黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

郷右衛門と藤左衛門の「常広寺縁起」

2019-05-03 10:49:37 | 竜骨伝記

ひめちゃんは、七海ママの朝食後散歩に付き合いました。
高齢のママは、朝食後にもそこらまでちい散歩をします。





ママにとって、ひめちゃんはいつまでも子供です
見知らぬ人や犬に行き会うと、いまだに護ろうとします





旧勢多郡山上村にある常廣寺について、とりあえず確実なことは、

1,天正年間の創建である
2,開基は本橋院殿・山上郷右衛門顕将(やまかみごうえもんあきまさ)である
3,元禄元年(1688)9月3日堂宇を焼失
4,正徳4年(1714)田中藤左衛門(たなかとうざえもん)が竜骨をもってやってくる
5,享保4年(1719)堂宇を再建する

ということになります。


そして、常廣院殿の真実、および、獅子丸家の伝承、常廣寺の裏の高台には寺があったという伝承から、次のような常廣寺縁起ができそうです


     
             常廣寺縁起 

本橋院殿寶輪廣與大居士、天正年間に、赤城山天正院常廣寺を開基す。山上城付近にて落命せしあまたの人々の冥福を祈らんが為なり。本橋院殿、俗名は山上郷右衛門顕将(やまかみごうえもんあきまさ)、小田原の利け者の異名を持ちたる戦国武将なり。東上州活動の途次、ここ山上を父祖の地と勘違し、山上に並々ならぬ執着を抱く。戦乱の世静まりて後、父祖の地山上に常廣寺を建立す。寺号は、かつて寺の裏の高台に草庵を結びし僧・常廣にちなむ。常廣は戦乱で失われし人々を弔い、村人にも深く慕われたりといふ。常廣については、委細つまびらかならず。ただ、俗名を牛蒡帯刀(ごぼうたてわき)といふとのみ伝ふ。

本橋院殿、自家の菩提寺として、長安寺を建立す。以来末裔は帰農し、本橋院殿にちなみ改姓す。

常廣寺、順調に世代を重ね、八世覚通呑應大和尚に至る。時に元禄元年九月三日、失火により堂宇を焼失す。開基家をおとない、再びの堂宇建立を願うも、あえなく拒絶さる。八世怒りに燃え、開山・明巌監察大和尚を開基になし、子孫を探さんことを思いいたる。これ、開基常廣院殿明巌監察大居士の誕生なり。

ある夜、八世の夢枕に本橋院殿立つ。
「御房よ、吾は本橋院殿なり。ゆめゆめ吾を忘るることなかれ。将来、京より竜骨を持ちたる商人至る。必ず買うべし。さすれば、堂宇の再建もかなうべし。」
「買いたきはやまやまなれど、先立つものなし。」
「焼けし堂宇の後ろに墳丘あり。そこに幾ばくかの埋蔵金有り。使うべし。」
「ありがたきご教示なり。」

時は過ぎ、九世白彭本明大和尚の正徳四年、本橋院殿の予言通り田中藤左衛門なる近江商人、竜骨を持ちて至る。

竜骨を発見せしは、藤左衛門の先祖・木食屡睡(もくじきろうすい)なり。発見の経緯を記したる木食屡睡の文書、および藤左衛門が京にて皇族・貴族に見せ褒美をもらいし事を記したる證書を添ふ。

当時、竜骨は万病に効く薬とさる。
人々常廣寺に殺到し、五年後、めでたく堂宇の再建かなふ。
田中藤左衛門は中仙道深谷宿にて、銘酒「七ツ梅」の醸造を始むといふ。




すらすらと筆が進んだので、もしかしたら郷右衛門さん藤左衛門さんが導いてくれたのかもしれません
いわば、「郷右衛門&藤左衛門の常廣寺縁起」です




田中藤左衛門の七ツ梅は現在は廃業しています。
でも、その跡地は面影たっぷりで残っています



昨日、久しぶりに訪問してきました

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