ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

橋本 治著 「これも男の生きる道」 ちくま文庫

2006-09-19 | こんな本読みました

ああ、女の私がなぜこんな題名の本を読んでいるのでしょう。。。
……いや、単に橋本 治氏の本が読みたかっただけであります(汗)。別に「男」のように生きたいとか、「男」はこうあるべきだ……と思っているわけではないのです(汗)。

内容(目次)は以下の通り。
第一章  男には男の「自立」がある
第二章  日本の息子達が「自立」で悩むのは、日本の父親達が自立していないからである
第三章  「男の自立」とは、なれあいからの脱出である
第四章  大人の中の「子供」に学ぶ
第五章  「できない、わからない、知らない」を認めよう
第六章  男にとって重要なのは、「自立」ではなく「一人前になること」である
第七章  「成功への道」は遠く、そしてその道は、「なんだかわからないもの」である

まず第一章で、著者は<「自立」というのは、ある意味で、「人から嫌われる決心をすること、人に嫌われても平気でいること」><「自立」とは、「‘人から嫌われる‘という関門をくぐって魅力的になる>という。単純に「自立している」=「家事をする男」とも「家事ができない男」ともいえない。つまり「自分の信念を持っている」ということが「自立」であると説く。

第二章では、「男の自立」には三つのハードルがある、と。
「親からの自立」「妻からの自立」「仲間社会からの自立」。さらに「親からの自立」には、「父親からの自立」と「母親からの自立」のに種類があるという。

<ただのなれあいで生きている旧来のあり方を拒絶する。それをすれば、女に嫌われるかどうかはわからないけれど、旧態依然の生き方をしているまわりの男達からは、確実に嫌われる>そして、<「魅力のない男像」に対して拒絶表明するーこれが「男の自立」への第一歩>だと言うのである。

第三章では、歴史上の人物(信長、家康)の行動から「自立」を考える。また、日本の男が自立が嫌いなわけを述べていく。

第四章では、著者の子ども時代の話を引き合いに出して、「できる、できない」をいつもの如く(?)、えんえんと説明していくのである。子供の特質とあわせて。

<どんな時に「子供らしい子供」になって、「子供らしい表情」を見せるのか?それは、子供が子供であることに安心していられる時ですね。相手がちょっとした失敗なら許してくれそうで、平気で甘えられていられそうだと思った時、子供は安心して子供らしくなる。>

<「憧れとは、大人の中に残っている純な子供らしさのあらわれである」です。「できないけどしてみたい」は、‘憧れ‘なんですね。>

……と、「自分の中の子供」についてちゃんと考えることが大事だという。人はなにかを始める時、いつでも子供からスタートするようなものだから、という。

第五章では、自分が「跳び箱が跳べなかった」というところから話が始まり、「最後には跳べるようになった」理由をこと細かに考察していく。

<「できない」を認めてする努力は、「できないこと」を一つ一つ埋めていく作業です。それは苦しいことではあるけれども、一つ一つ確実に、「できない」という欠落が埋まっていくーだからいつかは「できる」ようになる。>そして<多くの人は、「できないからつまらない」>なのだという。

第六章では、<「自立」は所詮「スタートライン」でしかない>と説く。<結婚したって別に「一人前」じゃありません。「結婚した後になってわかること」なんていくらでもあるからです。>という。

……じゃあ「一人前」になるとは?

その結論に向けて、「会社」と「家庭」の両面から、「人間のするべきこと」を探っていくのである。(結論は、ここではあえて省略します)。

そして最終章。第七章。
<「自立」というのは、「なれあいになってしまった関係からの脱出」です。>
<ところが「自立」は、一人じゃできません。「関係からの脱出」だから、「逃げた」と思っても、「その関係のもう一方」が追ってきたら、「脱出」は不可能です。>

……だから「親からの自立」は永遠にむりであるという。親は、自分の子供に対して永遠に「子供」を推しつけるようなものだから。

……たしかに納得である。ここら辺のくだり。

ならば、どうしたらいいか?

