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自然コレクション

秋田の田舎暮らし!
アウトドアー生活を紹介します。

西目にネムの木が自生している訳

2023年07月17日 08時50分00秒 | 郷土史

江戸時代末まで西目小学校前に広がる田んぼは西目潟が広がっていた。


西目小学校より西目は砂浜で広い砂丘だった。よって旧街道は出戸から東へ抜けた田高、潟保、中沢を経て薬師堂、尾崎とつながっていた。




現在は海岸沿いの防砂林のおかげで、国道7号線が海岸に沿ってできているのも防砂林のおかげだ。

海浜の砂防植栽は浜山において西目潟の干拓と併せて行われた。

この干拓事業は1828(文政11)年から,潟保の豪家佐藤重左衛門が本荘藩士で作事方の淵名孫三郎とともに藩の許可を得て, 城下古雪の廻船問屋鈴木七郎右衛門から援助を受けて行ったものである(『西目村の話』)。

干拓が終わる 1835(天保6)年までに松15万本、ネム30万本が植栽された。





つまり、何度も代変わりをしながら西目川沿いにはネムの木が生えているのだ。

ちなみに当時ネムの木の苗は酒田から3艘で購入しているし、松の木は船岡から購入記録がある。

船岡では、植林用の松も苗を育てて売ることで生業としていた事も分かる。

ネムの木は芭蕉が象潟で読んだ句に出てくるので、象潟の木みたいになっているが、実は西目に大量植林されていたのである。

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内越氏調査

2023年07月11日 06時08分58秒 | 郷土史

内越氏を調査をしていると、矢島に入部する1623年以前には、楠木正成と関りがあることが分かってきた。

1334年(建武元年)、後醍醐天皇は、楠木正成に対して、出羽国の内陸を縦断する羽州街道(国道13号線)の入り口にあたる出羽国屋代松(山形県東置賜郡高畠町)の地頭職を下賜(かし)しています。

また、陸奥国を縦断する奥州街道(国道4号線)の入り口にあたる多賀城には北畠顕家が地頭です。

出羽国の沿岸を縦断する羽州浜街道(国道7号線)の入り口にあたる大井田城(日本海側)に新田義貞をが地頭です。

楠木正家は、守備する常陸国久慈郡の瓜連城(うりづらじょう)を前線基地として東国の守備を固めていました。

その後、楠木正家は瓜連城が落城すると鎮守府将軍・北畠顕家を頼って陸奥国へ落ち延びました。

その後、出羽国へ移って南朝勢力を支援しながら再起を図ります。

由利地方(国道7号線沿い)や横手地方(国道4号線沿い)に楠木氏の末裔の分布があるのはこのような歴史的な経緯があります。

1347年(正平2年)、北畠顕家の弟・北畠顕信は霊山城が落城すると出羽国へのがれました。

また、1351年(正平8年)、再び現福島県須賀川の宇津峰城等が落城すると出羽国由利郡へ潜伏して再起を図っていました。

北畠顕信が出羽国由利郡へ潜伏していた時期に、鳥海山大物忌神社に納めた南朝復興と出羽国静謐(せいひつとは、 世の中が穏やかに治まっていること)を祈願する寄進状が残されています。

1350年頃に楠木正家の子・楠木正安が「打越将監」と名乗ります。











楠木正家が打越城(白坂館)を構えた出羽国仙北郡打越郷の地名である「打越」と楠木正安の官位である「将監」から打越将監となったのです。

ちなみに「うつこし」とふりがなが標柱には書かれています。

また、小笠原大和守の三男・義知が楠木正家の娘の婿養子に入り、出羽国由利郡内越村に築いた内越城(平岡館)に移って「内越」と名字を改めました。

これが打越氏(内越氏)の発祥と思われます。

よって、打越氏(内越氏)の事実上の発祥地は、打越城(白坂館)を構えた出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)ということになります。

また、豊臣秀吉から下賜された御朱印状を根拠とする打越氏(内越氏)のの発祥地は、出羽国由利郡内越村となります。

このような経緯から打越氏と内越氏の2つの表記が混在することになったと言われます。

1390年~1394年(明徳年間)、楠木(内越)正宣は楠木一族の菩提を弔うために、出羽国由利郡内黒瀬村に恵林寺を建立しました。(開基)











境内には楠木(内越)正宣の墓があります。

寺紋は菊水紋です。

今回はここまで!

