昨日名古屋のIさんと飲んでいた時、Iさんが「最近山登りを始めたんです」と告白した。Iさんはプルデンシャル生命の腕利きセールスマンで、私が名古屋で銀行の支店長をしていた時からのお付き合いだ。Iさんがいうにはバイク仲間で京大山岳部OBのKさんのお誘いで7月に笹ヶ峰から火打山に登り、妙高山へ縦走したとのこと。「すっかりはまりそうです」とIさん。
そういえば少し前に銀行を早期退職してオムロンに行ったK君から飲み会の席でいきなり「山をやろうか?と考えているんです」と告げられた。K君には簡単な参考書を送ったから読み始めているだろう。
私がお手伝いしている都内某ローターリークラブのトレッキング同好会でも「新しく山登りを始めよう」「昔やっていた山登りを再開しよう」という人が増えている。
ところでどうしておじさん達は山に登り始めたのだろうか?「そりゃ、時間と体力を持て余しているのでしょ」という答が返ってきそうだ。「ゴルフはこの年になるといくらやっても上手くならんからね(山でも登ろう)。」と苦笑いする人もいる。
だがここではもう少し「哲学的」な答を探してみよう。定年年齢が見えてくる歳になると、人生をやり直すことは困難だ(不可能とは言わないが)。ただ自分の人生を振り返り、意味を見出すことはできる。人生と山登りは似ていると私は思っている。どう似ているかというと「努力しないと頂上に立つ可能性はないが、努力だけで立つことはできない。運に恵まれないと頂上に立つことはできない」という点だ。
頂上を極めるには「体力」「技術」「仲間の結束」が必要なことはいうまでもないが、それに加えて「天候等の条件」に恵まれることが必要だ。これは会社人が組織の階段を歩む状況と良く似ている。組織の壁も山の壁と同様、ある種の運がないと極めることはできない。
もう一つ山登りが他のスポーツと異なる点は「他人と競わない」ことだ(無論山の先端分野では初登攀争いなどがあるが)。
長年働き競い合ってきたおじさん達が人生の後半戦で山登りを始める・・・その理由は繰り返しになるけれど「努力と運」のバランスをかみ締めながら、人と争うことなく自分のゴールを目指して歩き始めることに目覚めた・・・というと少し美化し過ぎだろうか?