最近Podcastで聞き始めた「大竹まことゴールデンラジオ」(文化放送)に著者の本田由紀さんが登場して、この本の内容のさわりを紹介していました。
ちょっと気になる内容だったので手に取ってみた次第です。
本田由紀さんは東京大学大学院教育学研究科教授。専攻は教育社会学とのことです。本書において、本田さんは、政治・経済をはじめとして、社会運動・家族・ジェンダー等々に係る様々なデータを世界各国と比較し、「今の日本の実態」を顕在化させています。
そういった比較データの中から、特に私の興味を惹いたものを覚えに書き留めておきます。
まずは、「学校」の章で示された「日本における“学校の意義”」について語っているくだりです。
(p135より引用) 多人数の児童生徒がひしめく教室で、「学力」を効率的に高めることに躍起になり、できるだけ難易度が高い高校や大学に進学させることに注力してきた代償は、相当に大きかったのではないでしょうか?・・・
日本の「学校」は、在学生や卒業生にとって総じて意義のあるものと感じられていないだけでなく、「学校」を終えた者が送り出されてゆく産業界にとっても、求めるスキルを身につけた人材が見つからないという欠乏の度合いが大きいことも問題です。表3-3の中で、「仕事に必要な技術や能力を身に付ける」という項目でも、日本は他国と比べて非常に低い意義しか感じられていません。
このコメントの根拠となる国際比較数値もそうですが、日本の値は全体傾向から飛び抜けて乖離しているものが目立ちます。その特殊性にも拘わらず、多くの国民や政治家・官僚らが日本の実態に疑問を抱いていない状況が大きな問題です。
「教育」は、“主体的な個”の確立において重要な成長プロセスであると同時に、戦前の教育で明らかなように権力側からの意図的なコントロールが及び易いところでもあります。「教育」の改善や自律は、日本における根本的課題のひとつでしょう。
そして、次は「友だち」の章での「友だちでない他者にも冷酷な日本」という考察。
(p164より引用) 2015年にアメリカの世論調査会社である Gallup 社が世界140カ国で実施した 「Global Civic Engagement調査」には、「過去1ヶ月の間に、助けを必要としている見知らぬ人を助けましたか?」という質問が含まれています。これに「はい」と答えた比率は、日本では25%で、調査対象国140カ国中139位でした。
(p166より引用) このような様々なデータからは、日本の社会が他国と比べて、人への冷淡さや不信が強い国であることがわかります。日本の中では「絆」とか「団結」とかが称賛されることがしばしばありますが、社会の実態はそれらとはほど遠く、ばらばらに切り離され相互に警戒し合うような関係のほうが、広がってしまっていると言えます。
このあたりのデータと解説は、“意外で驚き”というよりもむしろ“実感として納得”という印象を持ちます。(恥ずかしながら、正直、私にも少々心苦しいところがあります)さらに、そういった状況は近年より強まっているという肌感覚ですね。生きていくにも厳しい状況に陥ったとしても、ともかく、まずは「自助」や「自己責任」が叫ばれる社会ですから・・・。
最後は、「「日本」と「自分」」の章での「昨今の若者の意識」について。本田さんはこう概括しています。
(p245より引用) 松谷さんの分析によれば、「平成世代」に固有な特徴は、「愛国心」の強さではなく、「権威主義」の強さにあるということも明らかになっています。「権威主義」とは、要するに「エライ人には従っとけ」という意識です。・・・
日本という国の仕組みによって打ちのめされている若者は、日本という国を特に好きなわけではありません。でも、打ちのめされているからこそ、強そうで安定した存在には従順に従う傾向があるようです。それは結局、この国のだめだめ・ぐだぐだな現状をもたらしたり、少なくとも解決できてはいないくせに、なぜか威張っている大人たちに、強烈なNOを突きつけることができない現状をもたらしていることになります。
この現状は、主権者としても明らかに寂しく情けないものでしょう。では、どのようにして脱していくのか?