<親も含めて、「人の思惑」なんてどうでもいいんです。いろんなことをさっさとできるようになったほうがいい。そうすれば自分に自信がついて、「人の思惑は人の思惑で、どうでもいい」と思えるようになります。そういう状態を、「他人の思惑から自由になった」と言って、そういう状態をこそ「自立している」と言うのです。>

*以上太字は、本著作より引用部分です。

このところ「自立」について考えていたので、氏独自の「自立」についての切り口がおもしろかった。題名は「男の生きる道」とあるが「女」が読んでもいい本だと思う。 また、これは推測であるが、第五章をふくらませたのが『「わからない」という方法』(集英社新書)になったのではないかと思った。

 


マジックショー

2006-09-18 | 日々のあれこれ
とある温泉街の遊行施設の中で、マジックショーを見た。

目の周りを妙に青く化粧した、中年のやせた男性マジシャン。
赤と金のやたらド派手な衣装を身にまとっている。

設置してあるベンチは、8割がたうまっていた。人数にして40人くらいか?

目の前で繰り広げられる「マジックショー」。
種をどうにか暴きたくて、まじまじとマジシャンの手を見つめる。

……しかし、わからない。

どうして、鳥かごの中にいたハトが、鳥かごごと消えちゃうの?黒い布をかぶせただけで。

そして、どうしてそのハトが瞬間移動して、横にある小さな箱の中にちゃっかり納まっているの?

……ふしぎだ。実にふしぎだ。
まーでも、素人がそんなに簡単に見破られるような種じゃ、商売あがったりだろう。

……ま。種はいい。わからなくてもあきらめる。

しかし、私はもうひとつの「?」を抱いた。

あの「ハト」に見える「鳥」は「ホンモノ」なのか?

はじめてだ。あんなに間近に「鳥」をみたのは。
マジックといえば、TVの画面でしか見たことがない。

ハトと思われる鳥の色は真っ白。大きさは掌でかるく包めるくらい。
せわしなく動く鳥。そしてマジシャンの手もせわしなく動く。鳥の動きに合わせるかのように。右、左、右、左…と手を動かしている。

……しかし、見れば見るほど不自然なのだ。この鳥。
はばたき方といい、目の色、足の色、羽の色といい……。

目は死んでる。どう見ても死んでる。まばたきもしていない(ように見える)。

足の色は、ピンク。色がのっぺりしている。

そして、羽の色は一点の濁りもない白。
……美しい。いや美しすぎる。

しかし、その鳥は動く。小さくはばたきながら。かといって、決して飛び去っては行かない。

ウソ?ホンモノ?そんなくだらないことを考えながら見ていたら、マジックショーはあっけなく終わった。
ショーが終わっても、私は、ハトから目が離せずにじーっと見つめていた。

……どうやって、片付けるのだろうか?あの鳥。

……すると、マジシャンの手のひらで小さくはばたいていた鳥の身体から、ちいさな「羽」が落ちた。2、3枚ほど。ひらひらと。

……これだ!……

私はすかさず、羽の落ちたところへと小走りに近寄り、羽を拾い上げた。
そして、しげしげと見つめる。

……ホンモノナノカ?ニセモノナノカ?……

……結果、わからない。いや、わからなかった。私のような素人が見たところでー。

……やっぱり、真偽を見極めるにはこの羽をDNA鑑定してもらわないとなー

と思い、ジャケットの右ポケットにそうっと羽を忍ばせた。

……やった。いいもの拾った……。

そんな私の一連の行動を見て、夫が他人のふりをしていたのは言うまでもない(汗)。


動物とふれあう

2006-09-17 | 日々のあれこれ
とある温泉街にある遊行施設で、犬や猫とふれあって来た。

そこは、入場するといきなり有無を言わさず、「かわいい犬と写真を一枚いかがですか」と言ってカメラを構えた男性が声をかけてくる。「気に入ったら買えばいいですから」と言う言葉についのせられ、「はい、チーズ」と写真をパチリ。

