ああ、女の私がなぜこんな題名の本を読んでいるのでしょう。。。
……いや、単に橋本 治氏の本が読みたかっただけであります(汗)。別に「男」のように生きたいとか、「男」はこうあるべきだ……と思っているわけではないのです(汗)。
内容(目次)は以下の通り。
第一章 男には男の「自立」がある
第二章 日本の息子達が「自立」で悩むのは、日本の父親達が自立していないからである
第三章 「男の自立」とは、なれあいからの脱出である
第四章 大人の中の「子供」に学ぶ
第五章 「できない、わからない、知らない」を認めよう
第六章 男にとって重要なのは、「自立」ではなく「一人前になること」である
第七章 「成功への道」は遠く、そしてその道は、「なんだかわからないもの」である
まず第一章で、著者は<「自立」というのは、ある意味で、「人から嫌われる決心をすること、人に嫌われても平気でいること」><「自立」とは、「‘人から嫌われる‘という関門をくぐって魅力的になる>という。単純に「自立している」=「家事をする男」とも「家事ができない男」ともいえない。つまり「自分の信念を持っている」ということが「自立」であると説く。
第二章では、「男の自立」には三つのハードルがある、と。
「親からの自立」「妻からの自立」「仲間社会からの自立」。さらに「親からの自立」には、「父親からの自立」と「母親からの自立」のに種類があるという。
<ただのなれあいで生きている旧来のあり方を拒絶する。それをすれば、女に嫌われるかどうかはわからないけれど、旧態依然の生き方をしているまわりの男達からは、確実に嫌われる>そして、<「魅力のない男像」に対して拒絶表明するーこれが「男の自立」への第一歩>だと言うのである。
第三章では、歴史上の人物(信長、家康)の行動から「自立」を考える。また、日本の男が自立が嫌いなわけを述べていく。
第四章では、著者の子ども時代の話を引き合いに出して、「できる、できない」をいつもの如く(?)、えんえんと説明していくのである。子供の特質とあわせて。
<どんな時に「子供らしい子供」になって、「子供らしい表情」を見せるのか?それは、子供が子供であることに安心していられる時ですね。相手がちょっとした失敗なら許してくれそうで、平気で甘えられていられそうだと思った時、子供は安心して子供らしくなる。>
<「憧れとは、大人の中に残っている純な子供らしさのあらわれである」です。「できないけどしてみたい」は、‘憧れ‘なんですね。>
……と、「自分の中の子供」についてちゃんと考えることが大事だという。人はなにかを始める時、いつでも子供からスタートするようなものだから、という。
第五章では、自分が「跳び箱が跳べなかった」というところから話が始まり、「最後には跳べるようになった」理由をこと細かに考察していく。
<「できない」を認めてする努力は、「できないこと」を一つ一つ埋めていく作業です。それは苦しいことではあるけれども、一つ一つ確実に、「できない」という欠落が埋まっていくーだからいつかは「できる」ようになる。>そして<多くの人は、「できないからつまらない」>なのだという。
第六章では、<「自立」は所詮「スタートライン」でしかない>と説く。<結婚したって別に「一人前」じゃありません。「結婚した後になってわかること」なんていくらでもあるからです。>という。
……じゃあ「一人前」になるとは?
その結論に向けて、「会社」と「家庭」の両面から、「人間のするべきこと」を探っていくのである。(結論は、ここではあえて省略します)。
そして最終章。第七章。
<「自立」というのは、「なれあいになってしまった関係からの脱出」です。>
<ところが「自立」は、一人じゃできません。「関係からの脱出」だから、「逃げた」と思っても、「その関係のもう一方」が追ってきたら、「脱出」は不可能です。>
……だから「親からの自立」は永遠にむりであるという。親は、自分の子供に対して永遠に「子供」を推しつけるようなものだから。
……たしかに納得である。ここら辺のくだり。
ならば、どうしたらいいか?
<親も含めて、「人の思惑」なんてどうでもいいんです。いろんなことをさっさとできるようになったほうがいい。そうすれば自分に自信がついて、「人の思惑は人の思惑で、どうでもいい」と思えるようになります。そういう状態を、「他人の思惑から自由になった」と言って、そういう状態をこそ「自立している」と言うのです。>
*以上太字は、本著作より引用部分です。
このところ「自立」について考えていたので、氏独自の「自立」についての切り口がおもしろかった。題名は「男の生きる道」とあるが「女」が読んでもいい本だと思う。 また、これは推測であるが、第五章をふくらませたのが『「わからない」という方法』(集英社新書)になったのではないかと思った。