新新☆もこほじゃほろみ日記

煩悩と私事のサイト

散歩

2009-08-20 | 雑感
今日は時間があったので、家の近所を散歩した。

散歩しながら気分は子供の頃に戻っているのである。
我が家の近くには玉川上水が流れており、流れに沿って雑木林が残っている。
子供の頃、1960年代、夏休みになると、上水に沿った広大な雑木林で、カブトムシやクワガタを捕って遊んだものである。

今は林は伐られ、団地や住宅になったが、上水に沿った雑木はほぼそのまま残っている。
そこを歩いている時、本能的にカブトムシやクワガタを探してしまう自分がいる。
もう実際はカブトムシやクワガタどころか、カナブンもほとんどいないんだけどね。
そんな記憶が60年代のビートルズの音楽と一緒に蘇ったりする。

ただし調子に乗って紫外線の強い日中を歩いていると、夜になって目が疲れるのだ(歳だ)。
FOIがよく見えないと大変なので、これくらいにして寝るとしよう。


夏の祭典

2009-08-19 | 荒川静香
あと数日で2009年の夏を締めくくる氷上祭典(FOIのこと)である。
わたすが行くのは、前にも書いたが、22(土)の初回公演であります。
席は、アリーナN5列33番である。(スーパーアリーナにあらず)
スーツ姿に通勤カバンの場違いな薄毛オヤジがいたらおそらく私でしょう(笑)。
気が向いたら声をかけてみてください。

あとは作戦の仕上げを残すのみ。
唐突だが、今夜もマルセル・デュプレ (1886-1971:フランスの作曲家&オルガニスト)のオルガン曲を聴いて寝るとしよう。


往く夏

2009-08-18 | 雑感
外では蝉が盛んに鳴いているが、
今年の夏は梅雨明けもはっきりせず、猛暑の日も意外に少なく、このままずるずると秋に突入しそうな気配である。

暑いのは苦手だが、やはり滅茶苦茶暑い日が何日かは続かないと、夏の実感がない。
今年の夏はそういう意味で物足りなさは残りそうである。
いい加減暑い夏にうんざりして、秋が来てほっとするくらいのがいいな。

8月が終わると1年も2/3が終わったことになる。本当に速い。
せめて、夏の終わりの氷上祭典を楽しむこととする。


出会いの頃 5

2009-08-17 | 雑感
「出会いの頃」も今回が完結編である。

暗黒時代の2年間、私はほとんど無気力だった。
結婚の束縛を嫌い、一人で自由に生きたいと言う人がいるが、私は正反対である。
私は束縛がないと、限りなく堕落する人間のようである。
それを実証したかのような2年間であった。

いつの間にか、私は30をとうに過ぎてしまっていた。
毎晩のように飲んで、部屋には日付が変わってから寝に帰る日々が続いていた。
時代が昭和から平成に変わった5月のある日、その日は飲み疲れたのか(?)、珍しく12時前に私は部屋にいた。

日付が変わる頃、電話のベルが鳴った。
出ると、
「○○です」
2年ぶりに聞く彼女の声だった。

「え~?久しぶり、どうしたの?」
「まだつながるかと思って、かけてみた」
「何か用?」
「ううん、ちょっと声が聞きたくなって」
「もう一生会えないかと思ってたよ」
「私もそうかもしれないって思ってた(笑)」

「オレの番号覚えてたの?」(変な質問だ)
「うん」
「オレ引っ越したって知ってた?」
「知らなかった」
「時々電話したりしてたの?」
「ううん、2年ぶりかな~」
「はあ~…」

実は私は引っ越しはしたが、同じ市内だったので電話番号は変わっていなかったのである。
私は驚いた。もし引っ越した時、電話番号が変わっていたら、当然つながらなかったはずだ。もし今夜も飲みに行っていたら、誰も出なくて、彼女はもう電話しなかったかもしれない。

たまたま、なぜか彼女が電話してみたくなった時、電話番号が偶然まだ生きていて、いないことの多い私がいたのである。運命の神様の気まぐれな矢に当たったような気がした。

それからしばらく近況を話した。
久しぶりに聞く彼女の声は、感じが変わっていた。以前感じたある趣幼い障壁のようなものはなく、成長した心の強さと、同時に私の声を聞いて安心したのだろうか、今まで聞いたことのない柔らかな可愛い声の表情で話すのだった。
私たちは、次の休日に会う約束をした。

その日会った時、彼女は美しくなった、と私は感じた。この2年間に何があったのかは知らないが、その間に彼女なりに人生に磨かれ、洗練され、以前より「いい女」になったらしかった。