そのあと、「犬」を見た。
檻に入れられて、上半身だけ出している犬、キャンキャンほえまくる犬、ひたすらぐるぐる回る犬……。
実にいろんな種類の犬がいた。50種類ぐらいいただろうか?大きいのはセントバーナードからちいさいのはチワワまで。
なかには、希望すれば「お散歩」させてくれる犬もいるとか(別料金か?)。

また「犬とふれあう」スペースがあった。柵内にたくさんの犬が自由に走り回っている。その中に入って犬とじゃれあうもよし、なでるのもよし。
なかには、ベンチにどっかりと座って、お気に入りの(?)犬を両手で抱えて、まったりとしているカップルもいた。

また、「猫とふれあう」コーナーもあった。猫のほうは犬と違っておとなしく、半分以上がおねむりタイム。なでたかったが、起こすのも悪いし(?)、動いている猫だけなで、寝ているのは写真を撮った。

ちなみにこの「ふれあいコーナー」に入るのに各広場、別料金とられた(200円)。時間は無制限だが(笑)。

今や、なんらかのストレスを抱えている現代人。
「動物介在療法」というのがあるそうで、確かに彼らを「なでなで」しているだけで気持ちがやんんわりしてくる。

また檻の中にいる猫もいたが、こちらは犬ほど種類は多くなかった。こちらも3分の2くらいがまるまって寝ていた。

……しかし、猫の寝顔はかわいい。たまらない。子猫も同様。檻の前にじーっとたたずんでいたかったがそうもいかず。後ろ髪をひかれながら、その場を後にした。

……たっぷり「わんちゃん&ねこちゃん」を見た後、出口に向かうと。。。

例の写真撮影の男性が立っていた。
とりあえず、仕上がった写真を見てみると。。。
まー、何の変哲もない家族写真。。。という感じだったのだので、どうしようかと思ったが。。。

よく見ると、写真の外枠にわんちゃんとねこちゃんのお顔がプリントされているではないか!

……ずるいよ、これ。。。

……ということで、まんまと写真屋さんの手口にひっかかって写真を購入してしまった(汗)。

……だって、外枠の犬&猫たちあまりにかわいかったんだもん……


長田 弘+江國香織、里中満智子 他 「本の話をしよう」 晶文社

2006-09-14 | こんな本読みました

これには詩人・長田 弘氏へのインタビューが3編。4人の女性(作家・漫画家)との対談が4編収められている。以下が目次。

 「読書」の復興  インタビュー
 幼年、本、秘密  江國香織+長田 弘
 子どもの本とリテラシー  池田香代子+長田 弘
 マンガとコトバ  里中満智子+長田 弘
 本を贈るということ  落合恵子+長田 弘
 伝えるということ  インタビュー
 言葉からはじまる インタビュー

印象に残った言葉(長田氏)を引用してみる。

<今はコミュニケーションというと、電話のように他人と話すことがコミュニケーションの全部みたいですが、読書は、自分が自分にかける電話のようなもの。自分で自分と話をする方法なのです。ですから、時に自分との闘いだったり、自分で自分を励ますことだったり、本の言葉の向こうに、つねにもう一人の自分を見いだしていくのが読書。本の言葉を読み取っていこうとする自分と、その言葉に自分をつき合わせていこうとする、もう一人の自分との対話です。>
(「読書」の復興 より)

今本離れ、活字離れが指摘されているが、それはとりもなおさず「情報」は取り入れても、長田氏の言葉によるところの「自分と対話」をしていないことのなのかと思った。つまり情報の切り貼り作業では自分自身とは向き合えないということを感じた。

<幼年物語にしても、よいソフトをつくればよしとされがちだけど、違う。あくまでハードにしてソフトというものをつくるということが大事なんだと思うんです。>(江國氏との対談より)
たしかに子どもというのは、本をハードとソフトの両面から楽しみ、そこからいろんなものを吸収しているように思う。親はハードのよい運び手にならないといけないと思った。

