そういえばYMOについて
これまであまり書いていなかった。
ちと中2病風情で書いてみようかと…
YMO(イエローマジックオーケストラ)
のドラマーでありボーカルだった
高橋幸宏のことを「ユキヒロ」と
呼べる世代って
意外と狭い範囲だったとは
今まで気づかなかった。
確かに案外と活動期間の
短かったバンドだから
そうかもしれない。
ユキヒロが亡くなった・・・
享年70歳
あぁユキヒロもそんな歳だったのか。
確かに自分とて現在53歳、
確かに自分とて現在53歳、
今年で54歳だ。
人生で初めて
自分の小遣いで買ったレコードが
このテクノポリスのシングル盤。
かれこれ43年前のハナシ。
このレコードのライナーに
「ユキヒロ」の文字。
このときすでに
芸名をユキヒロにしていたので皆、
高橋幸宏のことを
尊敬と親しみを込めて
「ユキヒロ」と皆で
呼ぶようになったのだろう。
当時、
小学4年生の潮風太子クンも
その一人だった。
この「ユキヒロ世代」は今でいうと
50歳以上70歳未満といったところ。
それ以外の世代ではまず聞かない。
70歳以上は概ねビートルズ、
ベンチャーズ、ストーンズ世代であり
テクノを小バカにしていた連中層で、
49歳以下となるとBOØWYからの
X(あえてこう書く)、TMN、
ZIGGY以降と書けば分かり易いかと。
またこれに属さない「尾崎豊」組に
始まった近代フォーク層の
アンチテクノ派が派生した時期とも
追記しておきたい。
念のため補足で書くと潮風太子の
50歳代はYMOからのBOØWY、
ハウンドドッグ、佐野元春、
初期ユーロビート世代にあたる
とも書いておこう。
次に買ったレコードが
お年玉で購入したLPの
パブリックプレッシャー
というライヴアルバム。
連日何度も繰り返し聴き
アドリヴフレーズや
僅かなミストーンまで
完全記憶できるほど聴き倒した。
かくしてYMOをキッカケに
シンセサイザーに興味をもつと
ドイツのクラフトワーク、
冨田勲、喜多郎、
ワルターカーロスと聴きまくり
シンセサイザー音楽という
無限の魅力に取り憑かれていった
音楽小僧がどれだけいたことか。
そしてYMOの成功は
音楽テクノロジーの
急速発展にも比例し、
今で言うビンテージシンセ
巨大シンセのムーグⅢから
MIDIデジタルシンセへ
完全移行するまで
僅か数年で
飛躍的進歩発展を遂げた。
ちょうどPC-8001から
PC-9801やMacintoshへと
コンピューターの世代交代が
起きた時期に重なる。
と同時に「シンセ」の廉価化も
劇的に進みバイトを頑張れば、
61鍵盤(5オクターヴ)シンセが
高校生でも入手可能な
レベルまでになり、
どこのバンドでも
シンセキーボーダーが
いるのが当たり前となった。
キーボーダーはこの当時独特の
言い方で最近は聞かない。
ちなみに、
この頃にはもう
シンセサイザーという言葉は
死語に分類されている。
超人気お笑いコンビだった
ギャグシンセサイザー
から「とんねるず」に人気が
シフトしていった時のように。
はてさていざシンセを買ったら
当時必ず最初に
コピーする曲といえば
高橋ユキヒロ作曲のレガシー的
神曲「ライディーン」がお約束。
この曲はまさにテクノポップの
入り口に位置する曲で、
バイトしてシンセを買って
必ず最初に弾いてみる曲
それがライディーン。
その次にテクノポリス、
コズミックサーフィン、
東風の順…
そこから泥沼に嵌まるかの
如くYMOコピー地獄へと
引き込まれていくことになる。
ヤマハのFM音源デジタルシンセ
DX7が登場するまでは
アマチュアの間では
セミアナログのローランドJUNO
が再現性の高いキーボードと
されていて皆がこぞって
バイトして購入したもの。
ちなみに
潮風太子は中古で購入(笑)
また
こんなセッティングつきの
楽譜も飛ぶように売れた時代
でもあった。
こういうのを見ながら
波形や音作りの基本を
マスターしていった。
今の若い世代には到底
理解不能な世界だろう。
YMOとまったく同じ音源を
手にして再現した時の感動は
今でもハッキリと覚えている。
やがて廉価なリズムマシーン
(ドラム音符を打ち込む)が
発売されては購入し
廉価なシーケンサー
(音符を記憶させることで
複雑なフレーズでもミスなく
自動演奏してくれる補助マシーン)
まで手に入れると
完コピを目指すようになる。
とにかく手間のかかる
気長な作業だったものの
睡眠時間を削ってでも
楽しくてしょうがない!
