ピアノのリサイタルが無事終わった。会場はとある教会。グランドピアノが正面に置かれている。ステージはない。フラットなところに、ピアノとイスが並べられている。シンプルだが、天井が高くなんだか落ち着ける場所である。
今回のリサイタル、私にとって一番楽しむことができた。
・・・というのも、思い起こせば2年前。
私は、このリサイタルのためにかなり「やっき」になっていた。
1回目の時は、ミミコも小さいし初めてだったので、何がなんだかわからずに終わってしまった。しかし、2回目はちがった。気負った、かなり。
なぜなら、自分が中学生の時にピアノの発表会で「大恥」をかいた経験があったからである。暗譜で弾くのだが、ある部分にきたら頭が真っ白。すっかり忘れてしまい、にっちもさっちもいかなくなった。二ガーイ思い出があったからだ。
だから、わが子にはそんな思いはさせたくない、と。
毎日練習につきっきり。時間も大幅に延長。間違いやすいところは徹底的に練習させ。。。と、毎日とにかくがんばっていた。いや、がんばらせていた。
そんな日々を過ごしていたある日、鏡を見たらなんと自分の顔がボロボロなのである。お化粧ものらない。
なんで?どうして?理由がわからなかった。
そうして、はたと思い当たった。
これは「過度のストレス」ではないか。
自分では気づかないうちに、かなり子どもと自分を追い詰めているのではないか?「ああ、まずい、まずい」と思いながらも、もう回りだしたサイクルはとめられず。とうとうリサイタル当日を迎えた。
結果、ミミコの演奏は「完璧」だった。会場の賞賛を浴びた。私も親バカながらすごくうれしかった。
リサイタル終了後に、みんなからお褒めの言葉。
「ミミコちゃんすごいわねー」「上達したわねー」
初めは、私も得意になっていたが、だんだん違和感を覚えるようになった。
そんな言葉をもらえばもらうほど、なんだか私は「虚しく」なっていったのだ。
(だれも、私をほめてくれない。。。)なのか
(もっと、ほめて。。。)なのか
(あれだけ練習させて、これだけの見返り?。。。)なのか
とにかく、すっきりしないのである。
そのすっきりしない理由はまだ判然としない。でも、わかることは私はこころのどこかで「自分がほめられたい」と思っていたのだ。それは「見返りをもとめていた」のかもしれない。とにかくそんな「欲」まで出てきていたことに気づかされた。
そこで思った。「自分がほめられたい」なら、「自分の力で勝負しなくちゃいかん」と。近視眼的に子どもの成功を望み、それを自分の手柄にしようなどとゆめゆめ思うなかれ。。。
そして子どもに「失敗させたくない」という、一見すると「親心」に思える考えも、果たしてどんなものなのだろうか?という疑問もわいてきた。
たしかに自分は失敗した。しかし、だからこそ次の年の発表会には、「選曲」の段階で先生に「覚えやすい曲にしてほしい」とか「まちがえやすいところは徹底的に練習する」とかいうことを「学んだのではないか」。それによって、翌年は間違えずにバッチリ演奏することができたのじゃないか。
「失敗」イコール「良くないこと」ではない。実は、失敗こそ「学びのチャンス」なのだ。
そう思うようになってから、自分自身ものすごく「気負い」がなくなった。そして、ピアノリサイタルも楽しめるようになったのである。
今日のリサイタル終了後、ミミコもららも満足げな顔。自分なりに一生懸命やったという充実感があったのだろう。「楽しかったー」と言っている。帰りの車の中でミミコは、「あたし、ショパンが弾けるようになりたいなー♪」と無邪気に言っていた。そういえば、20代の男性がショパンの「革命」を弾いていたっけ。。。
ピアノリサイタルは、自分が弾くことも大切だが、案外いろんな曲を聴くことも子どもにとっていい刺激になると感じた。「~できるようになりたい」という「憧れ」をいだくことこそ大事にしていきたいと感じた。
今回のリサイタル、私にとって一番楽しむことができた。
・・・というのも、思い起こせば2年前。
私は、このリサイタルのためにかなり「やっき」になっていた。
1回目の時は、ミミコも小さいし初めてだったので、何がなんだかわからずに終わってしまった。しかし、2回目はちがった。気負った、かなり。
