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自然コレクション

秋田の田舎暮らし!
アウトドアー生活を紹介します。

秋田県は1582年にはまとまっていた

2024年02月24日 02時38分00秒 | 郷土史
1568年、庄内の尾浦城の主、大宝寺義増は、越後村上の本庄繁長や甲斐の武田信玄と同盟を結び、越後の強者である上杉謙信と対立しました。しかし、謙信の力は新潟市北部(現在の場所)から海路を通じて庄内にまで広がりました。




義増は本庄繁長らとの同盟を解消し、一人で謙信と和平を結ぶことを決めました。謙信は大宝寺家に「五箇条の条件」を提示し、土佐林禅棟を証人にするよう命じました。土佐林氏は大宝寺氏と同じく、庄内で羽黒山の別当職を務める有力な国人でした。
この騒ぎをきっかけに、義増は家督を息子の義氏に譲りました。後見人として、禅棟が任命されました。


その頃、霊峰鳥海山を挟んだ北の地「由利」では、仁賀保氏と大井氏の間で争いが続き、事態は混乱していました。この争いは永禄初期から始まり、原因は農民の土地問題でした。禅棟は仁賀保氏を支援し、信頼のおける竹井時友や観音寺城主の来次氏を仁賀保に派遣しました。
大宝寺氏と土佐林氏は同じ庄内の国人という立場で、親密な関係を保っていたようです。
しかし、1570年、土佐林氏とつながりのある越後の国人、大川氏が尾浦城近くに侵入し、乱暴な行為を行ったことから、両者の対立は激化しました。
岩屋の残党は、大宝寺勢力の攻撃に対抗することができず、折渡峠の「洞窟(現在は千人隠れ)」に隠れました。しかし、米のとぎ汁が下流の芋川に流れ出し、大宝寺勢に彼らの居場所が発覚してしまいました。大宝寺勢と岩屋の残党は激しい戦闘を繰り広げましたが、生き残った者たちは赤尾津氏の軍勢と合流しました。
赤尾津家当主の赤尾津治部は、小助川図書の主家でもあり、由利十二頭の中でも下由利に位置していたため、安東氏との関係を深めていました。
この時期、大宝寺勢は折渡峠と荒沢館の中間地である筵掛権現堂に陣を張っていました。筵掛権現堂は岩屋、赤尾津、荒沢の要塞を見渡すことができる戦略的な位置にありました。しかし、防衛が困難になったため、赤尾津治部や小助川図書からの援軍要請を受けた愛季は、下由利に一部式部を総大将とする軍勢を派遣しました。
安東愛季は当時、一族をまとめ、比内の浅利勝頼や阿仁の嘉成重盛などを組み込んでおり、陸奥の南部晴政と戦いながら鹿角郡を支配していました。
北の勢力を制圧した愛季の目標は由利でした。前に述べたように、小助川図書や赤尾津諸氏を中心に由利に進出しようとしていたのです。愛季は援軍を派遣し、義氏を追い出すことで由利十二頭の心を掴もうと考えたのでしょう。

愛季の援軍派遣により、形勢は一気に逆転しました。1582年の7月には、大宝寺勢は撤退しました。由利十二頭はこの後、安東氏との関係を深めていくことになります。
以上のような経緯で、由利と庄内の抗争が続いていました。両者の関係は最初は親密であったが、次第に対立し、最終的には安東氏の介入によって形勢が逆転しました。
つまりこの段階で、秋田圏域が一つになっています。


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内越の話6 内越氏の転封

2024年02月20日 04時04分00秒 | 郷土史

内越氏は、佐竹氏の国替えと入れ替えにより、出羽国由利郡内越村から常陸国行方郡新宮郷へ加増国替えされ、所領が約1250石から約2000石に増え、大身旗本として新宮城主となりました。





また、1605年(慶長10年)には、徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受けるために宮中へ参内する行列の六番に、打越内膳正(内膳正とは、宮中の官職で宮内省長官のことですが、この日のために特別に付与された官職と思われます。)の名前が見られます。この行列には錚々たる名前が並んでおり、名誉ある名前を連ねることがどれほどのものであったかが伺えます(東大寺雑集録)。

