金融そして時々山

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嫉妬の硫黄島守備命令

2006年12月18日 | 歴史

今年の12月はちょっとした硫黄島ブームである。私もクリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」を観て次にこの映画の日本側バージョンともいうべき「硫黄島からの手紙」を観ようとしているところである。もう封切られているのだが、ちょっと用事が続き映画館に行くのは来週以降になりそうだ。

さてこの間旅行をする機会があったので、新幹線の中で城山三郎の「硫黄島に死す」という短編小説を読んだ。この小説は硫黄島で戦士した男爵西竹一騎兵中佐が硫黄島に渡る時から死ぬまでの短い期間を描いている。西中佐はロスアンゼルス・オリンピックの大障害レースで見事金メダルを獲得した人である。

騎兵将校といえば硫黄島守備隊の最高指揮官栗林忠道中将も騎兵科出身であった。栗林中将は馬政局長時代に「くにを出てから幾月ぞ・・・」という愛馬進軍歌をつくらせて、軍馬への国民的な関心を高めた人であり、見識・指揮能力の高さから騎兵将校の鏡といわれた人である。

栗林中将と西中佐。騎兵科将校という以外に共通点はあるのだろうか?西中佐は外務大臣を父親に持ち、外車やモーターボートを乗り回すという派手な人生を送った人。栗林中将については謹厳かつ極めて優秀な指揮官のイメージが強く相反するところが多そうだ。

しかし私は一つの大きな共通点があると思っている。それは二人が親米派と見なされていたことだ。栗林中将はカナダと米国の駐在武官を務めたことがある陸軍では数少ない海外通で親米派とみなされていた。オリンピックで活躍し、海外に知己の多かった西中佐がまた親米派とみなされていたことは有名である。「硫黄島に死す」には次の様なくだりがある。「アメリカに知人が多く、開戦前はグルー駐在大使も訪ねて来たりしたため、(親米派の不良軍人)の烙印が捺されていたのだ。」

陸軍の誰が何時栗林中将や西中佐に硫黄島守備を命じたのかということについて私は知らないが、二人を絶対絶命の硫黄島に送ったことについて私は親米派に対すると憎しみと嫉妬、騎兵に対するやっかみと嫉妬があったのではないかと推測している。

「硫黄島に死す」は騎兵の華やかさについてこう語る。「長靴に拍車をつけ、馬上颯爽と指揮をとる騎兵仕官は、たしかに諸兵科の花形である。士官たちは、ひとりでに、ある程度、伊達者にならざるを得なかった。」

しかし馬は戦車に取って代わられ、日本軍ではその戦車の補給も続かなくなる。その時西中佐はほとんどろくな戦車もない硫黄島に戦車連隊長として出陣を命じられたのである。これは騎兵将校の中でも飛びぬけた伊達者であった彼に対する嫉妬以外の何者だろうか?

親米派とみなされていた栗林中将のもとで日本軍は太平洋戦争中唯一我を上回る死傷者を米軍に強いる手強い戦争を行った。知米、親米あるいは海外通といわれた合理主義者栗林中将の本質は何であったのか?その本質は「合理的精神」「個人の尊重」「家族や部下に対する愛情」・・・ということであろう。戦闘で重要なものが「突撃精神」ではなく「冷静で持続する意志」であることは硫黄島の戦いから良く分かるはずだ。

しかしこれらの精神は狂信的な陸軍中枢部の連中がもっとも嫌ったところだった。栗林中将や西中佐はこの狂気により死へ追いやられたと見て間違いはあるまい。一方「国体護持」だとか「一億玉砕」等と叫びながら一度も前線に出ることなく陸軍参謀本部で終戦を迎えた高級参謀達がいることも事実だ。一体誰が本当の愛国者だったのか?

このようなことは太平洋戦争の時だけではなく、日本では時々起きることである。明治維新の頃には外国事情に詳しい有能な人達が頑迷固陋な盲信者の凶刃に倒れた。昭和・平成の平和で開かれた時代といえども、国際派の人材はそれ故に冷遇されること無きにしも非ずである。無知無能の輩がおのれの無知無能を隠そうとする時、声高に国際派を愛国心あるいは愛社心の欠如を持って攻撃するのである。しかし往々にして真に国を守り、会社を守るのは国際派と呼ばれる人である場合が多く、本家旗本を称する連中が腰砕けになっていることも例外とはしない。そういう意味で日本という国は情けなくなるほど合理主義者に対する嫉妬が渦巻いている国であるといわざるを得ないのである。

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