続・笑う蜘蛛の糸

1969年生まれの私、
潮風太子が第2団塊世代特有の視点で書く
コッソリ系ブログです。

最終戦~そして新たなステージへ

2018-03-30 02:00:28 | インポート
今回は親バカ日記風にて失礼いたします。
とりあえず記録として残しておこうか?
ということで手記を一筆。

年中さん(5歳)から始めた愚息1号(長男)のサッカー。
この度、ようやくというか、やっとというか、
とうとうというか・・・
無事最後まで完走と相成りました。
まぁ長かったようで短かった7年半・・・

スパイクも何足購入したことか・・・
こんなに消耗品かつ高価なものだとは思いもしなかったですな。
とはいえ、こうして履き潰してくれれば靴も本望でしょうし、
親として買い与え続けられたことも、
ある意味誇りに思います。
これもまた戦いの証のひとつかと。

最終戦は、
県内某市で行われた、
小規模ながら伝統のローカル大会。

当初はBチームのみでの出場予定だったが、
急遽、久々に全21名、
A,B合同チームでのエントリーに変更。

幼稚園・保育園~小学校低学年時の、
楽しいサッカー教室から
正式にチームとして発足した小3当初は、
A,Bもなく全員で大会に出場していたもの。

当時、就任した鬼コーチこそクラブのエースコーチである、
伝説のKコーチと相棒のYコーチ。
県大会優勝「数度」の実績の名将コンビ。

まずリフティング50回出来なければチームに入れない。
という「登竜門」の課題から始まり、
言わずもがなボンクラの愚息は残りの期日ギリギリでの合格。
合格のお墨付きをコーチからいただいたときには、
同級生のチームメイトはじめ他の学年の子たちから、
盛大な拍手が沸き起こったと上級生の子からハナシを聞いた。

ささやかな感動も束の間、
実はこれが地獄の一丁目1番地の入り口で、

新チームとして初めて出場した大会では 「苦敗」の4位。
まぁ頑張ったなと思ったが、
鬼コーチの考えは違った。
「私がこれまで指導してきた中で、
間違いなくクラブ史上最弱のチームだ!」
と、吐き捨てるように激を飛ばされた。
よほど頭にきたのかクラブのブログでも酷評され、
そこから鬼のような練習の嵐、
そして土日祝はてまた平日まで、
地元はもとより越境遠征、遠地遠征で、
大会はもとより練習試合の連続のため、
我々親たちもその都度、応援に出かけるハメに。
その上、遠征から地元に戻って夜まで練習。
たとえ優勝したとしても、
試合と練習は別だと…

しかし、そのうち一人、また一人、
「やる気スイッチ」が入り始めると、
それまでのポンコツ集団から、
個性的なプレーヤーが出始め、
やがてコーチの思惑通りポジション争いが始まると、
泣き虫、甘えん坊だった子たちが、
戦う集団へと変貌を遂げ、
さらにA.Bチームに分けられるようになる頃には、
チームの練習のほかに別のサッカースクールに通い、
基本テクニックを磨くようになっていった。
例の「お受験化」の始まりだ。
ここからはサッカー漬けの毎日。

あるお父さんは仕事を辞めてまで、
子供のサッカーに、
自分の人生を賭けた。
平日の試合のときには仕事を早退したり、
抜け出したりして送迎をしたり…
応援に行ったり。
自分も含め親たちも共に闘うことを、
余儀なくされていった。

そんな中、我が愚息は如何せん努力をしない子なので、
当然のことながらBチーム確定、
その後は万年Bチームの選手(笑)

以前書いたとおり「不祥事」を起こして、
謹慎処分を食らうわ、
かと思えばミラクルな活躍があったりと、
好調とスランプの繰り返しで、
つけあがってみたり落ち込んでみたり、
もう何度辞める辞めないのの連続だったことか・・・・

