サイフォンの向こう側

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誕生日でした。

2012-08-12 | 平和な日常。
今年も同じように8月12日がやってきました。
誕生日ですけど。

景気づけに、髪切ってきました!


was


now

20~30センチいきましたか。
すっきりした…けど、セット大変…?みたいな。

朝たいへんかもなあ…
後悔しても遅いけど。
でも、なんとかなる!
Comments (4)
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臨場 劇場版

2012-07-16 | 映画とかテレビとかDVDとか。
本日、大好きな「臨場」の劇場版を見てまいりました…。

ええと、ネタバレしちゃうので、あまり詳しいこと書きたくないんですけども。
とにかく、いろんなもの詰め込んでたな…。すごく厚みのある出来になってました。
その分、重たいけど。

「刑法第39条」(加害者が心神喪失の際はその罪は問われないってアレ)をめぐり、殺人事件に巻き込まれた被害者の遺族らを、真正面から描いているなあ…と。

一番すごかったのは、若村真由美さんの演技。
娘さんが無差別殺人の犠牲者となった母親を演じてたんですけど…。
その慟哭たるや…。
そして、「誰か私を助けて!」っていう心の叫びが、突き刺さりました。
泣いたなあ…。

久々にいい映画を見た気がします。


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ダニエル・ハーディング!

2012-07-07 | 音楽(クラシック)
久々の更新ですんません。
すっかりやる気なくなってましたー。

えーと、本日はすみだトリフォニーホールにて開催された、新日フィルのコンサートに行ってまいりました。
あいにくのどしゃ降りでしたが、お客さんはほぼ満杯。

演目はシューベルトの「未完成」と、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。

ここの首席客演指揮者、ダニエル・ハーディング(かなりのイケメン)ですが、NHKでやった「3月11日のマーラー」ですっかりファンになってしまいました(にわかファンでごめんね)。で、そのときのマーラーもかなりよい演奏をしていたので、他の曲はどうなんだろうと思ってたんですが。

これが、予想以上にいい演奏してました! いい意味で裏切られた!
とにかくオケの反応がいい! 指揮者の反応にぴったりくっついてくるし。

「英雄の生涯」は最初の難しいところでコケそうになったけど、あとは厚みのあるストリングと、迫力あるウインド(特にホルン! しびれた!)がもう! な感じで。素晴らしかったです!

こうなると、6月の定演でやったエルガーの交響曲2番も聞きたかったなー。と思う。
面白かっただろうなあ。


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バチカン市国

2012-06-30 | 歴史話とか
プロバイダが変わったので、HPがいよいよ6月30日で閉鎖になります。
おそらく、7月以降はアクセスできません。
順次HPのコンテンツの一部をこちらに非難させます。

面白人物伝をまず移動します。
「面白ければOK」ってことで昔書いた歴史豆知識みたいな。
あくまで参考程度にとどめてくださいね。





【バチカン市国の話】
2005年のこと。新教皇「ベネディクト16世」誕生のニュースを見ていて、「そういや、ヴァチカン市国ができるまで、紆余曲折があったんだよなあ・・・」てなことをふと思い出した。でも、高校の世界史でちょこちょこっとやった程度の知識なので、細かいことはウロ・・・。この際なので、ちょっとネットで調べてみた。

ヴァチカン市国は、ローマの西側にある世界最小の独立国家。教皇を元首として、教皇庁が治めている。責任者は国務長官。2009年時点では、ベルトーネ枢機卿という人が勤めている(この人、「クレリクスカップ」という聖職者のサッカー大会なんか開いたこともあり、大のサッカー好きとしても有名)。そして実際の統治は「ヴァチカン市国行政庁長官兼ヴァチカン市国委員会委員長」の役目。やっぱりこの人も枢機卿。

「ヴァチカン」という名前は、あの辺りがキリスト教の誕生以前から「ヴァティカヌスの丘」と呼ばれていたことに由来する。ちなみに通貨はイタリアと同じユーロ。切手も独自のものを発行しているが、イタリアの切手も同様に使える。

市民権を持っているのは、2002年度で555人。枢機卿、大司教などの高位聖職者、駐ヴァチカンの司祭、行政官、教皇庁職員、スイス人衛兵などに対し、教皇の勅許によって与えられる(ということは、市民は当然男ばっかりってことか)。

ちなみに、FIFA未加盟だけど、サッカーのナショナルチームも持っている。ヴァチカンのナショナルチームかあ。国民が永住してるわけではないから、選手の出入りが激しくて、あんまり強くなさそうだけど…。やっぱり、チームは当然全員カソリックなんだろうなあ。当り前か。

兵力は持たず、スイス人衛兵が警護にあたっている。一定以上の身長がある未婚のスイス国籍の男性が勤務している。ヴァチカンでなんだか派手な服を着たお兄さんを見かけたら、それがスイス人衛兵。中世そのままのようなデザイン。ミケランジェロが作ったとかいうけど・・・どうなんでしょうか。下士官に昇進すると、結婚が許可される。

なんでスイス人かというと、戦争大好きだった教皇ユリウス2世(在1503~1513年)が、勇猛果敢なスイス人傭兵に目をつけたからだそう。その伝統が、ずっと続いているわけだ。その頃の教皇領は広大で、北はボローニャ、南はローマまであった。

この教皇領、始まりはフランク王国の宰相・ピピン(いつも思うが可愛い名前だ・・・)がカロリング朝を廃してメロヴィング朝を起こした時に、時の教皇ザカリアスに王朝の正当性を認めてもらったお礼として、ラヴェンナ地方を寄進したことから。

要するに「王朝のっとったの、ぜ~んぜんずるくないよ~」と教皇に言ってもらったお礼に、どどーんと領地をあげちゃったわけです。756年の話だから、相当昔ですな。

その後も教皇領は着々と広がっていき、「カノッサの屈辱」で有名なグレゴリウス7世(在位1073~85)の時にトスカナ地方の一部を、教皇権が最大になったインノケンティウス3世(在位1198~1216)の時にロマーニャ地方を獲得し、最大版図となった。

・・・が、ナポレオンの時代になると、教皇領は一度消滅。ナポレオンがエルバ島に流されたあと、ウィーン会議で領土は一度復活するが、イタリア統一運動(リソルジメント)の影響でどんどん削られていく一方。

そんなこんなで、1870年にはイタリア王国が成立。ローマを占領され、とうとう教皇領は完全に消滅する。

イタリア王国は教皇の不可侵性とヴァチカンの領有権を保障した「教皇保障法」を制定するが、「ざけんなコラァ! 領土返せ!」とキレた教皇ピウス9世はこれを拒否。
その後、歴代の教皇たちはヴァチカンにこもり、イタリア政府との交渉を拒み続ける。

結局、1929年にムッソリーニとピウス11世との間でラテラノ条約が締結されるまで、およそ60年のあいだ、教皇と教皇庁はイタリアと断絶状態だったわけですな。

で、このラテラノ条約により、世界最小の独立国「ヴァチカン市国」が誕生した。

「イタリア政府の干渉を受けない」ということを銘記したこの条約、お互いギリギリの譲歩だったんだろうなあ。

それでまあ、現在に至るわけですが・・・。教皇って聖書には全く書いてない存在なのに、あれだけの力を持っているというのは、(今更だけど)なんだかとても不思議。

ところで。

2005年のコンクラーヴェ(教皇選挙)で選出された第265代ローマ教皇は、教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿(当時78)。投票が始まってわずか2日で当確。比較的早く次代の教皇が決まったというわけだね(前回ヨハネ・パウロ2世のときは3日で決着)。「天使と悪魔」のように殺人事件は起こらなかったよ(そりゃそうだ)。新しい教皇の名前は「ベネディクト16世」。

ベネディクト16世は、1927年にドイツのバイエルン州マルクトルに生まれる。
ドイツ人教皇は950年ぶり、ヨハネ・パウロ2世に続いて二人目の非イタリア人の教皇となった。

ミュンヘン大学で哲学と神学を学んだあと、1962年の第2ヴァチカン公会議で発言し、注目を集めた。枢機卿に任命されたのは77年。その後は枢機卿団のナンバーワンとして実力を発揮、ヨハネ・パウロ2世の葬儀も取り仕切った。
…というわけで、教皇には本命中の本命が選ばれたということのよう。

この教皇は保守的な立場をとっており、ヨハネ・パウロ2世からの路線については、「妊娠中絶・同性愛反対」などは踏襲するものの、他の宗教との対話・平和路線については反対のよう。保守的な教皇が誕生したことで、当時の周囲の反応は「新教皇に不満ではなく、不安を抱く」という感じだったそう。

