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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

十二月。

2014-12-12 06:28:16 | 日常
 十二月と聞けば慌しい気分になる。
 例年なら一つづつ思うところの掃除を片付けていくのだけれど、今年ばかりは足の不調のため、ただひたすら静かにしているだけ。無理をして更なる不調を来せば最悪の結末が見えているからである。

 悲しいかな、じっとしている。あれもこれも・・・そのまま。老眼が進んでいるので汚れも気にならない。食事の仕度と洗濯、それにゴミ出しという最低限の動きに抑えている。
 網戸洗い・窓ガラス拭き・カーテンの洗濯・食器棚や冷蔵庫の清掃等など、やること/やるべきことは山のようにある。それを諦めたような卑屈な笑いで打ち消している(本当は淋しくてたまらないけどね)

 まぁ、《年を取るってことはこういうことか》と思い、《これでいいんだ》と念を押して、じっとしている。不具合が治れば、自然に身体のほうが動いてこれらを敢行するに違いないから、それを待っている(気長にね、春になってもいいじゃないとばかりに)

 義姉へのクリスマスカードも買いそびれている。熱心なクリスチャンである義姉、
「母ちゃんは天国に逝ったけど、父ちゃんは地獄へ堕ちたかもしれない、多分ね」なんて言っている。立派(わたしの父親に比べたら)だった義父の戦死。アメリカと闘ったからアメリカ人になった義姉からするとそういうことなのか?
 混乱するけど、「義姉さん、わたしはあなたが大好きです。遠隔の地で、自身の信仰を貫き通しているあなたを尊敬しています」一年に一度のやり取り・・・。

 十二月・・・お墓参りには行かなくては!
 お父さん、お母さん、何とかやっていますから、というか、何とでもなるもんですね。ひっちゃかめっちゃかな年の暮れになりそうですが。

『まなづるとダァリヤ』4。

2014-12-12 06:13:56 | 宮沢賢治
 それから今度は北風又三郎が、今年はじめて笛のやうに青ぞらを叫んで過ぎたとき、丘のふもとのやまならしの木はせはしくひらめき、果物畑の梨の実は落ちましたが、此のたけ高い三本のダァリアは、ほんのわづか、きらびやかなわらひを揚げただけでした。


☆襟(心の中)を吐く(言う)。
 北(逃げて)負け、憂(悲しみ、苦しむ)の惨めを労(ねぎらう)。
 金(尊い)念(思い)が的(目標)である。
 照(普く光があたる=平等)の教えは化(形、性質を変えて別のものになる)の字が及ぼすことを黙っている。
 何(いずれ)の物(物事)は二重の理(物事の筋道)があり、日(太陽)との絡(つながり)は、詞(ことば)で構(くみたてる)。
 要(重要)は、翻(形を変えて作り変える)陽(太陽)である。

『城』1822。

2014-12-12 05:58:16 | カフカ覚書
父親の仕事については、彼がこの土地でいちばん大きな靴屋であることがわかった。べつの質問のときにも何度かくりかえして言ったところによると、父親に肩をならべられるような靴屋は、ひとりもいなかった。彼は、ほかの靴屋にまで仕事をまわしてやっていた。


☆父の仕事については、ここではいちばんの責任者であることが分かった。べつの質問のときにも繰り返し言ったところによると、父に類似したものはいなかった。(父はただ一人の人だった)彼はほかの責任ある(罪のある)人たちをも治めていた。