でも不思議なことに、
このチーム明らかに「格差ピラミッド」が存在しているにもかかわらず、
Aチームの子とBチームの子の仲が、
とにかく良かった。
強豪チームでは絶対的に存在するAチームとBチームの「差別感情」。
これがまったくといっていいほど無かった。
またこれは他の学年いや他のチームでは、
まぁありえない不思議な現象だろう。

しかしコーチ目線でいくと、
一つ間違えば「仲良しチーム」のようになってしまう危うさである。

単純仲良しチームでは常勝軍団に、
絶対なれないことは、
長年、千葉ロッテマリーンズの応援に、
従事してきた私には、
トコトン骨身に沁みてわかる。

しかし本当に不思議なハナシだが、
このチームに関しては間違いなくイジメとやらは存在しなかった。
これについてはイジメのメカニズムと処方箋解明のためにも、
また改めて「検証」する必要がありそうだ。

やがて鬼のKコーチとYコーチ2人のおかげで、
A,Bチームともにメキメキと実力を上げていき、
チームが戦う集団として頭角を現すようになっていく。

とある大会ではA,Bチームでの同門決勝戦なんてこともあった。
これが、以前書いた我が愚息の初めてのMVP獲得の試合。

それから時折Aチームに昇格したかと思うと、
再びBチームへ・・・なんてことを繰り返しながらも、
なんとか、ここまで続けてこれたのは、
本当に鬼コーチと、
いつも仲良しにしてくれたチームメイトたちのおかげ。
特にどん底時代にいつも寄り添ってくれた、
EくんはじめBチームの面々には、
感謝し尽くしてもし足りない。

その最弱と酷評されたチームも今や、
「ソコソコ」有名なチームとなり、
残念ながら全国制覇とか県大会優勝といった
超G1級のチームにはなれなかったものの、
常勝軍団へと名を上げ、
名前を出せば地元でサッカーをやっている子なら、
知らない者はいないレベルのチームへと変貌を遂げた。

人数を書くと、
ドコかバレたり何かと問題があるので詳細は書けないが、
このチームから「数名」のJリーグの下部組織、
通称「Jリーグユース」へと
「進学」する選手たちを輩出するまでになった。
毎年必ずプロユースの選手を排出しているが、
クラブ史上、数チーム数名は快挙だそうな。
もちろん、
その他の子たちも、
地元1部リーグのクラブへ進学する者、
多数となった。
ただウチの愚息については以前、書いた通り(笑)デス。
一応。

さて、その最後の大会。
これも鬼コーチなかなかの演出で、
スタートはAチームで始まり、
3点差がついた時点で、
「看板選手」を1人残して総入れ替えという、
ギャンブル的采配。
おかげでウチの愚息にも出場機会が与えられた。
相手もけっして、
よくありがちな弱小チームとはワケが違う。
県大会ベスト24レベルのチーム。

それこそ舐めやがって!とばかりに、
相手の逆襲、猛攻必至となる。
が、これはもはや鬼コーチにとっては、
卒業試験の意味合いがあったようで、
選手たちを信じる!に賭けた。

しかし、この賭けは見事に当たり、
更なる追加点まで生み出し、
挙げ句うち1試合でウチの愚息も、
シュートを決めたりと、
点数自体は4-0みたいな試合ながら、
大いにチームが盛り上がり、
お祭りムードの雰囲気となった。

そして3連勝で決勝進出!
みらいモンスターたちとの競演は、
まさにプレミアものの思い出となった。

決勝戦。
数度の不利な判定も何のその、
圧倒的な勢いと、
今や金看板の名に恥じぬ実力の差を、
まざまざと見せつけ、
5-0で快勝!まさしく全員サッカーで有終の美を飾り、
愚息の夢のような、
少年時代が終わりを告げた。

優勝チームから5名のコーチ推薦による、
優秀選手賞が主にBチームの子に送られ、
ウチの愚息も最後のメダルを頂戴した。

そして表彰式~大撮影会が終了した、
夕暮れのグランドで、
選手、親たちを円陣状に集めコーチから、
今回の表彰推薦の理由を丁寧に説明。
これも最終戦ならではのこと。

