黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

山上城の真実(山上城に山上氏はいなかった)

2019-04-20 16:02:24 | 群馬県・旧勢多郡

ひめちゃんは獅子丸家に寄ってから、堀之内を西に出て、山上城の方にお散歩です。
あ、浅間山が大きい
堀之内の南端からみた浅間山です。



堀之内を出ると、浅間山は小さくなります。



小次郎パパとタバサねーちゃん&ののこねーちゃんが、おとうさんをつれて先を行きます。

諏訪神社の所を曲がって南下し、山上城の方に入ります。



まだ雑草も茂っていなくて歩きやすそうです。

紫陽花の小径に出ました。



北側には二の丸と表示があります。

遊具があります。

少し前まで、城山幼稚園の子供達が毎朝ランニングしていました。(今は休園中です。)

 

この通路の右が三の丸で、山上城城跡公園のメイン部分です。

 

『日本城郭大系第4巻・茨城・栃木・群馬の城郭』の山上城縄張り図です。


城跡公園のメイン部分は、ワンコ様ご入場禁止のようなので、このまま帰ります。
みんなで獅子丸家に寄ってから帰ります




新里では、山上城が平安時代末期に造られ、山上氏がずーと山上城にいたと信じられています
ところが『日本城郭大系第4巻茨城・栃木・群馬の城郭』では、大永年間(1521~28)としています。

大永年間は、台頭する小田原北条氏と、それを阻もうとする古河公方・関東管領上杉氏との抗争の日々が続いたと言います。
必要が生じて築城となったのでしょう。


現在の歴史学では、ある人物の実在、またはある出来事が本当であることの証明は、同じ時代に書かれた文字資料が必要のようです。


山上氏について長年研究されている藤井先生の「山上氏と山上城(第15版)」を借りて、山上氏についての一級資料を探します。


かの有名な山上高綱、高光親子について、同じ時に書かれた文字資料はありません。
彼らがいないと山上氏が始まりません。
『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の公的記録といわれますが、後から書かれた部分が有るとか、記述内容に取捨選択がなされているとかで、一級史料ではないとされてます。
二級史料ではあるけれど、そこに名のある山上さんもあげてみます。

残念ながら山上高綱はありません。

二級史料「吾妻鏡」に見える山上氏

  元暦2年(1185)  山上太郎高光
  建久元年(1190)  山上太郎
  建暦2年(1213)   山上四郎時元
  建長3年(1251)  山上弥四郎秀盛

一級史料にみる山上氏

正慶2年(1333) 「楠木合戦注文」 山上太郎跡
元弘3年(1333)「天野経顕軍忠状」 上野国住人山上七郎五郎
建武3年(1336)4月23日 「佐野義綱軍忠状写」 山上十郎太郎
観応2年(1351) 「香林直秀軍忠状」 山上十郎公秀
応永9年(1402)5月6日 「鎌倉公方足利満兼案内書(上杉文書)」  山上駿河太郎跡
寛正4年(1463)7月7日 「山上公秀書状」 山上公秀

永禄4年(1561) 「関東幕注文」    山上藤九郎   山上平六
永禄10年(1567) 「善・山上之事書」(由良成繁)  善・山上

最後の史料は由良成繁が小田原北条氏に出した、善さんと山上さんについての報告書です。善さん山上さんが貞操なく生き残るためにあちこちに附いたことが報告されています。
それは由良さんも同じだったようですけど。
たぶん、「関東幕注文」に記されたと同じ人でしょう。


「吾妻鏡」に見える山上氏は、将軍家のお供をしたとか、謀反人を預かったとかで、華々しい活躍はありません。
一級史料にみえる山上氏も参加メンバーだったとか、手柄を見ていた証人(山上さんが見ていました)ということで、やはり華々しい活躍も手柄もないようです。

大永年間(1521~28)の築城だとすると、築城後の確実な史料は、永禄4年(1561) 「関東幕注文」の山上藤九郎 ・山上平六と永禄10年(1567) 「善・山上之事書」(由良成繁)の善・山上だけです



「山上氏と山上城」によると、

永禄3年(1560) には上杉謙信の第一次関東出兵。山上城は落城し、後北条氏配下が逃走。山上城は上杉謙信の臣下大胡民部左衛門にお預けとなった。
永禄期には北条、上杉、武田との抗争の舞台となり、山上城もその城主もめまぐるしく変えた。

山上藤九郎 さん 山上平六さんはいたけれど、山上城主ではなかったようです。

元暦2年(1185) に山上太郎高光の名が見えて、永禄10年(1567)まで約400年、戦乱の世に400年も万世一系でいられるはずがありません。
足利氏だって、藤姓足利氏と源姓足利氏は別物です。
同じ姓だからって、子孫とはかぎらないのです。
山上で勢力を持った誰かさんが「山上」を名乗ることもありです。
善・山上とセットで出てくることも、大事な問題です。


「山上城が平安時代末期に造られ、山上氏がずーと山上城にいた」という山上ロマンは、いまだに人々の心をしっかり捉えているのです


では、山上氏はどこに住んでいたのでしょう?
それは、葛塚城です





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