goo blog サービス終了のお知らせ 

自然コレクション

秋田の田舎暮らし!
アウトドアー生活を紹介します。

なぜ鳥海山というのか

2022年12月12日 03時57分00秒 | 郷土史
昨日は、本荘由利地域史研究会の会誌「由理15号」の合評会でした。私は寄稿者として発表及びに司会を担当してきました。とても勉強になりました。



私の論考の中に出てくる鳥海弥三郎と鳥海山の関係で話題になったので、その事について書こうと思います。

鳥海の山名由来
鳥海の山名がどういう関係でつけられたかは、この山の変遷をたどる上で、見のがすことができません。
鳥海という山名が記録の上に現れたのは、和論語の中に鳥海山大明神とあることに始まるとされています。

鳥海の山名由来

 鳥海の山名がどういう関係でつけられたかは、この山の変遷をたどる上で、見のがすことができない。鳥海という山名が記録の上に現れたのは、和論語の中に鳥海山大明神とあることに始まるとされている。

大日本地名辞書では
「鳥海山の号は国史に見る所なし。倭論語に鳥海山大明神と出づ。三代実録には飽海の山とありて山名を記さず。」と記されています。

倭論語が作られたのは、鎌倉時代で頼朝の時代です。鳥海の山名はこの頃までには、一般に鳥海山と呼ばれていたと思われます。



鳥海山について変遷を考えると、古くは大物忌の神山、北山、飽海の山とか呼ばれていたようで、鳥海と呼んだのはその後のことです。
飽海の山というのは、由利郡にはまだ設置されてなくて、飽海郡内の山であったからそのように呼ばれたのですが、その後現在に至るまで鳥海の山名が、どうしてできたのであるか説明します。

鳥海弥三郎
結論からすると、安倍氏の全盛時代安倍宗任(むねとう)の所領がこの方面にあったことによるものとするのです。
安倍宗任は鳥海弥三郎宗任と称していました。宮城県亘理郡に鳥海の浦という所があって、ここが宗任の誕生地であるところから、その生地にちなんで鳥海弥三郎と称していました。
その後安倍氏の発展に伴い、岩手県方面に中心を移したのです、その地域に鳥海の地名が今に残っているのです。
磐井郡の鳥海、胆沢郡の鳥海の柵等は、いずれも鳥海弥三郎に関係ある旧跡です。
由利本荘方面にも宗任の所領があったかどうか明記されたものはありませんが、矢島方面には鳥海山の外に、相庭館附近に鳥の海の地名のあることや、子吉川を古くは安倍川と呼んだという古伝、さらに九日町村の修験永泉宗隆世氏の覚書の中に、天喜3年鳥海弥三郎宗任殿より「御寄附三石有之由」とか、笹子村流東寺の記録にも天喜年中、「鳥海弥三郎より云々」の文字があることからみて、由利郡全部が宗任の勢力下にあったと考えられるのです。


徳尼公
また、酒田地方と宗任との関係です。藤原秀衡の母は宗任の息女で徳尼公と呼ばれた人であす。徳尼公は藤原氏滅亡の際、十六人衆と呼ばれる家来と共に酒田に逃れてきたと伝えているのです。今も酒田市の泉竜寺に徳尼公廟があって、十六人衆の中の何軒かは今に残っているとのことです。
以上のことから推察すると、由利郡を含めた飽海郡一帯にわたって、宗任の領地があったと思われます。そんなわけで、鳥海氏領内の山として、鳥海の山名が付けられた考えられています。


安倍氏の残党
その後、安倍氏、清原氏、藤原氏とあいついで滅びましたが、南北朝時代になると、栗山館の鳥海弥三郎が由利仲八郎政春を追討し由利全域を支配するなど、安倍宗任の子孫が残存して一勢力をなしたのです。
つまり、鎌倉時代以前、由利郡が鳥海弥三郎宗任と関係があって、鳥海の山名を生じたと考えられています。
こう見ていくと歴史上鳥海山は山形県に属してきた時期が長ーい事が分かってしまってちょい残念でした。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由利への入部400年

