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戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(6)

2019年10月01日 | 国際政治
戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(6)
        ……日米開戦を進め亡国への道を走らせ者達

初代宮内庁長官・田島道治が昭和天皇とのやり取りを克明に記した「拝謁記」の一部が公開され社会に大きな衝撃を与えた。そこには人間天皇として日中戦争、太平洋戦争に対する責任や後悔、反省、苦悩の念が赤裸々に綴られていたのである。
天皇家、とりわけ昭和天皇の不幸は明治維新の時に始まっていたと言える。維新の中心勢力長州勢は倒幕や維新政府の政策遂行に天皇の威信を悪用した。戦争責任(2)で触れた通り討幕派の志士は、尊王は建前だけで、天皇のことを将棋の「玉」と隠語で呼び、政権奪取の道具としてしか見ていなかったことが記録に残っている。更には太平洋戦争中、軍の将校達も天皇を「天さん」などと決して敬称では呼んでいなかった事がNHKスペシャルの映像記録で明らかになっている。そもそも長い天皇家の歴史の中で親政を行った天皇は極少数、短期間であった。維新政府も国政上の重要事項すべてについて天皇が最終的決定権を持つとする国家の意思決定システム「万機親裁」を謳っていたが、それは形式上のことで政治は薩長藩閥が行うことを前提にしており、親政を認めるつもりなど毛頭無かったのである。
「拝謁記」の中で太平洋戦争への後悔として、「軍部を暴走させ無謀な太平洋戦争に走らせたのは、張作霖爆殺事件の処罰を曖昧にしたこと」を挙げて居られる。当時元老西園寺公望は犯人が関東軍参謀河本大佐であることを察知し、田中首相に対して断乎たる処罰を行うよう勧告、「仔細を明確にし、軍規を正せ」との天皇の言葉も踏まえ、田中首相も犯人を厳罰に処する方針を奏上していたが、閣内や陸軍の圧力に敗れ、有耶無耶にしてしまった。激怒した天皇は西園寺の反対を押し切って田中首相が事件の最終報告を奏上に来た席で(牧野内大臣・一木宮内大臣・鈴木貫太郎侍従長)を同席させ、田中首相を問責し釈明のための拝謁を拒絶された為、田中内閣は総辞職した。しかし関東軍は事件を公表せず犯人河本大佐を満鉄理事に就任させる等、この田中首相の情実がらみの処置が「国策上良かれとしてやったことで、裁かれる理由は無い」という傲慢な考えを陸軍内に定着させ以降暴走の原因となった。
更に大きな問題は元老西園寺が昭和天皇に「立憲君主は国政に関し決定的な発言をすべきで無い。」と天皇に釘を刺した為、以降天皇は国政や外交に関し明確な発言をされなく成り、昭和天皇の戦争反対・平和主義の意向が無視されて行くことになった。
西園寺は維新の際、同じ公家の岩倉具視 に取り上げられ、伊藤博文の腹心であったことから天皇親政は認めず、「君臨すれども統治せず」の薩長藩閥政治の基本精神を貫こうとしたのである。この事件で軍や政府内の強硬派は牧野ら宮中グループに対する反感を強め、昭和天皇は宮中グループに左右される弱い存在であるという認識が持たれるようになった。西園寺は、軍部の風当たりを避ける為、次第に事件処理問題から距離を取りこれを境に陸軍暴走に歯止めが効かなくなった。山縣元老と共に西園寺元老の責任も極めて重いと言わねばならない。言葉は悪いが維新政府にとって傀儡としての存在意義しか認めていなかった天皇に戦争責任など問いようもない。山縣に取立てられ男爵にまで昇りつめた田中義一はその優柔不断により陸軍暴走の火種を作ったがその病没により幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れは完全に途絶え、出世・栄達の近道として職業軍人を目指す士官学校出のエリート軍事官僚・実戦経験の乏しい学力偏重の軍人達に移る事となった。東条のように学業成績は良かったと言うだけで、政治家に求められる大局観や洞察力の欠如した無能極まりない多くの軍人官僚が、天皇や日本政府、国際条約等も無視し「巨額の国家予算や徴兵制によって無理矢理集められた民間人兵士の人命」を湯水のように使って爵位取得等自己の栄達に目が眩んで国家滅亡への道を直走ることになった。1938年公布の国家総動員法の第一条には、「戦時国防目的達成ノ為、人的及物的資源ヲ統制運用スル」と謳い国民を資源扱いしている。