78歳の教皇。選出時の年齢としては過去300年間で最高齢。
今回は在位期間が短そうな気がしなくもない・・・。

で、この「教皇の名前」ですけど。
本名ではないことは皆さんご存知かと思いますが、命名については特に決まりがあるわけではなく、1009年からの慣例によるもの。新教皇が選出された時に、自分で好きに決めていい。
別名を使うかどうかは強制ではないようで、1555年に教皇に選出されたマルケルス2世は、本名を使っていた。

新教皇に選出された枢機卿は、主席枢機卿から二つの質問をされる。
まず、「教皇となることを受諾しますか?」
これに「はい」と答えると、次に「教皇としてどのような名前を選びますか?」と尋ねられる。このとき答えた名前を、ずっと名乗っていくことになる。いわば、「名前を選ぶこと」が教皇の初の仕事といっても過言ではないかも。

コンクラーヴェが終了すると、すぐに新教皇についての発表がある。あのタイミングを考えると、おそらく名前について迷っている暇はない。だから教皇候補の枢機卿たちは、前々から自分の名前を考えているはずだ。尊敬する教皇や聖人の名前を取ることが多いようだ。

前教皇のヨハネ・パウロ2世(ポーランド人初の教皇)は、その前任者で、就任後一ヶ月足らずで亡くなってしまった教皇ヨハネ・パウロ1世に敬意を払い、同じ名を選んだ。改革的だった路線も、そのままそっくり踏襲したかたちとなった。

世界11億のカトリック信者を導く宗教的指導者、教皇。
何かといえばサン・ピエトロ広場に集まる人々の様子を見ていると、本当に教皇というのはカソリック信者たちの心のよりどころなんだな、という気がしてくる。

「ダ・ヴィンチ・コード」や「天使と悪魔」がバカ売れしようが、日曜日に教会に行く人が少なくなって、教会の権威というものが失墜しようが、信仰というものは確かに人々の間に存在している、という気がしてくる。

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エドワード・エルガー

2012-06-30 | 歴史話とか
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【エドワード・エルガー】
エルガーの名は知らなくても、『威風堂々』は知っている人も多いだろう。イギリスの第二国歌とまで言われるこの曲は、イギリスでは様々な場面で演奏されることが多い。私の中ではロンドンの初夏~初秋の風物詩「プロムズ」の最終日、最終プログラムを飾る演目と認識されている。

(プロムズ(Proms):ヘンリー・ウッド・プロムナードコンサートのこと。ロイヤルアルバートホールで約二ヶ月の間、毎日クラシックのコンサートが行われる。アリーナが立見席として開放され、大体1000円くらいで良質のコンサートが聴ける。ロンドンの音楽祭みたいな感じ。最終日、9月15日のチケットは抽選となる人気ぶり)

しかし、私は本当に『威風堂々』しか知らず、『愛の挨拶』も『エニグマ変奏曲』も、ぶっちゃけ聴いたことがない。ていうか食指が動かなかった。

ところが、愛読している「のだめカンタービレ」6巻でエルガーのヴァイオリンソナタが出てきた。いきなり大注目(笑) しかし探しても音源が見付からないので半ばあきらめていたところ、このたび、ある方のご協力で運よくこの曲を耳にする機会に恵まれた。(多謝!)

情熱的な中に秘められた物悲しさ。正直、美しさに目からウロコだ。ヴァイオリンが気持ちよく歌っているような表情豊かな旋律は、さながら窓から吹き込んでくる風のようで、閉めきった部屋でも空気が動く気配すら感じた。はっきり言って、名曲と呼んでいいだろう。
埋もれた名曲をよく発見したものだ、と二ノ宮先生の眼力に感服しつつ、エルガーの人生というものが気になり少々調べてみた。



サー・エドワード・エルガー。1857年、イギリスはウースターに程近いブロードヒースで生を受ける。7人兄弟の4番目の子供。父ウィリアムは楽器店を営んでおり、自然と音楽に触れる機会が多かったようだ。エルガーはライプツィヒの音楽大学への留学を希望するものの、経済的理由で断念。しかし音楽の道を捨てきれず、独学でピアノやヴァイオリンを習得する。

上流階級の子息らにピアノなどを教えて生活費を稼いでいた彼は、アリス・ロバーツと知り合う。生徒の一人だったアリスは8歳年上で、階級の違いというハンデはあったものの、周囲の反対を押し切り、めでたく結婚する。1888年、婚約を記念し彼女に捧げられた『愛の挨拶』は日本でも有名だ。その後娘も生まれ、1893年には結婚3周年を祝って『弦楽セレナード』を作曲している。

彼はロンドンへ出るもあまり得るものはなく、1891年にはウースターシャーのモルヴァーンに戻ってくる。
その後は創作活動に意欲的になり、『黒騎士』や『オラフ王伝説からの場面』などのカンタータを作曲。妻アリスは作詞の才能もあったので、この時期の作品は彼女との共同作業ともいえる。

ロンドンでの評価はまだまだ低かったものの、1899年には『創作主題による変奏曲(エニグマ変奏曲)』を作曲。初演で大成功を収め、ようやく名声を獲得する。

この後オラトリオ『ゲロンティアスの夢』を作曲。イギリス初演は失敗したもののドイツでは成功し、国際的にも認められるようになった。1901年には『威風堂々 (Pomp and Circumstance Military March)』(1番・2番)を作曲する。1904年、47歳で功績を認められ、ナイトの称号を与えられるまでになった。

その後も彼は精力的に音楽活動を続ける。
『交響曲第一番』は、発表された年にイギリス国内で100回近く演奏された。

しかし、第一次世界大戦(1914~1918年)が近づいてくるにつれ、彼の曲は時代遅れと言われ、大衆からそっぽを向かれるような不遇の時を迎える。くだんのヴァイオリンソナタが書かれたのもちょうどこの時期、1918年のこと。

1920年、『チェロ協奏曲』を作曲してまもなく、最愛の妻アリスが71歳で他界。途端にエルガーは創作活動をやめてしまう。

1924年には67歳で王室音楽主任、そして准男爵になるが、曲は数えるほどしか書いていない。その後ガンに侵され闘病を続けるも、1934年、76歳で永眠する。

やはりエルガーはイギリスで人気があり、今でもイギリス国内では彼の曲がよく演奏される。日本でももう少し演奏されていい作曲家のような気がするのだが・・・。正直、彼の曲の多さには驚かされた。非常にもったいないぞ!

それにしても、こういったマイナーな作曲家に光が当たるきっかけが「マンガ」というのも、近頃の世相を反映していて面白いものである。

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カレンダーの話

2012-06-30 | 歴史話とか
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【カレンダーの話】

berのつく英語の月の名前を見てみると、

September=7番目の月
October=8番目の月
November=9番目の月
December=10番目の月

という意味になります。
ん?ずれてない?と思われるかも知れませんが、これにはいきさつがあります。

現在は世界のほとんどの国で「グレゴリオ暦」っていうのを採用してますが、それ以前の古いローマの暦ってのがあるんです。

その話に行く前に、まずはラテン語の数詞を見てください。

1 unus
2 duo
3 tres
4 quattuor
5 quinque
6 sex
7 septem
8 octo
9 novem
10 decem


BC753年あたりから古代ローマで使われたロムルス暦って、3月が一年の始まりで、一年が10ヶ月しかなかったんですよ。
こんな順番でした。

マルティウス(31日) マルスから (現在の3-4月)
アプリーリス、(30日) アフロディテーから(エトルリアの (現在の4-5月)
マイウス(31日) 豊饒の女神マイアから (現在の5-6月)
ユーニウス(30日) ユピテルの妻ユノーから(現在の6-7月)
クィンティリス(31日) ラテン語の数字の5 (現在の7-8月)
セクスティリス(30日) ラテン語の数字の6 (現在8-9月)
セプテンベル(30日) ラテン語の数字の7 (現在の9-10月)
オクトーベル(31日) ラテン語の数字の8(現在の10-11月)
ノウェンベル(30日)ラテン語の数字の9(現在の11-12月)
デケンベル(30日) ラテン語の数字の10(現在の12-1月)

ウィキペディアによれば、
「1年の長さは304日で、12月末日から3月初日の間に、日付のない日が約61日間続いた。農耕暦だったので、畑仕事のない季節に日付は必要なかったとされる。当時のローマ人は1年の長さが約365日であることを知らなかったため、日付のない日は厳密に61日間ではなく、春めいてきた日に王が新年を宣言するという形をとったと考えられる。 」