<子どもの本の翻訳が果たしてきた役割がとても大きいのは、その国の子どもの本を読むことが、その国についての最初のリテラシーになるからです。想像力のリテラシー、心のリテラシーになる。>(池田氏との対談より)
…うーむ、なるほど。それで私は翻訳ものが苦手なのか、と妙に納得。つまり、幼い頃あまり外国の本に触れていなかったから(汗)。

<包容力というのは、結局のところ、言葉なんです。ストーリーをつくるのは言葉です。そのことをよくよく表しているのがマンガで、マンガは絵だとおもわれているけれど、違いますよね。言葉がなかったらマンガはマンガにならないと言っていいくらい、マンガには言葉がいっぱい詰まっている。>(里中氏との対談より)

<ですから、決して活字文化に対抗するつもりでマンガが生まれたのではなくて、あくまで書き手の側が、これも欲しいあれも欲しいと思った材料のなかに、絵もあり活字もあり、そして生理的にページをめくるという行為を前提としてコマ割りは成り立っています。>(里中氏の言葉より)
ほかにマンガのページのめくり方、人物の目の大きさについて(描かれ方)について話されていて面白かった。マンガの一面を知った。

<……子どもの本の場合、子どものためでなく、自分の中の子どもだった時代に向けて書いていることが多いですね。>
<これらの絵本を手にして読んだそれぞれのひとが、自分の子ども時代に対する尊敬を持ってほしい。どんどん歳を重ねていっても、子どもだった自分が、いつもいまの自分を見ていることを思いだしてほしい、と。>
(落合氏との対談より)
*注:これらの絵本というのは、この場合長田氏が翻訳した『詩人が贈る絵本』のことです。

<伝えるというのは、実は、自ら読むということです。伝えることの本質は、どう読むかという伝えられる側の一方的な努力の中にあります>(伝えるということより)
……たしかにそうだ。同じものを見ても、人によって受け取り方つまり伝わり方は様々だ。それを「伝えられる側の一方的な努力」と断言してしまっているのがすごいと思った。

<絵本にいちばん近いものとして能の面を考えるとわかりますが、あの表情は動かない。でも見る者によって動くのです。絵本も同じように、絵は動かない。でも読み手によって動くのです。なにより自由な心の働きをもとめるのが絵本ですが、その意味では、絵本は心のこわばった大人にとってもまたふさわしいものです。>
絵本を語るのに「能の面」との類似を挙げて語っているのがおもしろい。私自身、「能の面が動く」と感じる経験をしたことがないので、まだまだ実感としてわかないが。

以上、断片的に引用して感想を述べたので、全体としてまとまりのないものになってしまいました。あしからず(汗)。

 


工藤直子著 「出会いと物語」 岩波書店

2006-09-13 | こんな本読みました

この本は、詩人であり童話作家である著者のエッセイと作品が収められている。

 <たくさんの記憶は、たくさんの出会いから生まれてくるのだな>
……と著者が述べられているように、他人から見るとほんのちいさな「出会い」を意識の表層に浮かび上がらせる。そして、それを俎上にのせいろんな角度からながめたり、反芻したりする。

また、いつもすごいと思うのだが、氏は非常によく「むかし」というか「自分の子どもの頃」のことを覚えてらっしゃる。

そしてそのときに思ったこと感じたことを「作品」として、作り上げていくのである。
これを読むと、その過程というか「裏話」を知ることができる。

例えばこんなふうに。
小学1年生の入学式に、どしゃ降りの雨のため新しい革靴を履いていくことを禁じられ、長靴を履いていく著者。しかし、式場で見た子ども達の足元は皆新しい靴。ものすごく不機嫌になりいじけた。

そんな記憶をもとに、「こころ こいぬけんきち」という詩(のはらうた所収)ができた、と。(3行の詩。ここでは省略します)

もちろん出来上がった「作品」(詩や童話)だけを鑑賞することも楽しいのだが、その時の作者の思いを知ることができると、さらにその作品を「深く」味わうことができると思う。

