黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

太田貞宗寄進状・その5(未来の約束)

2024-06-01 14:55:43 | 山上保の物語・総集編

ひめちゃんちとタバサねーちゃんは、昨日は一日中室内犬でした。

今日は晴れて、お外犬です

 

2019年の6月、実家に帰った獅子丸は、元気いっぱいにお散歩です

東の牧場にもよく行きました

ヤギさん家族も増えていきました

 

 

 

 

 

597 太田貞宗寄進状
    ○神奈川県 鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書

寄進
 上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事
右、當保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、限年紀沽却訖、年紀以後、所寄進當社也、以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件、
     建武元年十一月廿七日
        前美作権守貞宗 (花押25)

 

この文書には、寄進する3ヶ所(田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、)が、まずあげられていました。
そして、気になるのは、どこも今は期限付きで売られている(限年紀沽却)という事でした
いったいいつ返ってくるのか、気になるところです

 

 

本日の検討部分です
「以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件」

 


「以件得分」
「以」は体言の直前について、「~で以て~を通して」の意味、「件」は、くだんつまり前に述べたことです。
そうすると、この部分は前に述べたことでゲットした分はという事になります。
3ヶ所が限年紀沽却の期限が過ぎて寄進された分はということです

 



「神事料田不足之時」
料田とは、神社の運営のための田で課税対象外だったようです
すると、諏訪神社が経済的に運営資金が不足した時というような事でしょうか?

 



「且令勤行祭祀、且可備當社燈油也」

且は「且~且~」の形で、「あるいは~あるいは~」、または「一方では~一方では~」


令勤行祭祀は、「勤行祭祀」は神社のお仕事で、「令」は使役と言うより婉曲で「~する」くらいでしょうか?
可備當社燈油也、普通に読むと「當社に燈油を備うべきなり」かな?

この部分の解釈は難しいです。
これからあげる分は予備の予算だよ、しっかりお仕事(祈祷)して燈油も備蓄しておいてね(^-^)/

 


「為祝管領可勤彼役也」

「管領」とは、領地を支配することです
「可勤彼役也」、なんとなく「彼の役を勤むべきなり」と読めてしますうんですけど
そうすると、最初の「為祝」は「祝(ほうり)として」かな?
祝(ほうり)は神官で、神主よりも下という説もあります。

しっかり神官として領地の管理もして加持祈祷のお仕事もしてね
そんな感じを受けます。

「乃寄進状如件」最後は決まり文句のようなものです。
寄進状は前に述べた通りでーす

 



これは未来の約束です
多くの人は限年紀のあと寄進したと言ってますが、本当に寄進されたのでしょうか?


ウイキペデイアによれば、信濃国諏訪大社では、鎌倉時代の初期に大祝、権祝、擬祝、副祝などの職名があったといいます。

山上の諏訪神社は、この時代(建武元年)太田貞宗を領主としていたのです
山上を支配していたのは、太田貞宗だったのでーす


あれ、山上さんはどうしたんでしょう?

存在感ありませんね

危うし、山上六郎左衛門の実在

山上氏はいたとしても、新田義貞について鎌倉攻めに行くような存在ではなかったかも

まして、早川を挟んで新田氏と領土争いをしていた淵名氏の一族・藤姓足利市の山上さんだもの

 

 

 

初出  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー中世葛塚村考

改稿  2024.06.01

 

 

(つづく)

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