その出発点として、本田さんは、本書で、家族、ジェンダー、学校、友人、経済・仕事、政治・社会運動について世界各国データと比較し「日本の酷い現状」を直視することから始めました。
そして、どんなことからでもいい、まずは意識を変え、行動する。ともかく、たどり着くには果てしなく困難なゴールに向かって「決してあきらめない」で取り組む。そう自ら決意するとともに、私たちにも強く訴えているのです。
いつもの図書館の新着書籍リストで見つけた本です。
著者の半藤一利さんの著作は、今までも何冊も読んでいますし、最近では「墨子よみがえる」や「戦争というもの」を読んだところです。それらの著作に通底する半藤さんの“平和への想い”や“非戦の誓い”は、私たち一人ひとりがしっかりと受け継ぐべき大切なものだと思います。
本書は、生前のNHKラジオ番組での半藤さんの「語り」を再構成して書籍化したものとのこと、その中から特に強く心に残ったお話をいくつか書き留めておきます。
まずは、戦後の「高度成長期」に対する半藤さんの評価を語ったくだりです。
(p106より引用) 戦後日本も、わたしらは一所懸命働いて、たしかに走った。経済大国をつくる。とにかくわれわれはもっと繁栄しなければならないと、復興から始まって、走って、走って、走って、見事に経済大国をつくったんですよね。
真面目でした。だけれども、何らかのかたちで、本当はやっておかなければ、詰めておかなければならない問題を全部後回しにしたことはたしかですね。・・・
一つは、たとえば教育ですね。なんだか日本の教育はフラフラしていますよ。それと同時に、公害とか、差別とか、いま流行の環境問題とか、わたしたちの身の回りにある、きちんと整理しておかなければいけないこと。もう一つ言えば、家庭というものの崩壊ですね。
その後回しの“つけ”は、今なお我が国に重苦しい影を残し、その結果日本人のレベルは大いに低下したと半藤さんは語ります。然らば、その対策は何か?
(p110より引用) やっぱり、勉強ですよ。勉強しなければ駄目ですよね。・・・
結局、教育によって国というのは立つんですよ。経済によっては立たないんです。 ・・・いまからでも、まだ間に合うと思いますよ。だから、みんなして、もういっぺん勉強するんですね。
その教育をもって、「論理的にものを考えることができる能力」を養うべきだとの主張です。
ただ、半藤さんがそう話したのは2008年のことです。10年以上を経て、どうでしょう、残念ながら「教育」面でも迷走が続き、日本人の劣化はさらに進んだように感じます。
もうひとつ、こちらは半藤さんの代名詞である“歴史探偵”の由来秘話です。
最初に“歴史探偵”を名乗り始めたのは、あの坂口安吾だったというのです。文藝春秋の入社前、半藤さんは坂口安吾宅へ原稿を取りに訪れ、そこで坂口安吾本人から彼流の “歴史の見方” を教授されました。
(p211より引用) 歴史というのは、ここに一つの史科がある。だけど、失われた史料があるということに想像力を働かせて、「では、この間に何があったのか」ということを、ごく常識的に自分で考え抜いて埋めていくことで、現在残っている史料というのがどういう意味を持つかということがわかるのだと。これをきちっとやらないで、こっちの史料だけしか知らないから、歴史はこういうものだと思い込むのは間違いだと。だから、歴史というのは、裏にもう一つの史料が存在するのだが、それは必ず潰されているんだと。
残された史料のネガを想像して、その裏に隠されている“歴史”を探索していく営み。半藤さんは坂口安吾から歴史を探る楽しさを教えられたのでした。
そして最後は、半藤さんの若者に対するメッセージ。
15歳のとき経験した“東京大空襲”。その体験を書き留めつつ、半藤さんはこう訴えています。
(p242より引用) 戦争というのは非常に悲惨なものであり、残酷なものであると。自分はけっして人を殺さないなんて思っていても、もう、自分が助かりたい一心で、わたしも人をはねのけた覚えがあります。そんなことを考えると、本当に非人間的なものである。だから、「戦争というものは、本当に人間がやってはならない一番最大の悪だよ」ということを繰り返して言いたいと思いますね。・・・