……ある意味、「作品」をご自身で「解説」してくれているようにも思える。

以前『まるごと好きです』(ちくま文庫・1月24日のダイアリーを参照のこと)を読んだときに感じた「作者像」とはまた違った、「繊細な部分」や「苦労したこと」をうかがい知ることができ、作者を多角的に見ることができ、実に興味深い本だった。

 


中谷 彰宏著 「親を教育する62の方法」 TBSブリタニカ

2006-09-12 | こんな本読みました

中谷氏の本は家に10冊ほどある。しかもご本人の直筆サイン入り!……とはいうものの、宛名が私ではなく全て友人なのだけれど。(友人が中谷氏の仕事をしていた関係でいただき、それが私にまわってきたのデス♪)。

そういうことでもなければ「手元」にはないかもしれない。。。
なぜなら、私が持っている本は全て「立ち読み」できるくらい、とても簡潔で読みやすいものだからだ。

……しかし、内容は「濃い」そして「深い」。
やさしく平易なことばで綴ってはいるが……。
実際、中谷氏自身が「親」であるかは知るところではないが、他の著作同様本当にそうだなぁと思い納得するところが多々あった。

例えばこんなフレーズがある。

<子供の性格を見て、親は自分自身の性格をまず反省することが大事です。><子供は、鏡として存在します。>

<子供は、「親に根気がないのに、なぜ自分に根気を植えつけようとするのだろう。言っていることとやっていることが違う」と、頭にきます。そして不信感をもつようになります。>

<どんなに間違ったことでも、親のいっていることとやっていることが一致していれば、子供は受け入れます。>

……そして親と子の関係だけではなく「上司と部下」「恋人同士」でも同じだと述べている。これは、常日ごろ自分も思っていたことなのでとても共感した。

<子供が泣いていたり、好きなことができないでいると、親は「かわいそうに」と思います。でも、親が「かわいそうに」と言うと、子供はみじめな気持ちになります。>

……子供は、自分の置かれている状況を判断できない。しかしそれを人から言われて、初めて自分はかわいそうなんだと認識する、と。本当にその通りだと思う。

また、こんな手厳しいことも。
<育て方の下手な親は、小さいときに甘やかして、大きくなってから厳しくします。>

<かわいいから甘やかしたいという心情もわかりますが、甘やかして育てると、社会に出て苦労するのは子供です。>

<ぶつかり合わないと、きれいごとだけになります。いい話をして説得するだけでは、人間を教育していくことは、絶対にできません。>だから、逃げてはいけないと説く。

<子供は信じられていると思うことで、自信を持てます。いくら「自信を持て」と言ってもダメです。「オマエはできる」と、親が信じてあげることです。>

<「強い子供を育てる」というのは、打たれないぐらい強い子供を育てるということではありません。打たれることに耐える力を持つ子供を育てるということです。>

中谷氏はこの本を通じて「教育とは、親がいなくても、生きていけるようにすること」という前提に立って、「子供を教育」するまえに「大人の教育」が必要である。そして「子供のために大人がハッピーになろう」と説いている。

本当に私もそう思う。子どもは、身近に存在する「親」を見て育つ。言葉で教えることよりも、親が無意識に行動していることを真似するし、親が楽しそうでなければ、生きることにも希望がもてないだろう。

今や父親は仕事で忙しくあてにならない時代(ってうちだけ?)。直接子どもと関わるのは、畢竟「母親」という家庭が多いと思う。

……母親の自分。今、自分はハッピーですか?……

そう問われて「はい」と自信をもって答えられるよう、自分自身が学び成長していかねばならないとこの本を通じて思った。

 


あれっ。

2006-09-11 | 日々のあれこれ
はたと気づくと、本日9月11日。2日前「ブログ開設1周年」であった(汗)。

この1年、ブログをやり始めていろいろな変化があった。
それをまとめてみたい。

・読んだ本の内容を忘れなくなった(ただし、記事にしたもののみ。汗)
・ネット上の知人・友人ができた(一方的な思い込みも含めて)
・一日を振り返る習慣がついた
・パソコンに向かう習慣がついた。
・パソコンをする時間がふえた。
・記事を書く必要上、ものを注意深く観察するようになった(ただし自身の過去との比較の話)