 

 

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下村氏について現在調査

2023年07月01日 10時06分53秒 | 郷土史
東由利地区の資料調査をしています。
まずは下村氏です。彼の館跡が東由利の蔵に残っています。
下村館は、由利本荘市東由利にあります。下村館は、由利地方を支配した由利十二頭の1人、下村氏の居城です。下村氏については明確な資料が少なく、軍記物とされる「由利十二頭記」に頼れば、初代下村小笠原殿(下村彦次郎宗長?)が応仁元年(1467年)に由利郡に下向したとされる為、下村館は概ね応仁年間(1467~1469年)に築かれたと推察されています。




下村館は高台などに築城したのではありませんが、石沢川が大きく蛇行している為、三方が川に囲まれ堀の役割を果たしていました。城がある蔵集落は本荘街道と川大内街道の結束点である交通の要所で、下村氏はこの地域を押さえる為にも重要視していた事が分かります。下村氏は関が原の戦いで小野寺氏寄りだったと云われ改易され、下村館は破却されました。




現在館跡は平地より一段高い所に諏訪神社が鎮座し、その境内には推定年齢300年以上と言われるイチョウがあり秋田県指定天然記念物になっています。


岩館のイチョウは、中世由利地方の豪族下村氏の館跡にある諏訪神社の御神木です。乳の出をよくしたい女性の信仰を集めたことから、別名「乳房のイチョウ」とも呼ばれています。
蔵立寺は、室町時代の応仁2年(1467)年に下村氏が賽常山鷲泉寺(秋田市萱ヶ沢)3世梅勢永飯を招いて創建したと云われています。



当時は岩館(下村氏居館)の一角に建てられていましたが、その後現在地に移転しました。


16羅漢がお寺の前にあります。
資料が少ない下村氏ですが、もっと詳しく深読みしたい人物だ。

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泉秀寺は玉米氏の菩提寺

2023年07月01日 03時37分00秒 | 郷土史
東由利地区の玉米氏も調査しました。
東由利の中心と言って老方に由利本荘市の立派な支所があります。
実は東由利は1640の領地替えで本荘藩から矢島藩になった地域です。よって本荘市史には詳しく掲載されていません。
東由利町史には詳しく載っています。江戸時代前の事が多いですが、玉米氏の調査はしないと!




玉米氏は、中世に由利地方を支配した由利十二頭の1人で、玉米館(米本館)は彼の本城でした。築城年は不詳ですが、「由利十二頭記」によれば、由利十二頭は応仁元年(1467)に由利郡に入部したと記載されていることから、概ね応仁年間(1467~1469年)に築かれたという説を採用している人が多いようです
玉米氏は、山田氏や矢島氏(大井氏)と対立関係にあり、度々戦が行われました。




一方、勢力が大きかった小野寺氏と仁賀保氏とは比較的良好な関係だったようです。天正18年(1590)に豊臣秀吉による奥州仕置きでは単独での玉米氏の名前は無く、領主としては既に没落していたと考えられます。一方、豊臣家家臣大谷吉継が小野寺氏に発布した「仙北之内上浦郡指出目録」には家臣として「玉米半三郎」の名が見られることから、小野寺家に従属していたとも推察されます。




慶長6年(1601)に小野寺家が没落すると帰農したようで、寛永8年(1631)には玉米館がある館合に菩提寺となる泉秀寺を創建しました。現在は老方に移転しましたが、境内には玉米氏のものと思われる墓碑が建立されています。


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下村氏について現在調査

2023年06月29日 03時22分00秒 | 郷土史
東由利地区の資料調査をしています。
まずは下村氏です。彼の館跡が東由利の蔵に残っています。
下村館は、由利本荘市東由利にあります。下村館は、由利地方を支配した由利十二頭の1人、下村氏の居城です。下村氏については明確な資料が少なく、軍記物とされる「由利十二頭記」に頼れば、初代下村小笠原殿(下村彦次郎宗長?)が応仁元年(1467年)に由利郡に下向したとされる為、下村館は概ね応仁年間(1467~1469年)に築かれたと推察されています。