私たちは、借りてきた車で奥多摩にドライブした。

緑濃い谷間を歩きながら、私は言った。(おそらく緊張で上ずった声で)
「僕たち、そろそろ一緒になってもいいんじゃない?」
「え?」
「この数年間、僕は君以上の人に出会うことはなかった。結局、そのことを確認するための2年間だったんだと思う」
「私もそうだよ」
「だから、…ケッコンしよう」
彼女はにっこりとうなづいた。
私は彼女の肩を抱いた。そのまま二人は唇を重ねた。

☆☆おお恥ずかしい!!でも実はどんな会話をしたか、よくは覚えていないのさ(笑)。

翌年の1月、私たちは結婚した。それが現在の妻(財務大臣ともいう)である。
結婚して驚いたのは、彼女が情が深くすごく甘えん坊だったことである。あのクールなガードは一体なんだったのだろう。

(完)



出会いの頃 4

2009-08-16 | 雑感
「出会いの頃」再開するが、陀羅陀羅と長いのもなんなので(笑)、なるべく簡単に話をまとめよう。(本当は自分が面倒くさくなったから??)

しょぼいイベントはまあまあの成功を収めた(?)。観客は10人未満でありました(笑)。まあそんなことはそれほど重要ではない。それから皆さまの想像通り(?)、二人の交際が始まったのであった。

もっとも一方的に誘い出そうとしていたのは私の方で、あちらはなかなかガードが固いというか、冷淡とまではいかないが、例えばコンサートや演劇に一緒に行っても、用が済むとどこにも寄らずさっさと帰ってしまうような、そんな関係が続いた。

その当時は携帯電話などまだなく、固定電話の時代だった。彼女は電話するとたいがい家にいたので、カレシは特にいないことは確かなようだった。というか、友人からそうらしいことはすでに聞いていたのだが。

それでもそんな関係がしばらく続いているうちに、互いに打ち解けてくるものはあった。二人の関係が、約1年後、お互いに「結婚」を意識するところまで進んだのは確かである。

しかし、私たちは離れてしまった。原因は些細なこと(?)である。とにかく、私たちは連絡をとり合うことをやめた。やがて、彼女は会社を辞め、私の知らないところに引っ越してしまった。友人に聞いても、誘われて別の会社に転職したということしかわからなかった。まして新しい住所なども。私から彼女に連絡をとることは事実上不可能になった。

やがて、私も同じ市内だがアパートを変え、完全に二人の接点はなくなった。私の生活は荒れ、毎日飲み屋で夜中の2時3時まで飲むのが当たり前のようになった。飲み屋だけで会う、本名を知らない、「ちゃん」付けで呼び合う飲み仲間と過ごす時間が、仕事以外の私の生活の大部分を占めていた。私の人生の暗黒時代である。そんな日々が2年は続いただろうか。

(続く)


最近

2009-08-15 | 雑感
どうやら当ブログの訪問者が増えているのである。

去年まではアクセス数は一日平均140IPで、増えもせず減りもせずの状況が続いた。
私はこの140IPを固定読者と考え、ちょうどいい数と思っていた。

現在は一日200IPが平均だろうか。
いつの間にかずゐぶん増えたものである。

以前もしーちゃんの話題になるとアクセスが増える傾向はあったが、今はコンスタントに200である。もちろん私はこの現象を喜んでいる。

そういや今年の5月くらいからでしょうかね、アクセスが増えたのは。
一時的な現象かと思っていたら、固定読者がけっこう増えたようである。
しーちゃんと握手できてからそれは決定的となったような気がする。
だとすればしーちゃんのおかげかな…なんて(笑)

こんなブログですが、楽しみに読んでくれる人がいるのは嬉しいことである。
これからもこんな調子で続くと思われますが、まあわずかでも皆さまの退屈しのぎにでもなれば幸いであります。


貴女の味方

2009-08-14 | 荒川静香
読売新聞8/14夕刊「言葉のアルバム」より

貴女の味方

2004年世界選手権で優勝した後、競技を続けるかどうか迷った時。
母の言葉
「貴女(あなた)の決めることに、たとえ世界中が反対しても、私たち(両親)は味方だから」
「経済的な心配はしないで。どんな道を選んでもいい。全力で支援するのが、唯一両親である私たちにできること」

その両親の姿勢が、「迷いの中で自分を見つめさせる心の支えになった」。

会社員の父の給料を生活費に回し、スケート関連は母が工面。
その母の仕事ぶりとは…
朝一番に家を出てゴルフのキャデー。午後5時ごろ、娘を学校からリンクへ送り届け、練習が終わる夜9時か10時に自宅へ。夜は時に衣装を縫い、午前3時からは、コンビニの総菜を詰める工場へ。眠るのはリンク脇で待っている間、車中の4時間余り。運転中でも赤信号になると、「青になったら教えて」と言って座席を倒して寝てしまう。