そこでウチの愚息の表彰理由が、
「私はコイツがサッカーをやっていなかったら、
どんだけ悪いガキになっていたか…と思うと本当にゾッとします」
と言われ一同爆笑。
続けて、
「でもね。練習のとき、遠征合宿のとき、
移動のクルマの中、チームの良いとき悪いとき、
間違いなく常に絶対的ムードメーカーとして、
チームに大きく貢献してくれました。
だからあげました。
本当に助かりました。今までありがとう!」
そして阿吽の呼吸で盛大な拍手が。

結果として、
選手としては名門チームの落ちこぼれFWだったが、
それでもみんなから必要とされていたこと、
イジられつつ可愛がられ愛されていたこと、
チームに対し何かしらの役に立てていたのだとしたら、
とりあえず、この「サッカー」という選択は、
間違っていなかったのかなと・・・
ちったぁ親の苦労も報われたと思えた瞬間であった。

もう来週から、こういう映像を撮るコトはない。
いや、もう出来ないといった方がいいか。

灼熱の太陽の中の試合アリ、豪雨の中での試合あり、
氷点下の中での試合もあれば、
東西南北いろいろな地、チームとの対戦、
中には東京拘置所内での試合なんてのもあった。
貴重な経験だったが、このネタについては、
もう少し時間が経過してから書こうかと思っている。
かなりのお宝映像も撮れた・・・ハズ(笑)
まぁいろいろなところへ行かされましたホント。

来月からは中学生という新たなステージへと、
泣き虫で甘えん坊だった子供達が、
ステップアップする。
ある子はプロ選手のタマゴとしてデビューし、
またある子は超名門私立中学校の生徒となり・・・
桜の花びらが散っていくように、
それぞれの新たな人生が始まる。

さてウチの愚息はどうなることやら・・・・
ひとまず愚息のサッカーネタ「少年時代編」は終了。
果たして第2部はあるのかどうなのか?
ひとまず「おもひで箱」に封印ということで、
ネタをまとめたい。

今週は単なる親バカ日記風で失礼いたしました。
m(__)m
ではまた次回。

※よしっ!さぁプロ野球開幕だ!今シーズンは行くぞ~!!


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取らぬ狸の皮算用

2018-03-13 22:15:26 | インポート
3週間も空けてしまいました・・・m(__)m
この間もおいでいただいた皆様、
本当にありがとうございます。
そして申し訳ございません。

相変わらずの超多忙に加え私以外、
家族全員インフルエンザに連続感染。
それもA.Bそろい踏みで(笑)
まぁそんなハナシはソコソコにして本題へ。
久々、リハビリがてら軽口なネタにて。

森友学園問題も松本清張の小説のような展開で、
いよいよ盛り上がってまいりましたが、
レコード世代の潮風太子は、
ドーナツ盤ヒット曲のA面より、
その盤のB面のデキに注目するタイプ。
ということで森友学園問題のB面ネタ、
短編2曲のうちの1曲。
今回はカジノ法案を揶揄ってみようかと。


こんな大騒動の最中
実はコッソリと、そして粛々と、
カジノを含む統合型リゾート施設実施法案、
いわゆるIR実施法案またの名をカジノ法案、
について詰めの協議に入ったそうで・・・・
相変わらず政治家と役人はズル賢いですな。

これまで「政府」が例のカジノについて、
「こういうカジノにしたい!」という主張をザッと書くと。

「日本版公式カジノ」とは、
あくまで外国人観光客(金持ち限定)の外貨獲得を
主たる目的として開帳すると。

カジノによる外国人観光客の「劇的」増加、
それに伴う雇用の創出及び、
風が吹けば桶屋が儲かる的な「シナジー効果」、
そこで得た巨額の収益を「公共事業」や「インフラ整備」、
「福祉」「教育予算」等々に当て~
なんて言ってるものの、
要するに手っ取り早く巨額の「現ナマ」を手に入れて、
「天下り先」に還流させ「元官僚」らが潤いたいというコトらしい。
ザックリ書くとこんな感じ。

