続・笑う蜘蛛の糸

1969年生まれの私、
潮風太子が第2団塊世代特有の視点で書く
コッソリ系ブログです。

馬には乗ってみよ人には添うてみよ

2017-05-26 00:19:09 | インポート
なかなか時間が取れず書きかけたままで放置ってなネタが、
渋滞中という状況でして。
でも、このまま「御蔵入り」ってのも、
もったいないので、
とりあえず書ききってからかなと・・・

今週のネタは「時効」が成立しているものの、
現在の社会通念では、
あまりよろしくないようなので、
そのあたりは、
あえて「ボカして」書かせていただくコト何卒ご理解のほど・・・
競馬ネタですが。

先月26日小さい扱いのニュースながらこんな記事が。

「元祖」悪役レフェリーとしてお馴染み「阿部四郎」さんが、
お亡くなりになったという記事。

阿部四郎(以後敬称略にて失礼)というと、
潮風太子世代だと、かの女子プロレスの当時のスーパーヒーローだった、
クラッシュギャルズの敵役ダンプ松本、ブル中野の「極悪同盟」の、
プロモーター兼レフェリーとして記憶されているハズ。
とにかく、とんでもなく頭に来るくらい酷いレフェリーで、
いやはや当時は、さすがの潮風太子ですら、
「殺意」に限りなく近い「怒り」を覚えたほど。
そのくらい悪に徹底していたキャラクターだった。
これが、ちょうど中学生の頃。

今こうしてネットで情報が簡単に入手できる時代とは違い、
どこまでがホントでどこからがウソなのかが、
本当によくわからなかった時代だったので、
当時の我々は完全に彼を「信用」しきっていた。

しかし哀しいかな女子プロレスというのは如何せんブームが続かないという、
ジンクスというか宿命を背負った興行であり、
事実クラッシュギャルズの絶頂期も3年としてもたなかった・・・
それに伴い「極悪同盟」人気も連鎖的に衰退していく。

しかし、その後も地道に全日本女子プロレスの興行は続き、
マニアックかつコアなファン相手ながらも継続し、
後にアジャコングや豊田真奈美、北斗晶といった、
伝説的な試合を遺す大スターを脈々と輩出。

安倍四郎はどういうワケか、
あれだけ「苦情」が殺到していたにもかかわらず、
全女をクビになることなく、
その後も「悪役レフェリー」として確固たる地位を築いていった・・・


かくして、それから「数年後」。
現在の東京ドームシティ内、

後楽園ホールの真向かい(現在はドームホテルの敷地)に、
オフト後楽園という大井競馬の場外馬券場が存在した。
主に当時始まったばかりのナイター競馬の場外発売という、
大井競馬のアンテナショップ的な存在で、
現在ある「オフト後楽園」(南関東地方競馬の場外馬券売り場)と違い、
銀色の筒状の8つほどの窓口しかない小さな建物で、
しかも、当時はまだマークシート式でなかった故に、
窓口で売り場のおばちゃんに「5R2-5 500、2-6 500、
7R 1-4 1000 1-6 500・・・」ってな具合にいちいち、
口頭で言って発券してもらわなくてはならないモノだった。
昼からの発売だったが大勢の競馬好きが集い、
大井競馬開催日、
オフト後楽園周辺は黒だかりの長蛇の列で溢れかえっていたもの。

そんな愚か者のの行列に並んでいたのが若かりし日の潮風太子(笑)
そんな風だから列に1時間程度は軽く並ぶハメに。
警備員が「大井競馬場へ行かれた方が早く購入できます!」
なんて体よく追っ払おうってなアナウンスをしてたり、
あちこちで「早くしろよ!」なんて怒声が飛んだりで、
それなりに面白かった。

長い時間並んでいると「呉越同舟」というか「同じ穴の狢」というか、
「蛇の道は蛇」というか・・・同じ「志」を持った者同志、
誰とはなくお互い知らぬ者同志で会話が始まる。
もちろん競馬談義。
シロウトの潮風太子にとっては非常に興味深いハナシだったので、
面白がって相手からネタを引き出そうと会話を進める。
と、周囲の「オケラ」たちが一人、もう一人と加わり、
「競馬オタク」の輪がアッという間に出来上がり、
知らぬ者同志ながら妙な盛り上がりを見せ始めるから面白い。