また、人さまのブログを読むにあたっては。。。
「更新」されている場合……「あ~今日もがんばって書いているんだなー」とか「生きていてくれてよかった」←なんか大げさ(汗) と思う。
記事の内容もさることながら、「開けばそこにいてくれる」という安心感。そういうのがあるように思う。

「更新」されていない場合……「どうしたんだろう?元気かしらん?」と思ったりする。

そうやって、ブログの書き主を身近に感じるようになってきた。
コメントのやりとりなどをすると、その感情はさらに強まる。

……なんだか今までに味わったことのない「不思議な感覚」である。

でも、それがなんだか「心地よい」気がしているのも事実である。

……「コドク」じゃない。だれかと「ツナガッテイル」……

そしてごくたまに、全く知らない方からコメントをいただいたり、アクセス数がぐーんとはね上がっていたりすると妙にうれしい。
「自分の書いたもの(思い)」に誰かが興味を抱いて読んでくださっている。。。
それが気まぐれなクリックであっても構わない。そこからつながる可能性がある限り……。

いつまで続くかわからないけれど、2年目に突入したブログ。
まー、飽きるまでとことんやってみようかなー(笑)などと、おちゃらけたことを考えている(汗)。

どうかみなさま、これからもヨロシクおねがいします♪


気前のいいイベント

2006-09-10 | 日々のあれこれ
北関東にある某大学でイベントがあるとのことでドライブがてら行って来た。

受付でいきなり「ビニールの手提げ袋」(しっかり校名入り!)をもらい、中を見るとうちわやシャーペン、学校のパンフレットが入っていた。

さらに、よく見ると「アイスクリーム券」「昼食券」まで入っている!。ずいぶん「気前がいいなー」と思って校舎の入り口に行くと、無料でジュースがもらえるという。

「ラッキー」と思っていたら、これだけでなくさらにこの「気前のよさ」がえんえんと続くのである。そのときは知る由もなかったが。

まず初め某飲料水メーカーによる「実験コーナー」へ。ミニジャガイモの培養とその方法についての説明を受ける。その教室で「くじ引き券」ゲット!

次に某菓子メーカーによる「クイズコーナー」へ。その会社の業績をちょこっと知った後、キョロちゃんのついたチョコレート菓子をゲット!子どもたちは大喜び。

さらに某食品メーカーによる「ソフトクリームとコーヒー」の技術についての説明。アイスクリームやコーヒーがふるまわれる。その教室でゆっくりとくつろいだ。

次に某ビニール会社による「ビニール製品」の案内と「体験コーナー」へ。3Dシートに絵をかいたり、塩ビペーストでコースター作り。ここでは好きな柄の「ビニール製のテーブルクロス」がもらえた。

また、各教室で企業の展示をしており、そこに入って教室をぐるっとしただけで「くじ引き券」ゲット。

ここで、おなかもすいたことだし昼食をとろうと学食へ。

「昼食券」で食べられるメニューは5種類。
うどんセット、カレーライス、サンドイッチ、幕の内弁当、ハンバーグ弁当。この中から好きなものを選んでよいのだ。お盆の上にめいめい好きなものをのせ、お茶をもらって食べた。

そのあと、キャンパス内をうろうろ歩いていたら、「アイスマン」が!ここでアイスクリームを無料でもらえた。先ほどの券を使って。

ジャンボモナカをむしゃむしゃ食べながら、抽選会場へ。各教室を回りながら集まったくじ引き券が16枚!。ひとり4回づつひいた。2色ボールペンや蛍光ペンセットなどをゲットした。他に目玉賞品としては、「大人の科学のヘリコプターセット」や「ジャンボキティぬいぐるみ」などが用意されていた。

ものすごく暑い日なので、最初にもらったジュースがなくなっていたため、帰りにもう1本ずつ計4本もらった。

そして、最後の最後。アンケートに答えたら「キティのストラップ」がもらえた。

……こんなにいろいろもらえる大学のイベントって何かって?

