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炎上社会を考える-自粛警察からキャンセルカルチャーまで (伊藤 昌亮)

2022-04-23 09:58:46 | 本と雑誌

 いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。

 ネット社会の闇として「SNSでの炎上や誹謗中傷」が大きく問題視されています。
 私も、その発生の心理的要因には興味をいだいていたのですが、そのあたりのヒントが書かれているかと思い、手に取ってみました。

 本書で扱っている事象は「自粛警察」「炎上」「ハッシュタグアクティヴィズム」「ヘイトスピーチ」「誹謗中傷」「キャンセルカルチャー」などです。それぞれの解説では興味深い指摘がなされていましたが、そのうちのいくつかを覚えに書き留めておきます。

 まずは、特に、新型コロナ禍の初期に登場した「自粛警察」の発生背景について。伊藤さんはこう考えています。

(p31より引用) そこに働いているのは、日本社会の中に古くからあるたぐいの圧力とはまた異なるものだろう。つまり「古い現象」としての、前近代的なムラ社会に固有の同調圧力のようなものではなく、むしろ「新しい現象」としての、新自由主義的な市場社会に固有の生き残り圧力のようなものだ。・・・
 つまりそこには、一方では感染防止に向けた総動員体制を強化し、そのための相互監視を徹底させるという、戦時下の全体主義的な思考に通じるような論理があり、他方では感染リスクの回避のためにコンプライアンス違反を告発し、厳罰に処するという、二十世紀末以来の新自由主義的な思考に基づくような論理がある。

 そして、この「自粛警察」という現象をこう総括しています。

(p32より引用) いわば日本型の新自由主義改革から産み落とされたモンスターこそがこの現象だったのではないだろうか。

 次に、少し前からtwitterを中心に見られ始めた「ハッシュタグアクティヴィズム」について考察しているくだりです。

(p100より引用) 今日では多くの問題が複雑な背景を持ち、その全容を見通すことがますます困難になっている。しかし一方でSNSの普及により、誰がどう反応しているのかという状況を見渡すことはきわめて容易になっている。このように問題の内実が見通しにくくなっている一方で、他者の動向が見渡しやすくなっているというアンバランスが急速に進行するなかで、人々は前者の情報よりも後者の情報にますます頼るようになったのではないだろうか。その結果、情報カスケードが起きやすくなっている。
 そこではハッシュタグにより、「複雑性の縮減」が独特の方式で進められていると言えるだろう。

 投稿内容のテーマづけや分類を目的とした単純なハッシュタグに止まらない、アピール内容そのものを“ワンフレーズ”のハッシュタグ化する手法の興隆はSNSの役割を大きく変えるものですね。それだけに、そういった使われ方の良否を判断し、どう扱っていくのかが大きな課題になります。「誰(著名人)が」ではなく「何(主張内容)を」をしっかり見極めることですね。

 そして、最後は「キャンセルカルチャー」の章で紹介されたオバマ前アメリカ大統領の興味深いコメント。
 ある人物の過去の言動をネット上で糾弾することにより、その人物を社会から“キャンセル”してしまおうとする風潮ですが、その権力性や暴力性について、彼は懸念を抱いていました。

(p186より引用) オバマによれば、「いかに間違ったことをしているかをツイートしたり、ハッシュタグで示したりする」のは、「自分がいかに『ウォーク』(「目覚めた者」という意味)かを示す」ためだという。そこで当人は「自己満足し、いい気分になっている」だけだという。・・・
 このようにオバマは、キャンセルカルチャーは社会を変革する動きとはなりえないと断じた。それどころかそこでなされているのは、各人の自己満足と自己顕示のための行動だという。つまり自己呈示のためのパフォーマンスということだろう。

 残念ながら、こういった「自己満足」を“匿名性”をいう自分だけは傷つかない隠れ蓑のもとで得られる世界が、今のネット空間の相のひとつです。

 本書で取り上げられた事象の多くに共通して思うことですが、解説されているような要因で主体的行動(ex.自粛警察活動やヘイトスピーチ etc.)を起こすコア層と、それを見て、また何らかの心理的要因で拡散させる層とがあるように思います。そして、その拡散層にも2種類あって、ひとつは積極的同意で本人は良かれと思って拡散させているグループ、もうひとつは本人の精神的プレッシャー等からの解放や単なる心理的愉楽を得るがために(面白がって)拡散させているグループです。

 何とか最後のグループによる “根拠のない誹謗中傷” だけでも止められたらと切望するのですが、“マイノリティーをエンパワーする場”としての健全なネット社会を実現するためには、ある程度の規制強化も必要なのでしょうか?

 恣意的な“規制”がまかり通らないよう、なんとか “ネットの良心” に望みを託したいのですが・・・。

 

 

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