さらに、1622年(元和8年)には、江戸幕府が最上氏の御家騒動に伴う改易により、旧最上領であった出羽国を細分化して管理する方針に改め、再び、六郷氏が出羽国由利郡本荘、仁賀保氏が仁賀保、岩城氏が亀田、打越氏(内越氏)が矢島に国替えになりました。この結果、内越氏は常陸国行方郡新宮郷から出羽国由利郡矢島郷へ加増国替えされ、所領が約2000石から約3000石に増え、交代寄合旗本(大名格遇格※)として八森城主となりました。





2月20日の運勢

1. **しし座 (Leo)**: 7/23 ~ 8/22生まれの人は、対人運が好調で友達や後輩の面倒を見てあげることで良い展開がありそうです¹.

2. **かに座 (Cancer)**: 6/22 ~ 7/22生まれの人は、積極的に心を開いていけば恋愛運が良い展開に¹.

3. **おうし座 (Taurus)**: 4/20 ~ 5/20生まれの人は、上手なお金の使い方ができるので、交際費がかさんでも大丈夫¹.

4. **うお座 (Pisces)**: 2/19 ~ 3/20生まれの人は、有益な情報が手に入ったり偉い人と知り合いになれたりしそうな仕事運があります¹.

もちろんです!以下は、朝日新聞デジタルの星座占いから得られた情報に基づいて、5位以降の星座の運勢をまとめたものです:

5. **おとめ座 (Virgo)**: 8/23 ~ 9/22生まれの人は、自分のペースで物事を進めることが大切です。焦らずに着実に進めていくと良い結果が出るでしょう.

6. **てんびん座 (Libra)**: 9/23 ~ 10/23生まれの人は、人間関係に注意が必要です。誤解を避けるためにコミュニケーションを大切にしましょう.

7. **やぎ座 (Capricorn)**: 12/22 ~ 1/19生まれの人は、仕事や学業に集中することで成果を上げられる日です。計画的に行動しましょう.

8. **みずがめ座 (Aquarius)**: 1/20 ~ 2/18生まれの人は、新しいアイデアやプロジェクトに取り組むのに適した日です。柔軟性を持ってチャレンジしてみてください.

9. **さそり座 (Scorpio)**: 10/24 ~ 11/22生まれの人は、感情をコントロールすることが重要です。冷静な判断を心がけましょう。

10. **おひつじ座 (Aries)**: 3/21 ~ 4/19生まれの人は、自分の意見をしっかりと主張することで良い結果が出るでしょう。

11. **いて座 (Sagittarius)**: 11/23 ~ 12/21生まれの人は、人との交流を大切にしましょう。新たな出会いがあるかもしれません。

12. **うお座 (Pisces)**: 2/19 ~ 3/20生まれの人は、感受性が高まっている日です。自分の気持ちに素直になりましょう。


これらの情報を参考に、素晴らしい一日をお過ごしください!🌟


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内越の話5 内越を語る前に橘氏を探る

2024年02月19日 07時06分23秒 | 郷土史
まずはお勉強の前に今日の運勢❣️
2024年2月19日の全ての星座の運勢をまとめてみましたよ。🌟
1位 おうし座(牡牛):4月20日~5月20日
総合運:☆☆☆☆☆
今日は最高の日!新たな発見があるかもしれませんね。
2位 てんびん座(天秤):9月23日~10月23日
総合運:☆☆☆☆
海外との関わりが運気を上げるかもしれません。
3位 ふたご座(双子):5月21日~6月21日
総合運:☆☆☆☆
恋愛運がアップしているようです。
4位 おとめ座(乙女):8月23日~9月22日
総合運:☆☆☆☆
5位 みずがめ座(水瓶):1月20日~2月18日
総合運:☆☆☆☆
6位 おひつじ座(牡羊):3月21日~4月19日
総合運:☆☆☆☆
7位 いて座(射手):11月23日~12月21日
総合運:☆☆☆
8位 うお座(魚):2月19日~3月20日
総合運:☆☆☆
9位 しし座(獅子):7月23日~8月22日
総合運:☆☆☆
10位 かに座(蟹):6月22日~7月22日
総合運:☆☆
11位 さそり座(蠍):10月24日~11月22日
総合運:☆☆
12位 やぎ座(山羊):12月22日~1月19日
総合運:☆
星占いは面白いですよね。

橘氏と関係があると言われる内越氏ですが、まずは橘氏を知っておく必要があるので調べてみました。

橘氏は藤原氏に排斥され続けた影響もあり、歴史の影に隠れてしまいスポットライトがあたってこなかった氏ですが、実は長い歴史を持ち、興味深いエピソードも数多く残されている「隠れた名族」といえます。本記事では、そんな橘氏の歴史・子孫についてまとめます。

橘氏は、源氏や平氏、藤原氏ほど大きな子孫を残さなかったものの、その賜姓のエピソードは美しいものがあります。橘氏は、女帝から女官に賜姓されたという点が特徴的です。このエピソードは、橘氏が公卿や武士としてではなく、女官としての地位を重んじたことを示しています。女性が支配的であった時代において、そのような賜姓を受けることは異例であり、橘氏の家系における女性の権力や影響力を示しています。また、橘氏の賜姓は、高貴なる出自や功績を称えられる一方で、その家系がどのような人々に支えられてきたかを物語っています。

日本の歴史の中で重要な役割を果たした橘氏の由来には、元明天皇の宴での一言が基となっています。元明天皇は、橘が果実の王であり、枝は霜雪を恐れずに繁茂し、葉は寒暑をしのぎ、美しい様相を持つことから、「橘を氏とせよ」と述べました。これにより、三千代に橘宿禰の氏姓を与え、橘氏は誕生しました。橘は日本書紀の神話に登場し、「非時香菓」と呼ばれる柑橘系の木として、永遠性や永続性の象徴とされてきました。橘氏はその象徴から、日本の歴史において名家として栄え、重要な地位を築いてきました。

橘の由来は、神話上では垂仁天皇の命により遠い常世国から採取された木の実が橘となり、その橘にちなんで氏を賜ったと言われています。また、女帝元明天皇は美しく聡明な橘三千代を「いつも黄金に輝く橘の実」とたとえ、賞賛していた逸話もあります。彼女はその美しさと才知で多くの人々に愛され、橘の名を冠した橘三千代として親しまれました。今でも京都御所の紫宸殿には、橘と桜が並ぶ「右近の橘」があり、その歴史や由来が人々に伝えられています。橘の木は天皇家にゆかりが深く、橘三千代の逸話は美と知恵を象徴する物語として多くの人々に愛されています。

橘三千代は橘氏の歴史において重要な人物であり、橘氏の始祖である橘諸兄に次ぐ存在として知られています。生まれながらに朝廷の倉庫を管理・警護する家に生まれながら、その才能や学問を活かして朝廷内で勢力を築いた人物でした。彼女は敏達天皇の玄孫、美努王と結婚し、葛城王や佐為王、そして牟漏女王をもうけました。これらの子孫はそれぞれ後の日本の歴史に大きな影響を与えています。彼女が橘氏の名前を賜ったことをきっかけに、橘氏はますます勢力を拡大し、日本の歴史に名を刻む存在となりました。その後、橘氏は大和朝廷の中枢に位置し、藤原氏や菅原氏とともに古代日本の政治や文化において重要な役割を果たすことになりました。その功績は今なお称賛されるべきものであり、橘三千代の存在は古代日本の歴史において欠かせないものとなっています。

古代日本において藤原氏や橘氏の繁栄を支えた橘三千代。彼女は、藤原不比等に嫁ぎ、息子や娘の出世や後宮への立后に尽力し、自らも歌人として活躍しました。その功績が称えられ、「賢女」と称されました。また、彼女が賜った「橘氏」の姓は、実は一代限りのものであり、その名前を受け継ぐのは息子たちだった。橘三千代の果たした役割は、日本の歴史において軽んじられがちな女性たちの貢献を示す一例であり、彼女の存在は日本古代史の一角を照らしています。

平安末になると、橘は武家となります。橘遠保は、伊予橘氏の中心的存在であり、平将門の乱や藤原純友の乱での武勇で名を馳せました。遠保は藤原純友を捕らえるという快挙を成し遂げ、その活躍が評価され遠江国の国司に任命されました。さらに、伊予国宇和郡の所領も得ることとなりました。彼の子孫は多くの武将として活躍し、楠木正成を祖とする文献も存在します。伊予橘氏の重要な一員でありながらも、歴史の中で源氏や平氏に隠れる存在となった遠保は、武家橘氏の歴史を語る上で不可欠な人物と言えます。