下村館は高台などに築城したのではありませんが、石沢川が大きく蛇行している為、三方が川に囲まれ堀の役割を果たしていました。城がある蔵集落は本荘街道と川大内街道の結束点である交通の要所で、下村氏はこの地域を押さえる為にも重要視していた事が分かります。下村氏は関が原の戦いで小野寺氏寄りだったと云われ改易され、下村館は破却されました。




現在館跡は平地より一段高い所に諏訪神社が鎮座し、その境内には推定年齢300年以上と言われるイチョウがあり秋田県指定天然記念物になっています。


岩館のイチョウは、中世由利地方の豪族下村氏の館跡にある諏訪神社の御神木です。乳の出をよくしたい女性の信仰を集めたことから、別名「乳房のイチョウ」とも呼ばれています。
蔵立寺は、室町時代の応仁2年(1467)年に下村氏が賽常山鷲泉寺(秋田市萱ヶ沢)3世梅勢永飯を招いて創建したと云われています。



当時は岩館(下村氏居館)の一角に建てられていましたが、その後現在地に移転しました。


16羅漢がお寺の前にあります。
資料が少ない下村氏ですが、もっと詳しく深読みしたい人物だ。

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建国記念の日に雛街道スタート

2023年02月08日 13時07分00秒 | 郷土史
2月11日 雛街道スタート



もうすぐ建国記念の日です。この日平成4年度の雛街道がスタートします。

是非皆さんおいでください。
2月11日は国民の祝日ですが、1945年の敗戦までの日本では「紀元節」として国家の最も重要な祭日でした。
維新政府は、神武復古をかかげ、徳川政府を否定し、万世一系の天皇の下にある国の建設をめざします。
日本の原点は、日本書紀に天皇が「辛酉年春正月庚辰朔(かのと とりどし はるしょうがつ かのえ たつ ついたち)」に橿原(かしはら)の宮で即位し、「元年」としたという記事をもとに、神武即位を紀元としたことによります。
新政府は、1872(明治5)年11月9日に万国暦として太陽暦を採用したことで、11月15日に太政官は神武即位を紀元となし、太陽暦による新年(明治6年)の1月29日が旧暦の「正月朔日(ついたち)」にあたるので、祝日として祭典を執行するように、との布告を出しました。
この神武即位日は、宮中で毎年祭典を行い、天皇が遥拝(ようはい)する重要な祭事であるので、年々上下一同も遥拝するようにと命じられたのです。
1873年1月4日には、改暦により五節句(人日、上巳、端午、七夕、重陽)(※1)を廃止して神武天皇即位日と天長節を祝日とすることが布告されます。
3月7日には神武即位日が紀元節と名づけられます。しかし太陽暦のいつが「正月朔日」になるかは年により一定しません。
そこで政府の天文局は固定するために、日本書紀の「辛酉の年」を西暦紀元前660年とみなし、「正月朔日」を2月11日とするとの報告をしました。
ここに2月11日の紀元節は、11月3日の天長節(天皇誕生日)とともに、最も重要な国祭日と位置づけられ、休業日とされ、国民が仕事を休み、奉祝することを課しました。
ここには神武復古を掲げた新国家創立の理念がみごとに実現したのです。
国家が創設しようとした祝祭日は日本の生活文化とは異質なものだけに、国祭日が定着して行くには時間がかかりました。そのため明治政府は、1891(明治24)年に小学校祝日大祭日儀式規程を制定し、教育勅語やご真影と一体化し、学校行事を営むなかで、国家創成の記憶を国民の身体に鋳込み、日本国民たる自覚を養成することにつとめねばなりませんでした。
まさに「建国記念の日」は、敗戦により紀元節が廃止されたものの、講和独立後に紀元節復活が叫ばれ、やっと1966(昭和41)年に決まり、翌67年に敬老の日、体育の日と合わせて「国民の祝日」に追加されたものです。
何気なく国民の休日で休んでいますが、幕末の国民統制に天皇イコール神である事を洗脳させるためのものであったようにも思われる。
流石に国旗を掲げる家は少なくなってきたが、私は2月11にちは休みたくないね!
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天神様のお話し