いい加減だなー(笑)
ローマの人たちはもともと農耕民族だったようですから、特に春先の忙しい月には農耕や豊穣の神の名前をつけたんではないかと思います。

マルスは古代ローマを作ったとされる伝説の双子、ロムルスとレムスの父親ですが、同一視されてたギリシャ神話のアレスと違うのは、農耕神でもあるってとこですね。アフロディテーはもともと菜園の神様だったそうですし。

あ、他はローマ神話の神様の名前なのに、アフロディテーだけギリシャ神話の名前なのは、エトルリア語の名残みたいです。

エトルリア(イタリアの先住民族)の言葉とか文字って、ギリシャ文字がお手本ですからね。やがてエトルリア語からラテン語に発展してくって聞いたような。

で、ロムルス暦のあと、暦が太陰太陽暦の「ヌマ暦」っていうのに変わります。
太陰太陽暦なので、一年が355日、一年おきに「閏月」っていうのをおいて調整してました(日本の江戸時代みたい)。
ここで新たにふたつきを加え、12ヶ月となってます。

こんな感じ


1.マルティウス (31日) ロムルスの父マルスから (現在の3-4月)
2.アープリリス (29日) アフロディテーから (現在の4-5月)
3.マイウス (31日) 豊饒の女神マイアから (現在の5-6月)
4.ユニウス (29日) ユピテルの妻ユノーから(現在の6-7月)
5.クインティリス (31日) ラテン語の数字の5 (現在の7-8月)
6.セクスティリス (29日) ラテン語の数字の6 (現在8-9月)
7.セプテンベル (29日) ラテン語の数字の7 (現在の9-10月)
8.オクトーベル (31日) ラテン語の数字の8 (現在の10-11月)
9.ノウェンベル (29日) ラテン語の数字の9 (現在の11-12月)
10.デケンベル (29日) ラテン語の数字の10 (現在の12-1月)
11.ヤニュアリウス (29日) ローマの門の神ヤヌスから(現在の1-2月)
12.フェブルアリウス (28日) 罪をつぐなうという意味の月、贖罪の神フェブルスから (現在の2-3月)

で、BC153年に、「門の神ヤヌスは始まりをつかさどるのに、11番目の月なのはおかしい」ということで、ヤニュアリウスに一年の始まりに持ってくるよう設定した、というんですね。つまり正月を二ヶ月前倒しした、と。
すっごくいい加減なんですけど・・・いいの、それで・・・?

というわけで、数字が起源のセプテンベル、オクトーベル、ノウェンベル、デケンベルは二ヶ月ずつずれたっちゅーわけで。その名前というか、名残が現在まで残ってるんですね。

ところで2月の元になった「フェブルルス」という神。エトルリアの神話で「死と贖罪の神」だそうです(ウィキペディア英語版より)。

ヌマ暦が導入されたのがBC713年。
フェブルアリウスが二番目の月になったのがBC153年。
実に長い間、フェブルアリウスは一年最後の月だったわけです。

昔は「フェブルアリア」というお祭りを一年の最後の月にやったくらい、人気のある神様だったみたいですが。
ただ、フェブルルスはそのうち「フェブリス」というマラリアの女神に姿を変えているということもありまして・・・。

この事実から考えるに、おそらくフェブルルスに対する人々の信仰が薄くなってしまったか、無くなってしまったんじゃないか、という気がしています。
だから、「移しちゃっても構わないか~」的な流れになったんじゃないかと。

ちなみに、太陰太陽暦では、各月の初日は「朔の日」(日本で言うところの「ついたち」)で、必ず新月です。
この朔の日のことを、ヌマ暦では「カレンダエ」と言っていました。
このカレンダエは、13世紀に入ると「kalendarium」(ついたち(calends)に支払う利子の台帳、つまり「会計簿」)に変化し、やがて「カレンダー」(calendar=暦)となります。

その後ユリウス・カエサルがユリウス暦(太陽暦)を採用し、4年に一度の閏年があるという今のグレゴリオ暦に近い形になりました。
やがてクインティリスはユリウス(Julius)に、アウグストゥスの治世にセクスティリスはアウグストゥス(Augustus)に変化。

後にグレゴリオ暦が導入されたのが16世紀後半ですけど、実際の季節と暦のずれがかなり顕著になってたそうです。
ローマ教皇の働きかけによって導入されたものなので、カソリックの国では比較的スムーズに受け入れられたものの、東方正教会では20世紀に入ってから導入したそうです。

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名誉革命とジャコバイト

2012-06-28 | 歴史話とか
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【名誉革命とジャコバイト】
イングランド王家というのは、どういうわけか王妃の出産を一般の人々に公開するという風習がありました。「子供のすり替え防止」ということと、「子供が正統なる王家の血筋であることを公に証明する」という意味があったようですが、普通、女の人は嫌がりますよ。衆人環視の中で出産するなんて。がしかし、それを母親である王妃が拒んだために、運命が大きく変わってしまった王子がいます。そして彼の存在によって、当時の国際情勢は大きく揺さぶられるのでした。

ここでは、王になれなかった王子ジェームズ・フランシス・エドワード(注1) と、名誉革命、そしてジャコバイトについて述べたいと思います。

まずジェームズ・フランシスの父親ジェームズ2世なんですが、清教徒革命(1640~60)が起きたとき、オランダに亡命しました。その後はフランスに渡ったんですが、フランスはカソリックの国。当時の王ルイ14世の臣下となった彼はもろその影響を受けて、カソリックになってしまいました。

清教徒革命の中心人物・クロムウェル亡き後、王政復古によりジェームズの兄チャールズ2世がイングランド王となります。ジェームズも同時期に帰国、海軍総司令官に就任しますが、議会が審査律(イギリスにおける、非国教会教徒の公職就任を禁止する法律)を持ち出したことにより辞職。その後、艶福家のチャールズ2世は14人の庶子を作りながら嫡出子なしで死亡し、弟のジェームズがイングランド国王ジェームズ2世として即位します。

カソリックの君主はメアリ1世(1516~58年)以来。
ジェームズ2世は政治の場でもカソリックばかりを重用し、プロテスタントの重鎮たちは切られていきました。(ジェームズ2世はフランスと密約を結び、イギリスをカソリック国家にしようとしてました)
そんなこんなで議会の反発もあったところに、フランスのルイ14世の斡旋でイタリアのモデナ公国からカソリックの後妻さんをもらってしまい、あげく男子も生まれてしまいます(彼が後に大僭称者と言われるようになるジェームズ・フランシス・エドワード)。

このままだとイギリスがカソリックの国になってしまう、とあせった議会は、メアリ・オブ・モデナが公開出産を拒んだのを逆手にとり、「産まれたところを見せなかったのは、子供が死産だったのを隠すため、どこかから子供をひろってきたんだ! あれは皇太子などではない!」と猛反発。後継者にチャールズ2世の長女(プロテスタントとして育てられました)メアリと夫のネーデルラント総督ウィレム(ウィリアム)の即位を迫ります。

イギリスとオランダって、これまでに3回も戦争してたんですが・・・この辺からして、もうなりふりかまっていられないっていうのがよくわかりますね。この頃オランダはフランスと仲が悪かったですから、「敵の敵は味方」ってこともあったのかもしれません。イングランド議会の要請を受けてウィリアムがオランダ軍を率いてイングランドに上陸すると、ジェームズ2世は慌ててフランスへ亡命します。
(逃げ足速っ!)

というわけで、これが教科書で言うところの「名誉革命」。このあとメアリ2世とウィリアム3世が共同統治宣言(「権利の章典」)を出してイングランド王になります。ちなみに、メアリとウィリアム(愛人あり、同性愛嗜好あり)は仲があまりよろしくなかったようです。
しかしこれで一件落着というわけではなく、更に続きがあるのです。

ジェームズ2世は先に妃のメアリ・オブ・モデナと嫡男のジェームズ・フランシス・エドワードをフランスに亡命させたあと、一度ケントで議会側にとっつかまってしまいます。がしかし、清教徒革命でチャールズ1世を処刑した記憶がまだ鮮明に残っていた議会は、メアリ2世の立場も考え、あっさり王の亡命を認めます。ここでジェームズ2世もあきらめておけばよかったのですが。

「聞いてよルイ~、イングランドから追い出されちゃったよ~。むかつくからあいつらにぎゃふんと言わせてやりたいんだけど、助けてルイ~」との○太のように言ったかどうかは不明ですが、ジェームズ2世は亡命先のルイ14世に泣きつきます。「しょうがないなあ、ジェームズくん」とは言ってないと思いますが、ルイ14世はこれに喜んで介入します。

一方。カソリックの多くいたスコットランドでは反乱が勃発。イングランドではほぼ無血で君主の交代劇が行われ、「名誉革命」なんて呼び名がついてますが、実はまったくの無傷というわけには行きませんでした。(ジェームズ2世のスチュワート家は、もともとスコットランド王家でしたしね)

ハイランド地方(スコットランドの北側)のカソリック信者は「我慢ならん! 正当な王はジェームズ2世とその子孫のみだ」と決起し、ダンディー伯ジョン・グレアム・オブ・クラヴァーハウス(「ボニー・ダンディー」(ハンサムなダンディー伯)と後世呼ばれるほどの美丈夫!)を中心に軍隊を組織し、自らを「ジャコバイト」(ジェームズのラテン語読みから)と名乗ります。
この動きを察知したウィリアム3世は、イングランド軍(厳密に言えばローランド地方(スコットランドの南側)のプロテスタントで組織された軍)をネス湖に程近いインヴァネスへ鎮圧に向かわせます。

1689年6月27日、両軍が激突し(教科書ではまったく紹介されない)「キリークランキーの戦い」が始まります。結果はジャコバイト側が辛勝。しかし代償も大きく、首領格のダンディー伯が戦死、反乱軍の三分の一を消失します。翌7月にはダンケルドの戦いが起こり、スコットランドのジャコバイトはほぼ殲滅されてしまいました。

フランスでスコットランドの動きを静観していたジェームズ2世ですが、「スコットランドがだめならアイルランドだ!」と、カソリック教徒の多いアイルランドにフランス軍を連れて上陸します。
返す刀でウィリアムはイングランド軍をつれてアイルランドへ。1690年1月、ダブリンの北にある町ドロゲダ(クロムウェルの時代にはイングランドに占領され、たくさんのカソリックが殺戮されたという、なにかと因縁のある街)の郊外で両軍あいまみえます。
これが(やっぱり教科書では無視されてる)「ボイン川の戦い」(ボインと言っても、大橋○泉の作った流行語ではない)です。

こう書くと「イングランド国内の宗教戦争」ぽく思われがちですが、実はウィリアム3世側のほうには法王の援助があり、また神聖ローマ帝国、オーストリア、バイエルン、ブランデンブルク、プファルツ、ザクセン、スペイン、スウェーデンからなる同盟国(これをアウグスブルク同盟と呼びます)が味方していました。なんかねえ、フランスの専横が許せなくて、ウィリアム3世の呼びかけに答えて同盟組んだんですよ。

結果はイングランド側の勝利に終わります(が、この2日後にイギリス・オランダ連合艦隊がフランス軍に撃破されるという事態に陥り、イングランドはそれどころじゃなくなってしまうんですが・・・大陸の諸侯の間では、宗教の壁を越えて同盟を組み、この戦いに勝利したことは大きな意味があったようです)。

これでジェームズ2世は再びフランスに逃げ帰りますが、その後もパリ近郊のサンジェルマン・アン・レイの城で王位を奪還するための策謀をいろいろと練り続け、1701年9月16日に死去します。

さてと、ようやく本題です。(長くてすんまそん)
母親が公開出産を拒んだために、ジェームズ・フランシスくんは「すりかえられた子供」というレッテルを貼られてしまいました。もちろんそんな証拠はどこにもないのですが、議会が難癖をつけるには十分な理由が揃っており、この噂を発端に「名誉革命」が始まりました。

生まれて数週間でフランスに亡命したジェームズ・フランシスは、ルイ14世から「君こそイングランドの正当な君主だ」と、ジェームズ2世の死後はイングランド王とする確約を与えられます。もちろん彼の宗教はカソリック。

そんな彼の存在は、イギリス王家にとって非常に微妙なものがありました。スコットランド(特にハイランド)、アイルランドのカソリック「ジャコバイト」たちが、いつなんどき彼を持ち上げて紛争を起こすかわからなかったからです。

1701年にジェームズ2世が亡くなると、彼はすぐにイングランドおよびスコットランド王ジェームズ3世を名乗りました。このことから、彼はイングランド側から「大僭称者(the Old Pretender)」と呼ばれるようになります。1708年にはエディンバラ近郊のフォース川河口に上陸し、王位奪回の策略をねります。

一方。共同統治者だったメアリ2世とウィリアム3世が亡くなった後、嫡子がいなかったため、権利の章典に従って王位は1702年にメアリの妹・プロテスタントのアンに引き継がれます。
ジェームズ1世以来、同君連合だったイングランドとスコットランドは連合法が成立した1707年、ようやくグレートブリテンとして1つの国となり、アン1世が「グレートブリテン女王」となります。それにしても、この人19回も妊娠(想像妊娠も含む)していますが、ほとんど死産か、生まれても10歳にならないうちに亡くなってしまいます。

また、1702~1713年のスペイン継承戦争ではイギリス軍が大勝利(この時活躍した初代マールバラ公ジョン・チャーチル将軍の子孫はウィンストン・チャーチル)。この戦いで大敗を喫したフランスのルイ14世は、ユトレヒト条約を締結(実はこの中に「ジェームズ・フランシス・エドワードをフランスから追放する」という条項がありました)。イギリスはジブラルタルとミノルカを獲得、フランスは勢力拡大をあきらめざるをえなくなり、イギリスの優位が確定します。これが相当こたえたのか、ルイ14世は1715年に崩御してしまいました。

そしてアン1世は後継者不在のまま1714年に死去(歩けないほど肥満で、棺が正方形だったというのは有名な話ですが)。王位は遠縁に当たるドイツのハノーヴァー選帝侯の息子でプロテスタントのジョージ1世(当時54歳! イギリス王の中では即位年齢が史上最高)がイギリス王として即位し、スチュアート朝は断絶します。

もしこの時、ジェームズ・フランシスくんが改宗してプロテスタントになっていれば、王位が彼のところに転がり込んだかもしれないのですが・・・。実は権利の章典の中に「王は必ず新教徒であるべき(というか、「カソリック以外であること」に近い表記)という項目があるんです。

1715年、ジャコバイトはジョージ1世の即位に猛反発します。ジェームズくんの王位回復を狙ってスコットランドで反乱が起こりますが、志半ばでジェームズは病気になり、反乱軍を率いるどころではなくなってしまいました。 フランスにも戻れなくなっていたジェームズ・フランシスは、その後ローマへ亡命し、ひっそりと余生を送ります。彼は1766年ローマで亡くなるまで、イギリス王ジェームズ3世を僭称し続けました。

その後、ジャコバイトは彼の息子チャールズ・エドワードくんに注目します。
ハンサムで、カリスマ性にあふれる26歳。彼もジェームズ2世の死後チャールズ3世を名乗りますが、やっぱりカソリックなんですよね・・・。それで「小僭称者(the Young Pretender)」もしくは「ボニー・プリンス・チャールズ」(「ハンサムなチャールズ王子」)と呼ばれています。 彼もスコットランドで反乱を起こしますが、結局失敗してフランスに敗走。その後は身を持ち崩して酒びたりの日々が続いたそうです。そして1788年にローマで死去。

彼に嫡出子はなく、聖職者をしていた彼の弟ヘンリーを最後に、スチュアート家の直系の子孫は絶えることになります。(チャールズ・エドワードと愛人との間に作った娘がいて、その子孫は現在も生きてる・・・と言われています)


(参考: The Glorious Twelfth of July Battle of Killiecrankie ウィキペディアなど)


注1:ジェームズ・フランシス・エドワードは、歴史学上では「ジェームズ・ステュアート」という呼称が一般的のようですが、ここではあえてジェームズ・フランシス・エドワードと表記しました。また、大僭称者(The Old Pretender)は「老僭称者」、小僭称者(The Young Pretender)は「若僭称者」というように訳す場合もあるようです。

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アリエノール・ダキテーヌ

2012-06-28 | 歴史話とか
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面白人物伝をまず移動します。
「面白ければOK」ってことで昔書いた歴史豆知識みたいな。
あくまで参考程度にとどめてくださいね。


【アリエノール・ダキテーヌ】
百年戦争を語るには避けて通れない女性(女傑って言った方がいい?)ですが、なぜかあまり教科書では出てきません。その生き様が結構面白い。

1120(1122年説もあり)生まれの1204年没ってことで、84歳まで生きたというんだからオドロキ! 
うちの母方のばあちゃんより長生きだったんじゃん。
子供もルイ7世との間に娘2人、ヘンリー2世との間に8人もうけてますからね。当時子供一人生めなくて死んじゃう女性なんかたくさんいたことを思えば、現代人以上に元気だったみたい・・・。
何食べてたんだろう。

彼女が受け継いだアキテーヌ地方は、ワインで有名なボルドーなどを含んでおりまして、かなり豊かな土地だったようです。面積も広く、北はポワティエから南はボルドーまで、実にフランス王家直轄領(パリとオルレアン周辺)の3倍の面積がありました。ですから、彼女と結婚するということは、政治的にもかなり大きな意味を持っていました。