そんなある日、緑の時代遅れなパンタロンに運動靴という珍妙ないで立ちの、
太ったオッサンが会話の途中で目に留まった。
「あ、コイツ阿部四郎じゃん!」と思ったが、
あえて知らぬフリを決め込んで「競馬トーク」を楽しむことを選択。

すると、この「オッサン」のハナシの上手いこと!
立て板に水というかなんというか潮風太子がそれまで持っていた、
阿部四郎のイメージとは真逆の饒舌な爆笑キャラに驚いた。
なんだ実はイイ人なんじゃん!
その時、ようやくチープな嘘に簡単に騙されていた自分を恥じた。
と同時にマスメディアへの疑念と不信感を覚え始めたのも、
この一件からだった。

当然、この現場にいた「輪」の連中も気づいていたハズ。
が、ここにいる「輩ども」とて仕事をサボって並んでいる者アリ、
学生の分際で馬券を購入しようってなトンデモ学生アリ、
如何わしい手段で「金」を工面して馬券を購入しているような、
怪しげな輩アリで相手のガラを聞こうってな、
野暮は言いっこナシは暗黙のルール。
お互い突けばホコリどころか「お縄モノ」の集いなのだから。

当時は先日7000勝を挙げた大井のレジェンドこと的場文男が、
船橋競馬の石崎隆之(同期)が、かつての川崎の鉄人こと、
佐々木竹見に代わりリーデイング争いという世代交代の頃。

あの当時の的場文男は、とりあえず買っとけ!の的場で、
的場を買わずにハズすと、いい笑い者にされたほど、
絶対的な騎手だった。

伊東に行くならハトヤ、大井で買うのはマトバってなコトを、
予想屋のオッチャンも言っていたってけな。

いやいや、こんなに競馬に詳しいとは思わなかった
阿部四郎に驚いたことを訃報に際して、
ふと思いだした。

さらに後に知ったことで、
その阿部四郎「さん」はなんと、
実際の本業は、かの北島三郎のショーの興行主だったそうで、
「大和プロ」という芸能プロダクションを経営していたとのこと。
そのほかにもスナックも経営していた、
なかなかのヤリ手社長だったようで、
全女のレフェリー(悪役レフェリー)は、
もっぱら道楽でやっていたらしく、
ほぼノーギャラで手弁当でやっていたと、
週刊誌の取材などで度々愚痴で答えている。

90年前後の頃の北島三郎ショーそれも、
新宿コマ劇場でのショーというと、
朝7時頃コマ劇場前を通れば、
年寄りや地方やら企業系の団体客で、
それはもう「オフト後楽園」の黒だかりとは比べ物にならないくらいの、
群衆で溢れかえっていたもの。

明け方まで歌舞伎町界隈で遊んでサウナでひとっ風呂浴びて、
さぁ新宿駅まで歩くか・・・って駅へ向かおうにも、
それこそ「黒い大波」に逆らうように「波」をかき分けながら駅へ向かう。
そんな状況だったので、
いかに当時の阿部四郎は凄い興行主だったか・・・ということになる。

あの頃は、まだ北島三郎もJRAのG1レースを勝つ馬主ではなかった。
それが今や「国民的かつ歴史的名馬キタサンブラック」の馬主に。

安倍四郎「さん」が亡くなる直前の4月2日の「大阪杯」(G1)で勝利、
没直後の同30日に天皇賞春をレコードタイムで勝ったキタサンブラック。
北島三郎にとても可愛がられていたという阿部四郎「さん」。
大阪杯は儲かったのだろうか・・・
天皇賞春のキタサンブラック見たかっただろうな。
儲けそこなっちゃったね阿部さん。

今度の日曜28日は「みんなの日本ダービー」が開催される。
そして48歳の誕生日を迎える潮風太子。
今年は枠連4-8、馬連4-8でも買ってみようかと。
あ、それと阿部四郎の「勝負服」白黒の縦じまのシャツから枠連1-2も。

改めて阿部四郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。

もっとメディアに出てきて当時の裏話をしてくれたら、
ウケたハズだけどなぁ・・・・
残念です。

ではまたm(__)m



コメント (4)
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