2023年01月22日 13時42分00秒 | 郷土史
本荘郷土資料館では2月11日から公開の本荘ひな街道の展示準備が完了しました。

天神様も飾ります。秋田市に明治期より伝わる八橋人形が収蔵されているので、受験期でもあるので展示します。
天神様といえば「学問の神さま」として名高いです。
天神様の本当の名前は菅原道真といいます。
もともと天皇の側近で、平安時代の秀才と呼ばれていた人でした。
あまりの秀才ぶりから、異例の速さで右大臣までに出世してしまったほどのエリートです。今だと官房長官かな!
字がとても上手で、空海、道風と並んで、「日本の三筆」なんて言われています。
そんな訳で、天神様は「学問と書道の神さま」という性格をもっています。
また才能だけでなく、真面目でひたむきな人柄が多くの人の心を打ち、彼が亡くなると「天神様」として崇あがめられるようになりました。
江戸時代に入ると、子どもたちが学ぶ寺子屋が普及し、「子どもが学問に親しみますように、字の上手な子になりますように」と、天神様はますます慕われるようになっていきました。
人間を神様としてあがめる信仰を、「人神」といいます。
菅原道真は、学者の家に生まれたことより、幼いころから人並外れた才能を発揮していました。
青年になると学者としての最高位の文章博士となり、祖父や父と同じく着実に学者としての道を歩んでいました。
また、とても誠実な人柄だったことから周りからの信頼も厚く、さまざまな官職も就任し、着実に成果を上げてきた人です。
そして平安時代に認められて右大臣となった超エリート菅原道真は、このまま恵まれた人生を送るはずでした。
ところが、朝廷の政争に巻き込まれ、落とし穴にはまります。
左大臣(今でいう内閣総理大臣)藤原時平が、醍醐天皇に「道真があなたを退かせ、自分の娘婿の斉世親王を即位させようと企んでいる」と嘘の告げ口をしたのです。
この言葉を信じた醍醐天皇は、彼を都から遠い、九州の大宰府に左遷させてしまいました。
左遷とは、今までより低い役職や低い能力の業務に落とされることです。
皇位継承を巡り、醍醐天皇と時平が有能すぎる菅原道真を追放し、宇多勢力を一掃するために仕組んだとか、道真に反感(嫉妬)を持つ人々の意向があったなど、当時の貴族社会の問題が目え隠れした内容です。
ちなみにこのあとすぐに、藤原時平は妹である穏子を醍醐天皇の女御(奥さん候補)として入内させ、事実上の正妃に格上げさせています。
太宰府への移動はすべて道真の自費だったそうです。
そこではお給料も従者も与えられず、政務にあたることも禁じられ、衣食住もままならない厳しい生活を強いられました。
そして左遷から2年後の903年、失意のうちに亡くなったのです。
享年59です。
刑死ではありませんが、緩慢な死罪に等しいと言われています。
彼は、いつの日にか疑いが晴れて帰京できることを夢見て、詩を書き続け、気持ちを紛らわせていたと伝えられています。
しかしその夢もかなうことはありませんでした。
道真の死後、都では次々と異変が起こり始めました。
都で疫病が流行り、落雷、干ばつ、火災が相次ぎます。
さらに示し合わせたように、道真を陥れた政敵が次々に不審死を遂げていくのです。
左遷に追いやった藤原時平は、909年、39歳の若さで熱病にかかり悶死します。
時平と左遷に結託し、後釜として右大臣に昇進した大納言・源光みなもとのひかるも、913年、鷹狩りの最中に泥沼に転落して溺死、遺体があがらず。
923年、時平の妹と醍醐天皇の間に生まれた皇太子・保明親王やすあきらしんのうが19歳で急死します。
次の皇太子となった藤原時平の孫・慶頼王でしたが、925年、改元の甲斐なく5歳で急死します。
そしてさらに、人々を震撼させる衝撃的な事件が起きます。
930年になんと、醍醐天皇のいる宮中に大きな雷が落ち、皇族や貴族が多数死傷し、醍醐天皇の側近である藤原清貫までも焼死したのです。
醍醐天皇はその惨状を目の当たりにしたことで体調崩し、そのまま亡くなりました。享年49でした。
あまりにも衝撃的で凄惨な事件であり、『清涼殿落雷事件』として歴史上に残されています。
じつは醍醐天皇は生前の923年、相次ぐ関係者の死に恐れおののき、道真の左遷を命じた文書を燃やし、左遷そのものを取り消していたそうです。
それほど「道真の怨霊のしわざに違いない」と誰もが考え、その祟りに怯えていたということです。
不思議なことに、菅原道真の家があった桑原だけは、落雷の被害がありませんでした。
雷が鳴ったときに「くわばら、くわばら」と唱えるのは、このことが由来です。
 