アキテーヌの宮廷は吟遊詩人なんかが出入りしていたこともあり、かなり芸術が盛んな土地でした。彼女もその影響を受け、芸術的で教養のある女性へと育っていきました。
そんな彼女が17歳の1137年、父のギョーム9世がスペイン巡礼の帰途、病没してしまいます。
彼は「アリエノールを後継者とする」と言い残しました。
彼女には弟と妹がいましたが、後継者だったはずの弟は1130年にすでに故人となってます。

広大な領土と持参金を持つ女公爵をめぐり、当然結婚相手ももめるだろう、と思いきや、ギョーム9世は生前、主家であるカペー家のルイ6世(肥満王。ルイ7世のお父さん)に彼女の後見を頼んでいました。
こんなおいしい機会を逃すはずもなく、ルイ6世はすかさず王太子(後のルイ7世)とアリエノールを結婚させます。1137年7月のこと。
結婚式はアキテーヌ公領のボルドーで行われましたが、パリの人たちはどうもこの地方の人たちのノリが合わなかったようですね。話す言葉も微妙に違ってたようですし。

で、同年8月にルイ6世が亡くなり、ルイ7世が王位につきますが、アリエノールはよく政治に口を挟んでいたようです。気まぐれにいらん口を挟んで、貴族たちの争いのタネになったこともしばしばだったとか。

私生活のほうはどうだったかといいますと、こちらもはっきり言ってうまくいってなかったようです。
修道士のような性格のルイは夜の営みを拒むこともよくあったらしく、アリエノールは失望していたみたいです。性格もあわなかったこともあり、二人は事あるごとに衝突していました。

そんな二人の仲が決定的になったのは、1145年の第二次十字軍でした。

聖地巡礼の目的と、アリエノールの初恋の人、8歳年上の伯父アンティオキア公レイモン・ド・ポワティエ会いたさに、アリエノールも参加することにします。
多くの侍女を連れ、野営地で敷く絨毯、何十着もの衣装に宝石類、日よけのベールなどを持ち、すっかり物見遊山気分で参戦。何頭もの馬を立て、長い行列を従えて、一路聖地へと旅立ちます。

陸路にて行軍中のところをイスラム勢に攻め込まれ、アリエノールは命からがらアンティオキア公領に逃げ込みました。その後、何かにつけレイモンの味方をするアリエノールに激怒するルイ7世でしたが、結局レイモンは戦死。1149年、アリエノールは失意のうちに帰途につきました。
帰りは海路だったのですが、ルイ7世とは別の船に乗って帰ってきます。それほどに、二人の仲は修復不可能でした。

3年後の1152年3月21日、ようやくルイとアリエノールの離婚が成立します。
二人も娘がいたのに、よく教皇庁の許しが出たもんだと不思議なんですが・・・(金でも積んだか?)。ともかく子供たちの親権はルイへ、領土はアリエノールへ返還し、彼女の再婚も認めるという形で落ち着きます。

このときアリエノールは、「なんで王様じゃなくて坊さんみたいなのと結婚しなくちゃならないわけ? 気分最悪!」というような言葉を残してます。
(ダンナにしたら、「そりゃーこっちのセリフじゃ!」と言いたくなるでしょうけど。お金もあってバイタリティあふれる女傑を嫁にもらうのは、なかなか骨が折れますね)

が、しかーし! そのあと、アリエノールはあてつけのようにアンジュー伯アンリ・ド・プランタジュネ(後のイングランド王ヘンリー2世ですな)と結婚しちまいます。それも離婚成立後、たった2ヶ月の早業。ルイ7世は離婚したことを死ぬほど後悔します。

この結婚により、ヘンリー2世にはアキテーヌ領が持参されました。ヘンリー2世が親から引き継いだ領土とあわせると、北はスコットランド国境からイングランド、ノルマンディー、ブルターニュを経てピレネー山脈まで、実にフランスの西側のほとんどが彼の領土となります。

話は前後しますが、ヘンリーとアリエノールの出会いは1150年。アンジュー伯ジョフロワがノルマンディーの宗主権をフランス王に認めてもらうため、息子のヘンリー(このときはまだ王位は継いでません)を連れてパリの宮廷に現れたときでした。
この辺はちょっと真偽が問われるところですが、どうやらこの時、アリエノールがヘンリーに一目ぼれしてしまったとか。
侍女に言ってヘンリーを自分の寝室に招き入れさせた、というエピソードもあるくらい。
再婚時、アリエノールは30歳前後、ヘンリーは19歳。えらくまあ歳の離れたカップル誕生ですが・・・。

実はこのヘンリー(アンジュー伯アンリ・ド・プランタジュネ)がイングランド王になった時も、ちょっとしたいきさつがありました。
まず、彼の母マチルドは、ノルマン朝の王、ヘンリー1世の娘でした。で、ヘンリー1世の嫡男ウィリアムは1120年の海難事故で亡くなっており、失意の中で後継者に指名したのがマチルドとその息子のヘンリーでした。

しかし相続にはゴタゴタがつきもので、ヘンリー1世が亡くなると、ブーローニュ伯エティエンヌ・ド・ブロワがさっさとノルマンディ公兼イングランド王を称してしまいます。
彼の母親はウィリアム征服王の末娘で、孫にあたる自分も王位継承権があると主張したからです。(マチルドお母ちゃんのいとこにあたる血筋だったようですね。)

その前に、アンジュー伯とブロワ伯ってのは領土が隣同士だったこともあり、なにかとライバル心をむき出しにしてた間柄だったみたいです。「日本で言えば上杉謙信と武田信玄というような関係」(BY佐藤賢一さん)ということで、今回も抗争が勃発したわけです。

で、1137年、エティエンヌ・ド・ブロワがノルマンディーに攻め込んだのですが、ジョフロワ(ヘンリーの父)がこれを奪回します。
その後、ヘンリーはルイ7世に臣下の礼をとり、フランス諸侯と組んだエティエンヌ・ド・ブロワとノルマンディーで対決、これに勝利します。

一方、エティエンヌのほうは「イングランド王スティーブン」としてイングランドの領土を保持していましたが、1153年(この時は、すでにアリエノールを妻として迎えています)、ヘンリーはイングランドに上陸、マームズベリー城を陥落させたのち、ウォリングフォードでエティエンヌ・ド・ブロワとにらみ合います。が、この頃彼の嫡子も死亡し、すっかり気力をなくしたエティエンヌは後継者をヘンリーに指名して、翌54年に亡くなってしまいます。

おっつけロンドンに上陸したヘンリーは1154年に戴冠式をあげ、ヘンリー2世として即位。これでプランタジュネ(フランス語で「エニシダ」の意味)を英語風に訛らせた「プランタジネット朝」の成立となります。その頃は、アリエノールとヘンリー2世の仲もうまくいってたようです。
英仏にまたがる広大な領土を、二人で協力しながら統治し、また10年の間に男5人と女3人の子供にも恵まれました。
そんな二人の仲も、ヘンリー2世がロザムンドという愛人を作ったころからこじれてきます。

そんな折も折、この広大な「アンジュー伯領」の領土を4人の息子たち(一人は早世していたようです)に譲るべく、1169年に遺言状を書きます。

まず長男のヘンリーにはイングランド、ノルマンディ、アンジュー、メーヌ、トゥーレーヌという代々受け継いできた土地にイングランドの王位も渡すことにします。
そして母親に可愛がられていた次男リチャード(後の獅子心王リチャード1世)にはアキテーヌ公国を、そして三男ジェフリーはブルターニュ公家の女相続人に婿入りさせます。
末弟のジョンはまだ幼少のため今回は財産分与を見送られました。そのため、「欠地王子」のあだ名を冠することになり、本人はかなり不満だったようです。

さて、1173年、このジョンくんが「俺にもなんかよこせー」と言ったため、困ったヘンリー2世は長男ヘンリーくんの相続分を削り、シノン、ルーダン、ミルボーの3城を渡すことにしましたが、長男は「冗談じゃねえ」と断固拒否。それどころか、「もう親父のいうことなんかきかんもんねー」とばかりに叛旗を翻します。

ここで一枚かんでくるのが、例のルイ7世。
アリエノールとは仲直りし、その後他の女性と再婚して何人か子供ももうけていたのですが、娘の一人を若ヘンリーに嫁がせていました。
この布石が活きた形となり、ルイは若ヘンリーに味方することとなりますが、これでもとばかり、ルイは次男リチャード、三男ジェフリーも仲間に誘い入れます。