上記「拝謁記」、「昭和天皇独白録」その他昭和天皇や太平洋戦争に関する書籍を読むと、実質的に日本の行政を担い、憲法上もその責めを負うべき首相・国務大臣・統帥部に如何に人材を欠いていたと言う事が日本にとって大きな悲劇であったことが分かる。作家・保坂正康氏は対米敗戦の原因は日米国力の差が10倍以上という物量の差ばかりが指摘されるが,むしろ決定的なのは日米軍人の能力の差だと述べている。鋭い指摘である。

戦争責任者を特定することは中々の難事であるが軍人・政治家の内、“日米開戦責任”が重いと思う順番に列挙すると私見ではあるが下記の通りである。
① 東條英機(陸相・首相) ②松岡洋祐(外相) ③近衛文麿(首相) ④杉山元(参謀本部総長) ⑤永野修身(軍令部総長) ⑥木戸幸一(内大臣) ⑦伏見宮博恭王(軍令部総長) 
⑧ 嶋田繁太郎(海相) ⑨大島浩(独大使)⑩白鳥敏夫(伊大使) ⑪ 田中新一服部卓四郎―辻正信
 ⑫その他荒木貞夫―真崎甚三郎

① 東條英機 
*→ 満洲事変、日中戦争(シナ事変)、太平洋戦争に至る過程において、無能なるが故に自らの存在感を示すために極端な強硬論を唱え陸軍内を扇動した罪は極めて重い。昭和3年(1928年)中佐時代、一夕会の前身木曜会の研究会の締め括りで「日本民族生存と人口問題解決の為満蒙を取得する。これにより日ソ戦を引き起こすがその時中国を兵站として活用し、アメリカとの戦争準備も行う。」と既に戦闘モードで、そこには中国侵略や戦争に対する罪悪感の欠片も見られない。
*→ 1940年(昭15)ヒトラーの術中に嵌り米国を激怒させた「日・独・伊三国同盟」締結も東條が陸軍次官当時、外務大臣の反対を押し切って親独派の大島・白鳥を駐独・駐伊大使に任命、陸軍の同盟締結方針の足固めを行った。
近衛はこれに反対し退陣、平沼・安倍に続き昭和天皇意中の海軍の良識派として知られる「米内光政(海軍大将)内閣」が成立、この内閣では同盟は米国との戦争に繋がるとして畑陸相を含め閣僚全員が反対であった。そこで武藤軍務局長を使って陸相辞任を画策し、軍部大臣現役武官制を悪用、後任大臣を拒否して内閣を流産させたのである。続く第2次近衛内閣では東條自らが陸相に、野心家の松岡が外相に就任、最悪の内閣となった。仏の対独敗北により同盟締結論が盛り返し陸軍嫌いであった松岡が首相就任を夢見て陸軍に迎合し同盟を成立させてしまった。東條等同盟推進者が考えた同盟締結による効果・メリットは何もなく対英米関係悪化を齎すだけに終わったのである。
*→ 更に陸相時代に「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからで、事変の根本解決のためには、北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」との東條の主張が新聞に報道され、近衛内閣の開戦強硬姿勢が世界に知れ渡った。アメリカから突き付けられた和平案検討会議で日米衝突を回避しようと近衛文麿首相が示した妥協案に「中国での駐兵は心臓である。色々な譲歩に加え、心臓まで譲る必要はない。それ程の譲歩では外交ではなく降伏であり断固として受けられない」「清水の舞台から飛び降りろ」。この様ないちかばちかの恫喝まがいの発言で、近衛を窮地に追い込み退陣させて仕舞った。しかし陸相東條の強硬姿勢は天皇から首相就任を言われた途端、180度方針転換し、天皇の意向に沿った和平案を主張し始め、今迄の国策の全面見直しを下命した。しかしこれは自己の栄達の為に取った上辺だけの行動であり、東條が首相になれば軍部を抑えてくれるだろうと言う天皇や木戸内大臣の期待は東条の本質を見抜いていない浅慮であったとおもわれる。アメリカは東條を信頼していなかった。