なぜなら、自分が中学生の時にピアノの発表会で「大恥」をかいた経験があったからである。暗譜で弾くのだが、ある部分にきたら頭が真っ白。すっかり忘れてしまい、にっちもさっちもいかなくなった。二ガーイ思い出があったからだ。
だから、わが子にはそんな思いはさせたくない、と。
毎日練習につきっきり。時間も大幅に延長。間違いやすいところは徹底的に練習させ。。。と、毎日とにかくがんばっていた。いや、がんばらせていた。
そんな日々を過ごしていたある日、鏡を見たらなんと自分の顔がボロボロなのである。お化粧ものらない。
なんで?どうして?理由がわからなかった。
そうして、はたと思い当たった。
これは「過度のストレス」ではないか。
自分では気づかないうちに、かなり子どもと自分を追い詰めているのではないか?「ああ、まずい、まずい」と思いながらも、もう回りだしたサイクルはとめられず。とうとうリサイタル当日を迎えた。
結果、ミミコの演奏は「完璧」だった。会場の賞賛を浴びた。私も親バカながらすごくうれしかった。
リサイタル終了後に、みんなからお褒めの言葉。
「ミミコちゃんすごいわねー」「上達したわねー」
初めは、私も得意になっていたが、だんだん違和感を覚えるようになった。
そんな言葉をもらえばもらうほど、なんだか私は「虚しく」なっていったのだ。
(だれも、私をほめてくれない。。。)なのか
(もっと、ほめて。。。)なのか
(あれだけ練習させて、これだけの見返り?。。。)なのか
とにかく、すっきりしないのである。
そのすっきりしない理由はまだ判然としない。でも、わかることは私はこころのどこかで「自分がほめられたい」と思っていたのだ。それは「見返りをもとめていた」のかもしれない。とにかくそんな「欲」まで出てきていたことに気づかされた。
そこで思った。「自分がほめられたい」なら、「自分の力で勝負しなくちゃいかん」と。近視眼的に子どもの成功を望み、それを自分の手柄にしようなどとゆめゆめ思うなかれ。。。
そして子どもに「失敗させたくない」という、一見すると「親心」に思える考えも、果たしてどんなものなのだろうか?という疑問もわいてきた。
たしかに自分は失敗した。しかし、だからこそ次の年の発表会には、「選曲」の段階で先生に「覚えやすい曲にしてほしい」とか「まちがえやすいところは徹底的に練習する」とかいうことを「学んだのではないか」。それによって、翌年は間違えずにバッチリ演奏することができたのじゃないか。
「失敗」イコール「良くないこと」ではない。実は、失敗こそ「学びのチャンス」なのだ。
そう思うようになってから、自分自身ものすごく「気負い」がなくなった。そして、ピアノリサイタルも楽しめるようになったのである。
今日のリサイタル終了後、ミミコもららも満足げな顔。自分なりに一生懸命やったという充実感があったのだろう。「楽しかったー」と言っている。帰りの車の中でミミコは、「あたし、ショパンが弾けるようになりたいなー♪」と無邪気に言っていた。そういえば、20代の男性がショパンの「革命」を弾いていたっけ。。。
ピアノリサイタルは、自分が弾くことも大切だが、案外いろんな曲を聴くことも子どもにとっていい刺激になると感じた。「~できるようになりたい」という「憧れ」をいだくことこそ大事にしていきたいと感じた。
私も中1のピアノ発表会で
途中で完全に頭真っ白!!
をやってことあります~~。
先生の一番弟子の一人だったので
トリだったにもかかわらず。。。
そでに向かって、
「あ、、すいません、楽譜を、、、~~」
と言ったら、なにやら会場がウケていたので
あ、そうか、失敗はギャグで交わせるのか、、
ということを学んだ、大事な発表会でした。
が、、まだうら若き少女だったからね~
あの頭にいっせいに血が上る恥ずかしさは
忘れられません。
ガー嬢ちゃんたち、がんばりましたね!。
新しい土地でもピアノを続けるのでしょうけど
よい先生と出会えるといいですね。
「失敗をギャグで交わせる」ということを、うら若き乙女の時にすでに発見されていたとは!。いやはや、恐れ入りました。笑
>よい先生と出会えるといいですね。
ありがとうございます。特に、子どもの頃の「出会い」というのは大切にしていきたいものですね♪