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内越の話4(矢島、鳥海の内越に影)

2024年02月18日 05時03分00秒 | 郷土史
親川楠家系図というのがあって、これには、楠木正家が南朝勢力を支援するために川内打越に居城を構えて籠城し、北朝勢力と争ったという記載があります。
ただ、出羽国由利郡矢島郷川内村に「打越」という地名や字名はありません。ただし、鳥海町下直根字打越という地名が残されていて、現在も新田氏の末裔がおります。
また、親川楠家系図には「川内打越は大沢打越とあり」と記載されていることからこの地を打越氏(内越氏)の発祥地とは考えにくいです。
しかし、後醍醐天皇から下賜された論旨を所持していた楠木小次郎は、楠木正家が南朝勢力の関係者を供養するために建立した元弘寺(鳥海町下川内矢ノ本にあった)を拠点として活動していました。その後、楠木正家が築城した小次郎館(牛越館)に移りました。鳥海町栗沢字牛ケ首というところです。
また、傑堂能勝禅師(楠木正能)が小次郎館(牛越館)の近くに高健寺(秋田県由利本荘市鳥海町伏見)を開基して、その後、現在の矢島へ移されています。つまり鳥海、矢島が打越氏(内越氏)の勢力拠点であったと考えられるのです。
なお、東信濃を支配していた滋野三氏(海野氏のうち、望月氏の庶流は信濃国佐久郡矢島村及び根々井村を支配していて、それぞれ矢島(八島)氏及び根井氏を名乗ります。
彼らは1184年(寿永3年)の木曾義仲の挙兵に従い、木曾義仲が滅亡してその所領を没収されると小笠原(大井)氏に臣従します。
しかし、南北朝の動乱では、矢島氏及び根井氏は南朝勢力に与し、主家である小笠原(大井)氏(北朝勢力)と争いますこの点、根井家由来書には「信州義仲滅亡ノ後、行親末子則式部太夫ト云、信州ヲ立退、羽州油利ノ郡矢嶋ノ庄二年久ク蟄居シテ、民ヲシタカイ、土地ヲ開カセ、子孫繁栄ス」と記されています。
つまり、木曾義仲の滅亡や南北朝の動乱を契機として根井氏が南朝勢力である寒河江(大江)氏を頼って出羽国由利郡津雲出郷(後の矢島郷)へ下向した可能性が考えられるのです。
これを裏付けるように木曽義仲の愛妾・巴御前の末裔である巴太郎頼勝が隠棲していたと伝わる巴館跡が由利町の屋敷集落に残されています。
その後、応永年間、大江(大膳大夫)義久が出羽国由利郡津雲出郷(後の矢島郷)を支配します。




これに伴って大井光泰の後裔である大井又次郎光重が矢島から滝沢へ移り大膳大夫義久は大井義久と改名しています。
1593年(文禄2年)、大井義久の後裔で矢島城の戦いで敗れた大井五郎満安は楠木正家が南朝勢力の関係者を供養するために建立した元弘寺に葬られますが、大井五郎満安の息女・鶴姫が元弘寺の隣に庵を結んで菩提を弔ったと言われていて、その庵跡に鶴姫の墓が安置されています。その後、元弘寺が廃寺になり、満安の墓は高建寺へと移されているのです。


今日の運勢(2月18日)