2022年11月20日 05時34分00秒 | 郷土史

1623年は由利地域への領主が入部した年です。そうです来年が入部400年の年になります。

六郷、岩城、内越、仁賀保各氏が小藩ながらこの地を治めたスタートの年です。由利本荘市でもイベントの準備をしているようです。

私たちは市史を平易に書き換え小学校高学年でも読めるものに書き換え作業をしていますが、小学校高学年まで下げるのはとんでもなく難しいです。まず近世のプロローグ文書ですが、これでは小学校では理解不可能です。


由利は一つ〜由利12頭〜

 私たちの住む、由利地方には「由利十二頭記」という、いわゆる戦(いくさ)を題材にした物語があります。これは、由利地域において戦国の時代に「由利十二頭」と呼ばれた、それぞれの領主の由緒(それまでの歴史)と互いの争いが話の中心です。本当にあったと思われる内容もあれば、そうでない部分もありますが、その当時の勢力の様子がよく分かります。

 中世と呼ばれる時代に活躍した由利十二頭ですが、江戸時代に入ると大部分は、由利の領主としては生き残れませんでした。

 それでも「由利十二頭記」は、由利地方の旧家の武家・商家から村名主・肝煎(きもいり〜名主とも呼ばれ百姓の代表)など幅広い人びとに書き写されて残されています。

 なぜ、このような記録が広く残されていると思いますか。

 それは江戸時代以降も、武士から町人・百姓に至るまで、自分たちは「由利」の人であるいう共通の思いがあったからだと思われます。現代になっても、由利地域の人びとにとっては「由利は一つ」がつづいているからです。


諸領主の配置

 天正十八年(1590)に、豊臣秀吉の全国統一によって由利の諸領主は秀吉の支配下に組み込まれました。秀吉の朝鮮侵略にも動員されているのです。しかし、慶長五年(1600)に起った関ヶ原の戦い後に、由利12頭は、領地替えや今までの領地を没収されてほとんど由利には残っていません。

 江戸時代になると、私たちの由利地域は山形城主の最上氏に与えられました。そして、その家臣である館岡満茂(たておかみつやす)が本城(本荘)に城を築いて、城下町を建設するなど、近世的支配への歩みが始まったのです。

 しかし、元和年(1622)に最上氏は、改易(領主をやめさせられること)されてしまいます。翌年の元和九年に、六郷政乗(ろくごうまさのり)に本荘藩二万石、岩城吉隆(いわきよしたか)に亀田藩二万石、仁賀保挙誠(にかほきよしげ)に一万石、打越光隆(うてちみつたか)に三千石をそれぞれが由利を与えられました。

 またしても由利は分割して支配されてしまいます。このように、由利地方の本格的な近世は1633年に始まったといえます。

 それぞれの領主の領地は、その後18年間で一部変動します。寛永三年(1626)に仁賀保氏の所領が、挙誠の長男の良俊七千石、二男の誠政に二千石、三男の誠次に千石と三人の息子に分割されたました。寛永八年に良俊が死去しましたが跡継ぎがいなかったために、七千石は没収となりました。さらにその三年後には打越氏が改易され矢島の領主でなくなりました。

 矢島藩には、寛永十七年に転封された讃岐(現在の香川県)の生駒氏に現在の矢島・鳥海地域の一万石が与えられたのです。その後は、その時に定められた領域が十九世紀前半まで続くことになります。

 この間、仁賀保では、端数のない石高で所領を与えるために一つの村が複数の領主に分割支配されるということも起っています。

 室沢村・三森村・伊勢居地村などです。このようにして、「由利は一つ」という地域感覚が存在した一方で、由利という小さな地域で複数の領主による分割支配が行われていたことが近世由利の特徴なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする