自然コレクション

秋田の田舎暮らし!
アウトドアー生活を紹介します。

徳尼公の廟 泉流寺に行ってきた

2022年12月15日 03時59分00秒 | 郷土史
鳥海弥三郎の調査をしていて、徳尼公という女性に出会った。(文献で)
藤原秀衡の母は、宗任の息女で、徳尼公と呼ばれた人である。その人は藤原氏滅亡の際、36人衆と呼ばれる家来と共に酒田に逃れてきたと伝えている。



その方の墓が酒田にあるので、自分の目で確認したく出かけた。



頼朝の奥州征伐で滅ぼされた藤原秀衡の妹(徳の前)もしくは後室(徳尼公)を守り36人の遺臣と共に落ち延びた。
秋田市久保田でその姫が乗ってきた白馬が死に、其の地に草庵を作り祭った。その草庵の跡に現在の白馬寺が出来たと云うが、現在の白馬寺は1500年頃に出来た寺で其の寺には伝承や古文書などは伝わっていないと云う。
徳尼公一行は暫く其の地に滞在した。その後一行は南下して、東田川郡立川町立谷沢の羽黒山(藤原秀衡が鎮守府将軍に任ぜられた時、田川太郎を奉行に命じ羽黒山神社の本社の大修理を行っていたからか?羽黒山中の荒沢寺に徳尼公の木造が伝わり、羽黒三山神社の斎館に徳尼公の位牌が伝わっている。)の麓付近に3年程住んだ。

しかし頼朝が、羽黒山に金堂を普請するため使者をよこしたので身の危険を感じて、酒田湊(当時向かい酒田=酒田市袖浦地区飯盛山付近)に逃れたという。
そこに徳尼公が泉流庵という草庵を結び、90歳で亡く(1217年4月15日)なったと云う。



その後36人の遺臣達は地侍となり、やがて廻船問屋を営む様になり酒田湊の発展に尽くした。




徳尼公はその後、曹洞宗洞永山泉流寺(後向かい酒田より現在の酒田市中央西町に移転した)に祭られ、今も命日には当地の三十六人衆の後裔達が集まり、徳尼祭りが行われている。



その泉流寺の古文書に寄れば、1492年当時三十六人衆が存在しており、地侍兼商人としてその中の代表3名が町の世話役となり町の自治権を持ちを与えられており、名字帯刀は元より、合戦の際は戦場へも出たという。

しかし、其の当時でも全員の出自が、平泉から落ち延びてきたという家来かどうかは、はなはだ疑わしい。



現在三十六人衆の中で平泉からの遺臣の家で残っているのは粕谷姓位(酒田市史)と見られている。
たびたびの酒田大火、大地震、最上川の大洪水に家運の栄枯盛衰等が加わり、家柄の決め手となる多くの古文書類が焼失、紛失しており断定は中々困難であると云われている。

酒田湊は最上川の上流部から、そして庄内の各地から紅花、米などが集まり西回り航路で上方へと送られて来た。そして上方からは木綿やお茶などの貴重品が送られてきた。
特に木綿などは、最上川を上り内陸の新庄、山形はもちろん遠く仙台までも運ばれた。
このように中世以降安倍氏の名を変えた鳥海氏の血統が支配してきたのがわかる。
ただし、証拠となる文献はほぼ消失しているが、徳尼公の廟は確かな鳥海の力を感じさせられた。

   

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 喜志子さんの詩 7 | トップ | 喜志子さんの歌8 雨酔い日 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

郷土史」カテゴリの最新記事