1. 牡羊座(3月21日〜4月19日): 今日は行動力が高まり、新たなチャレンジに取り組む絶好の日です。自信を持って前進しましょう!
2. 牡牛座(4月20日〜5月20日): 穏やかな一日を過ごすことができるでしょう。自分自身を大切にし、心地よい時間を過ごしましょう。
3. 双子座(5月21日〜6月20日): コミュニケーションが円滑に行く日です。人との交流を楽しんだり、新たな知識を得るチャンスがあります。
4. 蟹座(6月21日〜7月22日): 感受性が高まり、人とのつながりを大切にすることが重要です。思いやりのある行動で周囲をサポートしましょう。
5. 獅子座(7月23日〜8月22日): 自信に満ちた一日です。自分の魅力を発揮し、周囲から注目されることができるでしょう。
6. 乙女座(8月23日〜9月22日): 細かい作業や計画を進めるのに適した日です。地道な努力が実を結ぶことでしょう。
7.天秤座(9月23日〜10月22日): バランスを保つことが重要な一日です。公平さと調和を心がけ、人間関係を大切にしましょう。
8. 蠍座(10月23日〜11月21日): 情熱的な一日を過ごすことができるでしょう。自分の直感に従い、目標に向かって進んでください。
9. 射手座(11月22日〜12月21日): 冒険心が高まり、新しい経験が待っています。楽観的な思考で前向きに行動しましょう。
10. 山羊座(12月22日〜1月19日): 責任感が強まる一日です。目標に向かって着実に進んでいくことが大切です。
11. 水瓶座(1月20日〜2月18日): 独自の思考やアイデアが評価される日です。自由な発想で新たな可能性を追求しましょう。
12. 魚座(2月19日〜3月20日): 直感力が高まり、感受性が豊かな一日です。自分の内面に耳を傾け、心の声に従って行動しましょう。


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内越氏の話3

2024年02月17日 05時51分00秒 | 郷土史
由利12頭はほぼ婚姻関係を結んでいました。


内越氏(または打越氏)が由利氏と姻戚関係を重ねる背景は、出羽国由利郡の統治権を巡る動乱を収束させ、地域の安定を図るためでした。
南北朝の動乱を契機に、出羽国由利郡の地頭だった由利氏の政春が鳥海氏に滅ぼされ、その子・由利維貴は一時、信濃国の小笠原氏へ身を寄せました。しかし、1339年(延元4年)、小笠原氏の援軍と共に出羽国由利郡へ下向し、鳥海氏から旧領を奪還しました。
この時、内越氏(または打越氏)は小笠原氏の庶流であり、その一族である楠木正家との間でも姻戚関係が結ばれていました。これにより、内越氏(または打越氏)は由利氏との姻戚関係を通じて、出羽国由利郡における勢力基盤を固めることができました。
その後、由利氏と内越氏(または打越氏)は、地頭不在による治安悪化を室町幕府へ訴え、室町幕府が小笠原氏の庶流を出羽国由利郡へ派遣することで、由利十二頭が形成されました。これにより、内越氏(または打越氏)は由利十二頭として出羽国由利郡内越村等を支配することとなりました。


今日の運勢です。
1. 射手座(11月22日〜12月21日): 運勢が良く、新しい経験や冒険が成功する可能性が高いです。前向きな思考と楽観的な姿勢があなたの運勢を後押しします。
2. 牡羊座(3月21日〜4月19日): エネルギッシュな運勢で、自分の意見を主張することができるでしょう。行動力があり、目標に向かって進むことができます。
3. 獅子座(7月23日〜8月22日): 自信に満ちた運勢で、周囲から注目されることが多いです。リーダーシップの才能を発揮し、成功を収めることができるでしょう。
4. 牡牛座(4月20日〜5月20日): 安定した運勢で、物事を着実に進めることができます。忍耐力と忠実さがあなたの運勢をサポートします。
5. 乙女座(8月23日〜9月22日): 組織や人間関係での調和が重要な運勢です。バランスを取りながら物事に取り組むことで、成功を収めることができるでしょう。
6. 天秤座(9月23日〜10月22日): 公平さや調和を重視する運勢です。人間関係において良好なバランスを保つことで、幸運を引き寄せることができるでしょう。
7. 蟹座(6月21日〜7月22日): 家族や愛する人との絆が強まる運勢です。思いやり深い姿勢と直感力があなたの運勢をサポートします。
8. 魚座(2月19日〜3月20日): 直感力が高まる運勢で、自分の感情や直感に従うことが重要です。創造力を発揮し、新たな可能性を追求することができるでしょう。
9. 双子座(5月21日〜6月20日): コミュニケーション能力が高まる運勢です。人とのつながりを大切にし、知識や情報を活用することで成功を収めることができるでしょう。
10. 蠍座(10月23日〜11月21日): 情熱的な運勢で、目標に向かって努力することが重要です。直感力を信じ、自分の力を信じることで困難を乗り越えることができるでしょう。
11. 山羊座(12月22日〜1月19日): 責任感が強まる運勢で、目標に向かって着実に進むことができます。忍耐力と信頼性があなたの運勢をサポートします。
12. 水瓶座(1月20日〜2月18日): 自由な運勢で、独自の思考やアプローチが求められることがあります。創造力を発揮し、新しいアイデアを追求することで成功を収めることができるでしょう。

