本棚7個じゃ足りません!

引っ越しのたびに蔵書の山に悩む主婦…
最近は二匹の猫の話題ばかりです

今、この場所から始める。

2011年03月30日 | 日々のこと

被災した友達のブログを読み…hamoさんからいただいたお言葉で改めて己のことを見つめ直して…
朝、ふと鏡を見たら、少し頬がこけた不健康な顔の自分がいました。
このままじゃいけない。


震災後からしばらくは、朝から晩まで、トイレやお風呂や食事の時間も惜しんで、
引っ越し前の段ボールが積まれたリビングのTVの前に布団を敷き、
ずっとNHKの報道を見続けていました。
寝ている時も地震速報や原発の記者会見を聞き逃すのが怖くて、音だけ聞いていました。
(電気を消した暗い部屋で荷づくりをしながら…。
夫が帰ってきてくれなかったら、普通の生活に戻れなかったと思う)

第1原発の危険性が報道され、次々と建屋が爆発した頃は、
情報も錯綜していたから、半径30キロ範囲外は通常の生活をしていて問題がないと言われても、
今度はもっとひどい事故が起こるかもしれないという不安を覚えました。
第2原発のほうも、実家と距離が近くて目が離せませんでした。

あの時には地元もみんな、それなりに用心して身を守りながら行動していたのだと思うけれど、
実家の状況が「父が長年封鎖していた井戸水で風呂に入り、他人にも入っていくよう勧める」
「街の人は皆、外出時のたびに被ばく対策をしているのに、父は何もしない」
「給水所に行くのも、買い物に行くのも、同居家族に任せているので父には非常時の自覚がないらしい」
「誰も依頼に来れない状態なのは、父も報道を見て知っているはずなのに、頑固に工場(自営業)で仕事をしている」
「家が老朽化していて、しかも震災でも被害を受けたものだから、雨漏りや隙間風がある」
というもので、そのうえ母が「みんなで避難したいけど父が同意しない」と言うものだから、
これ以上の非常時になった時に、せめて他の家族が巻き込まれないようにできないか、と悩みました。
当時は物資も本当に動かなくて、医薬品の入荷も当てにできず、
母と長兄の持病の悪化も心配だったのです。

そして、友人や親戚たちが次々自主避難をしていきました。
地元に残る人たちも、屋内退避をしていました。
わたしも実家に自主避難を促したのですが、
「避難するなら茨城の親戚のところに行く」、
「父の気持ちが変わってきたが、ガソリンがないから行けない」と言われ、
それではと別の避難経路を調べたところ、
「自家用車でないと嫌だと父(唯一の運転者)が言っている」と言われ…。
実際に現地はガソリン不足で、要介護のご家族のために自家用車でしか動けない、
というケースもあったのですが、実家はそういう事情でもなく…。

それは結局動きたくないってことだよ、と夫に諭され、
では好きにしなさいとこちらが言い渡した頃に、
母と長兄だけ先に高速バスで避難するという話を聞いたんですけどね。
次兄が近隣に住んでいて避難所のボランティアをしているから、
父の身の回りのことはしばらく大丈夫かなあ、と安心していたら。

やがて「父はガソリンが給油できたら、自家用車で行く」から、
「給油できても、動くつもりがないらしい」になってきて。
いわきからの自主避難を望みながら動けない方の多くは、
「ガソリン不足」「避難先の確保ができない」という理由だったのですが、
実家の場合は突き詰めれば「父は家から動きたくない」だったのでした。
ああいった状況だったので、家族全員迷いがあったろうし、
気持ちも刻々と変わっていったのだろうということは想像できます。
だから、「避難できたら、する」という向こうの言葉を信じて無我夢中で奔走したことも、
それが結局どうにもならなかったことも、仕方なかったかなあ、と思う。


それから、いわき市では放射能については心配するほどのことでもない、という空気になってきて、
避難した友達がいろんな理由で地元に戻ってきました。
皆、ライフラインが整わないなか、当てにならないものへの期待はやめて、
自分たちの力で地元を支えるために、頑張っていました。

だから、母が家に戻ったことについても本来なら構わないことでした。
それが、サポートする子供たちへ影響を与えることでもあるのに事後報告で通したことと、
今後必要になる物資の手配をしてから帰ればいいものを、
「戻ってくるか?」と父に言われて、ただ急いで帰宅したというところが、
これから復興しようといういわきで暮らすにしては、なんだか頼りないと思ったけれど。

現地の状況が状況だし、母は永遠の思春期みたいな人だから、
もう好きなようにさせて、冷静に受け止めるしかない…と何度も自分に言い聞かせていました。
でも、こちらも連日の不眠で通常の精神状態ではなく、母の言動には相当振り回されて限界が来ていたようで、
のほほんとした声で電話をかけてこられた時に、ぷっちんと切れてしまったのでした。
被災者相手なのに、ひどい娘…と自分でも思ったけど。
お互いに、自分の気持ちを分かってと言い合うのは不毛だと分かっていたけれど。
わたしがいわきに入るのを止めながら、一方で自分が帰ってしまうのは矛盾だと思ったし、
誰の力も借りないで生きているつもりにならないでほしい、という感情をおさえきれなかったのでした。


今もまだ、あまり眠れていないし、震災と原発に関する悪夢も時々見てしまいますが。
つきつめればわたしは当事者ではないし、その気持ちを想像することはできても、共有することはできません。
どんなに悩んでも、苦しんでも、やっぱり傍観者なのです。
被災者の方と共に生きて支えたいけれど、かといって本人になることはできません。

だからもう、支援する時は自分の限度内で…。
ささやかでも、長期的に…。
なるべく実家に振り回されないように、まず自分の足場を固めてから、ということにしようと思います。
とりあえずは、きちんとご飯を食べて、家の用事を片づけて、夫のことを大切にして、
ちゃんと毎晩眠れるようになりましょう。