……実は「理工系進学体験イベント」だったのです。

しかし、わが家がまわったのはほとんど「小学生が遊べる体験コーナー」のようなところばかり。しかし他の教室では教授による「ミニ講座」や「実験」がしかと行われていたのである。
つまりこれは、かなーりマジメな「理工系」の先生方による「進学を考えている人」たちへの「教育的イベント」だったのである。県や市の教育委員会も後援しているという。

「理系」とも「進学」とも全く関わりのないわが家は、単純にいろいろ楽しんでしまったが(本当は、多少夫の仕事がらみもあったのだが)。
お昼やアイスを食べ、お土産をもらい、くじ引きをし。。。

……なんだか私たちって「場違い?」とも思ったが、まわりを見回すと案外「ターゲット」となる人よりも、年齢のいった家族連れや、ベビーカーに子どもを乗せた家族、高齢のご婦人団体とかがいた。もちろん制服姿の現役高校生の姿もあったが。

高校生をこの大学へ誘致したいがためのイベントなのか?はたまた企業の宣伝なのか?と思う部分も多々あったが、現役の高校生にとっては、「大学」を知るひとつのチャンスとなっていたようにも思った。

学園祭よりも勉強色が強く、具体的な学習内容を提示していたようなので、進路に悩む高校生にとっては有意義なイベントだったのではないかと思う。

……もちろん、わが家のようなのは全くのロンガイだが(汗)。


斎藤惇夫著 「現在、子どもたちが求めているもの」 キッズメイト

2006-09-09 | こんな本読みました

著者は、児童書を出版する書店の編集責任者として本の編集にたずさわり、のち作家活動に専念した人。この著書の副題として「子どもの成長と物語」と記してある。

ご自分の編集者としての経験と、息子さんに読み聞かせをして育てた経験の両面から「子ども」と「本」について語っていく。これは、大学で講演したものをまとめたものである。

 著者によっていくつかのエピソードが紹介される。

<・・・書くことがたいへん苦手な人間だったのです。遊ぶことに夢中で、精一杯で、これは雪合戦やスキー、魚とりや昆虫採集など戸外での遊びと、本を読むという心の中での遊び、双方がありますが、遊びが楽しければ楽しいほどに、文章などというものは書けないものなのです。>

 <誰が楽しい遊びの最中に、それを言葉にするでしょうか。誰が、楽しい遊びを終えたあとに、それを文章にしたいと思うでしょうか。>

<人間がほんとうに深く感じたことは、いくら表現したくなったとしても、とても言葉で言い表せるものではない。沈黙の世界で耐える以外にない。その沈黙をどれだけ大切にできるか、それがその感動を経験にできるかどうかの瀬戸際でなのであって、結局、人間としての質を決めることになる。私はそう思います。>

このような考えのもと、もし子どもが読書感想文が書けないと泣き出したら、しっかりだきしめてやってほしい。また、なんて感受性の豊かな子どもを持つことができたのだろうと、誇りに思ってくださいと述べている。

ひとくちに子どもが「読書感想文が書けない」と言っても、単に「書く技術」的なものがわからないのか、深く感じ入っているため言葉にできないのか・・・を見極めなければいけないと思った。

また著者自身が幼い頃、祖母から昔話を聞かせてもらった体験から<物語と、そして語り手によってまるごと愛されているという実感が、子どもにとって必要>と説く。それによって、自分も日常生活を超えたと述べている。目に見える、日常生活のことばのみで生きていたら、私たちは息を詰まらせ窒息してしまうでしょう、とも。

私も本当にそう思う。
大人はいい。なんとなればTV番組のドラマあり、小説、漫画、映画、ギャンブル(あんまり感心しないけれど)あり……。何にせよ自分で選択する権利をもち、「日常生活」から脱却する術をもっている。しかし、大人の管理下にある子どもはどうだろう。そう考えると、子どもにとって物語(読み聞かせ)というものの重要性がわかるような気がする。