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内越氏調査2

2024年02月14日 03時32分00秒 | 郷土史
矢島の内越は、出羽国由利郡内越村(現在の秋田県由利本荘市)を発祥とする内越氏(打越氏)に関連しています。この家系は、打越城(白坂館)を構えた出羽国仙北郡打越郷(現在の大沢郷寺)が事実上の発祥地とされています。




豊臣秀吉から下賜された御朱印状を根拠に、出羽国由利郡内越村が内越氏(打越氏)の公式上の発祥地とされています。これらの経緯から、打越氏と内越氏の2つの表記が混在することになったと考えられます。
内越氏(または打越氏)が正式な名字として定着した経緯は、南北朝の動乱を契機として、小笠原(大井)氏の庶流、楠木氏、そして在地勢力である由利氏が勢力基盤の安定を図るために姻戚関係を重ねる過程で形成されました。




1400年代後半頃、内越(宮内少輔)氏光の代から打越氏(内越氏)が正式な名字として定着したとされています。その後、1467年(応仁元年)、出羽国由利郡の領民が地頭不在による治安悪化を室町幕府へ訴えたこと
を受けて、室町幕府が小笠原(大井)氏の庶流を出羽国由利郡へ派遣しました。これが由利十二頭の由来であるという記録が残されています。
このような経緯を経て、内越氏(または打越氏)は、茨城県、兵庫県、大阪府、和歌山県、鹿児島県、福岡県、熊本県など、南朝勢力にゆかりの地に数多く分布するようになりました。

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小学生でも分かる「由利12頭」

2024年02月11日 08時25分37秒 | 郷土史

小学生でも分かる由利12頭1

1 由利12頭がやってきた!

1由利12頭がやってきた!

1192作ろう鎌倉幕府!

鎌倉時代に、由利地方では、岩手県の平泉で東北地方を治めていた奥州藤原氏に仕えていた由利氏が治めていました。しかし、奥州藤原氏が源義経をかくまったため義経の兄の源頼朝から奥州藤原氏は滅ぼされます。そのため、由利地方も幕府に取り上げられます。奥州征伐の後、由利氏は源頼朝に心服し許されますが、由利地方は由利仲八郎という方が治められることになります。

その後、将軍頼朝の子供たちの乳母である大弐の局に由利地方に与えられています。

その後、由利氏がまた、この地方を治めることになりましたが1324年(正中元年)に由利氏の当主、由利仲八郎政春が庄内の鳥海弥三郎に攻められ自害すると、由利地方は正式な領主がいなくなります。

横行略奪が相次いでとても危ない所となっています。
そこで前郷村(現・秋田県由利本荘市前郷)の農民が集会を開いて、鎌倉に行って太田道灌(おおたどうかん)に領主を求めました。

そこで信濃国(長野県)の小笠原一族が由利に派遣されたのです。

これは大弐の局の親戚たちです。
 

この一族を「由利十二頭」(ゆりじゅうにとう)と言います。矢島の大井氏の家来が書いたと思われる「由利十二頭記」という戦記物が残っています。あくまでも物語ですが、当時の由利地方の勢力の様子が良く分かります。

まず、由利十二頭は、「矢島(やしま)氏・仁賀保(にかほ)氏・赤尾津(あこうづ)氏・潟保(かたのほ)氏・滝沢(たきざわ)氏・打越(うでつ)氏・岩屋(いわや)氏、下村(しもむら)氏・玉前(とうまい)氏・沓沢(くつざわ)氏・子吉(こよし)氏・鮎川(あゆかわ)氏・羽川(はねがわ)氏・石沢(いしざわ)氏が登場していて12ではなく14人が登場します。