戦争というのは、けっして天から降ってくるものでも何でもないです。人間たちの判断が、間違った判断を一つすると、また次の判断を、また間違った判断をする、その積み重ねが戦争のような非人間的なことに到達していってしまう。だから、やはり、歴史を知らないと、
こういう体験を自らのこととして伝えられる人に替わって、歴史を記した書物が “人々にとっての戦争の実像” を語り継いでいくのです。とても大切なことだと思います。
本書が伝える“15歳の戦争体験”は、今の若い人たちは対する半藤さんからの魂のメッセージです。
いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
興味を惹いたタイトルではありましたが、何より、著者の川上高志くんが大学時代の友人だったというのが手に取った最大の要因です。
大いに期待して読んでみたのですが、予想どおり重要な論点を押さえつつ、しっかりした立論が展開されていました。
まず、著者は、本書で検証を試みた対象である「平成の政治改革」のエッセンスをこう概括しています。
(p42より引用) 最大の目標は、国内外の転換期のさまざまな課題に「戦略的・機動的」に対応するため、「政治主導」の政策決定の体制を確立することだ。そのために、有権者が「政党本位」「政策本位」の選挙で政権を選択する小選挙区制によって「民意を集約」した基盤の上に安定した政権を作り、「政治における意思決定と責任の帰属の明確化」を実現する。政治主導の中核となるのは首相であり、首相とそれを補佐する内閣の権限を強化して「官邸主導」の体制を作り上げるとともに、「内閣の人事管理機能を強化」して官僚機構は「縦割り行政の弊害を排除」して政策決定を補佐し、執行に当たる。
ただし、一定の「民意の反映」にも配慮するため選挙制度には比例代表制を加える。政治主導を担う政権は「国民への説明責任」を負い、政権が運営に失敗した場合は「政権交代」によって責任を取らせることで、「責任の帰属の明確化」を図るという政治体制である。
目指すべき方向性という点では、こういうやり方もありうるだろうと思いますが、しかしながら、この政治体制は、「強すぎる首相官邸」と「責任を取らない政権トップ」という “悪しき官邸独裁” を産み出してしまいました。
こういった「強すぎる首相官邸」に代表される行政の機能不全という状況を監視し必要な歯止めをかける機能としては、国会の国政調査権がありますが、内閣を構成する与党がその権限を発動することは期待できません。
そこで「メディア」の存在がスポットライトを浴びるわけですが、ここにも「大いなる劣化」が見られます。
(p154より引用) 政権を監視する役割の一端をメディアが担っているのは改めて強調するまでもないことだ。しかし、二〇一二年の第二次安倍政権以降、メディアの権力監視の力が弱くなっていることを認めざるを得ない。政権側はメディアに対する圧力を強めるとともに、メディアを選別することによって分断を仕掛けた。これに対して、メディアの側が十分に抗することなく、報道を控えるなどの自己規制すら働いていると指摘されるのが現状だ。
政治家や官僚が自らの「利己的な動機」で権力に迎合する性向は、“人間の弱さ”の発露として全く理解できないとは言いませんが、“メディア人”が批判精神を失うのは、まさに自らのレーゾンデートルを否定するものでしょう。せめて、ここは気概をもって踏ん張って欲しいものです。
さて、“悪しき官邸独裁”は「責任を取らない政権トップ」の存在を黙認しました。
そもそも、平成の政治改革において想定していた「責任の取り方」は「政権交代」でした。それを可能とする前提条件は「政権交代の受け皿としての野党の存在」ですが、その点について、著者は「現行選挙制度の問題」という観点からこう語っています。
(p91より引用) 小選挙区では一人しか当選しないというゲームのルールに従えば、政権交代を目指す非自民勢力が対抗するためには候補者を一人に絞り込まなければ勝ち目はない。非自民勢力も一九九四年の制度導入以降、政党の合併・合流や選挙での共闘など一つの「まとまり」に結集する試みを繰り返してきた。しかし、その試みは失敗の連続だった。その結果、多くの有権者が「自民党に代わって政権を担える政党が存在しない」という思い込みに至っているのが現状であり、政治そのものへの失望の一因にもなっているのではないか。