私自身も父親が昔話(読み聞かせ)をしてくれた思い出を持つので、おとなになってふり返ると、その経験がなににもましてかえがたいものだと実感する。

そして読み手と聞き手の話として<子どもたちは物語を通して「行って帰る」と同時に、語ってくれる人の心の中から旅に出かけ、その人の心の中にもどってきている>

<子どもたちの成長は、物語と、読んでくれる人に、促されると同時に、しっかりと二重に守られているといってもいいのです。>

と述べる。そして、大きくなるにつれ「帰ってくる場所」などないという不安感を抱えたとき、それに耐え、それと戦う力は、「かつてあるがままで愛された経験」をもっているかどうか(つまり物語体験)だと説いている。

また著書は、『児童文学論』(スミス著)のこんなことばを引いている。

<子どもの本に関わる仕事を生業とする人にとって大切なことは、記憶と観察と想像力だ>と。<記憶は、過去の自分の読書の歓びを思い出すということ、観察は、子どもの頃に読んだ本と今の自分が読んでいる本に支えられながら、目の前の子どもたちを観察すること、そして、想像力というのは、まぎれもなく過去に読んだものと今読んでいるものと、子どもたちを見ながら、未来を洞察するということでしょう。>
これについての詳しいことはここでは省くが、同様のことは石井桃子氏も言っていたそうである。

また、著者はいろいろな人の子どもの見方が透徹しているいことに感心し、その例を挙げている。
・トロントの図書館員がある本を図書館に置くかどうかで、6年間も議論したこと。
・ある本の挿絵がとてもすばらしい。7年もかけてその絵を描いた。そしてその画家は「いいか、相手は子どもなんだぜ」と付け加えられたこと。

そこで著者は以下のように述べる。

<子どもたちに礼節をつくすことが、子どもに向かってかぎりなく近づいていくことが、同時に、自分の最も深いところと向き合うことになるということでしょう。逆に言えば、自分の最も深いところが描けた時に、はじめて、子どもの本が誕生する可能性がある>ということでしょう、と。

(他にも引用したい箇所があるが、このくらいにしておきます。)

この本を読んで、子どもに「読み聞かせる」といういっけんささやかなことのように見えるものも、子どもにとっては「こころの拠り所を確認」し、主人公と自己同一化をはかりながら「自己を超える」体験を日々積み重ねているのだとわかった。

子どもへの読み聞かせ……とても大切にしたいことであると感じ入った。 

 


新しい図書館

2006-09-08 | 日々のあれこれ
最寄の図書館が改修工事のため、少し離れた図書館へと足を運んだ。
そこは、車で15分くらい離れたところにある。
数ヶ月前に開館したばかりということで、期待して行った。

……結果、「図書館」というより、「コミュニティーセンター」内にある「文化施設」のひとつという感じだった(汗)。
専門的な本はほとんど見当たらない。
どちらかというと、街の「書店」に読むスペースを加えたという感じだ。

しかし、ここの良いところはどの本もぜーんぶ「新しい」ということだ。
書架をぐるぐる回っていると、どれも手にとってみたくなる。
全ての本にきれいに透明なビニールカバーがかけられている。
折り目ひとつついていない。
本が汚れていないというのは、こんなにきもちがいいものかと思った。

流行の作家さんの本も結構そろっている。
絵本も児童向けの本もある。
雑誌類もある。

……しかし新しいがゆえに「バックナンバー」が少なかった。これは残念。

この施設には、図書室のほかにレクリエーションルーム、集会室、和室、アトリエ・工作室、調理室、音楽室、トレーニングルーム、農業研究室などがあった。

おどろいたことに「書斎」という部屋もあり、インターネットもできるという。1室1人2時間につき300円かかるとのことだが。

地域の人の集まる場所として、とてもいい施設だと思った。他にもいろいろな「講座」が催されているようだ。

近くの図書館の工事が終わるまで、しばらくはここにお世話になりそうである。