*→ 東條の罪過の一つは、恐怖政治と人事権の乱用である。その恐怖政治は憲兵を用いて一般民衆まで含め監視し恫喝・投獄するという独裁・恐怖政治的な手法をとり、何も言えない監視社会を作ってしまったことである。更に自分を批判した将官を要職から外し、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、わざわざ(兵役徴集年齢)引き上げ法案を作って気に食わない高齢者の官僚等に対し「懲罰召集」を行う等など、兼務していた陸軍大臣の権限を最大限悪用し、私情による強権的な政治手法を用いた。片や自分の周りに耳障りな発言はしないような人物ばかりを集め重用した為、「東條の三奸四愚」等と称される様な曰く付きの人間が集まった。東條の腰巾着と称された富永恭次 (陸軍中将)は東條の陸軍大学・教官時代の教え子で、東條陸相時代に仏印進駐の責任問題で他の2人の将官が予備役編入されたが、富永だけは半年後に人事局長に栄転し陸軍次官も兼任、その後フィリピンで特攻指令を下し、自らも特攻に参加すると訓示しながらも、自身は胃潰瘍を理由に台湾島へ移動して温泉で英気を養うなど、帝国陸軍最低の将官との評価を受けている。
更に東條に繋がる牟田口廉也司令官、日中戦争拡大の端緒を作ったという汚名の名誉回復の為、直属の上官や現地参謀、師団長の反対にも拘らず、東條に懇願し兵站を軽視した無謀なインパール作戦を強行、3万人に昇る戦死者を出した。本人は戦線から4百キロも離れた保養地から前進あるのみの指令を次々出し「白骨街道」という修羅場を作っても「弱腰の師団長が悪い、彼らの無能が原因」と言い続け、戦後も含め自己弁護ばかりで反省の弁は一切なかった。もう一人、海軍内で東條の「男娼」と呼ばれた嶋田繁太郎、常に東條の顔色を窺い東条の嫌う不利な情報を一切上げず資料の改竄や粉飾を平気で行い、東条内閣の海軍大臣に取立てられた。今の政界・官僚の世界と変わりない光景である。
*→ 東條はロクな実戦経験がなかった事もあり、精神論が多かった。リーダーに必須の大局観が無いため、戦争の行く末に関して具体的なビジョンや指針を示すことが出来ず、代替案を提示することもなかった。「当面の最大の課題は、戦争に勝つこと、それに集中する」「勝つまでやる」と繰り返し強調するだけの無能な軍人であった。昭和16年(1941年)その精神論重視は悪名高き「戦陣訓」生み出した。有名な「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残す勿れ」の一文は降伏し捕虜になることを明確に否定しており、自決等多くの兵士の無駄死に繋がった。「神州不滅』「一億玉砕」等のスローガンの下アッツ島守備隊2650人が略全滅、グアム、サイパン、硫黄島、沖縄と壮烈な戦死者が続いた。
しかし東條自身は戦後、自決に失敗し思いっきり虜囚の辱めを受けた。軍人の最高位をきわめた陸軍大将が、商売道具のピストルを射ち損じ、敵の縄目にかかって世界にその醜態をさらした。戦陣訓は兵士には強要されたが指導部は別格だ、一事が万事これが昭和陸軍の実態である。更に捕虜扱いについても「日露戦争の時は文明国として認知して貰う為,捕虜優遇策をとったが今はその必要が無い、労力として活用しろ」と条約違反を訓示、泰面鉄道建設現場等各地で多くの捕虜の死者を出し司令官や現場責任者が戦後BC級戦犯として920人が処刑された。(勿論戦勝国ソ連の日本人将兵シベリヤ抑留も国際法違反であり糾弾されるべきこと当然である。)
*→ 日米開戦前の和平交渉で提示された「ハルノート」を見てドイツ信奉者の東條は「開戦しかない、特に三国同盟の破棄は国際信義にもとる」として拒否反応を示したが、ドイツ信奉者の東條には彼等の信義を無視した身勝手な行動には何ら疑問を抱かなかった。ドイツがソ連と交戦を始めた時点で、更には真珠湾攻撃の直前にドイツの対ソ戦敗北の情報が伝わっており、これらの時点で全てを見直すべきだったのである。しかも「ハルノート」は「Tentative and without commitment」 (暫定的かつコミットメント無し)と記載されており、最後通牒では決して無く、その容も十分受け入れ可能、少なくも交渉余地のある内容であったが東條始め陸海反米派には早期開戦しか頭に無かったのである。「日本が勝手に始めた日中戦争で20万人の死者を出した、従って撤兵出来ない」彼等の勝手なエゴイズムが日本を破滅の道へ導いたのである。
