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役割確認 (ことばと文化(鈴木 孝夫))

2007-05-13 14:43:48 | 本と雑誌

 よく使う用法ですが、父親が自分のことを「パパは、・・・」ということがあります。(英語では、多分 ”I ・・・” で済むのでしょう。”Your father ・・・”とかいうはずもありません。)

(p187より引用) 抽象的な、話し手の役と聞き手の役しか通例明示しないで対話を進めて行くことができる西欧語と比べて、日本語ではすべての自称詞、対称詞が人間関係の上下の分極に基いた具体的な役割の確認とつながっているのだ。

 日本語では「相手から見たときの自分」を考えて自称詞を変化させるのです。
 さきの「パパは、・・・」もそうですし、学校の生徒に向かって「先生は、・・・」というようなケースもその例です。

(p197より引用) 相手が誰であろうと、相手が不在であろうと、先ず自己を話し手つまり能動的言語使用者として規定するインド・ヨーロッパ語などの、絶対的自己規定と比較して、日本人の日本語による自己規定が、相対的で対象依存的な性格を持っていると私が主張する根拠はここにある。

 こういった「対象依存性」のため、日本人は往々にして初対面の人との応対が苦手です。

(p198より引用) 日本人の自己は、特定の対象、具体的な相手が出現してその正体を話し手が決定するまでは、いわば座標未決定の開いた不安定な状態にあると考えることができる。

 このあたり、当時流行した「日本人論」の論調と軌を一にしています。

(p200より引用) 対象依存型の自己規定とは、別の言い方をすれば、観察する自己の立場と観察される対象の立場が峻別されずに、むしろ両者が同化されることを意味する。日本文化としばしば対比させられる西欧の文化が、観察者と対象の区別、つまり自他の対立を基礎とするのに対し、日本の文化、日本人の心情が自己を対象に没入させ、自他の区別の超克をはかる傾向が強いことはしばしば指摘されるところだが、日本語の構造の中に、これを裏付けする要素があるということができよう。

 著者は、日本語の構造にまで投射された「自己を原点としない」という日本人の根源的な行動特性が、対外的な交流や交渉の場において不利に働くことを危惧しています。
 ちなみに本書は、今から30年以上前、1973年初版です。

ことばと文化 ことばと文化
価格:¥ 735(税込)
発売日:1973-01

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