報復を誓うフランス王ルイ7世は、スコットランド王、ブロワ伯(また出てくるか!)、フランドル伯、ブーローニュ伯など、多くの諸侯に働きかけますが、ヘンリー2世は強かった。破竹の勢いで戦闘に勝ち、この反乱を鎮圧します。

アリエノールはこの反乱を扇動した疑いをかけられ(浮気した腹いせに、アリエノールがこの反乱を仕掛けたという話もあるんですが・・・ちょっとできすぎかなという気がしなくもない・・・実は私の中では監禁される理由が消化仕切れてないのですが、ともかく)10年近く監禁されてしまいます。

時は流れて1182年。ヘンリー2世は下の息子たちに、「ヘンリー兄さんに対して臣下の礼を取るように」と言います。そりゃーそうだ。若ヘンリーは次期イングランド王で、副王の地位にありましたから。
三男ジョフリーは素直にこれに従ったのですが、猛反発したのが次男リチャード。
「俺は母ちゃんの後継者で、父ちゃんの家来じゃねえ!」というようなことを言ったらしいです。(自分が一番次男~♪)

これを聞いて、怒ったのが長男ヘンリー。三男ジョフリーを誘って、父ヘンリーが止めるのも聞かず、リチャードの領地アキテーヌに攻め込みます。
スケールのでかい兄弟喧嘩なわけですが、規模が規模なだけにしゃれになりません。内乱状態でプランタジネット朝が崩壊するかに見えましたが、ボロボロになる前に長男ヘンリーが病没します。

監禁されていたアリエノールは、長男ヘンリーの葬式にも参列を許されなかったそうです。
しばらくしてから、アリエノールは監禁状態から解放され、晴れて自由の身となります。

しかし、親子喧嘩はこれでおさまらなかった。
ヘンリーが死んだあとの後継者は、自然と次男リチャードになったわけですが、「それならアキテーヌは弟にくれてやれよ」とヘンリー2世に言われたのに対し、これまた「俺のものは俺のもの」とばかりにつっぱねます。ここまで来ると、単なる子供の屁理屈ですね。
1189年に再び親子の間で戦争が勃発するのですが、フランス王と諸侯を味方につけたリチャードが優勢のまま、同年7月4日、ヘンリー2世はフランス王の勧告で降伏を受諾。まもなくヘンリー2世は没してしまいます。

これでイングランド王リチャード1世の即位となります。
この時アリエノールは69歳。まだまだ元気に諸国を巡行します。

一方フランス王家に目を転じますと、ルイ7世の死後、王位についたフィリップ2世は、どうにかプランタジネット家の広大な領土を切り崩そうと末弟のジョンに策謀を働きかけたりしますが、戦上手のリチャードをなかなか撃破できません。
(まあねー、フィリップ2世は策謀には長けてたようなんですが、自身は馬にも乗れないようなへなちょこだったらしいですからね・・・)

その後第三回十字軍に参加したリチャードは、アイユーブ朝の英雄サラディンと、数度に渡り対峙しますが、結局勝敗を決することができず、1192年、休戦協定を結びます。(イイクニ作ろう鎌倉幕府、の年ですね)

その帰途、リチャードはウィーン郊外でオーストリア公に捕らえられ、ドイツ皇帝ハインリヒ6世に売り飛ばされてしまいます。この時、息子の身柄解放のために駆けずりまわったのがアリエノールでした。
70歳のばーさんの行動力とは思えない・・・。

解放されたリチャードは、フィリップ2世と小競り合いを繰り返しますが、1199年、シャリュー城攻めの際に流れ矢にあたり、その傷がもとで帰らぬ人となります。1194年にすでに修道院に隠居していたアリエノールは、この一報を聞き、馬をかっ飛ばして100マイル(約160キロ)離れた場所まで息子に会いに行ったそうです。(ほんまかいな)

このあと、ジョンがイングランド王に即位しますが、まあ、これが話にならないほどのとんでもない人物でした(多分皆さんの想像以上)。佐藤さんの言を借りると、「残虐と好色にかけては限度を知らない、偏執的な人格破綻者だった」。

まず、もう亡くなっていた次男ジョフリーの息子、アルテュールが次期相続の対抗馬と目されると、平気で彼を暗殺しちゃいます。また、アングレーム伯の女相続人イザベルにはラマルシュ伯という婚約者がいたのですが、ジョンがこの美人に一目ぼれし、問答無用で彼女を誘拐して、さっさと結婚式を挙げてしまいます。まあ、そのほかにもいろいろあったようなんですが・・・。

ともかく、こんな仕打ちをされたラマルシュ伯も黙っておらず、ジョンに抗議しますが、ジョンは「封主に対して態度が悪いぞ」と逆ギレ。アキテーヌ公の名前でラマルシュ伯の領地没収を言い渡します。

完全に頭にきたラマルシュ伯は、今度はフランス王フィリップ2世に訴えます。フィリップ2世は喜んでこれに介入し、臣下であるジョンに裁きを下すという名目でジョンをパリに召喚しますが、ジョンはこれを無視。これで、フィリップ2世はアキテーヌ公領の没収を言い渡す口実を作ることができました。

たぶん、ここら辺がややこしいとは思いますが・・・前にも書いたとおり、この時点で「イングランド」という国家はありません。あくまで、「アキテーヌ公兼イングランド王」という肩書きに過ぎず、どんなに領地が広大だろうと家が裕福であろうと、アキテーヌ公はフランス王の臣下にすぎません。よって、ジョンはフィリップ2世よりも立場が下なわけです。

かくて1207年、フランス王は実力行使に踏み切ります。ジョンの領内でも、横暴な領主に反感を持っていた者は少なくなく、フィリップの側につくものが続出します。あっけなく、この戦いはフランス側の勝利に終わり、ジョンはアキテーヌ公領の南側の一部以外の領地を全て失い、イングランド本土へと移らざるをえなくなります。
(いくらフランス王でも、イングランドの土地を奪う権利はなかったので、イングランドの領土は手付かずでジョンに残されました)

いままで単なる「オマケ」にすぎなかったイングランドの領土が、この時代以降、プランタジネット朝の牙城となっていきます。それまではみんな、「自分はフランス人だ」という自覚のもと、イギリスに渡ることはほとんどなかったそうなのですが・・・。

アリエノールもジョンの保身のために奔走していたのですが、その努力も水の泡。1204年にアリエノールは永眠するのですが、その後の息子の体たらくを知ったら、発狂するに違いないでしょうね・・・。

若い頃、ジョンは相続される土地がなく「欠地王子」と呼ばれていたのですが、今度は広大な領土を失ったことで「失地王(John the Lackland)」と呼ばれ、歴史に名を残すことになったわけですが・・・いやはや。

さて、フィリップ2世の領土回復も完全なものでなく、アキテーヌ南部(ガスコーニュ)が中途半端に残ってしまったわけですが、このあと、この地がまたも争乱の火種となってきます。

【参考資料】
佐藤賢一『英仏百年戦争』
http://www.kaho.biz/planta/c.html など
(すみません、あと参考にしたサイトのURLをなくしてしまいました・・・)

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ジャンヌ・ダルク

2012-06-28 | 歴史話とか
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【ジャンヌ・ダルク】
まずジャンヌ・ダルクですが・・・ファンは多いですよね。
しかしなんと言っていいものやら。
書きにくいんだよな~。

実はこの人、有名な割に資料が少ない、伝説が先行しててどんな人間だったのかもさっぱりつかめないという、歴史学上の「困ったちゃん」だったりするんですよ。アカデミー・フランセーズも真面目に研究機関を設けてはいるらしいのですが、成果はあがってるのか、あがってないのか・・・。

まあその辺は置いとくとして・・・
ちょっと真面目に歴史の話をしますと。

当時フランスは完全に二分されてまして、フランスの中でもイギリスに寄ってる人たちがブルゴーニュ派。親フランス王家はアルマニャック派といいました。
で、1415年まで遡りますが、アザンクールの戦いで勝利したヘンリー5世は、1420年のトロワ条約によりシャルル6世が死んだあとの正当なフランス王家の後継者となります。

シェイクスピアが「ヘンリー5世」でこの辺書いてますね。イギリス人の中で「百年戦争」というと、この辺で終わってる人が多いそうです。

英仏二重王国の夢を実現させるかに見えたヘンリー5世ですが、そうは問屋がおろさない。1421年、シャルル6世(←すでに発狂してます)が崩御する前にヘンリー5世は亡くなってしまいます。

天下は再び宙に浮いた!(三国志かよ)
トロワ条約に不満を持っていたシャルル王太子とアルマニャック派ですが、そこら辺は時をあやまたず。
王太子はすかさずシャルル7世として即位します。
(あっ、断っておきますが、ランスで戴冠式を済ませる前に、シャルル7世はすでにフランス王でした。ランスに行く、ということがフランス王にとっては大事な儀式だったようです)