*→テロリスト・自爆テロのモデルとなった特攻隊。昭和19年(1944年)6月,サイパン等マリアナ諸島が米軍の手に落ち日本の敗色濃厚・本土空襲が現実味を帯びて来たため起死回生策検討の御前会議が開催された。席上「伏見の宮海軍元帥」から戦況悪化の対策として特殊な兵器を迅速に使用することが必要との発言を受け、海軍は新兵器を考究中(体当り戦闘機)と回答、陸相・参謀総長の資格で出席していた東條は陸軍では風船爆弾3万個をアメリカに飛ばす案,他にも研究中と回答した。東條は7月には海軍を真似て陸軍の特攻隊編成を指示している。上記腰巾着富永のフィリピンでの特攻指令は東條首相が参謀総長として決定したものに従ったものである。兵隊を人間ではなく戦闘人形としか考えず無駄死にさせた東條始め高級参謀達はまこと万死に値する。米国は1945年7月マンハッタン計画により世界で初めて原爆実験を成功させていた。
*→ 東條の出陣学徒への訓示抜粋「……諸君のその燃え上がる魂、その若き肉体、その清新なる血潮総てこれ、御国の大御宝なのである。この一切を大君の御為に捧げ奉るは皇国に生を享(う)けたる諸君の進むべきただひとつの途である。諸君が悠久の大義に生きる唯一の道なのである。諸君の門出の尊厳なる所以は、実にここに存するのである。」 無謀・無策な戦術で将兵不足に陥り学生迄駆集められた。漢詩等借り物の美辞麗句で大君の名を騙るアホ丸出しの演説である。全国で20~30万人の学生が学徒兵として徴兵され、特攻パイロットには意図的に学徒出陣組が充てられた。学徒兵として召集された朝鮮人は4385人、このうち640人が戦死 した。
*→ 真珠湾攻撃の直前、昭和天皇の要望により作成された「終戦構想」は(①極東の米英蘭の根拠地を殲滅し自存自衛体制を確立、②中国国民党政権の転覆 ③独伊との協力により英を屈服、米の継戦意欲を喪失させる)と云う幼稚極まりない希望的観測で出来ており、自らが戦争を終結させるという発想も意欲も無かった。
開戦時から近衛や山本五十六がこの戦争は長期化すれば負ける、多少とも有利な時に和平工作をすべきであると述べており,皇族の東久邇宮稔彦の和平工作開始の進言に対し東条は「この調子ならジャワ・スマトラは勿論、オーストラリアも容易に占領出来る」と言い放ち、憲兵隊を使って和平推進者の弾圧を行ったのである。
*→ 敗戦前年の4月、小磯内閣総辞職に伴い開かれた重臣会議の席上、多くの反対にも拘らず東条は戦争が愈々本土決戦に入るので後継首相は現役軍人が必要であると頑強に主張、そうでなければ若手将校が黙っていない、クーデターになると昔ながらの手法で重臣を脅迫しにかかった。日本が既に焦土化していた時点で何と言う発言だとたしなめられ、流石に実現しなかった。
終戦の日を15日に控えた12日の日本経済新聞は、終戦直前の数日前に東条元首相が書き残した手記が発見されたと報じた。同紙によると東条元首相は「その最後の一瞬においてなお帝国として持てる力を十二分に発揮することをなさず敵の宣伝政略の前に屈しこの結果を見るに至る」「国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ」と当時の指導者や国民を批判している。 また政府の降服について、「新爆弾におびえ、ソ連の参戦に腰をぬかし一部条件を付し在りといえども、全く『敗戦者』なりとの観念に立ちたる無条件降服を応諾せり」との印象は、敗戦状況に拍車をかけると警告している。  戦争の目的については、「東亜安定と自存自衛を全うすることは大東亜戦争の目的なり」と記し、「幾多将兵の犠牲国民の戦災犠牲もこの目的が曲りなりにも達成せられざるにおいては死にきれず」と書き残している。
東條の部下の多くが失敗の理由を「部下の無能」に責任転嫁したが、最後に彼らの親分・東條自らが敗戦の理由を国民の臆病に責任転嫁したのである。ここに昭和陸軍の実態が集約されている。
又広島・長崎に続いて大阪等大都市への原爆投下やソ連の北海道占領を許していたら如何なっていたか,東亜安定・自存自衛といった手前勝手な御託を並べて、竹槍で国民最後の一人迄戦えと言わんばかりの発言、このような愚かで自己名誉欲に凝り固まった情けない人物が日本のトップにいたことだけでも驚嘆すべき事である。
東條には開戦責任と同時に終戦責任も存在していたことがこの手記で明白になったのである。

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