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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

気の使いすぎ。

2011-01-30 07:59:47 | 漫画
 小心者の常として、他人に気を使いすぎるという変な癖がある。

 他人のマイナス点は決して突かないことを身上としているけれど、パチンコの趣味くらいオープンに笑いあってもいいのに、つい知らないでおこうと思ってしまう。
 バス停で会った近所の知人、パチンコが趣味らしい。今は亡きこの人のご主人から「うちの女房の方が俺よりもパチンコ好き、ポケットに十万は突っ込んで、二人で出かけるのよ」と聞いたことがある。

 衣笠駅周辺のパチンコ屋さんへ行くらしいと察すると、JR衣笠駅に向かうつもりのわたし、どうしてもそこまで一緒に行き、気まずく分かれるのは申し訳ないと気を使い、もう一本別の路を遠回り。

 逆ならまだしも・・・ああ、どうしてこうなるの?

Re『武蔵野』185。

2011-01-30 07:51:13 | 国木田独歩
 茶屋を出て、自分等は、そろそろ小金井の堤を、水上の方へのぼり初めた。

 茶屋出自分等小金井堤水上方初

☆査(調べて)憶(思いをめぐらし)推(おしはかる)。
 字を部(分け)、問う己(わたくし)の魂(精神)。
 逓(次々に取り次いで伝える、次第に変化する)ことを、遂/成し遂げている。
 消えていく泡を書いている。

「城」369。

2011-01-30 07:23:33 | カフカ覚書
ただ、アマーリアのきまじめな、飾らない、すこしも動じない、もしかしたらいくらか鈍重そうに見える視線にだけは、いささか辟易させられた。

 きまじめな/ernsten→erst/最初。
 飾らない/geraden→geleden/召喚。
 stumpfen→staup/むち打ちの刑、晒し柱。

☆ただ、非マリアは、最初の召喚にはすこしも動じないけれど、晒しものとしての視線にだけは辟易させられた。

辻晉堂展。

2011-01-30 06:41:41 | 美術ノート
 ・・・人間の原点、原初とは何だったか、存在の意味。
 存在、有ることは無いことと対峙している。

 人間は九つの大きな穴と小さな穴が億万とある物体にすぎない。
 内在するものは常に外に押しやられ、外在するものを吸収していくという生命の基本。
 
 作品に見られる「穴」こそ見るものであり、見られるものである。その虚空が存在を支えている根拠ではないか。
 虚空(外界のエネルギー)の沈黙。

 しかし、人は教育という情報を詰め込まれた結果、見えるものの優位を確信していく。
 辻晉堂の闘いはいわば巧みな技量の消去、超越に向かう。
 人の本来の形、縷々連鎖されて来た人の歴史を鑑みて、表現の発露を凝視。
「自分とは何であったか」
 自分とは、連鎖の中の一偶然に過ぎないのではないだろうか。偶然であるならば、自分の手によらない物のドッキングはごく自然の成り行きである。
 他者(別のもの)との共存は、作家の意志ある必然的な行為の表れであったに違いない。

 存在における偶然と必然・・・有ることは無いことであり、虚空こそは雄弁である。
 存在とは無に帰するもの・・・。
 作品は「わたくし」を消し、あたかも昔からそこにあったのではないかと思われる風化の時間さえ感じられるものになっていく。

 作品は、意味の肯定から否定へと移行し、世界を内包する大いなる肯定へと挑む形で進行して行ったように見える。
 人に内在する時空は触診不能である。

 しかし、それを具現化することに賭けた苦悩と情熱・・・究極、沈黙の激闘・・・否、祈りだったかもしれない。

   神奈川県立近代美術館(鎌倉)にて。