次々と「課題」を
クリアしていくうち
すっかりYMOヲタへと
なっていくが、
もうその頃になると
すっかりテクノポップも
終焉期を迎えていて
誰もコピーバンドとして
やる者もいなくなり、
演奏を披露する場を失っていた。
なんせメンバーが集まらない(笑)
今どきテクノポップかよ…と。
気付けばヲタク系音楽などと
揶揄も始まっていた。
折しも空前のバンドブームが
迫っていた時代。
少しハナシを戻して
1983年潮風太子が中2のとき
ユキヒロのメインボーカル曲、
君に胸キュンがヒットすると、
この曲がYMOいや、
ジャパニーズポップスにとって
ひとつの決定的転換期となる。
この曲は当時賛否あったものの
今にして思えばこの曲こそ
アンチテクノ派と打ち込み派の
イデオロギー対立から
融合へと融和させていく
キッカケを作った気がする。
現在のジャパニーズポップスの基本が
ぎっしり詰まっている作品だ。
同時に、
この曲以降完全に
「テクノポップ」の制作手法が
現代の音楽づくりの
基本メソッドとなり
進化発展していっていき、
デモテープはもっぱら
シンセを使った
オーバーダビング(重ね撮り)で
作り数パターンを
カセットテープに録音して
それをバンドに持っていき
みんなで仕上げるという作業が
当たり前のようになった。
当初こそピコピコサウンドと
笑われたりしたテクノ系歌謡も
ほどなくテクノロジーの飛躍的
かつ劇的進化と先述したように
音楽的融合発展から
のちに小室サウンドが誕生し、
それをパクるいや競うかの如く
追いつけ追い越せで更なる
音楽面、技術面ともに
一連のバンドブームとも相成って
プロアマ問わず
世界の音楽シーン自体が、
爆発的進化を遂げることとなり
結果として今もこうして音楽が
進化を続けてきて現代に至る。
ちなみに
カラオケボックスの
カラオケ伴奏曲などは
まさしくテクノポップの
末裔そのもので、
歌番組でのビッグバンドの
伴奏が無くなり
MTRカラオケ伴奏へと代わった。
やがてそれが庶民のカラオケへと
フィードバックされていった。
この歴史的な流れも
テクノポップの産物のひとつだ。
YMOから
ロックやポップス、
ジャズフュージョン、
クラブミュージック系へと
テクノで育った子供たちは
それぞれに大人となり
巣立っていくことになった。
やがてそれぞれに
あちこちで華開くと、
大物アーティストが続々と現れ
幾多の名曲が生まれ
その曲たちを聴いて育った
そのまたチルドレンたちが、
追いつけ追い越せとあとに続く。
これが日本のいや世界の
音楽シーンを作っている構図
といっても過言では
ないだろう。
日本ではじめて
全世界で通用したバンド、
それがYMOであり
後にも先にも恐らくもう
YMOを越える日本人バンドは
出てこないだろう。
それ故に
一時代の音楽シーンを
日本人バンドYMOが席巻した
テクノポップ勃興期の
あの時代をリアルタイムで
見ることができたことは
本当にラッキーだった。
1993年東京ドームで行われた
いわゆるテクノドンライヴで
久々に3人がステージに上がった。
この時、
潮風太子は一階アリーナ席の
端っこの席から
ユキヒロ~!と絶叫した。
キョージュー!は何度叫んだか
記憶してない(笑)
新作テクノドンという
正直よくわかりずらい
アルバムだったことと、
まだ出来て間もない頃の
東京ドームの音響は反響音で
ズレて山びこみたいに
聞こえるわで途中まで
いまいちノリが悪かったが、
後半のBehind the Maskの
イントロが聞こえてくると
突然全体のテンションが上がり、
次の中国女でユキヒロの
歌声が響くと
そうそうコレよコレ!
とばかりに会場は一気に
ハイテンションなステージへと
変わった。
ユキヒロ~!
そしてこの時以来私メは
ユキヒロ~!と叫んでいない。
叫ぶ機会もなかったが…
この東京ドームのライヴ後、
地元のデニーズで止めどなく
久しぶりにYMOについて
真夜中まで長々と語り合った。
10年前の中学生の頃に
戻った気さえしたほどに。
ただこの半年後、
潮風太子のバンドが解散。
潮風太子こと私メは
フツーのオッサンへの道を
行くことになり今日に至る。
一緒に東京ドームの
ライヴに行った
中学時代の同級生の
メンツが面白いのだが
そのハナシは取っておこう。
そして最後に今一度叫ぼう
ユキヒロ~!
と、
そしてありがとう!
週末はSpotifyで
YMOを久しぶりに
聴きまくろう…
そして時間が出来たら
久々キーボードいじりをして
ライディーンのコピーなど
やってみようかなと。
いや、
もはや単なる年寄りの
ボケ防止の為の
リハビリそのものか(^_^;)
ユキヒロに合掌。