道真の祟りを恐れていた人々は、道真の霊を神さまとして祀って、怒りを鎮めようと考えました。
そして947年、道真の祟りを解くために、京都北野にあった天神社のかたわらに、道真の霊を祀る社を造営しました。
これが「北野天満宮」のはじまりです。
こうして菅原道真は神さまとなりました。
今では学問の神様として名高い菅原道真も、「天神様」として祀られた当初は、何をやらかすかわからない怨霊として恐れられていたのです。
天神様、学問の神様と呼ばれる
 
怨霊とされた天神様が、「学問の神様」と言われるようになったのは、江戸時代になってからです。
学問に秀で、人々から厚い信頼を得ていた菅原道真にちなんで、自然と「学問の神様」として信仰されるようになっていきました。
寺子屋には天神様の神像が祀られ、手習いに来た子どもたちは、まず小さな手をあわせ、天読み、書き、算盤の上達を祈ったそうです。
それから現在では、全国の天満宮が学問の神さまと呼ばれるようになりました。
 
資料館に天神様をたくさん飾るので受験生は神社までいかなくても資料館に集合してもらいな!
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榊田清兵衛の記念碑

2022年12月19日 03時09分00秒 | 郷土史
孫1号の引率で大仙市の大曲体育館に来ています。アシックス杯が昨日から行われていました。
西目小は、残念ながら決勝トーナメント1回戦でフルセットの末敗退してしまった。



会場の大曲体育館の直ぐそばに榊田清兵衛さんの碑があって、雪の中調査しました。



榊田清兵衛(さかきだ せいべえ、元治元年5月26日- 昭和4年は、明治時代から昭和時代の政治家です。
仙北郡会議員、秋田県会議員を経て元衆議院議員を当選7回した大曲の名士です。地方問題の解決と床次竹二郎内閣実現のために奔走したとあります。

榊田清兵衛は、出羽国仙北郡大曲村(現秋田県大仙市大曲地区)に大地主・四世榊田清兵衛(長蔵)と由利町出身のさだの長男として誕生した。幼名は清蔵ですが女ばかりの後の待望の男子となりました。
1874年(明治7年)に大曲小学校に入学後、まもなく父長蔵が亡くなり、家督相続し、家名の清兵衛をついだ。

学問を好み、神沢繁(素堂)、黒沢利吉、高垣重明、岡田好成らに師事し、自宅向かいに講習義塾を設立しました。
14歳頃に大曲小学校助教就任した天才少年です。
1881年(明治14年)、今の青年会に当たる大曲談話会を設立し、町の主要行事・政治の動きを決定する機関を作りました。
翌年には田口岩蔵と仙北改良社を設立し、産米の改良に着手、また乾田馬耕、耕地整理なども奨励した。
1888年(明治21年)の町村制施行に伴って大曲村会議員の1人として当選し、政界への第一歩を踏み出したのです。

1908年(明治41年)4月19日に発生した「川上弁護士邸焼き打ち事件」が代議士出馬のきっかけと言われます。この事件は、秋田地方裁判所大曲支部の横手への移転を不満とする大曲町民が、移転推進を公言していた横手町(現横手市)出身の弁護士川上勝淑宅を焼き打ちした事件です。
この事件は横手出身の代議士沼田宇源太の政治活動によるもので、大曲からも代議士を送れという機運が高まり、同年6月の第10回総選挙に秋田県郡部区から無所属で出馬しトップ当選しました。
選挙では秋田進歩党(憲政本党)は準党員扱いで支援したものの、岩手県選出の原敬への敬服から帝国議会では立憲政友会に所属したそうです。
第26回帝国議会では1年生議員ながら請願委員長に当選し、各種法律案のほか、港湾改良、全国鉄道速成、学制改革、河川改修費増額などに関する建議案を提出して可決させた人です。
本市の須藤善一郎氏と良く似てます。
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評定森 西目田高のパワースポート

