Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§60「播磨灘物語」(黒田如水) 司馬遼太郎, 1975.

2017-01-06 | Book Reviews
 キリスト教における原罪とは、主の教えや掟に背いたアダムとイブが禁断の果実を食べたことなのか?それとも、アダムがイブの薦めでそれを食べたと言い逃れしたことなのか?

 ひょっとしたら、罪とは自らが選択した結果を自らが悔い改めることなく、責任転嫁することなのかもしれません。例えば、相手に期待をかけて裏切られたとき、その相手を責めることも原罪のひとつのような気もします。

 時は石山本願寺との戦の折り、織田信長に反旗を翻した荒木村重に翻意を促すため派遣された官兵衛が、派遣した旧主に裏切られ地下牢獄に幽閉された一年間。決して復讐するのではなく、悔い改めるべきは相手に期待する自らそのものだったことを悟ったのかもしれません。

「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」(隠居後に「如水」と称した辞世の句)

 人に媚びず富貴を望まざれば迷うこともあろうはずもなく、人生の終焉を迎えた今だからこそ未練もあろうはずもない。その境地に至りし心境やその生きざまの潔さは、キリスト教の洗礼をうけて「シメオン」と称したことと全く関係がないとは言い切れないような気がします。

初稿 2017/01/05
校正 2020/11/29
写真 一過性の波を全て受け容れる潔き海
撮影 2014/05/31

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