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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)山坂に。

2020-12-02 06:33:45 | 飯島晴子

   山坂に生米こぼす母の秋

 山坂を歩いている、よく見ると生米を少しづつ撒いている。スズメかキジバトにでも餌を撒いているのだろうか…母の晩年の孤独。いえ、愉しみだったのかもしれない。

 山坂にはサン・ハンと読んで、算、判。
 生米はショウ・マイと読んで、章、邁。
 こぼす母の秋(零・母・秋)はレイ・ボ・シュウと読んで、励、簿、習慣。
☆算(見当をつけ)判(可否を定める)章である。
 邁(止まらずに遠くへ進むように)励(力を尽くし)簿(ノート)から習(繰り返し学んで身につける)。

 山坂にはサン・バンと読んで、三、番。
 生米はセイ・マイと読んで、成、毎。
 こぼす母の秋(零、母、秋)はレイ・ボ・シュウと読んで、黎、募、修。
☆三つを番(代わる代わる)成しとげる。
 毎(そのたび)に黎(多く)を募り、修(おさめている)。


R.M『手の力』

2020-12-02 06:09:07 | 美術ノート

   『手の力』

 水平線と薄雲る空、手前にはブロック(石積み)、その上の建屋(城)、コップに水、バラ一輪・・・。これを持って「手の力」であると。

 水平線は決定事項である、それ以外の対象物に関しては疑問が残る。
 ブロックの上の建屋、建屋より大きなブロックなど見たことがないし造れるものでもないから、建屋はミニチュアという答えになり、建屋に比してコップは巨大を疑うが、ブロックに比してひどく小さいと思わざるを得ない。バラはコップに準じるが、建屋をひどく小さく見せるものである。
 建屋の入口に人を立たせてみると、コップやバラは巨大化し、コップを手に取ろうとすると、入口は矮小化する。

 この奇妙なアンバランス、違和感を感じる知覚作用(観念)を謀る(計画)ことこそ、『手の力』である。手は、持ち、支え、投げるといった働きをするばかりではなく、視覚を錯覚させる描法をも持ちうる。もちろん指令は脳にあるが、脳が描くわけではない。
 手の力、手の魔術によって精神界を揺さぶり、その深淵に迫ることも可能かもしれない。手には『力』があることの証明である。


 写真は『マグリット展』図録より


『城』3548。

2020-12-02 05:59:33 | カフカ覚書

彼女が耳うちしたことは、たぶんくだらないことなのでしょう。しかし、いつもくだらないことだともかぎらないのです。フリーダは、いろんなつながりをもっていて、それぞれのつながりをべつのつながりによってささえているのです。そして、たいていは失敗しますが(だって、だれがいつまでもフリーダのことなどを気にとめているでしょうか)、それでもときどきどれかひとつのつながりをしっかり握りしめているのです。


☆彼女が言ったことは多分重要ではないでしょう。でも、いつもそうだとは限りません。それぞれ他の結びつきや援助によって支えられているのです。大抵は失敗しますが、フリーダを気にかけることは不変でしょうか…確かに支えられているのです。