由利十二頭は由利仲八郎の子孫の滝沢氏と、新田氏の子孫とする羽川氏以外は全て信濃の小笠原一族です。
小笠原一族は室町幕府に、北出羽にやってきました。由利に信濃の小笠原一族がきたのは応仁元年(1467年)であるといいます。

以下は当時の領主ですが、滝沢氏、岩屋氏以外は、信州の小笠原一族です。

つまり、本荘由利地方を戦国時代以降の領主は信州からやってきたことになります。
(由利12頭)
・小笠原大和守重挙(仁賀保町院内)仁賀保氏
・海野弥太郎(西目町潟保)潟保氏)
・子吉修理進(本荘市子吉川下流域)子吉氏
・赤尾津孫八(岩城町高城山)赤尾津氏、小助川氏とも言う
・羽根川孫市(秋田市下浜付(羽根川氏
・芹田伊予(仁賀保町芹田)芹田氏
・岩屋右兵衛(大内町岩谷)岩屋氏
・打越左近(本荘市北打越)内越氏
・玉米刑部(東由利町館合)玉米氏
・石沢孫四郎(本荘市石沢)石沢氏
・下村信濃守(東由利町蔵)下村氏
・鮎川小平太(由利町鮎川)鮎川氏
・滝沢刑部(由利町前郷)滝沢氏~由利氏の子孫
・大井義久(矢島町)大井氏(矢島氏)

由利の戦後期時代は仁賀保氏と矢島氏の両陣営の争いでしたが、中央からの命令があれば、一致団結する由利衆というまとまりがありました。

続く!

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羽顕記に井岡が出ている

2023年12月06日 14時24分00秒 | 郷土史
羽顕彰記という歴史書があります。
大内町大谷の諏訪与一郎氏が明治27年頃書かれたもので、原書はありまでんが、ガリ板印刷の本が残っています。
この本の中に、由利維名という人物が出てきます。
宝亀11年に出羽国の鎮圧にあたった家麿呂に由利の士豪の維名が先陣として加わっている。
更に坂上田村麻呂から由利維名郡司を祀ったとされています。
その際に郷司に井の岡高見という人名前が出てきます。
これって井岡のことですね!


井岡宮比神社

由利の柵も井岡にあったという説もあり、井岡ってすごいところかも!
ちなみに羽顕記は、信ぴょう性は全くない歴史書ですが、それでもロマンだ!






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海士剥の一里塚は何処?

2023年08月17日 08時15分00秒 | 郷土史
天明4年9月30日に菅江真澄がこの地を通過している。239年前だ。海士剥について以下の紀行文を残している。これは『齶田濃刈寢』に書かれている。


あまはぎという河には仮橋がかけられていた。この河は水が少なく、砂が流れるような河だが、渡ろうとして足を入れれば、沼田のように足を深くとられ、命を落とす旅人も大勢いた。もし渡るなら、地元民の案内で越すべきだ。また、このような橋をかけわたすこともあると、親切な人が教えた。塩を焼くところがあったので、

"もしほやく 海士のとまやの 夕けふり たつをしるへに 宿やからなん"
という句を残している。


1800年の子吉郷の分限帳に海士剥には6軒の家が記されていて、薬師堂村の枝村の浜分としてオサ袋と海士剥が記載されている。いずれも石高ゼロであるので、海士剥では塩を炊いていたと思われる。または川渡しに携わっていたのかもしれない。
お伊勢参りの旅日記にアマハギの川を渡るのにおんぶして渡してもらう記載が残っていて13文だったという文を読んだ事がある。
17世紀の古地図に海士剥川の北に1里塚のマークがあるのでおそらく、現如上人も同じ場所で休憩して説法しているところからこの地が1里塚だと思う。




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★美郷町歴史民俗資料館・佐々木毅記念室が凄い

2023年08月07日 09時50分00秒 | 郷土史
昨日、所用で大曲に入ってついでに美郷町歴史民俗資料館・佐々木毅記念室に行きました。
旧千畑南小学校を利用した施設です。




これがとても素晴らしい。
地域の資料館の模範的な展示をされています。




特に民具の展示については県博以上のように思えます。








本荘郷土資料館の5倍以上のスペースです。
全てが常設で、企画展はないみたいですがとにかくエクセレントでした。
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