2022年12月17日 15時22分00秒 | 郷土史
西目の田高地区は歴史上とても重要なところである。
浜館に由里仲八郎政春が居城して由利一帯をおさめましたが、仁賀保の栗山館の鳥海弥三郎の急襲を受け館は焼けて最終的には西滝沢で自虐した。



由利勢を追って来た鳥海弥三郎の軍勢が誰がどのくらいの軍功があったかを評定したのが田高の丘だった。この地を評定森と言われるのはその為である。






更にそこは根子の沢遺跡で縄文時代の遺跡でもあるのだ。




近世になってからは、福島の原町から分祠された太田神社もあり、各時代で地域の要衝でもあるのである。




一大パワースポットで売り出せば、観光地として誘客できるだけのパワーをもっている。土日にはババヘラがやってくるだけ有名にしたい場所だ。
すぐ近くで、トマトや玉ねぎの直売などすればいいのに!
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徳尼公の廟 泉流寺に行ってきた

2022年12月15日 03時59分00秒 | 郷土史
鳥海弥三郎の調査をしていて、徳尼公という女性に出会った。(文献で)
藤原秀衡の母は、宗任の息女で、徳尼公と呼ばれた人である。その人は藤原氏滅亡の際、36人衆と呼ばれる家来と共に酒田に逃れてきたと伝えている。



その方の墓が酒田にあるので、自分の目で確認したく出かけた。



頼朝の奥州征伐で滅ぼされた藤原秀衡の妹(徳の前)もしくは後室(徳尼公)を守り36人の遺臣と共に落ち延びた。
秋田市久保田でその姫が乗ってきた白馬が死に、其の地に草庵を作り祭った。その草庵の跡に現在の白馬寺が出来たと云うが、現在の白馬寺は1500年頃に出来た寺で其の寺には伝承や古文書などは伝わっていないと云う。
徳尼公一行は暫く其の地に滞在した。その後一行は南下して、東田川郡立川町立谷沢の羽黒山(藤原秀衡が鎮守府将軍に任ぜられた時、田川太郎を奉行に命じ羽黒山神社の本社の大修理を行っていたからか?羽黒山中の荒沢寺に徳尼公の木造が伝わり、羽黒三山神社の斎館に徳尼公の位牌が伝わっている。)の麓付近に3年程住んだ。

しかし頼朝が、羽黒山に金堂を普請するため使者をよこしたので身の危険を感じて、酒田湊(当時向かい酒田=酒田市袖浦地区飯盛山付近)に逃れたという。
そこに徳尼公が泉流庵という草庵を結び、90歳で亡く(1217年4月15日)なったと云う。



その後36人の遺臣達は地侍となり、やがて廻船問屋を営む様になり酒田湊の発展に尽くした。




徳尼公はその後、曹洞宗洞永山泉流寺(後向かい酒田より現在の酒田市中央西町に移転した)に祭られ、今も命日には当地の三十六人衆の後裔達が集まり、徳尼祭りが行われている。



その泉流寺の古文書に寄れば、1492年当時三十六人衆が存在しており、地侍兼商人としてその中の代表3名が町の世話役となり町の自治権を持ちを与えられており、名字帯刀は元より、合戦の際は戦場へも出たという。

しかし、其の当時でも全員の出自が、平泉から落ち延びてきたという家来かどうかは、はなはだ疑わしい。



現在三十六人衆の中で平泉からの遺臣の家で残っているのは粕谷姓位(酒田市史)と見られている。
たびたびの酒田大火、大地震、最上川の大洪水に家運の栄枯盛衰等が加わり、家柄の決め手となる多くの古文書類が焼失、紛失しており断定は中々困難であると云われている。

酒田湊は最上川の上流部から、そして庄内の各地から紅花、米などが集まり西回り航路で上方へと送られて来た。そして上方からは木綿やお茶などの貴重品が送られてきた。
特に木綿などは、最上川を上り内陸の新庄、山形はもちろん遠く仙台までも運ばれた。
このように中世以降安倍氏の名を変えた鳥海氏の血統が支配してきたのがわかる。
ただし、証拠となる文献はほぼ消失しているが、徳尼公の廟は確かな鳥海の力を感じさせられた。

   
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