そんな母の姿に、
「学業もスケートも、一生懸命やらないのなら申し訳ない。やる価値がない」。

トリノ五輪では、
「自分の気持ちだけだったら、今ここにいない。両親や見守ってくれた人々の思いを背負って自分は立っている。一人ではないのだと」。

金メダルの表彰台で、
「自分のこととしては、あまり喜びはわかなかった。でも皆が、両親が、いつもそばにいてくれた。そう思ったらうれしさがこみあげて」
「ああどんな時も、味方だったんだなあって」。




卒論

2009-08-13 | 雑感
唐突だが卒業資格に卒業論文(卒論)を課している大学は多い。

私の卒業した大学(というか学部)は卒論が必修でなかったため、なんとか卒業することができた。
もし卒論が必修だったら卒業できなかったかもしれない。

ちなみに私の最終学歴(最高学歴にあらず)は、某仏教系大学中退だが、それは卒論が書けなかったためである。

卒論は若き学生が心血を注ぎ、生まれて初めて(そして多くの場合最後でもある?)完成させる学術論文である。その人の人生の金字塔(とまでいかなくても間違いなくマイルストーン)といっても過言ではなかろう。

ある意味、青春の記念碑のような卒論であるが、それを永久保存し、要請があれば閲覧に供している大学図書館もある。

時には、父や母を亡くした人が、自分の親の若き日の記念碑を訪ね、涙を流されることもあるという。

それをテーマにstoryを書いてみたいと思いつつ、なかなか話がまとまらないまま、数年が過ぎているのでありました。


F号作戦

2009-08-12 | 荒川静香
「出会いの話」が陀羅陀羅と長くなりそうなので、ここらでちょこっと話題を変えて…

F号作戦のFとは、勘の鋭い人はもうお気づきかと思うが、来週末にNY(SYともいう)で開かれるイベントFのことである。このイベントFについては、今年は参加が危ぶまれていたのであるが、万難を排し、秘密裏に作戦を進行させ、どうにか行けそうなところまで来た。

あとはプレゼント関係をどうするかである。前回のBIG HAPPINESS(大福ともいう)作戦の成功(?)に気をよくして、今回も和菓子で攻めてみようかなどと思っているのであるが、問題は調達方法である。まだまだ作戦を練る必要がある。

ところで、私が行くのは昨年と同じく土曜日の初回、某四国方面のおじさんと同じ回である。いずれ席は明かすが、会場でお会いできるのを楽しみにしている。


出会いの頃 3

2009-08-11 | 雑感
初めて二人が会ったのがどこだったか、実はよく覚えていない。
新宿だったことだけは確かである。
東口の聚楽の喫茶店だったような気もするが確かではない。

とにかく無事落ち合うことができて、喫茶店に入り話をした。
その時はあくまで打ち合わせということで、しょぼいイベントについて説明し、楽譜を見せてお願いできるかどうかの確認をした。
で、なんとかOKをもらったわけである。

その時の印象は悪いものではなかった。
あちらも別に悪い印象はなかったようである。
私の側に下心がなかったと言えばウソになる。
あちらにはそんな気はなかったようだが。

本人が言うように色の白い人であった。
だが、丸顔というのでボールみたいな顔を想像していたのだが、実際はさほどでもなく、卵型というのがふさわしいように思えた。見た感じは、色白で地味だけど清楚な(一応?)美人というところか。出身地が新潟県というのもうなづけるものがあった。

世はバブル期に向かって、アッシーだのミツグだの、若い女は男を遊びの道具として適当にあしらうのが流行っていた(?)が、彼女はそれらとは一線を画すというか、浮ついた遊びには興味がなく、地味で真面目な性格のように見えた。

その一方で、他人に対してはひとまず壁を作り、安易に馴れ馴れしい関係になることを拒むような雰囲気も持っていた。

意外だったのは、某音大の楽理科を出ており、期待通りピアノもそこそこ弾けるのだが、音楽的興味の中心はクラシックよりもむしろ、マイケル・ジャクソンのような海外のポップスや、あるいは日本のフォークやロックにあったことだ。その点は私の勝手な期待と大きく異なった点である。

そもそも友人のいたレコード会社というのが、主にアイドルや歌謡曲を扱うレーベルで、なぜか彼女は音大を出てそのような会社に就職していたのであった。

そんなこんなで、私と彼女は初めて出会い、それから二人の歴史が始まったのである。

(続く)