そこでイギリスも幼い王太子をヘンリー6世として即位させますが、戦局はどうも膠着状態。
イギリス派の旗頭、ブルゴーニュ公もフランドル討伐に力を注ぎ、この辺のことには無関心。
当のシャルル7世も、いろんな人が味方してくれる割にうだうだと動く気配がなく、ブールジュに数年足止めされます。
(お母さんのイザボー・ド・バヴィエールがかなりの艶福家だったため、自分は本当にシャルル6世の子供なのかと悶々として、自信がなく優柔不断だったせいらしいですが。まったくしょうがないねえ。)

ようやく大勢が動いたのが1428年。イギリス軍がアルマニャック派最大の要衝、オルレアンを包囲します。ここをイギリス軍に抑えられるとノルマンディーは完全に掌握され、アルマニャック派は風前の灯となるのは目に見えてました。
その割にあっさりとイギリス軍に包囲されてしまうのですが・・・。(おい!)
兵糧もつきかけ、いよいよやばくなってきた1429年3月6日、ジャンヌ・ダルクが登場します。

甲冑を着てさっそうと馬に乗り、敵をちぎっては投げちぎっては投げ・・・てません!
そう思いたいところですが、実際は天使と百合の描かれた三角旗を手に、味方の先頭に立って「頑張れ!」とか敵に向かって「さっさと投降しなさい!」と叫んでただけだそうです。

ちょっとがっかりではありますが、これだけでも軍の士気は(不思議と)あがったようで、フランス軍はどうにかオルレアンからイギリス軍を撤退させます。
ところで、いきなり出てきたそのへんのムスメが「フランス兵よ、がんばれー!」と金切り声をあげたところで、どうしてそんなに士気があがるのか、という疑問もあるのでは、と思います。この辺も資料があまりないんですが・・・。

佐藤さんが著作「傭兵ピエール」の中でジャンヌ・ダルクのことをこんな感じで書いているのですが・・・。
「敗色濃厚で殺伐とした空気が広がる戦場で、神の声を聴いたというだけで危険な戦場に駆けつけたこの娘が、小さい体にぎこちなく銀色の甲冑をまとい、戦士たちを大声で励ますのを見ていると、それだけで勇気が出てくる。・・・国のためでなく、この子のために戦っているんだという気にすらなってくる」というような。

たしかに神の声を聞いたというだけで、なんとなく「あぶねー」と思いがちですが、ジャンヌにはある種のカリスマ性があったのは確かのようです。神々しさっていうんでしょうか・・・。

それに想像してみてください。
男ばっかりの殺伐とした戦場で、天使のように清らかに見える少女が「頑張れー」と旗を振り回してたら、なんとなく頑張れるんじゃないかと思える瞬間。(女性にはなかなかこの辺が想像しづらいところではありますが)
なんかチアガールみたいですけど。(この辺はあくまで私の想像)
「差別っぽいけど、正直職場にはやっぱ女の子がいたほうがやる気でるもんなー」とのたまった男友達がいましたが、なんかそんなことを思い出してしまった・・・。

ともかく、長引く篭城戦(砦なので「城」じゃないけど)に戦意を喪失していたイギリス軍が、ジャンヌの応援を受けて俄然やる気になったフランス軍の波状攻撃に不意をつかれたうえ、作戦の変更もできなかったというところで勝敗が決した模様。

その後は破竹の勢いで連勝を重ね、ロワール河畔域を制圧し、そのままシャンパーニュ大司教座のあるランスまで北上。シャルル7世を戴冠させることに成功します。

ジャンヌはその後も戦いに赴きますが、敗戦続き。とうとうコンピエーニュでブルゴーニュ派に捕らえられます。
それからルーアンに送られイギリス軍に身柄を拘束されると、異端審問にかけられ、とうとう1431年に処刑されてしまいます。

で、このときシャルル7世は何の手も打たなかったわけですが、どうもシャルル7世の中でジャンヌの存在はかなり軽かったようです。
その「助けなかった理由」って、実は不明です。何せ資料が少ないらしく。
「多忙のあまりきれいさっぱり彼女のことを忘れてた」くらいのもんだった、と佐藤さんは書いてます。(いや、実際こう書いてたわけじゃないけど)

別に敵と戦うわけでなく、女だてらに甲冑を着て馬に乗り、旗を振り回し、金切り声で叫んでただけですから・・・フランス軍の士気は十分にあがりましたが、他に体張って戦功を立てる忠臣たちに比べたら、彼の中でインパクトは薄かったのかも。

「彼女のおかげで王になれた」という気持ちはこれっぽっちもなかったようで。実際、ランスで戴冠式をした後、ジャンヌの存在は世間から消えてしまったといっても過言ではなかったようです。連敗続きでいいところがありませんでしたし・・・。

忘れてなくても、蔑視とかあったのかなあ。彼女は貴族でも王族でもないですし。小娘一人にフランス王家が莫大な身代金を出してまで助けるほどのもんじゃないってとこですか? (・・・あ、私見ですよ、これ)
でも、生かしといたら生かしといたで、国家としては厄介な存在になってたかもしれませんね。

当代の歴史家もジャンヌ・ダルクについてはそうとう軽視してたようで、実は亡くなった後、ジャンヌ・ダルクはフランスでもずいぶん長い間忘れ去られた存在だったんですよ。彼女はオルレアンと故郷のドンレミ村のみで語られる「昔話の主人公」のような存在だったようです。

ちなみに、「ジャンヌ・ラ・ピュセル」という呼び名ですが。
現在「ピュセル」という言葉は「聖女、乙女」とかいう意味がありますが、当時は「娘さん」とか「下女」とかいうくらいの意味だったとか。

そんな彼女を再びフランスの英雄にしたのは、ナポレオンでした。
1803年、「モニトゥール」という雑誌で彼女のことを引き合いに出し、自分と重ね合わせることによって大衆の心理操作を行いました。
この辺から「ジャンヌ・ダルク=フランスの悲劇の聖女であり英雄」というように国民の間で認識されはじめるようになります。

ちなみに教皇庁で正式に聖女として認められたのは、20世紀に入ってからです。

【参考文献】
『英仏百年戦争』佐藤賢一
ジャンヌ・ダルクと百年戦争(リンク切れ)
ジャンヌ・ダルク
ジャンヌ・ダルク物語

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メアリ・ステュアート

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【メアリ・ステュアート】

1542年、ステュアート家の長女として生をうけ、生後六日でスコットランド王位を継承。その後スコットランドと同盟関係にあったフランスの皇太子・フランソワ(のちのフランソワ2世)と婚約し、フランスの宮廷で幼少期をすごします。
結局16歳のとき夫が亡くなり、やむなくスコットランドに戻ってきます。母親(マリ・ド・ギーズ)がフランス人だったこと、フランスで育ったことにより、バリバリのカソリックになります。

故郷に戻ったメアリは、夫の死後5ヶ月で周りの反対を押し切り、ダーンリ卿と再婚。
・・・これだけ書くと、メアリがとんでもない悪女のように聞こえますが、イギリスの研究家によりますと、どうやらメアリを虎視眈々と狙っていたダーンリ卿が、無理やり彼女を手込めにしてしまったという説が有力らしいです。(ヒストリーチャンネルより)
その結果、子供(のちのイングランド王ジェームズ1世)も出来てしまい、カソリックだった彼女は、ダーンリ卿と結婚せざるを得ない状況に追い込まれてしまった・・・とのこと。

それからもダーンリ卿は事あるごとにメアリに暴力をふるっていたようで(酒乱だったという説もあり)、傷心の女王はイタリア人秘書官のリッチオと恋に落ちます。(昼メロチックな流れですな・・・) リッチオとの仲は諸説あり、特にそういう仲ではなかったとしている人もいますが、ともかく周囲が「二人、できてるんちゃうん?」と思うほどの親密さであったことは確かのよう。リッチオが何かにつけ、政策のうえでも重用されるようになります。
面白くない旧臣たちは、女王の目の前でリッチオを惨殺してしまいます。

その後、傷心のメアリはボズウェル卿と愛し合うようになるのですが、ある日夫の屋敷が爆破され、その跡地からダーンリ卿の絞殺死体が! 
疑惑の目はメアリとボズウェル卿に向けられます。メアリは否定するにもかかわらず、ダーンリ卿暗殺計画が書かれた、ボズウェル卿宛の手紙が発見されてしまいます。

結局それが動かぬ証拠となり、不信感を募らせた民衆が蜂起。1567年、内乱状態になったスコットランドをおさめるため、メアリは息子のジェームズ(のちのイングランド王ジェームス1世。スコットランド王としてはジェームズ6世)に王位を譲り、孤島の城に幽閉されてしまいます。

