黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

観音堂の西にあり(毛呂権蔵も立ち寄った山上碑)

2021-08-24 18:31:08 | 群馬県・西毛

ひめちゃんは小次郎パパと、第一陣でお散歩に出ました。

獅子丸はタバサねーちゃんと、第二陣で、堀之内を西に出ます。

諏訪神社の向こうの高台、薬師の道まで行きます。

薬師の道の薬師さま、最近また草に埋もれ始めました。

かつては、たくさんの人々が祈りを捧げたパワースポットだったはずですけど。

小雨が降り始めました。

ここらへんは、最近は誰にも会わないね。

みんなお散歩どうしてるのかな?

 

使用されなくなったサイロの前に、インゲンの棚が出来ました。

しばらくサイロは見えないね。

赤城山が、うっすらとみえるような?

急いで帰って、ご飯にしましょう

 

 

 

(山上碑への)石の階段を登ります。

 

緑の屋根の覆屋が見えてきました。

「史跡山上碑及古墳」に到着です。

 

古墳も入れそうです。

後でうかがいます。

 

左手に山上碑及び古墳の説明板です。

 

下には子供用の説明板です

雨でよく映りませんでした。

でもなんとか判読

681年10月3日に記す

佐野にあったヤマト政権の直接

支配していた土地の最初の管理者

である健守(たけもり)さまの子孫の黒売(くろめ)

さまこの方が新川(にっかわ)さまの子

斯多々弥(したたら)様の子孫である大胡(おおご)

さまと結婚されて産んだ子どもである長利という名の僧が母親

のために書いた文である 

放光寺の僧

 

では、覆屋の中の碑にご対面です

 

覆屋の窓の一つを利用して、解説があります。

さっきの説明板に、

長利が勤めた放光寺は、「放光寺」の文字瓦を出土した前橋市総社町の山王廃寺だったと推定される。この寺は、東国で最古級の寺院だったことが発掘調査で判明している。当寺、仏教は新来の先進思想であり、長利は相当な知識者であったと考えられる。

 

周囲に近世の石造物があります

 

では、古墳の方に行きます。

古墳入り口前にも説明板です。

古くに開口されたため、出土物は不詳であり、石室内には中世の石造物が置かれている。~(中略)~傍らにある山上碑の碑文から推定すると、本古墳は高崎市南部に置かれた佐野三家の経営に連なる山名地域の首長の墓として完成し、その後辛巳年(681年)に縁者の黒売刀自が追葬されるに際し、供養のため碑が建てられたとみられる。

 

下に目立たなく、石室内には虫がいるとあります

 

入り口で失礼します。

もうちょっと中まで失礼します。

かすかに2体の石仏が見えます

説明板には、中世の石造物があるとありました。

でも、石の階段前には、馬頭観音も祀られたとあります。

どっちが馬頭観音かな?

 

実は『上野国志』(安永3年刊)の筆者・毛呂権蔵も、ここを訪れています

山名上古碑 

山名村のつづきなり、観音堂の西にあり。~(碑文の写しなので省略です)~同所庵室に、石に来迎の弥陀を彫りて、建治四年正月日と云字あり、是亦古者なり

 

毛呂権蔵が見たのは、来迎の弥陀仏中世の石造物です

建治四年は、ちょっとわかりません。

写しまちがいかな?

 

三郡板東札所は、明和元年(1769)創設ということです。

三郡板東札所になる前に、既に来迎の弥陀仏を祀る観音堂があったのです。

毛呂権蔵が去った後、馬頭観音を祀って観音霊場になったかな?

 

それにしても、わが郷里世良田の大先輩・毛呂権蔵さん、よく上野国を歩いています

 

 

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