファイターズの選手もグランドを後にし、
多くのファイターズファンたちも帰宅を始め、
レフトスタンドが閑散な状況になっていく・・・

マリーンズの2次会(試合後の応援ショー)は長い。

それでも公式応援団はじめ一部のファイターズファンが、
シーズン最終戦に行う恒例の「エール交換」のため、
残っていてくれていた。

ひとしきり2次会と、
翌日の園川一美引退試合の段取り説明が行われ、
あとはエール交換して明日の場所取りか…と思った、
その瞬間・・・

マリーンズ応援団から「う~え~だ~!」と上田コールの要請。
すぐさまライトスタンドを埋めていたマリーンズファンたちも、
「上田コール」で呼応。

「う~えだっ!う~え~だっ!」
上田コールが夕暮れの球場全体に鳴り響いた。

もちろん上田利治はじめファイターズの面々はすでにベンチにいない。
というか、もうバスに乗り込んでいるハズ。

それでも、しつこく上田コールを続けるライトスタンド。
それも、ず~っと繰り返す。
確実に20分以上、いや30分近く断続的に上田コールが続いた。

さすがに、もう帰ったんじゃね?と、ざわつき始めたその時。

まもなく日も暮れようかというタイミングで、
3塁側ダッグアウトからユニホーム姿の上田利治監督が、
グランドに一礼して登場すると球場のボルテージは一気にヒートアップ。

レフトスタンドに残っていた日ハムファンたちのもとへ、
まず向かい改めて丁寧に一礼。
少ないながらも残ったファンたちによる、
精一杯の感謝の声援がライトスタンドまでハッキリと聞こえてきた。

そして、ご丁寧に、そこからライトスタンドへと歩みを進めてくれた。
敵陣へ相手チームの将軍、
しかも歴史的名将が最後の挨拶にライトスタンドへ来るなんて、
初めて見た光景であり潮風太子はじめ多くのマリーンズファンは驚き、
さすがに、どよめきの声があがった。

一段と上田コールのボルテージは上がり、
明日の園川の引退試合、声でなくなるんじゃないか・・・
と思うほどの大声援をもってライトスタンドの住人たちは敬意を表した。

テレビ局はとっくに帰って編集作業に追われていたのだろうか、
すでにテレビカメラはなかった。

それでもスポーツ紙のカメラマンと、
記者数名が気づいて慌ててグランドに飛び出してきた。

夕暮れのマリンスタジアム全体に鳴り響く「上田コール」。
また谷保さんも、この場面で野暮なアナウンスなど一切しなかったところが、
今にして思えば実は最高の演出だった。

心から「お疲れ様でした」というファンたちの純粋なる気持ちの大声援だけが、
夕暮れの球場、上田利治という不出世の名将を包み込むラストシーンとなった。

そのシーンを撮ったのが例の「1枚の写真」である。

すっかり日は落ち、
ゆっくりと3塁側ダッグアウトへと88番の背番号が消えていった光景は、
なんとも神々しく思えた。
と同時に、また一つの時代の終焉をみた気がした。

そう、当時ここにいたみんな。
子供の頃(昭和50年代前半)には、
阪急の上田、近鉄の西本、南海の野村、日ハムの大沢、
そしてロッテのカネヤン(太平洋クラブについてはm(__)m)
あえて書くなら西武の広岡、
といった超個性的かつ重厚感タップリの名将が監督だった世代。

とにかく、この時代の監督は皆一応に「威厳」があり「風格」があった。
そして「パ・リーグの暗黒期」を支えた最大の功労者たちでもあった。

ならば、それに相応しい最期というのが、あるじゃないか!
ということで当時の応援団長はじめ、
応援団たちはサプライズを試みたのだろう。

結果としては上田利治監督最期にして、
最高のラストシーンで完結させることができた。
と思う。

これがパ・リーグファンの「粋」である。

その後のファイターズファンとの、
エールの交換シーンは感動的ですらあった。
シーズン終われば同じ熱狂的なパ・リーグ信者。
パ・リーグを思う気持ちは皆同じ。

また来シーズンな・・・ようやく散会となった。

皆、あまりに上田コールで絶叫し過ぎて、
「どっちのファンだかわかんなくなっちゃったな・・・」と、
外野スタンドゲート前、
翌日の順番取りでバミリのガムテープを張りながら、
みんなで笑ったことが懐かしい。