最近、イギリスではメアリはこの事件に荷担していなかったというのが有力な見方のようで、例の手紙もメアリが書いたものじゃないとしています。(これもヒストリーチャンネルより)

その後、美少年(ってとこがミソ?)の城主ジョージ・ダグラスの協力により、命からがら逃げた先は、自分のライバルであるイングランド女王、エリザベスのところでした。
イングランド国内のカソリック勢力に荷担して戦争を仕掛けたこともあるというのに、なんかいい度胸してんなー、としかいいようがないですが・・・。結局フランスにも帰ることができなかったようで、究極の選択として、やむにやまれず亡命先をイングランドにしたような感じです。(母親マリ・ド・ギーズの実家と折り合いが悪かったせいもあるのでは、という意見も伺いました)

扱いに困ったエリザベスは、とりあえずダーンリ卿暗殺の容疑者としてメアリを監禁します。
そして監禁したまま19年・・・。

なぜすぐ処刑しなかったかというのも諸説あるようで、メアリに同じ女王として同情的だったということ、そして国内のカソリック教徒たちの動きを警戒していたという意見もあります。
あと、本当にメアリが夫殺しに加担していないのであれば、王権を彼女に戻す手助けをしてもいいと考える一方で、幼王をすえていたほうがスコットランドはどうにでもなるという逡巡がエリザベスにあった、という見方もできます。
しかし、結局メアリが「クロ」もしくは「シロ」である決定的な証拠も見つからず、宙ぶらりんになってしまったわけです。

また、19年も「保護」(少なくとも19年間幽閉されてる間は、どこからも手出しされなかったわけだから、保護といえなくもないか)した理由は、やっぱり旧教徒側への切り札として生きながらえさせたということもあったようです。
この頃のイングランド国内(特に北部)では「ぷち宗教戦争状態」が続いていて、旧教側と国教側でしょっちゅういざこざが起こってました。
このとき、スコットランドは新教徒を中心とした摂政政治を行っていたのですが、イングランドは旧教徒たちに「君たちがおとなしくすれば、新教徒たちを追い出してメアリを王位に戻してもいい」というようなことを言ってたらしいです。

エリザベスはメアリをかばう姿勢を見せますが、メアリは幽閉されてる間も元気に(?)エリザベス暗殺計画を企てます。やめときゃいいのに・・・。この頃には運動不足もあって、輝くような美貌はすっかり見る影もなかったそうです。何度も繰り返される陰謀に、とうとうエリザベスもかばいきれなくなり、メアリを処刑することを承認。結局、陰謀加担という罪状で1587年に処刑されます。

というわけで。最近のスコットランド史家の見方としては、メアリ=悪女というのは変わりつつあるみたいです。ま、ただエリザベスのように革新的な女性ではなかったことは事実でしょうね。

おろかなる者、それは女なり。みたいな。

その後、子供のいなかったエリザベス1世が逝去、1603年にテューダー朝は断絶します。このあとをついでイングランド王になったのは、メアリの息子ジェームズ1世。なんだか歴史の皮肉を感じます。

【参考資料】
ヒストリーチャンネル「メアリ・スチュアート」
『イギリス・ルネサンスの女たち 華麗なる女の時代』 石井美樹子 中公新書
『エリザベス1世 大英帝国の幕開け』 青木道彦 講談社現代新書
他、関連サイト(URLがわからなくなってしまいました・・・。すみません・・・)

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平清盛。

2012-04-01 | 映画とかテレビとかDVDとか。
最近どっぷりと大河ドラマにハマっております。録画してるくせにオンエアも見てて、土曜日の再放送も合わせると、だいたい都合三回見てます。しあわせー。

視聴率が低かろうと何であろうと、私は全部見ますよ(キリッ)

まあ鬼気迫る演出がすごい。
あとキャスト勝ちですよ。
特に三上博史(鳥羽法皇)と壇れい(待賢門院璋子)! あ、待賢門院璋子、先週亡くなっちゃったけど。
とにかくこの二人が出るだけで画面がしまってる気がします。

今日の三上博史もすごかったが。
なんかこう、ちょっと繊細で、どこか狂気じみた感じの難しい役なんですけどもね。
よくやってるなー、という感じ。

璋子さんは、先週で亡くなっちゃったのが惜しいなー。
ズバリ不思議ちゃんなんだけど、不思議なほど清らかで。なんか憎めないんだ。
あのキャラは、壇れいにしかできない。

大河ドラマにはまれると、一年間楽しみが続いていいよね。
(^^)
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N響アワー、最終回。

2012-03-25 | 音楽(クラシック)
NHKの「N響アワー」が、本日で30年の歴史に幕を下ろします。

今見てるとこですが、やっぱり西村さんの解説が好きでしたー。
昔の解説者、イケベさんは、相変わらずの「変なおじさん」だな。

ちなみに、最後の曲はスベトラーノフ指揮で、チャイコフスキーの交響曲第5番から第4楽章でした。超意外。
なんか、寂しい!
今までありがとう!
BSでもいいから、つづけませんかね?

新番組は、きっと見ないな。


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音楽の力を改めて感じた一日。

2012-03-12 | 書籍(和書)
昨日は、サントリーホールで行われた、プラハ・フィルハーモニア管弦楽団のコンサートに行ってきました。
オケは新しいし、音楽監督兼首席指揮者のヤクブ・フルシャも若い(31歳って言ってたかな。間違ってたらすみません)。
全くの未知数だったんですが、これが…予想以上に素晴らしい演奏をするオケでした。

その日は3.11だったのですが、冒頭、ヤクブ・フルシャが観客に対してこんなスピーチを行いました。(意訳ですが)

「みなさま、今日は当コンサートに来てくださってありがとうございます。3月11日というこの重要な日を、みなさんと分かち合うことができて嬉しいです。私は、地震が起こした悲劇に立ち向かっていった、日本のみなさんの勇気に感銘を受けました。」

その日の1曲目は、指揮者たっての希望でプログラムにない曲を追加して演奏することに。
ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章・ラルゴ。
「遠き山に日は落ちて」って言えばわかりますかね。
鎮魂のために演奏してくれた特別な一曲に、コンサートホールでぼろぼろと泣きました(一人で泣いてた気がするんだけど。恥ずかしいなー)。そのあとは、みんなで黙祷を捧げました。

で、ドヴォルザークの弦楽セレナード。
これがまあ、美しいの一言。しかも力強いんだ!

これで休憩に行くかと思いきや、すかさずチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲へ。
ソリストは三浦文彰くんという、若干19歳の男の子。最初見た時、どこの高校生か?!と思ってしまった(ごめんなさい)。
演奏は随分若々しいというか、みずみずしく、かつ丁寧。エネルギッシュなオケといい感じ。
聴いててものすごく楽しかった。

最後はドヴォルザークの交響曲8番。
これがもう…絶品でした。ストリングのアンサンブルの美しさも「むむっ?」という感じですが、力強さと丁寧さのメリハリがすごくきいてるというか。力を一気に解放させたようなエネルギッシュな第4楽章は、聴いててほんとに爽快感がありました。
アンコールのスラブ舞曲1番もすごかった。ノリノリで。

久々にいい演奏を聴きました。素晴らしかったなー。
非常にこれから成長が期待できるオケだと思います。ソリストもあわせて、今日のオケはこれからチェックしていかないとです。

あと会場にいるお客さんも、すごく集中して聞いてた気がする。満員御礼ではなかったけれど、場の雰囲気が、いつものコンサートと全然違ってました。
やっぱり、コンサートは観客も大事な要素だな…。適度な緊張感がある会場は、演奏もよく感じるもん。


そして…音楽の持つ力はすごい、と改めて思いました。今日の演奏は、思いがけず癒しを見出しました…
特に「新世界より」のラルゴはすごかった。あんなのずるいよ。
Comments (2)
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あれから1年

2012-03-11 | お知らせ
今日であの大地震から1年経ちました。
早いものだなー、と痛感。

私の実家は福島にあります。
幸い被害はそれほどではなかったのですが、あの日を境に、故郷における「日常」は大きく様変わりしました。
帰省するたび、何とも言えない気持ちになります――悲しいとも、切ないともいえない、複雑な。

亡くなられた方には、改めてご冥福を。
そしてどうか、被災地で生きていく方々が、一日でも早く希望を持てるように。
心からの祈りを。


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梅が今年も。

2012-03-09 | 平和な日常。
咲きました。
いいにおいがしてますよー。

暖かかったり寒かったりですが。
春は確かに近くまでやってきてます。

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