海外旅行者は入場無料も、
自国民である「日本人」は入場料2000円(1日分)、
そして週3回まで、それと1か月以内10回までの入場制限を設ける。
これで自国民のギャンブル依存症に抑止が可能になる。

はぁ?
一番金を出すであろう外国人VIPに対して一見の無料客と同等の扱いなの?
日本人とて、いくら博打好きでも、
そんなに行かねぇよ!バカ。
そして、あとは賭け放題、散財し放題ですよと。
まぁド素人の賭場経営も甚だしい。

そして候補地に横浜(山下ふ頭)や東京(お台場)とは笑う。

私、潮風太子が生まれたのは1969年(昭和44年)。
この時代、日本はまさに高度成長期真っ只中。
この当時、日本中いたるところに公営の賭博場があった。

戦後、復興とインフラ整備の資金として、
全国各地に公営ギャンブルの賭場がジャンジャン開帳された。

いわゆる3競オート(競馬・競輪・競艇・オートレース)である。

ちなみに、この時代のパチンコの地位は今と違い、
朝鮮系三国人商人の隙間産業程度の、
低い身分の子供騙しなカワイイ扱い。
遊技場と呼び賭場とは一線を画していた。

現在、東京ドームのある場所には、
以前にも書いたが後楽園競輪場があって、

上野の山谷で暮らす日雇い人夫連中が、
千住の日赤病院で己の血を売り、
その金を手に水道橋まで這いつくばって行き、
工藤元司郎や高原永伍のアタマで買う!もちろん連勝単式。
ウラ目は買わない!
血を売って肉を買うとは、
ここから出たコトバだとか、そうでないとか・・・

かくして人気組合せの売り場だけに長蛇の列。
この頃は1ー2の窓口というカンジで、
1窓口1点のみの購入というシステム。
よって1点あたりの購入額が、
それこそ「有り金全部!」なんてコトもザラ。
しかも、
その数平日というのに約3万~4万人当たり前。
特別競輪だと7万人はいたハズという。

国内屈指、大人気の賭場だったが、
裏でまともな人々は、
あそこはクズの終着駅だと陰口を叩いていた。

お台場の対面、大井には大井競馬場と大井オートが鎮座。
そのすぐ後ろに笹川良一が胴元の平和島競艇場・・・
側壁の人類一家、皆兄弟のデカ文字に、
日の丸がまぶしく輝く。

大井オートでは黒い霧事件でお馴染み、
エース戸田茂司が八百長レースで客を盛り上げ、
昭和47年には常にダーティーなイメージだった大井競馬場に、
後の超スターホース、ハイセイコーが登場。

横浜の鶴見には400バンクの花月園競輪場があって、
山下ふ頭のすぐ近く、伊勢佐木町のドヤ街には、
飲み屋とノミ屋、それとデンスケ賭博や賭け将棋といった、
ホンモノの賭場がひしめき合っていた。
さしずめ昭和カジノといったところか・・・

そこを「メリーさん」が真っ白な化粧でフラリと通りがかる。

賭場はあちこちに存在、点在していた。

やがてギャンブル依存症と借金地獄問題が社会問題となり、
サラ金地獄というコトバも、この頃から言われ始めるようになる。

競馬や競輪がキッカケで借金を重ね、
挙句、ヤクザの借金取りの取立て耐え切れず、
一家心中だとか車券を手に競輪場で飛び降り自殺とか、
こんな悲しいニュースが世を賑わせた。