しかしその日の夜も、また翌日も、
この出来事を報じたテレビのスポーツニュースはなかった。
また今回の訃報に際しても、
この「地味」ながら「粋」なエピソードを、
どこの新聞社も書いてくれなかったので、
改めてここで書き残しておこうと思った次第。

まぁ、ロッテファンごときに・・・というところになってしまうが、
上田利治という名将の最期の伝説を、
あの現場にいた生き証人の一人の記憶として一筆候。

最後に改めて上田利治氏のご冥福をお祈り申し上げます。
m(__)m

また明日。


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髪型にミラージュ

2017-07-11 14:01:12 | インポート
お久しぶりです。3週間ほどお休みいただきました。
m(__)m
また今週から復帰いたしましたので、
改めましてお付き合いのほど・・・

今週は書いたものの編集が出来ずにお蔵入りしそうな、
賞味期限が迫っているネタの在庫一掃ということで、
連発にて。
今日は時事ネタを絡ませながら・・・

昨年まで20年近く潮風太子の「床山」をやってくれていた、
同い歳のSちゃんが他界して、ちょうど1年が経過。
月日の流れはなんと早いことか・・・

Sちゃんがいなくなった後もSちゃんがいた店に通っている。
現在はSちゃんの相棒だったKさんに「床山」を依頼している。

以前にも書いたが、
ここ2か月ほどで髪型をリーゼント風に変えてみた。
例の白髪対策のため。
未だ「完成域」には至っていないものの、
ポマードの種類を変えたり使用量を多くしたり減らしたり、
試行錯誤の毎日。
おかげでポマードの種類も毎月増えてきて、
ポマードコレクターになるようなカンジ・・・
髪型セットのため朝も15分早起きするようになった。

「脇のセットがちょっと上手くいかないんだよねぇ」とKさんに相談したら、
「じゃツーブロックにしましょう最近、また流行ってきたんですよ~」という。
そういや最近テレビを観ていると潮風太子と同世代の、
第2団塊世代中高年タレントたちもツーブロックにしていることに気づいた。

上の髪型だけ残して下半分をガッツリと刈り上げる。
要するに今ぞ昔のテクノカットである。
30数年前に流行した、この髪型がまた流行しているとは驚き。

ところが先日、中高生の男の子を持つ父親である「同僚」たちと歓談した際、
「ウチの子の学校ではツーブロックは校則違反なんですよ」という。
「そうそうウチの子の学校もダメ」と。
「はて?」これまた驚いた。

そういや、潮風太子が中学生だった30数年前、
確かに、あの頃もテクノカットの進化形である、
「マッチカット」や「フミヤカット」は校則違反だったし、
かくいう私メも「校則違反だ!」と、
今思えばアホな担任Sに言われ、
「スポーツ刈り」にさせられた経験をもつ。
齢50を目前にした今でも、
あのテクノカットが不良という定義は理解できていない。

じゃ潮風太子は不良中年ということなのか?

この中高年のツーブロック、
あえて同世代だから書けることと前置きした上で、
我々世代の「ズラ組」つまり「カツラ愛用者」たちにとっては、
なんとも有り難い髪型の流行なのである。

周囲をバリカンでガッツリ刈って上の「モノ」を載せるだけで、
若々しい「お父さん」の出来上がり!となるからだ。
フルのカツラは高額な上、生え際のセットに時間がかかるわ、
更に、こういう猛暑の夏場は特にシンドイそうな。

笑いこっちゃナイ!結構、深刻かつ切実なハナシなのである。

「お父さんハゲてるから学校来ないで!」と娘に言われるお父さんの気持ち。
分かりますかね?
実際こういう悲劇が日本中のあちこちで起きている。

ちなみに私、潮風太子はカツラではナイ。
それどころか48歳にしては髪の毛が異常に多いらしい。
ここ2年ほどで白髪が出てくるようになったので、
今更ながら、こうして髪型に拘るようになった次第。