野党結集の難しさは、小選挙区制のためには大きな政党にまとまることが望ましいが、それを目的に合流すれば、今度は政党としての理念・政策が曖昧になり、内部に対立を抱え込んでしまうという問題に常にさらされることだ。
こういった説明は、事実に即して無駄がなくとても分かりやすいですね。
本書では、この現行選挙制度をはじめとして、国会、政党、政官関係等多岐にわたる観点から現状の政治の課題を次々に明らかにしていきます。
いくつもの改善すべき問題があって、その対応策がある程度具体的に見えている。にもかかわらず、その問題は長年にわたり放置され実際の改善アクションがとられない・・・。
その根本原因はとても単純だと思います。“今の環境で快適な立場にいる人は敢えてその環境を変えようとはしない”という当然の姿勢の故です。
それを打破するための強力な方策は、(本書でも指摘していますが、)国民一人ひとりはもちろん、政治に係るありとあらゆるステークホルダーが“本来の理想”を実現しようとする強い意志を持つこと、そして、そのための広汎な「主権者教育」なのですが、その教育内容を決めるのも今の環境に安穏としている人間ですから、道は遠いです・・・。
ただ、そういう状況だからこそ、本書で整理され論じられている著者からのメッセージを、少しでも多くの人が受け取ってくれるよう期待したいですね。
“自らの頭”で今の政治状況について考えてみようとする読者にとっては、本書が示した論点の整理と議論のスタートとしての改善案の提示は、とても有用な「ガイド」になると思います。
また図書館で予約している本の受取タイミングがうまく合わなかったので、昔の本を納戸の本棚から引っ張り出してきました。
選んだのは、今から30年以上前の森村誠一さんのミステリー小説です。当時、森村さんの作品は結構読んでいました。
さて、久しぶりに読んだ森村作品の感想ですが、正直なところ、かなり残念な印象ですね。エンターテーメント性を意識し過ぎたせいか、表現やプロットに低俗な阿り感が結構強く感じられます。
また、ミステリー作品としてみても、今ひとつでしたね。犯行の動機において深淵な背景があるわけでもなく、犯行の手口においても奇抜なトリックや巧妙なアリバイがあるわけでもありません。舞台設定や登場人物のプロットも陳腐です。
物語の展開も、前半は冗長でいながら、後半の最後の最後でいきなり唐突感のある新たな展開からあっけないラスト。(最後の方で明かされる動機になったエピソードも、松本清張さんの「十万分の一の偶然」が思い起こされるような既視感がありました)
数々の森村さんの作品を見渡しても、珍しいほどの「???」の出来ばえだと思います。
いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
「エントロピー」という概念、時折耳にするのですが、私にとっては今ひとつキチンと理解できていないと気になっていたので、タイトルに惹かれて飛びついてみたというわけです。
ですが、結局のところ、私のエントロピーの理解は全く進みませんでした。
といった構成で、第1章に「エントロピーの定義」は書かれていました。
(p10より引用) エントロピーとは、ひと言でいうと乱雑さの度合いです。
そして、理解したことといえば、
(p20より引用) ものごとは時間の経過とともに確率が高い状態(「場合の数」が大きい状態)に推移することがわかります。
この世の出来事が、 確率の高いほうに進むこととエントロピーが時間とともに増大することには、対応関係があるのです。
ということぐらいでした。
「エントロピー」は、“状態の方向性”を語るときに使われる概念のようですが、結局のところ、この概念を使うといったい何を具体的に説明できるのか?本書では、「熱」「統計」「確率」「分布」「情報(量)」等がエントロピーとの関わりを解説する題材として登場していました。
でもダメです、簡単な数式自体なら理解できても、結局のところ、それによって著者が何を説明しようとしているのか、まったくついていけませんでした。
本書の紹介文には、「エントロピーは、人類が見いだした偉大な「物理法則」です。「自然現象に潜む普遍的な性質」をトコトンやさしく解説します。」と高らかに謳われていますから、問題は “読み手の理解力レベル” ということでしょう。