そんな中で、
昭和46年に東京都知事に再選された美濃部亮吉は、
マルクス主義者の元学者よろしく、
「東京都公営ギャンブル撲滅」の公約を実行に移す。

博打によるテラ銭稼ぎのヒトヤマ商事の終焉は、
ここから始まった。

ほどなく八百長騒動で凋落した大井オートが即廃止、
続いて血で車券を買う後楽園競輪場も廃止された。
大井競馬は超スターホース、
ハイセイコーの登場のおかげで廃止は免れたが結局、
特別区競馬組合なる民営化という形式にして、
なんとか公約を果たす格好ができた。

それでも同じ東京都にある立川市の立川競輪場や、
調布市の京王閣競輪場は残った。

これは当時、立川市や調布市はまだ「近郊エリア」であり、
まだ「田舎風情」の残っていた土地であったため、
やはり「安定収入源」としては貴重な存在であった。

では大田区にある平和島競艇場と、
江戸川区にある江戸川競艇場は、
どうだったのか?
これはもう簡単な答え。
「プロの胴元(日本船舶振興会=笹川良一)」が経営する、
ホンモノの賭場までは手を突っ込めなかったというのがホンネだろう。

近年、続々と地方の競馬場や競輪場や船橋オートなど、
公営ギャンブル場の廃止が続いている中、
競艇場だけは、どこも廃止になっていない。

もっとも笹川サイドも、そのへんは巧みに忖度して、
平和島は府中市の主催、
江戸川は東京都6市競艇事業組合なる、
「都」の直接経営の枠から外れることで、
「都知事」のメンツを立てる格好にした。
これがプロ胴元の実力である。

補足として関東エリア以外在住の人には、
少々理解が難しいらしいが「23区」と「市」では、
同じ東京都でも似て非なるモノで、
「ホンモノ」と「なんちゃって」のような位置関係に同じ。
ということも付け加えて書き加えておく。

では現代。
「裃を着た盗人」まがいな役人やら政治家の単なる思いつきで、
シロウト経営の「西洋風カジノ」なる賭場を開帳しようと企んでいる。

あの終戦後のときと同じ発想だ。
結論としては、
間違いなく確実にまた「同じ失敗」を繰り返す。
だろうということ。

指定広域暴力団の連中が経営するならいざ知らず、
ド素人が経営するカジノが上手くいくワケがなかろう。
挙句、海外からもノウハウを・・・などとバカを通り越して、
お間抜け極まりないことまで言い出す始末。

じゃチンチロリンや花札といった日本古来の「伝統文化」を、
継承・発展・進化させた方が、よっぽど良かろうに。

だいたい平和島競艇のときだって、
開業当初は「都営」の「大森競艇場」だったものの、
シロウト経営が祟って連日、売り上げサッパリの開店休業状態に。

結局たった1年で「都」は撤退を決定、
府中市に泣きついて施行者に代わってもらい、
現在に至っているという悪しき前例がある。

どうせまた同じことの繰り返し。
潰す段階になって、やれ「税金のムダ遣い」だの、
「天下りの闇」だのと言いだす。

もう「高度成長」が見込めない、
この国にあっては3競オート以上のダメージが、
安易に予想できるというもの。
それでも、やるかね?と。

かくして

こういう愚か者を生み出し、
あるいは

こういう「勝者」を生み出す。

それが「賭場」というところ。

それより現在の公営ギャンブルの控除率(テラ銭)を、
ノミ屋レベル(10%)に下げたり、
高額配当的中における
一時所得としての課税(事実上の二重課税)の廃止。
そっちの方を先にやって欲しいのだが・・・

どうも博打のシロウトが博打に手を出し始めたという印象が否めない。
な~にも分かっちゃいない。

それとも「奴ら」はカジノを「現代版アヘン」に見立てているのか?

ならば新進気鋭のビットコイン業界に対し、
早々にケチをつけている理由も、
わかるような気がする。
蛇の道は蛇とでも言いたいということか?

だが、こういうのを先人たちは
「捕らぬ狸の皮算用」と皮肉って言った。
ではまた。


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