気付けばもう3月…
しかも前回から更新が
一か月近く過ぎていたとは・・・
光陰矢の如し過ぎて
今年は花粉症の症状も
まだ発症しないほど。
コロナに感染して
治ってしまったのかと思うくらい
今のところ大丈夫でして…(謎)
一体どうなってんだか。
もはや日にちの感覚を失った
私メは
すっかり2月末で津田沼PARCOが
閉店することを忘れてました(^_^;)
いや、すでに閉店してしまった
ワケで。
津田沼PARCO噺から
今一度改めて津田沼今昔
としてジジイ風に
懐かしんでみようかと
1977年営業開始の当時
津田沼周辺の船橋市、習志野市は
急激なベッドタウン化による
爆発的人口増加により
絶対的に
大型ショッピングセンターが
必要となっていたと。
当時の地元の
メジャースーパーといえば
新京成沿線にあるリブレ京成ぐらい。
それとブルーチップ大量ゲットに
もってこいだった雑貨系スーパー
エフジーチェーンか…
(※ブルーチップ=ベルマーク風の
切手タイプのポイントチケットで
ポイントをためて商品に交換できた)
いわゆる商店街も各駅にあって
時は小売店黄金期。
国鉄津田沼駅周辺といえば
北口はずれにあった
「市場」を起点として
雑多なバラック系の商店や
早朝からパンや乾物モノを
売っている店やら当時まだ
チェーン展開を始めたばかりの
「吉野家」や「山田うどん」に
年中無休のような赤ちょうちんと
パチンコ屋がごちゃごちゃと点在。
飲み屋街のすぐ横に
進学塾があったり…
北口、南口側に
それぞれボーリング場があって
78年頃のスペースインベーダー
ゲームブームの絶頂期には
プレハブのインベーダーハウスに
連日、大勢の若者が
(後々暴走族の溜まり場となる)
溢れかえっていたもの。
北口には唯一「サンポー」が
デパートの体を成していたものの
今思えば店内は昼間でも薄暗く
例えて書くなら
秋葉原ラジオデパートのように
小規模店舗が寄せ集め的に
あった程度の印象だったが
それでもソコが当時は
トレンド発信基地的な存在という
何とも雑多な街並み。
それが当時の津田沼だった。
そんななか近隣の新京成電鉄
新津田沼駅周辺の開発が
始まると早速、
新津田沼駅前に
サンバード長﨑屋ができた。
この建物はのちに長﨑屋撤退後、
大塚家具となり
やがて大塚家具も撤退すると
今は一階は銀行とパチンコ屋
地下にゲーセンで上の階は
集合型飲み屋とまんが喫茶の
フロアがある建物となっている。
長﨑屋ができた翌年に
この津田沼PARCO&西友が
国鉄津田沼駅北口前に
そびえ立つこととなった。
このPARCO&西友の登場は
サンポーから津田沼北口における
ランドマークの座を
奪い取る結果となり
ほどなくサンポーは消滅
当時は今のA館がPARCOで
B館が西友という
2コイチ店舗の作り。
このPARCO&西友開業くらいから
国鉄津田沼駅北口の再開発も
急激に推し進められる格好となり、
マイナーな総武快速線の始発駅
程度の認識だった津田沼を
近代的な街へと変貌させていく。
やがて南口にも
ダイエーと高島屋という
北口と対比的な大型店もできた。
今のモリシアのトコ
習志野文化ホールの場所。
ちなみに当時左側がダイエーで
右側が高島屋で真ん中に
習志野文化ホールという
少しお洒落で権威的風な
建造物だったが今では
タワーマンションから
見下ろされる風の建物だ。
ちなみに当時この裏に研数学館
右側の先には以前書いた代ゼミ
という位置関係。
新津田沼駅周辺は
駅ビルにイトーヨーカ堂が入り
ここの地下食料品売場は
1980年代には
南口のダイエーの
地下食料品売場とともに
それぞれのグループで
日本一の売り上げを
互いに争っていたほど
ところが栄枯盛衰
21世紀に入った2003年
イトーヨーカ堂の反対側に
大型スーパー店舗の雄
イオンの津田沼店ができると
一気に形勢逆転
津田沼はイオンが制する
結果となりつつある。
丸井は2007年頃に撤退して
今はニーナという専門店系の
ショッピングモールとなった。
こうして書くと1980年代前後の
当時の津田沼は
渋谷のテイストを取り入れるも
蒲田と二子玉川をごっちゃに
したような少しお洒落なようで、
それでいてどこか
アンビバレンスにしてカオスな
情景の街だったかなと。
新進気鋭の都会派PARCOと