ところが哀しいかな、職業病的なモノもあるのか、
どういうわけかズラの人を簡単に見抜いてしまう。

もっと書くと、どこのメーカーのズラかも大体わかるようになった。
なので、たまにメーカー品でない「完全オーダー品」、
潮風太子曰くシークレットメーカーによる「裏モノ」に出会ったときなど、
「コレはどちらの床屋で組まれたんですか?」と喉元寸前まで声が出かかるが、
グッと衝動を抑えるのに必死なときがある。
そのくらいカツラ愛用者たちが大好きなのだ。

このところ例の松居一代が夫・船越英一郎をネット攻撃している。
こういっちゃなんだが、どうでもいい他人の夫婦の問題。
ベッキー騒動以降こういう芸能人の不倫ネタに皆、
嫌気が差して辟易しているのに、
こういうタイミングで熱心に世論を煽ろうと必死な姿に、
「更年期障害の鬱だよねコレって・・・」
「なんか嫌なモノ見せられてるカンジ」というのが我々の世代の見方だ。
お気の毒というか失礼ながら。

YouTubeで船越英一郎の「不倫」をバイアグラを使って、
「暴露」していたが、
我々中高年たちが最も興味がある「暴露」は、
そんなハナシじゃナイ!

あのモテモテの魅惑の中高年大スターである船越英一郎は、
やはりウワサ通り「ズラ」だったのかどうか?である。

あんたら夫婦が離婚しようがどうしようが、
どうでもイイ話なのだ。

それよりも、これがズラだったということになれば、
やはり「アデランス」なのか?それとも「アートネイチャー」なのか?
こういうネタが最も重要なのだ。
株の投資にも影響する。

まぁ恐らくアデランスだろうというのが大方の見方。
やくみつるが使用しているスヴェンソンではナイことは確か。
いやいや、それとも、これまで無名の裏モノなのか?

いやいやいや、どうしてズラじゃナイとしたら、
どういう植毛なのか?とガチな興味は尽きることがナイ。

憶測だけでは「購入」を躊躇してしまうカツラ愛用者たちの、
これまでの苦しみを、このボーナスシーズンである今こそ、
解き放ってあげていただきたかった・・・・

いや、これだけダンディーな植毛法があるなら是非とも知りたい!

なんといっても、船越英一郎はモテるという事実は変わらないのだ。
もうこれは定説中の定説なのだから。
モテるためなら車一台分のズラ購入も辞さない中高年は案外多い。

そう誰だって中高年のオヤジなら「モテたい!」。
娘の友達から「お父さんカッコいいね!」と言われたい!
そう思えなくなったら、もうオシマイ。

たとえバイアグラを飲もうとも、
赤ひげ薬局で妙なクスリを買ってでも・・・
中国の怪しげな「養毛剤」を使ってでも・・・
また、それが後で、とんだニセモノだったとしても。

40,50代の「負け組男」というのは、
「もう一花咲かせたい!実はオレはこんなもんじゃナイ!」、
「こんなもんで終わってたまるか!」と日々思っている。

が、現実には連日のハードな日々でクタクタ・・・・
精神的、肉体的にもボロボロである。
そりゃ毛も抜けるし、胃や肝臓だって悪くなる。
それもこれも、家族の為に頑張っているからじゃナイか?

その挙句、女房には裏で亭主元気で留守がイイと言われ、
「旦那デスノート」に書かれる始末。

ここらで一発、人生の万シューを当ててみたい!
髪型から始まる第2の人生。

これぞ男のロマンなり。

儚き夢それはミラージュ。

そういうことが松居一代にはわかっていなかったようだ。

だから民衆の(一部の中高年層だけでも)共感を得られず、
カマして不発!と言う展開になってしまった。
なんか、みていて痛々しいカンジだ。

それとアメーバもズルい。

市川海老蔵のような「金」になるタレントには、
わざわざ大きいアメーバマークを表示してメディアに提供しているのに、
いざ、金にならないと分かるとコレだ。

今週は連発でいきます。
また明日。


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