無頼派キャラ「津田沼おじさん」が
当たり前のように共存していた街…
と書けば当時のカオスさが
少しでも理解してもらえるかと。
(※津田沼おじさんとは当時、
地元では超有名だったホームレス
噂は多々あれど真偽は未だ不明)
西友のおもちゃ売場で売る
当時爆発的人気だった
ガンプラを毎週日曜日
早朝から並んで買い
(列真ん中組でも旧ザクやギャン
クラスのモノしか買えなかったが…)
一階の「チケットぴあ」に徹夜で
コンサートのチケット獲得に並び、
PARCOのポストホビーで
金メッキの弾の出ないモデルガンや
Nゲージやらラジコンキットを買い、
ガキばかりで満員の
小さな映画館で友達と
銀河鉄道999を観たあと
屋上でソフトクリームを食う。
これが我々世代の遠い記憶だ。
あの頃の屋上から観た
津田沼周辺の光景を
写真に残しておくべきだったか。
今にして思う
そうあの頃といえば、
PARCOの一階入り口には
ココ山岡という
チェーン店の宝石屋があって
朝から閉店まで女店員が
「お客様~お客様~!」と
小学生にまで声掛けしているのが
津田沼PARCOの日常の風景だった。
(ノルマが相当キツかったんだろう)
※ココ山岡の詳細については
ウキペディアをご覧ください
いつもジャージ姿だった
子供たちはいつしか
PARCOのショップで買った
ラルフローレンにレノマの
サブバックの出立ちとなり
いよいよ「本場」の渋谷へと
進軍を始め
津田沼には無いセーラーズや
TAKA-Qへと歩みを進め
(なぜかイタトマはあったが)
進学や就職を期に
東京に遊興拠点が移ると
アルマーニやシャネル
アニエスbやディオールという
「単語」を覚えるようになり
次第にローカルシティ
地元津田沼を小バカにし始めた。
いわゆる「津田沼あるある」だ。
しかしそれが大人になる
ということなのだと
理解出来るようになったのは
実はつい最近のコトだったりする。
そして、この津田沼。
見渡す限り畑だった土地は
今ではすっかり消えて
そこに新たにタワーマンションが
続々と建設され
次世代の人たちが「入植」を
始めている。
世代交代というヤツだ。
ここ最近、
マスメディアなどで今話題の
発展都市といえば西の溝の口
東の津田沼などと評され、
また新たなる変ぼうを
遂げつつある。
クラッシュ&ビルド
破壊と構築とまでは
少し言い過ぎかもしれないが、
津田沼開発の象徴的
ランドマークの終焉から
こうしてまた変わりゆく街の
アハ的変化を緩やかに
そして確実に感じ取る・・・
コレ俗にいう歳をとる
ということになるか。
PARCO津田沼店の閉店は
この先、
象徴的出来事として後世へと
記憶されていくのだろう。
かくして私メ潮風太子も
「昔ココは・・・」と言う
生き字引的長老筋への
仲間入りを果たすことに
なっちゃうのかなと。
この先ボケる前、
こうして記憶が確かなウチに
ブログに記録として
残しておこうかと思い
我が記憶のアップデート前に
コッソリ一筆。
ではまた次回にて。
今回のパルコ閉店は自分も中国にいながら注目していたニュースでしたが、いい方向に津田沼が変わることを願ってます('ω')ノ
こちらも毎回、
拝読させていただいております。
こちらの方にもいらっしゃって
おりましたか!
今やここ数年で津田沼駅周辺の
ゲーセンはスマホやオンラインゲーム
の影響ですっかり減ってしまいました。
パルコの登場は戦後の津田沼からの
脱却というイメージ的
出来事だったように
パルコの終焉は昭和から令和へと
世代と時代が緩やかに
移行していく前段のような出来事に
なっていくのかなと思います。
東所沢のパルコも閉店するそうですし。
ただパルコB館の方は今月16日から
居抜きでViit(ビート)なる
商業施設として店内ぼちぼちと
順次店舗が開店するそうで
かつての面影だけは
残りそうなカンジです。
この先も「津田沼」という土地の
観察を続けていこうと思っております。
発展途上国の都市の大開発と
その先のNEXTについて
ひとつのモデルケースになるかと
思いましたので
書かせていただきました。
コメントいただき
誠にありがとうございました
m(__)m
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